最終更新日 2025-07-17

八木豊信

八木豊信は但馬の国人領主。織田・毛利の狭間を生き抜き、秀吉に降伏。因幡で失脚後、九州で文官として再起し、文化素養で活躍した。

但馬国人 八木豊信 ― 激動の時代における生存戦略と文武の軌跡

【専門調査員】

歴史学博士(日本中世史・戦国時代史専攻)

専門:戦国期における地方権力の構造と、中央政権との関係性に関する研究。学術論文、専門誌への寄稿多数。


【巻頭資料】八木豊信 関連年表

年代(西暦)

八木豊信の動向

但馬・因幡の情勢

中央政権・周辺勢力の動向

大永4年(1524)

但馬国にて出生(推定) 1

山名氏の権威が揺らぎ、国人衆が台頭。

天正3年(1575)

島津家久、京都の連歌会に参加。豊信の弟・八木隠岐守も同席 2

織田信長、丹波黒井城の荻野直正を攻める(第一次黒井城の戦い)。

天正5年(1577)

親毛利派として活動。羽柴秀長の第一次但馬侵攻を受け、一時的に降伏した可能性 3

羽柴秀長軍、但馬に侵攻(第一次但馬征伐) 1

織田信長、羽柴秀吉に中国攻めを命じる。秀吉、播磨上月城の攻略に向かう 6

天正8年(1580)

4月、羽柴秀吉の第二次但馬侵攻により、八木城にて籠城戦の末、完全に降伏 1 。秀吉に従い因幡攻めに参加。第一次鳥取城攻めの後、若桜鬼ヶ城主となり因幡智頭郡二万石を与えられる 9

秀吉軍、但馬を平定(第二次但馬征伐)。出石城の山名氏が滅亡 4 。秀吉、鳥取城の山名豊国を降伏させる(第一次鳥取城攻め) 6

秀吉、播磨三木城を落とす 6

天正9年(1581)

3月以降、吉川経家を中心とする毛利軍の反攻を受け、若桜鬼ヶ城を支えきれず但馬へ退去。所領を失い「消息不明」となる 6 。4月、堺の津田宗及の茶会に出席 2

3月、毛利方の猛将・吉川経家が鳥取城主として入城 11 。毛利勢が因幡で巻き返しを図る。10月、鳥取城が兵糧攻めの末に落城 14

秀吉、鳥取城を包囲し「渇え殺し」と呼ばれる兵糧攻めを開始 14

天正10年(1582)

2月、再び津田宗及の茶会に招かれる 2

6月、本能寺の変。織田信長が死去。

天正13年(1585)

秀吉の命により、別所重棟が八木城主となる 3

秀吉、関白に就任。

時期不詳

九州に渡り、日向国佐土原城主・島津家久に右筆として仕官 2

慶長5年(1600)

関ヶ原の合戦。

江戸時代初期

孫の八木光政が徳川家康に仕え、旗本として八木家を再興。曾孫の守直は四千石を知行 6

徳川家康、江戸幕府を開く。


序章:乱世に揺れる国人領主、八木豊信

戦国時代とは、中央の権威が失墜し、地方の武士たちが自らの実力でのみ存亡を賭けて戦った時代である。中でも、守護大名と在地土豪の中間に位置する「国人領主」は、常に巨大勢力の狭間で翻弄され、複雑かつ現実的な判断を迫られる存在であった。本報告書で詳述する八木豊信(やぎ とよのぶ)もまた、そうした激動の時代を生きた但馬国(現在の兵庫県北部)の国人領主の一人である。

利用者様が既に把握されている通り、八木豊信は但馬守護・山名氏の重臣「山名四天王」に数えられる名門・八木氏の当主であり、八木城を拠点としていた 9 。織田信長による天下統一事業が西国へ及ぶと、その尖兵である羽柴秀吉の軍門に降り、その後は秀吉の家臣として因幡国(現在の鳥取県東部)の攻略に従事。一時は国境の要衝・若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)を任されるほどの栄達を見せた 9 。しかし、その後の毛利氏の反攻によって城を失い、歴史の表舞台から「消息不明」となった、というのが通説であった 6

