最終更新日 2025-07-20

六角義治

六角義治は近江守護。家老謀殺で観音寺騒動を起こし、権力制限される。織田信長に敗れ領国を失うが、豊臣秀吉に文化人として仕え、秀頼の師範となる。没落大名が武から文へ転じ生き抜いた。

日本の戦国大名、六角義治の生涯—没落と生存の軌跡

(表1)六角義治 略年表

西暦 (和暦)

年齢

主要な出来事

関連人物・勢力

1545年 (天文14年)

0歳

近江守護・六角義賢の嫡男として観音寺城で誕生。幼名は四郎、初名は義弼(よしすけ) 1

六角義賢、畠山義総の娘(母)

1557年 (弘治3年)

13歳

父・義賢の隠居に伴い、家督を相続。ただし、実権は父が掌握し続ける 2

六角義賢(承禎)、足利義輝

1563年 (永禄6年)

19歳

筆頭家老の後藤賢豊とその子を観音寺城内で謀殺。これが「観音寺騒動」の引き金となる 2

後藤賢豊、蒲生定秀、浅井長政

1565年 (永禄8年)

21歳

永禄の変で殺害された将軍・足利義輝の弟、覚慶(後の足利義昭)を一時的に保護する 4

足利義昭、三好三人衆

1567年 (永禄10年)

23歳

家臣団が起草した分国法「六角氏式目」に署名させられ、当主の権力が大幅に制限される 2

蒲生定秀、進藤賢盛

1568年 (永禄11年)

24歳

足利義昭を奉じて上洛を目指す織田信長の近江通行要求を拒否。観音寺城の戦いで敗北し、城を捨て甲賀へ逃亡 4

織田信長、徳川家康、浅井長政

1570年 (元亀元年)

26歳

浅井・朝倉氏と呼応して甲賀で蜂起。野洲河原の戦いで織田軍の柴田勝家らに敗北する 5

浅井長政、朝倉義景、柴田勝家

1574年 (天正2年)

30歳

最後の拠点であった石部城が織田軍に攻略される。これにより、大名としての組織的抵抗が終焉 13

佐久間信盛

c.1582年以降 (天正10年以降)

38歳〜

本能寺の変後、歴史の表舞台に再び現れる。豊臣秀吉に御伽衆として仕えたとされる 1

豊臣秀吉

c.1590年代

50代

豊臣秀次の主催した犬追物に弓馬指南役として出席した記録が残る 14

豊臣秀次

c.1598年以降 (慶長3年以降)

54歳〜

秀吉の死後、その子・豊臣秀頼の弓矢の師範を務める 1

豊臣秀頼

1612年 (慶長17年)

68歳

加茂にて死去。享年68。京都の一休寺に葬られる 1

序章:名門六角氏の黄昏と義治の登場

六角義治という人物を理解するためには、まず彼が背負っていた「六角氏」という家の歴史的権威と、その内部に潜む構造的脆弱性を知る必要がある。六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流であり、鎌倉時代から近江国南半分の守護職を世襲してきた名門中の名門であった 5 。京都の六角東洞院に邸宅を構えたことから「六角」を名乗り、室町幕府においても重きをなした。その家格の高さは、織田信長のような新興勢力とは比較にならないほどの誇りとなっていた 12 。特に義治の祖父・六角定頼の時代には、幕政に深く関与する一方で、商業を活性化させる「楽市・楽座」を先駆的に導入するなど、先進的な領国経営で知られ、六角氏は全盛期を迎えていた 4

義治の父・六角義賢(出家後は承禎)もまた、父・定頼の築いた基盤の上に立ち、畿内における有力大名として君臨した。将軍・足利義輝を庇護し、幕府内の対立を調停するなど、中央政界で大きな影響力を行使した人物である 4 。しかし、その強大な権勢の裏で、六角氏の支配体制は深刻な問題を抱えていた。六角氏の領国は、強力な中央集権体制ではなく、独立性の高い国人領主たちの連合体という性格が強かったのである 6 。家臣たちは、単なる被官ではなく、自らの所領と軍事力を持つ「パートナー」に近い存在であり、大名の権力は常に彼らの合意と協力の上に成り立つ、という危うい均衡の上に成り立っていた。

