最終更新日 2025-07-20

六郷政乗

六郷政乗は出羽の国人領主。小田原征伐で豊臣秀吉に直参し、関ヶ原では東軍として旧主を攻め、常陸府中藩主となる。後に故郷出羽本荘へ移封され、本荘藩初代藩主として唯一近世大名として生き残った。

出羽の驍将 六郷政乗 ―戦国の動乱を生き抜き、近世大名への道を切り拓いた生涯―

序章:激動の時代を生きた出羽の驍将、六郷政乗

戦国乱世から徳川の治世へ。日本の歴史が最も劇的に転換したこの時代、数多の武将が勃興と滅亡を繰り返した。その中で、出羽国(現在の秋田県・山形県)の小規模な国人領主から身を起こし、巧みな戦略と時勢を見抜く洞察力で激動の時代を乗り越え、ついには近世大名として故郷の地に藩を確立した人物がいる。それが六郷兵庫頭政乗(ろくごうひょうごのかみまさのり)である。

彼の生涯は、単なる一武将の立身出世物語ではない。それは、戦国時代における「国人」という階層が、いかにして中央の巨大な権力構造と渡り合い、近世の「大名」へと自己を変革させていったかを示す、稀有な成功例である 1 。政乗の物語を貫くのは、三つの主題である。第一に、大国の狭間で家名を保つための絶妙な「生存戦略」。第二に、天下の趨勢を的確に読み、大胆な決断を下す「時勢への洞察力」。そして第三に、藩の礎を築き、後世に繁栄を繋いだ「藩祖としての行政能力」である。

多くの同時代の国人領主たちが、旧来の主従関係や地域のしがらみに囚われ、歴史の波に呑まれていった。しかし政乗は、旧主を乗り越えて天下人・豊臣秀吉に直属し、関ヶ原の戦いでは迷わず徳川家康に与することで、自らの運命を切り拓いた。その結果、戦国時代に秋田で活動した武将の中で、唯一大名としてその地に残るという快挙を成し遂げたのである 1 。本報告書は、この六郷政乗の生涯を、その出自から、戦国の動乱を生き抜く過程、そして近世大名として藩の礎を築くに至るまで、あらゆる角度から徹底的に掘り下げ、彼の決断の一つ一つが、彼自身と一族の運命をいかに形作っていったかを解き明かすものである。

六郷政乗 年譜

年号

西暦

年齢

主な出来事

永禄10年

1567年

1歳

出羽国仙北郡六郷にて誕生 3

天正16年

1588年

22歳

主家である小野寺義道に属し、秋田実季と戦う 4

天正18年

1590年

24歳

豊臣秀吉の小田原征伐に参陣。秀吉から直接、本領を安堵される 5

天正20年

1592年

26歳

文禄の役で肥前国名護屋城に在陣する 4

慶長5年

1600年

34歳

関ヶ原の戦いで東軍に属し、西軍に与した旧主・小野寺義道を攻める 4

慶長7年

1602年

36歳

戦功により常陸国府中に一万石で移封。常陸府中藩の初代藩主となる 2

慶長19年

1614年

48歳

大坂冬の陣に徳川方として参陣する 4

元和元年

1615年

49歳

大坂夏の陣に参陣する 4

元和9年

1623年

57歳

出羽国本荘へ二万石で加増移封。本荘藩の初代藩主となる 2

寛永11年

1634年

68歳

本荘にて死去 3

第一章:六郷氏の出自と戦国出羽の情勢

六郷政乗の類稀なる政治感覚を理解するためには、まず彼が背負っていた一族の歴史と、彼が生まれ育った戦国出羽の複雑な環境を把握する必要がある。

1-1. 一族の起源とアイデンティティ

六郷氏の出自は、藤原南家を祖とする名門、二階堂氏に遡る 7 。『諏訪神社縁起』によれば、鎌倉時代の御家人であった二階堂氏の一族が、地頭として出羽国仙北郡に入部したのが始まりとされる 9 。その後、室町時代中期に至り、この地の地名である「六郷」を姓として名乗るようになった 4 。本姓は藤原朝臣であり、二階堂氏という鎌倉幕府以来の権威ある家系に連なるという自負は、戦国時代の過酷な生存競争を戦い抜く上で、一族の精神的な支柱となっていたと考えられる。