しかし、近年の古文書研究の進展は、この「消息不明」という定説を覆し、彼の驚くべき後半生を我々の前に明らかにした。本報告書は、従来の情報を整理・検証するとともに、最新の研究成果を統合し、八木豊信という一人の武将の生涯を網羅的かつ多角的に分析するものである。彼の人生の軌跡は、織田・毛利という二大勢力の衝突の最前線で、一国人領主がいかにして生き残りを図ったか、そして武力のみならず文化的な素養がいかに重要な生存戦略となり得たかという、戦国末期のリアルな実像を我々に示してくれるであろう。

第一章:名門・八木氏の系譜と但馬の風雲

八木豊信の人物像を理解するためには、まず彼が背負っていた「八木氏」という家の歴史と、その本拠地である但馬国の地政学的な状況を把握する必要がある。

第一節:山名四天王としての八木氏

八木氏は、但馬国の守護大名であった山名氏の重臣であり、垣屋(かきや)氏、太田垣(おおたがき)氏、田結庄(たいのしょう)氏と並んで「山名四天王」と称されるほどの有力な国人領主であった 3 。この家格は、八木氏が単なる在地土豪ではなく、守護家の統治構造に深く組み込まれた名門であったことを示している。

しかし、戦国時代の到来とともに守護・山名氏の権威は次第に形骸化していく。その象徴的な出来事が、永正九年(1512年)に発生した、八木氏を含む四天王ら国人衆による主君・山名致豊(むねとよ)への謀反である 6 。彼らは致豊を退け、その弟・誠豊を新たな当主として擁立した。この事件は、もはや国人衆が守護の意向に一方的に従う存在ではなく、自らの利害に基づき主君をすら左右する力を持った、独立性の高い政治主体へと変貌していたことを物語っている。豊信が家督を継いだ頃には、但馬国は事実上、これら四天王によって四分割統治されるような状況にあったとされ 6 、彼が後に織田・毛利という外部勢力に対して独自の外交判断を下す素地は、この時代に既に形成されていたと言える。

第二節:本拠・八木城の戦略的価値

豊信ら八木氏が代々の本拠としたのが、現在の兵庫県養父市八鹿町に位置する八木城である。この城は、国の史跡にも指定されており、戦国期の但馬を代表する大規模な山城として知られている 20

八木城の構造は、その長い歴史を物語っている。標高409メートルの尾根筋には、南北朝時代にまで遡る可能性のある土塁を中心とした古い城郭(八木土城)が存在し、そこから東に下った標高330メートルの地点に、戦国期に拡張された石垣を持つ本丸が築かれている 3 。この二つの城が一体的に機能していたと考えられており、八木氏が時代の要請に応じて城を改修・拡張し続けたことが窺える。特に、本丸南面に築かれた高さ9メートルを超える高石垣は、織田信長の安土城築城以降に広まった織豊系城郭の特徴を示すものであり、当時の最新の築城技術が取り入れられていた可能性を示唆している 3 。ただし、この石垣は豊信の時代ではなく、天正十三年(1585年)に新たな城主となった別所重棟によって改修されたものと考えられている 3 。豊信時代の八木城は、主に土塁によって構成された、より中世的な山城であったと見られる。

この八木城が位置する八木の地は、古くから但馬と因幡を結ぶ山陰道の要衝であった 22 。軍事的な観点からは、国境を越えて侵攻あるいは防御する上で極めて重要な拠点であり、経済的な観点からも、人や物資の往来を管理できる利点があった。実際に城下には市場が形成され、宿場町としても栄えた記録が残っており 7 、八木氏の権力基盤が、軍事力のみならず、交通の要衝を抑えることによる経済力にも支えられていたことがわかる。

第二章:織田勢力東漸と親毛利派としての苦境

16世紀後半、織田信長による天下統一事業が本格化すると、その波は但馬国にも及んだ。西国の大勢力である毛利氏と、東から迫る織田氏という二大強国の狭間に置かれた八木豊信は、自家の存続を賭けた困難な選択を迫られることとなる。