このような状況下で、六角義治は天文14年(1545年)に生を受けた 1 。母は能登の守護大名・畠山義総の娘である 3 。弘治3年(1557年)あるいは永禄2年(1559年)頃、父・義賢の隠居に伴い家督を相続する 1 。この時、室町幕府第13代将軍・足利義輝から偏諱を受け、「義弼(よしすけ)」と名乗った 3 。しかし、この家督相続は形式的なものに過ぎなかった。父・義賢は出家して「承禎」と号したものの、政治・軍事の実権は依然としてその手に握り続けていたのである 4 。これにより、六角家には若き当主・義治と、隠居した実力者・承禎という二つの権力が並立する、極めて不安定な統治構造が生まれることになった。義治は、当主という「名」と責任を負わされながら、それに伴う実質的な「権力」を持たないという、矛盾した立場に置かれた。彼の生涯を決定づける悲劇の舞台は、この時にすでに整えられていたのである。

第一章:観音寺騒動—権力掌握の焦りと家臣団の離反

六角氏の没落を決定づけた事件は、外部からの侵略ではなく、内部からの崩壊であった。永禄6年(1563年)、当主・六角義治は、自らの居城である観音寺城内において、筆頭重臣の後藤賢豊とその子を謀殺するという凶行に及んだ 2 。この「観音寺騒動」と呼ばれる事件は、単なる家臣粛清の枠を超え、六角氏という政治共同体の根幹を揺るがす致命的な一撃となった。

謀殺の動機—若き当主の焦燥

後藤賢豊は、単なる一介の家臣ではなかった。進藤氏と共に「六角の両藤」と称され、代々六角氏の宿老として家政を支えてきた重鎮である 21 。智勇に優れ、人望も厚く、特に隠居した義賢(承禎)からの信任は絶大であった 24 。義治がこの重臣を手にかけた動機について、賢豊の威勢を妬んだため、といった単純な見方も存在する 7 。しかし、より深く分析すると、これは若き当主・義治による、周到とは言えないまでも、明確な意図を持った権力掌握の試みであったと解釈できる。

当時の六角家は、前述の通り、義治と父・承禎による二頭政治の状態にあった。家中の実力者、特に後藤賢豊のような宿老は、承禎の権威を背景に大きな影響力を保持していた 24 。義治にとって、賢豊の存在は、自らが真の当主として権力を振るう上での最大の障害であり、父・承禎の影響力を象徴する存在そのものであった 3 。このため、賢豊を排除することは、父の旧体制を破壊し、自らの親政を実現するための、最も直接的で手っ取り早い手段に見えたのであろう。それは、六角家の権力構造そのものに対する、若き当主の焦りと苛立ちが生んだ、危険な賭けであった。

家臣団の総反発と当主の逃亡

しかし、この賭けは史上最悪と言えるほど裏目に出た。賢豊の謀殺は、家臣団に権力の集中を納得させるどころか、彼らに共通の恐怖と不信感を植え付けた。後藤氏は家臣団の中でも筆頭格であり、多くの国人領主と姻戚関係で結ばれていた 7 。賢豊を「無礼討ち」という名目で、正規の法的手続きも経ずに殺害したことは、他の家臣たちに「明日は我が身」という危機感を抱かせるのに十分であった。それは、大名と国人連合という、暗黙の「契約」によって成り立っていた六角氏の統治体制を、義治自らが破壊したに等しい行為であった。

家臣団の反応は迅速かつ激烈だった。後藤氏と縁の深い永田氏、三上氏らは、観音寺城下の自らの屋敷に火を放って所領に引き上げ、公然と反旗を翻した 7 。さらに彼らは、六角氏と敵対していた北近江の浅井長政に支援を要請し、連合軍を組織して観音寺城へと進軍した 7 。主君に叛いた家臣と、国外の敵が手を結ぶという、大名家にとっては悪夢のような事態が現実となったのである。

義治と父・承禎は、わずかな手勢ではこの軍勢に抗うすべもなく、自らの本拠地である観音寺城を捨てて逃亡せざるを得なかった。彼らは重臣の蒲生定秀を頼って日野城へと落ち延び、当主が家臣に追われるという前代未聞の屈辱を味わった 7 。この事件は、六角氏の権威が完全に失墜したことを内外に示し、わずか5年後に迫る織田信長の侵攻に対し、六角家が組織的な抵抗力を失う直接的な原因となった。自らの手で家中の結束を破壊した義治の行動は、まさに「滅亡への端相」だったのである 3

(表2)観音寺騒動 関係者一覧

人物

立場・役職

騒動における動向

備考

六角義治

六角氏当主

後藤賢豊父子の謀殺を主導。家臣団の反発により一時観音寺城を追われる 7

事件の首謀者。

六角義賢(承禎)

