最終更新日 2025-07-20

六角定頼

六角定頼は近江守護。禅僧から還俗し家督を継承。将軍を庇護し畿内政治に介入。楽市令や城割りで領国を強化し六角氏の最盛期を築く。その革新性は織田信長に影響を与えた。

近江の先駆者、六角定頼―戦国大名権力の形成と革新―

序章:戦国近江の麒麟児、六角定頼

応仁・文明の乱(1467-1477年)は、室町幕府の権威を根底から揺るがし、畿内とその周辺地域を長きにわたる政治的混乱の渦へと巻き込んだ。幕府の権力構造が麻痺する中、京都に隣接し、陸上交通の結節点として地政学的に極めて重要な位置を占める近江国は、新たな時代の覇権を巡る争いの中心舞台の一つとなった。この地を代々治めてきた守護大名・佐々木六角氏は、幕府権威の失墜と、国内における国人層や他国の勢力の台頭という二重の圧力に晒され、旧来の守護としてのあり方から、自立的な領域支配を目指す戦国大名への転換を迫られていた。

定頼の父、六角高頼の時代は、まさにその過渡期であった。高頼は、将軍足利義尚、次いで足利義材(義稙)による二度の幕府軍親征(長享・延徳の乱)を受けながらも、甲賀の地侍の力を借りたゲリラ戦でこれを凌ぎ、近江における支配権を維持した 1 。しかしその治世は、幕府との抗争と和睦を繰り返す不安定なものであり、六角氏が戦国大名として確固たる地位を築いたとは言い難い状況にあった 1

この混沌とした時代背景の中、一人の傑出した人物が歴史の表舞台に登場する。六角定頼である。彼は、いかにして父の代を超える権力を掌握し、六角氏の最盛期を現出させたのか。そして、彼が打ち出した楽市令や城割りといった先進的な政策は、戦国時代の権力構造と社会経済にいかなる変革をもたらし、後の時代にいかなる影響を与えたのか。本報告書は、これらの問いを解き明かすことを通じて、単なる一地方の戦国大名に留まらない、時代の先駆者としての六角定頼の実像に迫るものである。

第一章:異色の経歴―禅僧から戦国大名へ

出自と家系

六角氏は、鎌倉時代の近江源氏・佐々木信綱の四人の男子のうち、三男・泰綱の嫡流にあたる名門である 2 。近江国を本拠とし、中世を通じて守護職を世襲してきた 3 。六角定頼は、この六角氏の当主であった六角高頼の次男として、明応4年(1495年)に生を受けた 2

禅僧「光室承亀」

武家の次男以下が家督相続の可能性の低さから仏門に入ることは、当時の慣習として広く見られた。定頼もその例に漏れず、若くして京の五山の一つである相国寺に入り、「光室承亀(こうしつじょうき)」と称する禅僧としての日々を送っていた 4 。この選択は、彼が当初は六角家の家督を継ぐべき存在とは見なされていなかったことを示している。しかし、京都での禅僧としての生活は、彼に高度な学問や教養、そして中央の公家や幕府関係者との人脈を築く機会をもたらした可能性があり、これが後の彼の政治家としての活動において、計り知れない資産となったことは想像に難くない。

還俗と家督相続の経緯

定頼の運命を大きく転換させたのは、永正13年(1516年)に近江で勃発した守護代・伊庭氏による反乱であった 4 。この内乱は六角家の統治を揺るがす深刻な危機であったが、当時の当主であった兄・氏綱はこの事態を独力で収拾することができなかった。ここに、六角家の既存の権力構造の限界が露呈する。この国家存亡の機に際し、禅僧であった光室承亀が還俗して近江に帰還し、軍を率いることとなった。

定頼は、この伊庭氏の反乱を見事に鎮圧し、武将としての非凡な器量と指導力を家中に鮮烈に印象づけた 4 。兄では対処しきれなかった危機を、仏門から戻った弟が解決したという事実は、家中における彼の声望を決定的に高めた。そして永正15年(1518年)、兄・氏綱の死(もしくはそれに準ずる形での引退)に伴い、定頼は正式に六角家の家督を継承したのである 4