第一節:親毛利派としての選択

当初、豊信は毛利氏と結ぶ道を選んだ。これは地政学的に、隣接する因幡国を通じて毛利氏の影響力が強く及んでいたこと、そして織田氏の急進的な支配体制に対する警戒感があったためと考えられる。彼は但馬における親毛利派の中心人物として活動し、織田方についた同僚の垣屋光成の動向や、明智光秀による丹波侵攻の情勢などを、毛利方の重鎮である吉川元春に書状で逐一報告していた 1 。これらの書状は『吉川家文書』に現存しており、豊信が毛利方の情報網において重要な役割を担っていたことを示す一級史料となっている。

しかし、その関係は盤石な同盟とは言い難かった。吉川元春は豊信に対して人質の提出を要求しており 6 、これは豊信の忠誠を完全には信用していなかった証左である。国人領主とは、あくまで自家の利益を最優先する存在であり、毛利方にとっても豊信は、常に寝返りの可能性をはらんだ、油断ならぬ協力者であった。この緊張関係は、巨大勢力に依存せざるを得ない国人領主の危うい立場を如実に示している。

第二節:二度の但馬侵攻と降伏の謎

天正五年(1577年)、織田信長は中国攻めの総大将に羽柴秀吉を任命。秀吉の弟・秀長が率いる軍勢が但馬に侵攻した(第一次但馬征伐) 1 。この時の豊信の動向について、史料によって記述に差異が見られる。養父市の市史や関連資料の多くは、この第一次侵攻の際に豊信は秀長に降伏したと記している 3

一方で、天正八年(1580年)に秀吉自身が率いる本隊によって第二次但馬征伐が行われるまで、豊信は垣屋豊続らと共に但馬における反織田勢力の中心として抵抗を続け、この第二次侵攻でついに降伏したとする史料も複数存在する 1 。『但馬考』などの記録によれば、この天正八年の降伏は、八木城に籠城し、「剣橋・ふるやが谷・血の谷」に及ぶ激しい合戦の末であったと伝えられている 3

この二つの説の矛盾は、当時の戦況を鑑みることで合理的な解釈が可能となる。天正五年の第一次侵攻は、秀吉本隊が播磨の上月城で起きた反乱の鎮圧に転じたため、織田方の但馬支配は徹底されないままに終わった 6 。この状況下で豊信が一時的に恭順の意を示したとしても、それは戦術的な時間稼ぎや、織田方の出方を窺うための儀礼的な服従であった可能性が高い。その後、織田軍の圧力が弱まると、再び毛利方として活動を再開したと考えられる。

そして天正八年、秀吉が中国攻めの障害となっていた播磨の三木城を二年以上にわたる兵糧攻めの末に陥落させると 6 、いよいよ本格的に但馬・因幡の平定に着手する。この圧倒的な軍事力の前に、もはや抵抗は不可能と判断した豊信は、最終的かつ全面的な降伏に至った。したがって、豊信の降伏は一度きりの出来事ではなく、「天正五年の戦術的・一時的服従」と「天正八年の決定的降伏」という二段階のプロセスを経て行われたと見るのが、最も実態に近い理解であろう。これは、強大な勢力に直面した国人領主が、状況を冷静に分析しながら、自らの立場を段階的に変化させていく現実的な生存戦略の現れであった。

第三章:秀吉麾下での栄光と挫折 ― 因幡若桜鬼ヶ城

秀吉への降伏は、八木豊信にとって但馬の領主としての終焉を意味したが、同時に新たなキャリアの始まりでもあった。彼は豊臣軍団の一員として、かつての同盟相手であった毛利氏との戦いの最前線へと送り込まれる。

第一節:因幡攻略の尖兵として

天正八年(1580年)、秀吉は降伏した但馬の国人衆に対し、旧領を安堵せず、次の攻略目標である因幡国への転戦を命じた 8 。豊信も、垣屋光成や太田垣輝延といった、かつて但馬で覇を競ったライバルたちと共に、秀吉の麾下で因幡攻めに加わった 6 。これは、国人領主を本来の土地から切り離すことで在地性を剥奪し、彼らの力を完全に自軍の戦力として組み込むという、秀吉の巧みな統治戦略の一環であった。

豊信は、秀吉が因幡守護・山名豊国を攻めた第一次鳥取城攻めに従軍し、豊国を降伏させる上で功績を挙げたとされる 9 。降将でありながら、早速新たな主君のもとで結果を出したのである。