義治の父(隠居)

義治と共に行動。観音寺城から逃亡し、三雲氏のもとへ身を寄せたとされる 7

依然として家中の実権を握っていた。

後藤賢豊

筆頭家老(宿老)

観音寺城内で義治に謀殺される 21

「六角の両藤」の一人。人望が厚かった。

後藤壱岐守

賢豊の長男

父と共に謀殺される 28

蒲生定秀・賢秀

重臣

義治父子を保護し、反乱軍との調停役を務める。六角氏への忠誠を維持 7

騒動の収拾に尽力した。

永田景弘・三上恒安

重臣

後藤氏と縁戚。城下の屋敷を焼き払い、反乱軍の中核となる 7

後藤氏と姻戚関係にあった。

平井定武・進藤賢盛

重臣

反乱軍に参加。浅井氏と連携して義治父子と敵対 7

進藤氏は「両藤」のもう一方。

浅井長政

北近江の大名

反乱を起こした六角家臣団を支援し、南近江への勢力拡大を図る 7

六角氏の長年の宿敵。

第二章:「六角氏式目」の制定—当主権力の制約と国人連合の再編

観音寺騒動によって露呈した六角氏の内部崩壊と権威失墜は、新たな政治的秩序の模索へと繋がった。永禄10年(1567年)、騒動から4年を経て制定された「六角氏式目」は、その象徴的な成果物である 2 。この分国法は、戦国時代の他の大名が制定した法典とは一線を画す、極めて特異な性格を持っていた。

大名権力を縛る異例の分国法

通常、戦国大名の分国法、例えば伊達氏の「塵芥集」や武田氏の「甲州法度之次第」は、大名が家臣や領民を統制し、自らの権力を強化する目的で発布されるトップダウンの法令である 29 。しかし、「六角氏式目」は全く逆のアプローチを取っていた。この式目は、蒲生定秀ら六角家の有力家臣たちが中心となって起草し、それを当主である義治と父・承禎に提示し、遵守を誓約させるという形式で成立したのである 9 。67ヵ条の本文に加え、義賢・義治父子と20名の家臣が相互に起請文を取り交わしており、その内容は一方的な命令ではなく、大名と家臣団との間の「相互契約」という性格を色濃く帯びていた 30

その条文の多くは、債務問題や民事訴訟に関する規定が中心であり、大名による恣意的な財産没収や裁判介入を禁じるなど、当主の権力を明確に制限する内容を含んでいた 10 。これは、観音寺騒動における義治の独断専行が引き起こした混乱への直接的な反省から生まれたものであり、国人領主層の強い自立性を示す証左でもあった 10

式目の歴史的評価—衰退の象徴か、秩序回復の試みか

この異例の分国法は、歴史的に二つの側面から評価されてきた。伝統的な見方では、当主が家臣によって権力を制限されるという事態は、大名権力の弱体化と六角氏の衰退を象徴する出来事として捉えられる 11 。事実、この式目によって義治の権威はさらに低下し、大名としての求心力は失われた。

しかし、近年の研究では、より肯定的な再評価もなされている。この式目を、単なる衰退の証ではなく、崩壊した秩序を再建するための高度な政治的試みと見るのである。観音寺騒動は、大名の絶対的な権力が、逆に領国全体を危機に陥れる危険性を示した。これに対し、家臣団は、当主を追放・交代させるという単純な手段ではなく、「国法(こくほう)」という共通のルールを定め、当主自身もそれに従うことで、予測可能で安定した統治体制を再構築しようとした 10 。これは、君主の権力も法の下にあるという「法の支配」の萌芽であり、イギリスのマグナ・カルタにも通じる中世的な立憲主義の試みと評価する見解も存在する 32 。つまり、「六角氏式目」は、崩壊した信頼関係を法という形で再構築し、六角氏を中心とする国人連合を再結束させようとする、洗練された努力の結晶であったと言える。

だが、この先進的な政治実験は、あまりにも時機を逸していた。式目制定のわずか1年後、六角氏は旧来の秩序とは全く異なる原理で動く圧倒的な外部勢力、織田信長との対決を迫られることになる。

第三章:織田信長との対決と観音寺城の陥落

永禄11年(1568年)、美濃を平定した織田信長は、足利義昭を奉じて京に上るべく、その経路上に位置する南近江の六角氏に協力を要請した 8 。この要請に対する六角義治・承禎父子の決断は「拒絶」であった。この選択が、400年以上続いた名門六角氏の、戦国大名としての歴史に終止符を打つことになる。