彼の家督相続は、平時における順当な継承ではなく、領国の内乱という危機的状況の中から、自らの実力によって勝ち取られたものであった。この経緯は、その後の定頼による強力なリーダーシップの正統性を家中に広く認めさせる上で、極めて重要な役割を果たした。危機が指導者を生み出し、その指導者が新たな時代を切り拓くという、戦国時代を象徴するような権力の移行であったと言えよう。

第二章:幕府の庇護者―中央政局への巧みな介入

将軍の近江亡命

定頼が家督を継承した頃の畿内は、管領・細川高国と、その地位を狙う細川晴元の対立(両細川の乱)を主軸に、激しい政争が繰り広げられていた。高国に擁立されていた第12代将軍・足利義晴は、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで高国が晴元に敗れると、京都を追われ、定頼を頼って近江へと亡命した 4

定頼は義晴を温かく迎え入れ、以後、六角領は将軍の「避難所」としての役割を担うことになる。特に享禄4年(1531年)から天文3年(1534年)にかけての3年間、義晴は定頼の居城・観音寺城の膝元にある桑実寺に滞在し、近江から幕府の政務を執った 4 。この事実は、六角氏が単なる一地方大名ではなく、幕府の命運を左右しうる有力な存在であったことを示している。

「管領代」としての権勢

定頼の将軍庇護は、単なる忠誠心の発露や、受動的な保護に留まるものではなかった。それは、失墜しつつある幕府の権威を、自らの権力基盤を強化するための最も有効な「政治的資源」として活用する、極めて高度な政治戦略であった。

権威はあっても実力のない将軍を自らの領国に「保有」することにより、定頼は自らが幕府の最高意思決定に不可欠な存在であることを天下に示した。将軍が近江にいる間、事実上、近江が日本の政治的中心地となり、諸大名や公家は定頼を介さなければ将軍に接触し、その裁可を得ることができなくなった。観音寺城は、さながら「近江幕府」とも言うべき様相を呈し、政治的ハブとしての機能を果たし始めたのである。

この実質的な権力を形式的にも正統化する画期的な出来事が、天文15年(1546年)に訪れる。義晴の子・義藤(後の第13代将軍・足利義輝)の元服式が、近江坂本の日吉社(現・日吉大社)の祠官邸で行われた際、定頼は将軍の烏帽子親という大役を務めた 7 。本来、この役は管領が務めるのが慣例であったが、義晴は定頼を管領に準ずる「管領代」に任じ、この儀式を執り行わせたのである 4 。この功により、定頼は破格の従四位下に叙せられ、その権勢は頂点に達した 4

これにより定頼は、他の守護大名に対して明確な優位性を確立し、幕府の権威を背景に近江一国のみならず、畿内政治全体に大きな影響力を行使する立場を築き上げた。没落しつつあった幕府の権威を逆利用し、自らの権力へと巧みに転換させた定頼は、戦国時代屈指のしたたかな政治家であったと言える。

第三章:畿内の覇権を巡る攻防

六角定頼の治世は、中央政局への介入と並行して、周辺勢力との絶え間ない軍事闘争の連続でもあった。畿内における影響力の維持と、本国・近江の安寧を確保するため、彼は南へ、そして北へと軍を動かし続けた。

細川晴元との同盟と限界

当初、定頼は畿内の覇者であった管領・細川晴元と緊密な協調関係を築いていた。天文6年(1537年)には自らの娘を晴元に嫁がせ、婚姻同盟によって両者の結びつきを強固なものとした 9 。この同盟は、定頼が将軍・足利義晴を庇護しつつ、畿内政治に影響力を行使するための重要な基盤であった。将軍の権威と管領の実力を背景に、定頼は畿内の安定化に努め、その地位を盤石なものにしようと図った。

しかし、この「将軍―管領・細川氏―六角氏」という連携体制は、細川家内部の権力闘争によって次第に揺らぎ始める。晴元の家臣であった三好長慶が、阿波を本拠に畿内で急速に実力を伸長させ、主君である晴元をも脅かす存在へと成長していったのである。晴元とその重臣・三好政長が、長慶を危険視して対立を深めると、定頼の立場は極めて複雑かつ困難なものとなった。娘婿である晴元を支持するのか、それとも新興の実力者である長慶と手を結ぶのか、彼は重大な岐路に立たされた。