第二節:若桜鬼ヶ城主への抜擢

その戦功を秀吉に高く評価された豊信は、破格の待遇を受けることになった。因幡と但馬の国境に位置する軍事上の最重要拠点・若桜鬼ヶ城の守備を任され、さらに因幡国智頭郡に二万石という広大な所領を与えられたのである 9 。若桜鬼ヶ城は、因幡の首府・鳥取城への補給路を抑え、但馬方面からの毛利方の反攻を食い止めるための鍵となる城であった 24 。秀吉が、降伏して間もない豊信をこのような重要なポストに抜擢したことは、彼の武将としての能力を認めていた証左と言える。しかしそれは同時に、毛利との衝突が不可避な最前線で、文字通り命を賭して忠誠を示すことを求められる「捨て駒」としての役割も期待されていたことを意味していた。

第三節:毛利の逆襲と失脚

豊信の栄光は、しかし長くは続かなかった。天正九年(1581年)、第一次鳥取城攻めで屈服した因幡の国人衆の要請を受け、毛利氏は一族の猛将・吉川経家(きっかわつねいえ)を新たな鳥取城主として派遣する 9 。経家は自らの首桶を持参して入城したと伝えられるほどの覚悟で臨み、彼の着任によって毛利方の士気は一気に高まった 26

吉川元春に率いられた毛利本隊は、鳥取城の救援と因幡の奪還を目指し、本格的な反攻作戦を開始した。その最初の標的となったのが、最前線に位置する豊信の若桜鬼ヶ城であった 11 。毛利軍の猛攻の前に、豊信は城を支えきることができず、但馬方面へと退却を余儀なくされる 11 。この敗北により、秀吉から与えられた二万石の領地と若桜鬼ヶ城主という地位はすべて失われ、彼は歴史の表舞台から忽然と姿を消す。「消息不明」の始まりである 6 。秀吉の麾下に入り、わずか一年足らずで掴んだ栄光からの転落は、戦国末期の武将の運命がいかに個人の能力だけでなく、巨大勢力間のパワーバランスという外的要因によって劇的に変動したかを示す、あまりにも厳しい現実であった。

第四章:再起の舞台、日向国 ― 文人武将としての後半生

若桜鬼ヶ城での失脚後、八木豊信の消息は長らく謎に包まれていた。因幡の畑で追っ手に討たれたという悲劇的な伝説が残るのみで 29 、学術的には「行方不明」として扱われてきた。しかし、この歴史の空白を埋める画期的な発見が、近年の古文書研究によってもたらされた。

第一節:「消息不明」の謎を解く古文書

謎を解く鍵は、遠く離れた九州、宮崎県に残された『都城島津家文書』の中にあった。この古文書群の中から、八木豊信が自筆で記した書状が発見され、彼が失脚後に九州へ渡っていたことが明らかになったのである 2

この発見が歴史学的に決定的な意味を持つのは、書状に記された豊信の花押(かおう、署名代わりに用いられた独特の図案)が、毛利家に伝わる『吉川家文書』に収録されている、豊信が吉川元春に宛てた書状の花押と完全に一致したためである 2 。異なる時代、異なる場所、異なる相手に宛てられた二つの文書の花押が一致したことで、この島津家に仕えた人物が、但馬の国人領主・八木豊信と同一人物であることが動かぬ証拠をもって証明された。これは、古文書学という実証的な学問が、歴史のミッシングリンクを繋ぎ合わせた特筆すべき事例と言える。

第二節:薩摩・島津家久の右筆として

書状の内容から、豊信は九州に渡った後、薩摩島津氏の一族であり、日向国(現在の宮崎県)佐土原城主であった島津家久(しまづいえひさ)に仕えていたことが判明した 2 。注目すべきは、その役職である。『都城島津家文書』の記述によれば、彼は「家久公右筆」であったとされ 2 、これは主君の側に仕え、書状の代筆や記録の作成などを担う秘書的な文官を意味する。若桜鬼ヶ城で武人としてのキャリアを絶たれた豊信が、文官として再起を果たしていたのである。