決裂の背景—名門の矜持と政治的打算

六角氏が信長との協調を拒んだ理由は、複合的なものであった。第一に、源氏嫡流を自負する名門としての強烈な矜持である 12 。尾張の一守護代の家臣筋に過ぎない「成り上がり者」の信長が、将軍を擁して天下に号令しようとすること自体が、彼らにとっては許容しがたい屈辱であった。第二に、現実的な政治的判断があった。当時の六角氏は、信長が打倒を目指す畿内の実力者・三好三人衆とすでに同盟関係を結んでいた 8 。信長の上洛を助けることは、同盟相手を裏切り、敵対することを意味した。信長は7日間にわたって説得を試みたが、六角父子は頑として首を縦に振らなかった 33 。ここに両者の武力衝突は避けられないものとなった。

観音寺城の戦い—戦略の差と内部崩壊

信長の上洛を阻む形で始まった「観音寺城の戦い」は、戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的な展開を辿った。信長軍は、徳川家康や浅井長政らの援軍を加えて総勢5万から6万という大軍であったのに対し、六角軍はかき集めても1万余りに過ぎなかった 12

しかし、勝敗を分けたのは兵力差だけではなかった。信長の卓越した戦略眼が、六角氏の守備計画を根底から覆した。六角方は、信長がまず支城を一つずつ攻略し、最後に本城である観音寺城に迫ってくると予測していた 13 。だが信長は、その巨大な軍事力を生かし、観音寺城の防衛網の要である箕作城と和田山城に、間髪入れずに同時攻撃を仕掛けたのである 8

特に、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らが率いた箕作城攻めは熾烈を極め、夜襲によって城はわずか半日で陥落した 8 。この報が観音寺城の本陣に届くと、六角軍の士気は完全に崩壊した。義治と承禎は、日本五大山城の一つに数えられるほどの堅城である観音寺城で一戦も交えることなく、城を放棄して甲賀方面へと逃亡した 4

このあっけない幕切れの根本原因は、観音寺騒動に遡る。事件によって主君への信頼を完全に失っていた家臣たちは、六角父子のために命を懸けて戦う意志を持っていなかった。観音寺城が陥落する以前から信長は六角家の有力家臣に降伏を勧告しており、主君が逃亡すると、彼らは堰を切ったように織田方へと降伏していった 11 。六角氏が代々行ってきたように、城を一時放棄してゲリラ戦に持ち込むという戦術は、家臣団の固い結束があって初めて成り立つものである 36 。その結束を自ら破壊してしまった義治にとって、この敗北は必然の結果であった。信長は、単に城を落としたのではなく、すでに内部から崩壊していた政治体制を巧みに突いて、それを吸収したのである。

第四章:甲賀での抵抗と戦国大名としての終焉

観音寺城を追われた六角義治・承禎父子は、大名としての拠点を失ったが、即座に歴史の表舞台から消え去ったわけではなかった。彼らは、かつて先祖たちが幕府軍の討伐を受けた際に何度も用いた伝統的な戦略に回帰する。それは、近江南部、甲賀の山中を拠点とした、粘り強いゲリラ戦であった 13

甲賀武士団との共闘

六角氏のこの抵抗を可能にしたのは、甲賀郡に盤踞する「甲賀五十三家」と呼ばれる地侍集団との長年にわたる強固な同盟関係であった 39 。彼らは、後世に「甲賀忍者」として知られることになる、ゲリラ戦術に長けた戦闘集団であり、六角氏にとっては単なる家臣ではなく、運命共同体ともいえる存在だった 39 。父子は甲賀の山中に潜伏し、信長にとって厄介な「背後の脅威」として存在し続けた。

彼らは、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、そして石山本願寺といった、当時の反信長勢力と連携し、広域な「信長包囲網」の一翼を担った 1 。信長が越前に朝倉氏を攻めれば背後を脅かし、畿内で三好勢と戦えばそれに呼応して蜂起するなど、その抵抗は数年間にわたって信長の近江支配を不安定にさせた。

抵抗の終焉

元亀元年(1570年)、浅井・朝倉連合軍と呼応して甲賀で蜂起した六角軍は、織田方の柴田勝家や佐久間信盛の軍勢と野洲河原で激突した。しかしこの戦いで六角方は大敗を喫し、三雲氏など譜代の重臣を多く失うという手痛い打撃を受けた 13