三好長慶の台頭と「江口の戦い」

天文18年(1549年)、三好長慶はついに主君・細川晴元に反旗を翻し、細川政権の打倒に乗り出した。定頼は、長年の同盟者であり娘婿でもある晴元を支援するため、三好政長に援軍を送ることを決断する 12 。六角氏の強大な軍事力が加われば、長慶の野望を打ち砕くことは可能であると見込まれていた。

しかし、天文18年6月、摂津江口において三好長慶軍と三好政長軍が激突した際、六角からの援軍の到着は遅れた 12 。長慶はこの好機を逃さず、六角軍が到着する前に総攻撃を仕掛け、政長を討ち取った 12 。主力部隊を失った晴元は京都から逃亡し、近江の定頼のもとへ身を寄せた 13 。ここに、長年畿内を支配してきた細川晴元政権は事実上崩壊したのである。

この「江口の戦い」における六角軍の遅参は、単なる一戦闘の勝敗を超え、畿内のパワーバランスを根底から覆す決定的な転換点となった。この敗北により、定頼が長年支えてきた「将軍―管領・細川氏」という旧来の支配体制は崩壊し、実力者・三好長慶が畿内の覇権を握る新時代が幕を開けた。定頼は、もはや畿内政治の主導者ではなく、強力な挑戦者と直接対峙せざるを得ない立場へと転落したのである。六角氏の勢力拡大には明確な「天井」が設けられ、その後の政治的影響力は、近江一国とその周辺に限定されざるを得なくなった。六角氏の全盛期は、皮肉にもその絶頂期において、外部環境の激変によりその限界を露呈したと言える。

北の宿敵・浅井亮政との抗争

定頼が南の畿内に目を向けている間、本国・近江の北部では、新たな脅威が台頭しつつあった。主家である京極氏を凌ぎ、北近江三郡に実力で支配権を確立した国人領主・浅井亮政である 14 。亮政の台頭は、近江一国の統一支配を目指す定頼にとって看過できるものではなく、両者の衝突は必然であった。

定頼は、北近江に対する軍事行動を幾度となく繰り返した。大永5年(1525年)には浅井氏の居城・小谷城を攻め、享禄4年(1531年)には箕浦河原で浅井軍と激突し、これを破っている 4 。さらに天文7年(1538年)には再び大軍を率いて北近江に侵攻し、佐和山城を攻略、小谷城近辺での合戦にも勝利して亮政を屈服させた 4

これらの戦いを通じて、定頼は生涯にわたり浅井氏を軍事的に圧倒し、その勢力を抑え込むことに成功した。しかし、彼は浅井氏を完全に滅ぼす、あるいは完全に家臣団に組み込むまでには至らなかった。定頼個人の強大な武威と政治力によってかろうじて維持されていた北近江への影響力は、極めて不安定なものであり、次代へと持ち越される大きな課題となった。この「未完の近江統一」は、定頼の死後、直ちに六角氏を揺るがす時限爆弾となる。定頼ほどの力量を持たない後継者・義賢の代になると、浅井長政の離反(野良田の戦い)を抑えることができず、これが六角氏衰退の直接的な引き金となっていくのである 17

第四章:革新的な領国経営―楽市と城割りの先進性

六角定頼の真価は、軍事や外交における手腕のみならず、その革新的な領国経営政策にこそ見出される。彼は、戦国大名が直面する「家臣団の統制」と「富国強兵」という二大課題を解決するため、時代を数十年先取りする先進的な制度を導入した。

楽市令の創始

天文18年(1549年)、定頼は居城・観音寺城の城下町である石寺新市に対して「楽市令」を発布した 18 。これは、織田信長が永禄10年(1567年)に加納で発布する楽市令に先立つこと18年、確実な史料で確認できる日本史上初の事例である 9