第三節:文化資本という生存戦略

なぜ、西国の雄・島津家の一翼を担う家久が、遠く但馬から流れてきた失脚武将を登用したのか。その答えは、豊信が有していた「文化資本」にあったと考えられる。

第一に、八木氏には文武両道を尊ぶ家風があった。豊信の曾祖父にあたる八木宗頼は、室町時代の中央歌壇でも知られた歌人であり、その文化的素養は一族に受け継がれていた 2 。豊信自身が詠んだ和歌の短冊も現存しており 2 、彼が単なる武辺者ではなかったことがわかる。

第二に、豊信は中央の文化人とのネットワークを有していた。その最も重要な証拠が、失脚後の天正九年(1581年)と十年(1582年)に、堺の大商人であり、千利休や今井宗久と並び称された当代一流の茶人・津田宗及が主催する茶会に招かれている事実である 2 。織田信長・豊臣秀吉の時代、「御茶湯御政道」という言葉に象徴されるように、茶の湯は極めて高度な政治的・社交的ツールであった 30 。そのようなハイレベルな茶会に、所領を失った牢人同然の豊信が参加できたということは、彼が単なる田舎武将ではなく、中央の文化人サークルにアクセスできるだけの教養と人脈を持っていたことを意味する。

第三に、島津家久との間に、以前から何らかの接点があった可能性も指摘されている。家久自身も文化への造詣が深い武将であり、天正三年(1575年)に上洛した際、京都で開いた連歌会に豊信の弟である八木隠岐守が同席していた記録がある 2 。また、家久が伊勢神宮参詣の帰途に但馬・因幡を訪問した際に豊信と面識を得たという説もあり 9 、こうした文化的交流を通じて、家久は豊信の文人としての才覚を認識していたのかもしれない。

これらの事実を総合すると、豊信の後半生は、戦国武将の生存戦略のあり方が、単一の武力に依存するのではなく、政治情勢の変化に応じて「文化資本」を活かして再起を図るという、より複雑で多面的なものであったことを雄弁に物語っている。若桜鬼ヶ城の失陥で「武将」としての価値を失った彼は、自らが持つ「文人」としての価値を新たな武器とし、遠く九州の地で第二の人生を切り開いた。それは、武から文への華麗なる転身劇であった。

第五章:八木氏の命脈と後世への遺産

八木豊信個人の足跡は、島津家への仕官をもって史料上から途絶える。しかし、彼が背負った「八木」の名跡は、その後も生き永らえ、江戸時代を通じて存続することになる。

第一節:徳川旗本としての存続

八木氏の家名を再興したのは、豊信の孫にあたる八木光政であった 6 。一説によれば、光政の父・貞信は垣屋氏の養子となっていたが、光政は再び八木姓を名乗ったという 6 。彼は天下分け目の関ヶ原の合戦において徳川家康の東軍に味方し、その功績によって采地を拝領。徳川家の直参である旗本として、八木家を再興することに成功した 6

さらに光政の子、すなわち豊信の曾孫にあたる八木守直は、二代将軍・徳川秀忠の近侍として仕え、四千石という大身旗本にまで出世を遂げた 6 。こうして八木氏の子孫は、江戸幕府の体制下で安定した地位を確保し、その命脈を後世に伝えたのである。

ここで興味深いのは、徳川旗本となった八木家が編纂した家譜において、豊信の嫡流にあたる可能性のある子・信慶の名が系図から消されているという指摘である 6 。これは、豊臣秀吉に仕え、結果的に失脚した豊信の経歴を、徳川の世において憚った結果である可能性がある。新たな支配者の下で家の歴史を再編纂し、不都合な部分を修正・隠蔽することは、近世の大名家や旗本家においてしばしば見られる現象であり、八木家の事例もまた、家の存続と名誉を最優先する武家の家意識を考察する上で示唆に富む。

第二節:史跡に刻まれた記憶

八木豊信の生涯を物語る二つの城、但馬の八木城と因幡の若桜鬼ヶ城は、現在ともに国の史跡として大切に保存されている 14 。八木城の麓には、天正八年の合戦の激しさを伝える「血ノ谷」や、矢が雨のように降り注いだという「ふる矢が谷」といった地名が今なお残り 3 、地域の人々の間で語り継がれてきた歴史の記憶を留めている。