その後も抵抗は続いたが、天正元年(1573年)に武田信玄が病死し、浅井・朝倉両氏が信長によって滅ぼされると、信長包囲網は瓦解。六角氏は強力な後ろ盾を失い、孤立していく。そして天正2年(1574年)、最後の拠点であった石部城が佐久間信盛の軍勢によって攻め落とされると、六角氏による組織的な抵抗は事実上終焉を迎えた 13

この後、義治は甲斐の武田氏を頼ったとも伝わるが 3 、その武田氏も天正10年(1582年)に滅亡。同年、本能寺の変で信長が斃れるという激動の中で、六角義治の、戦国大名としての人生は完全に終わりを告げた。彼らが頼みとした甲賀衆もまた、時代の流れを読み、六角氏を見限って徳川家康などの新たな権力者との関係を模索し始めていた 39 。伝統的なゲリラ戦術と地域的な同盟関係だけでは、天下統一という巨大な地殻変動には抗えなかったのである。

第五章:流浪から再仕官へ—「敗者」の生存戦略

戦国大名としての地位を完全に失った六角義治であったが、彼の人生はそこで終わらなかった。信長の死後、天下統一の事業を引き継いだ豊臣政権下で、義治は意外な形で再び歴史の表舞台に姿を現す。彼の後半生は、戦国乱世における「敗者」がいかにして生き抜いたかを示す、興味深い事例となっている。

文化人としての再起

義治がどのようにして豊臣家に仕えるに至ったか、その正確な経緯は明らかではない。しかし、豊臣秀吉が旧勢力の名家を取り込むことで自らの権威を高めようとした政策の一環であった可能性が高い 1 。特に、秀吉の甥である豊臣秀次が六角氏の旧領である近江八幡の城主となったことが、一つの契機となったと考えられる 17

義治は、武将としてではなく、文化人、特に弓馬の術に長けた指南役として新たなキャリアを歩み始める。史料によれば、彼は豊臣秀次が主催した犬追物(いぬおうもの)という武芸の催しに、弓馬指南役として出席していることが確認されている 14 。また、父・承禎と同じく、秀吉の側近として話し相手や相談役を務める「御伽衆(おとぎしゅう)」の一人にも加えられたとされる 1

そして、彼の後半生で最も著名な役職が、秀吉の死後、その嫡男である豊臣秀頼の「弓矢の師範」を務めたことである 1 。これは単なる名誉職ではなく、豊臣家の後継者の武芸教育を任されるという、極めて高い信頼を必要とする立場であった。父・義賢(承禎)は、日置流弓術の印可を受けた当代随一の名手であり、その技は義治にも確かに受け継がれていた 5 。かつて領国を失う原因を作った若き当主は、数十年の時を経て、自らの武芸の才一つで、天下人の後継者の師という地位を掴み取ったのである。

生存戦略の比較—武から文へ

義治の生存戦略は、同時代に没落した他の戦国大名と比較することで、より鮮明にその特徴が浮かび上がる。

(表3)没落した戦国大名の後半生比較

人物

没落の経緯

没落後の主たる活動

生存戦略

最期

六角義治

織田信長に敗北し、領国を喪失 12

ゲリラ戦の後、豊臣家の弓馬指南役、御伽衆となる 14

武芸・文化的技能

1612年、68歳で病死 1

今川氏真

武田信玄・徳川家康に敗北し、領国を喪失 43

徳川家康の庇護下で、和歌や蹴鞠に長けた一流の文化人として生きる 45

純粋な文化的技能

1615年、77歳で病死 44

斎藤龍興

織田信長に敗北し、美濃を追われる 48

朝倉氏などの客将として、信長への武力抵抗を続ける 49

武力抵抗の継続

1573年、刀根坂の戦いで討死(享年26) 48

この比較から明らかなように、生存の鍵は「適応」にあった。斎藤龍興は、最後まで武将としてのアイデンティティに固執し、戦場で散った 48 。一方で、六角義治と今川氏真は、武力で天下を争う時代の「敗者」となった後、自らの持つ「文化的資本」を新たな価値として提示することに成功した。