「楽市」の「楽」とは、規制が緩和され自由になることを意味する 20 。当時の市場は、「座」と呼ばれる同業者組合が特権を握り、新規参入を妨げたり、領主や寺社が市場税(公事銭)を徴収したりするのが一般的であった。定頼の楽市令は、こうした座の特権を廃止し、市場税を免除することで、あらゆる商人が自由に商売を行えるようにする画期的な政策であった 21 。その目的は、自由な商業活動を保障するというインセンティブを与えることで、全国から商人や職人を城下に誘致し、経済を活性化させることにあった。

城割令―家臣団の集住

楽市令に先立つこと26年、大永3年(1523年)、定頼はさらに大胆な政策を断行していた。領国内に点在する家臣たちの城(支城)を破却させ、彼らを観音寺城の城下町に強制的に移住させる「城割り」を命じたのである 9 。これは、家臣たちが自らの領地で半独立的な勢力となることを防ぎ、大名の直接統制下に置くことを目的とした、強力な中央集権化政策であった。この政策は、後に豊臣秀吉や江戸幕府が実施する「一国一城令」の先駆的なものとして、高く評価されている 9

軍事・経済・都市計画の統合戦略

特筆すべきは、「城割り」と「楽市」が、それぞれ独立した政策ではなく、一つの壮大なビジョンの下で有機的に連動する、統合的な国家建設戦略であった点である。この二つの政策は、相互に補完し合うことで、相乗効果を生み出した。

まず、「城割り」によって家臣団を城下に集住させる。これにより、彼らの軍事力は領内に分散することなく、大名直属の常備戦力として一元化され、政治的にも大名の統制が隅々まで及ぶようになる。これは、軍事・政治面における中央集権化の達成を意味する。

次に、この城割りによって生まれた人工的な都市(城下町)に、「楽市」という経済的な求心力を与える。自由な商業活動が保障された市場は、全国から商人を惹きつけ、観音寺城下は人、物、金、情報が集まる一大商業都市へと発展していく 9

そして、この商業の活性化は、大名に莫大な経済的利益をもたらす。流通の活発化による税収の増加、軍需物資の安定的な調達、城下町の繁栄そのものが、大名の富と力の源泉となる。この富が、中央集権化された強力な軍団を維持・強化するための基盤となり、「富国強兵」が実現されるのである。

このように、定頼は軍事力による権力集中と、経済政策による富の集中を両輪として、近江に強力な中央集権国家を築き上げようとした。この「城下町を中心とした国家モデル」は、まさに織田信長が後に安土城下で実現するものの原型であり、定頼の卓抜した構想力と時代認識の先進性を如実に物語っている。

第五章:権力の象徴―観音寺城と城下町

六角定頼が推し進めた統合的な国家戦略は、彼の本拠地である観音寺城とその城下町・石寺の姿に、物理的な形として具現化されていた。これらは単なる軍事拠点や居住区ではなく、六角氏の権力と富、そして先進性を内外に誇示するための、壮大な「装置」であった。

巨大山城・観音寺城

観音寺城は、琵琶湖東岸に聳える標高432.7メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂から山腹にかけて築かれた、日本五大山城の一つに数えられる巨大城郭である 24 。その歴史は古く、南北朝時代に佐々木氏頼が砦として利用した記録が『太平記』に見えるが、当時はまだ簡易な施設であったと考えられる 24

この城を、戦国時代を代表する大城郭へと変貌させたのが定頼であった。彼は、城の主要部を総石垣で構築するという、当時としては最先端の築城技術を導入し、城を本格的に改修した 26 。城内には、本丸、平井丸、池田丸、布施淡路丸といった数多くの曲輪が巧みに配置され、それぞれが石垣や土塁で固められていた 24 。昭和44年(1969年)から行われた発掘調査では、城主の館があったとされる場所から建物礎石や壮麗な庭園の遺構、排水施設などが発見されており、城が単なる軍事施設ではなく、政治と生活の中心地でもあったことを示している 24 。この石垣を多用した大規模な山城の構造は、後に織田信長が築く安土城に大きな影響を与えたとする説もある 28

城下町・石寺

繖山の南麓には、観音寺城の城下町である石寺の集落が広がっている 29 。この地には、現在でも家臣団の屋敷跡と考えられる郭状の平坦地や、往時を偲ばせる石垣が数多く残されている 29 。これは、定頼が発した「城割り」によって、家臣たちがこの地に集住していたことの証左である。