また、因幡地方には、若桜鬼ヶ城を追われた豊信が妻子と共に落ち延びる途中、畑で追っ手に発見され、見事な切れ味の太刀で斬られた後もしばらく立ったままであったという、彼の最期を伝える悲壮な伝説も残されている 29 。これは史実とは異なる可能性が高いものの、彼がこの地で経験した栄光と悲劇が、いかに強く地域史に刻み込まれたかを示す貴重な伝承と言えよう。

終章:八木豊信という武将の再評価

本報告書を通じて詳述してきた通り、八木豊信の生涯は、単に「秀吉に敗れた地方武将」という一面的な評価では到底捉えきれない、複雑さと深みを有している。

彼はまず、織田・毛利という二大勢力が激突する最前線において、自家の存続を第一に考え、状況に応じて巧みに立場を変え続けた、極めて現実的な政治感覚を持つ「国人領主」の典型であった。彼の行動は、忠誠や信義といった観念論ではなく、冷徹なパワーバランスの分析に基づいていた。これは、戦国乱世を生き抜くための必然的な選択であった。

次に、彼は因幡・若桜鬼ヶ城での軍事的な大挫折の後、歴史から消え去るのではなく、自らの文化的素養を新たな武器として、遠く九州の地で文官として再起を果たした、類稀なる「文武兼備」のサバイバーであった。武力による立身出世の道が絶たれた時、彼は文化という別の価値軸で自らの存在価値を証明し、見事に第二の人生を切り開いたのである。

八木豊信の人生は、戦国乱世の終焉期から豊臣政権による統一へと向かう時代の大転換を、一人の国人領主の視点から鮮やかに映し出している。武士の価値が、もはや武功のみで測られるのではなく、教養や中央との文化的ネットワークといった多様な能力、すなわち「文化資本」をも含むものへと変化していく。豊信の生涯は、この時代の大きなうねりを体現した、極めて貴重な歴史的ケーススタディであると結論づけることができる。


参考文献一覧

  • 『八鹿町史』 6
  • 『ひょうごの城紀行(上)』 6
  • 『史跡八木城跡』 6
  • 『宮崎県史 資料編 中世2』(「都城島津家文書」所収) 2
  • 『若桜鬼ヶ城基礎資料整備事業総合調査報告書』(「吉川家文書」所収) 2
  • 津田宗及『宗及自会記』(『天王寺屋会記』所収) 2
  • その他、本報告書作成にあたり参照した各市町村史、ウェブサイト、学術資料。

引用文献

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  2. 但馬国人八木豊信の教養と島津家久/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/299693.htm
  3. 但馬・八木城跡 - 養父市 https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/4/yagi/2534.html
  4. 近世編-1 https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/4f6248498763bceb99e424cd54a667ab95e56e8c.pdf
  5. 第一章 織豊政権の但馬進出と豊岡支配 https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/7108035bb5c7e98e84e36d873d34600b0e57bae2.pdf
  6. 武家家伝_但馬八木氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/t_yagi_k.html
  7. 八木城下を歩く<養父市八鹿町八木>(Vol.50/2004年4月発行) | 但馬再発見 https://the-tajima.com/urarojitanken/50yagi/
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  21. 知っておきたい観光情報が盛りだくさん! - 八木城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/833
  22. 八木城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163291
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  28. 八木城 https://tanbou25.stars.ne.jp/yagijyo2.htm
  29. 血畑の石碑(八木但馬守豊信入道宗松の供養碑) | 筑後守の航海日誌 - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/blog/tottori/inaba_tibatake_sekihi/
  30. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%8C%B6%E6%B9%AF%E5%BE%A1%E6%94%BF%E9%81%93#:~:text=%E5%BE%A1%E8%8C%B6%E6%B9%AF%E5%BE%A1%E6%94%BF%E9%81%93%EF%BC%88%E3%81%8A%E3%82%93,%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E6%84%8F%E8%A6%8B%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
  31. 茶の作法など知らぬ!京から近江、伊勢、山陰へ。島津家久の戦国あばれ旅【復路編】 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/127321/
  32. 【若桜鬼ヶ城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_31325af2170020731/