特に、出自を重んじる伝統的な価値観と、実力主義という新たな価値観が混在した豊臣政権下では、義治や氏真のような名家の出身者が持つ教養や伝統文化の知識は、新興の支配者層にとって自らの権威を補強するための貴重な資産であった。彼らは、戦場で槍を振るう代わりに、弓の技を教え、和歌を詠み、蹴鞠を披露することで、新たな時代における自らの存在価値を確立した。義治の後半生は、個人の物語であると同時に、戦国乱世が終わり、新たな社会秩序が形成されていく過程で、価値観そのものが大きく転換したことを示す象徴的な出来事だったのである。

終章:六角義治の再評価—没落させた暗君か、乱世を生き抜いた文化人か

六角義治の生涯は、前半と後半で劇的なまでにその様相を異にする。前半生は、名門の家督を継ぎながら、焦りと短慮から家中の結束を破壊し、結果として400年続いた領国をわずか数年で失った「暗君」としての姿が際立つ。観音寺騒動における後藤賢豊の謀殺は、弁解の余地のない致命的な失策であり、戦国大名としての彼の評価を決定的にした。

しかし、彼の物語をそこで終えてしまうのは、一面的に過ぎる。大名としての地位を失った後の後半生において、義治は驚くべき粘り強さと適応能力を発揮した。彼は、斎藤龍興のように滅びの道を選ぶのではなく、今川氏真のように、自らが持つ武芸という文化的技能を新たな時代の通貨として活用し、見事に生き抜いた。豊臣秀頼の弓術師範という地位は、彼が単に生き長らえただけでなく、新たな支配者層から一定の敬意と信頼を勝ち得ていたことを示している。

この二つの側面をどう評価すべきか。戦国大名としては、彼は紛れもなく「敗者」であり「失敗者」であった。領国と家臣を守り、家を繁栄させるという大名本来の責務を果たせなかった事実は動かない。しかし、一個の人間として、激動の時代を生きるサバイバーとして見れば、その評価は一変する。彼は、自らの過ちによって全てを失った後、絶望に屈することなく、新たな環境に適応し、次世代に自らの血と技を繋いだ。事実、義治の系統は婿養子を通じて加賀前田藩士として存続し、弟・義定の系統も一時的に江戸幕府の旗本となっている 17 。彼が滅ぼしたはずの六角氏は、彼自身の後半生の努力によって、その血脈を明治の世まで伝えたのである。

ここに、六角義治という人物の興味深い逆説がある。大名として領国を運営するために必要な、政治的調整能力や人心掌握術、大局観といった資質を、彼は欠いていた。むしろ彼の関心は、弓術といった個人的な技能の練磨に向いていたのかもしれない。その専門家的な気質は、領主としては致命的な欠点となった。しかし、天下が統一され、武力よりも権威や文化が重視される時代が到来すると、その専門技能こそが、彼を救う命綱となった。

六角義治の生涯は、中世的な権威が実力によって覆された戦国乱世と、新たな秩序の下で文化的な価値が再評価された近世の到来という、二つの時代の狭間に生きた人間の、失敗と再生の物語である。彼は名門を没落させた暗君であったと同時に、自らの技で乱世を生き抜き、家の血脈を未来に繋いだ、稀有な文化人でもあった。その複雑で多面的な姿こそが、六角義治という武将の真の姿と言えるだろう。

引用文献

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  2. 六角義治(ろっかく よしはる)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E6%B2%BB-1121293
  3. 六角義治とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E6%B2%BB
  4. 六角義賢は何をした人?「なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikata-rokkaku
  5. 「六角義賢(承禎)」信長に最後まで抵抗し続けた男! 宇多源氏の当主 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/308
  6. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A8%92%E5%8B%95#:~:text=%E9%A8%92%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B,%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%80%A7%E3%81%8C%E9%AB%98%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  7. 観音寺騒動 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/key/kannonjisoudou.html
  8. 【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568、滋賀県近江八幡 ... https://sengoku-his.com/384
  9. 六角氏式目(ロッカクシシキモク)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE-153001
  10. 六角氏式目とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE
  11. 騒動の原因と影響とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%A8%92%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%A8%E5%BD%B1%E9%9F%BF
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  42. 豊臣秀次 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/guide/detail/134/
  43. 義元の嫡男・今川氏真が辿った生涯|今川家を滅亡させた愚将か? 戦国時代を生き残った勝ち組か?【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1107063
  44. 「今川氏真」今川滅亡の憂き目にあう義元の後継者。実は戦国大名の超サラブレッドだった!? https://sengoku-his.com/595
  45. 今川氏真は何をした人?「放り投げられた蹴鞠のように浮遊しながら生き抜いた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/ujizane-imagawa
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