集落の最も高い場所には「御屋形跡」と呼ばれる一画があり、ここが定頼自身の居館があった場所と推定されている 29 。山上の城と山麓の館、そして家臣団の屋敷群が一体となって、六角氏の権力中枢を形成していたのである。

山上に威容を誇る石垣の城は、六角氏の揺るぎない軍事的権威を象徴し、山麓に広がる楽市で賑わう繁栄した町は、その豊かな経済的実力を物語っていた。将軍や諸大名の使者、全国から集まる商人など、この地を訪れるすべての者に対し、観音寺城と城下町石寺は、六角氏の強大な力を視覚的に訴えかけ、畏敬の念を抱かせたに違いない。それは、政治・軍事・経済が一体となった、戦国時代の新しい権力拠点のモデルケースであった。

第六章:多角的な外交と宗教政策

六角定頼は、国内の統治と並行して、巧みな外交戦略を展開し、領国の安定と勢力圏の維持に努めた。その手法の中心にあったのが、婚姻政策による同盟網の構築と、強大な宗教勢力との現実的な関係構築であった。

婚姻政策による同盟網の構築

定頼は、娘たちを周辺の有力大名や中央の権力者に嫁がせることで、戦略的な同盟ネットワークを築き上げた。これは、単なる血縁関係の構築に留まらず、自らの政治的立場を強化し、潜在的な敵対勢力を牽制するための極めて有効な手段であった。

嫁いだ娘

嫁ぎ先(人物・大名家)

想定される目的・背景

典拠

長女

細川晴元(管領家)

畿内政治への影響力確保、幕府・管領体制との連携強化

9

次女

土岐頼芸(美濃守護)

東方の美濃国との関係安定化、斎藤氏への牽制

9

三女

北畠具教(伊勢国司)

南方の伊勢国との関係安定化、伊勢長野氏への対抗

9

養女・如春尼

本願寺顕如(石山本願寺)

強大な宗教勢力である本願寺との連携、畿内における影響力強化

9

この表が示すように、定頼の婚姻政策は、畿内中央、東の美濃、南の伊勢、そして強大な宗教勢力である本願寺という、近江を取り巻く全方位に対して張り巡らされていた。これにより、彼は領国の安全保障を多角的に確保すると同時に、各地の政治情勢に介入する足掛かりをも築いたのである。

宗教勢力との現実的な関係

定頼の宗教勢力に対する姿勢は、特定の宗派への深い信仰心からではなく、常に冷徹な政治的リアリズムに基づいていた。彼は、宗教勢力を自らの政治的・軍事的目標を達成するための重要なアクターとして捉え、その時々の状況に応じて、弾圧と融和を巧みに使い分けた。

その典型例が、天文5年(1536年)に京都で発生した「天文法華の乱」への対応である。当初、定頼は京都で勢力を拡大していた日蓮法華宗と、旧権力である比叡山延暦寺との調停を試みた。しかし、仲裁が失敗に終わると、彼は即座に延暦寺側に加担し、6万ともいわれる大軍を動員して京都の日蓮宗21本山を焼き討ちにし、法華勢力を徹底的に弾圧した 32 。これは、新興勢力の台頭による畿内の秩序の混乱を嫌い、旧来の権威である延暦寺と結ぶことが、自らの影響力維持に有利であると判断したためであった。

しかし、乱が終結し、天文16年(1547年)に法華宗の禁教が解かれると、今度は定頼自身が延暦寺と法華宗の和解を仲立ちしている 32 。この一貫性のないように見える行動は、彼の根底にある現実主義を浮き彫りにしている。彼にとって宗教とは、信仰の対象である以前に、コントロールし、利用すべき政治勢力であった。延暦寺、法華宗、そして後には婚姻を通じて関係を深める本願寺といった巨大勢力を、時には敵として叩き、時には味方として利用することで、彼は畿内のパワーバランスを巧みに操り、自らの政治的地位の安定を図ったのである。彼のこうした行動は、宗教が純粋な信仰の世界から、政治闘争の重要な駒へと変貌した戦国時代という時代性を、的確に読み解き、利用した冷徹なリアリストの姿を映し出している。

終章:定頼の死と六角氏の黄昏

定頼の死

天文21年1月2日(西暦1552年1月27日)、六角定頼は病によりその生涯を閉じた。享年58 2 。中央政局を動かし、革新的な領国経営で近江に一大勢力を築き上げた彼の死は、六角氏の栄華の時代の終わりを告げるものであった。

後継者・義賢の時代

家督は、嫡男の六角義賢(よしかた、後の承禎)が継承した 34 。義賢は父・定頼の晩年から共同統治に携わり、一定の政治経験はあったものの、父のような非凡な器量には恵まれていなかった 35 。定頼という傑出した指導者の死によって生じた権力の空白は、六角氏が抱えていた内憂外患を、一気に表面化させることとなる。

まず、定頼がその武威でかろうじて抑え込んできた北近江の浅井氏が、永禄3年(1560年)、亮政の子・長政の代に公然と反旗を翻した。義賢はこれを討伐すべく大軍を率いて出陣するも、「野良田の戦い」でまさかの敗北を喫し、浅井氏の独立を許してしまう 17

さらに永禄6年(1563年)、義賢の子で当主の義治が、重臣の後藤賢豊を観音寺城内で謀殺するという愚挙を犯す(観音寺騒動)。これにより家臣団の信頼を完全に失い、家中は分裂。六角氏の求心力は急速に失われていった 23

そして永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛する織田信長の圧倒的な軍勢が近江に侵攻すると、義賢・義治親子は組織的な抵抗もできぬまま、堅城であったはずの観音寺城を放棄して甲賀へと逃亡した 23 。ここに、近江に君臨した名門・六角氏は、戦国大名として事実上滅亡したのである。

歴史的評価の総括

六角定頼は、戦国時代という激動の時代において、類稀なる政治手腕と先見性を持った経営者であった。彼は、失墜しつつあった室町幕府の権威を巧みに利用して自らの地位を高め、畿内政治に大きな影響力を及ぼした。それと同時に、領国においては「城割り」や「楽市」といった、当時としては極めて革新的な政策を断行し、軍事・政治・経済が一体となった強力な中央集権体制と、豊かな経済基盤を築き上げた。彼が観音寺城下で試みた「城下町を中心とした国家モデル」は、時代を数十年先取りするものであり、戦国大名による新しい権力のあり方を提示した点で、高く評価されるべきである。

しかし、彼の築いた強大な権力とシステムは、彼自身の非凡な能力に大きく依存していたという限界もまた、指摘せねばならない。その結果、後継者への円滑な権力移譲は成功せず、彼の死後、六角家の権力基盤は急速に瓦解した。また、三好長慶の台頭に象徴される畿内情勢の激変という外部環境の変化に、最終的に対応しきれなかった点も、その限界を示している。

六角定頼は、戦国乱世において一時的に畿内に秩序をもたらし、旧来の守護大名から脱皮した新たな大名権力の姿を体現した「時代の先駆者」であった。彼の先進的な政策という遺産は、皮肉にも六角家そのものによってではなく、彼らを滅ぼした織田信長によって継承され、安土においてさらに発展させられる形で結実した。その点にこそ、六角定頼という武将の歴史的な重要性と、時代の非情な摂理が凝縮されていると言えよう。

引用文献

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  3. 戦国期六角氏権力の構造と展開 - 国立情報学研究所 https://ocu-omu.repo.nii.ac.jp/record/2002766/files/6312.pdf
  4. 六角定頼(ろっかくさだより)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%AE%9A%E9%A0%BC-153000
  5. 調査員のおすすめの逸品 №321 安土町内に「幕府」があった!将軍足利義晴が描かせた華麗な絵巻―「桑実寺縁起絵巻」― - シガブンシンブン オススメの逸品 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/recommended-relics/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%93%A1%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%81%AE%E9%80%B8%E5%93%81-%E2%84%96321%E3%80%80%E5%AE%89%E5%9C%9F%E7%94%BA%E5%86%85%E3%81%AB%EF%BD%A2%E5%B9%95%E5%BA%9C/
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  13. 江口の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Eguchi.html
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