このアイデンティティは、単なる過去の栄光への固執ではなかった。それは、六郷氏が自らを単なる一地方の土豪ではなく、中央の政治秩序に連なるべき存在と位置づける根拠となった。後の政乗が、地方の主従関係という枠組みを躊躇なく飛び越え、豊臣、徳川という中央の最高権力者に直接結びつこうとする大胆な行動の背景には、この「中央の名門の末裔」という意識が深く根ざしていた。それは、地方の独立勢力としての現実的な自立性と、名門としてのプライドが融合した、六郷氏特有の二重構造のアイデンティティであり、政乗の政治行動の原動力となったのである。

1-2. 父・六郷道行の時代と基盤形成

政乗の飛躍の土台を築いたのは、父である六郷道行(みちゆき)であった 4 。道行は、永禄2年(1559年)、稲荷岡の東に六郷城を築き、一族の拠点とした 9 。この城は、南に大曲街道、東に坪楯街道が通る交通の要衝に位置し 7 、六郷氏の勢力基盤を確立する上で決定的な役割を果たした。

道行の功績は、単なる軍事拠点の構築に留まらない。彼は城下町の整備にも並々ならぬ手腕を発揮した。天正年間以前から町割りを進め、室町、蔵町、立町、大町といった商業区画を整備し、商業地としての六郷の基礎を築いたのである 11 。さらに、河隈川や大保の船場支配権を確保し、水運という経済的生命線をも掌握していた 11 。この父の代に築かれた軍事的・経済的な基盤がなければ、後の政乗の活躍はあり得なかったであろう。

また、伊達政宗の側室として知られる新造の方(猫御前)が、一説には道行の娘であったとも伝えられており 11 、当時の地方豪族が婚姻を通じて、いかに周辺勢力との関係構築を図っていたかをうかがわせる。道行によるこれらの基盤形成は、六郷氏が周辺の大勢力からの自立性を高めるための具体的な戦略であり、小野寺氏の配下という立場にありながらも、実質的には半独立のパートナーとしての地位を確保する布石であった。

1-3. 戦国出羽の政治地図

政乗が歴史の表舞台に登場した16世紀後半の出羽国、特に仙北地方は、複数の勢力が複雑に入り乱れる、まさに群雄割拠の地であった。北には湊城を拠点とする安東(後の秋田)氏、南には山形を本拠とする最上氏という二大勢力が覇を競い、その間にあって横手城の小野寺氏が広大な影響力を持っていた 14 。さらに、近隣には角館の戸沢氏なども控え、各勢力は常に緊張関係にあった 7

このような状況下で、六郷氏は「六郷衆」と呼ばれる独自の勢力を形成する小規模な国人領主であった 7 。彼らは、小野寺氏の勢力圏に属しながらも、完全な従属関係ではなく、自立性を保ちながら生き残りを図っていた。この、常に周囲の大国の顔色を窺い、時には従い、時には反抗するという絶え間ない緊張状態こそが、政乗の鋭い政治感覚と、状況に応じて最適な選択を下す能力を育んだ土壌であったと言える。

第二章:小野寺氏配下から天下人の直臣へ

青年期の六郷政乗は、まず出羽の地方秩序の中でキャリアを開始する。しかし、彼の視野は常に中央の動向に向けられていた。やがて訪れる天下統一の波は、彼にとって自らの運命を劇的に変える好機となる。

2-1. 仙北七人衆としての日々

政乗は、そのキャリアの初期段階において、出羽の有力大名であった小野寺義道の配下、「仙北七人衆」の一人として数えられていた 6 。これは、六郷氏が小野寺氏の軍事同盟に組み込まれていたことを示す。天正16年(1588年)、当時22歳の政乗は、小野寺方として安東(秋田)実季との合戦に参加しており、若くして実戦経験を積んでいたことが記録されている 4

この時期、六郷氏と小野寺氏の関係は単なる主従ではなかった。小野寺義道の父・景道は、自らの後継者である嫡男・光道の正室に六郷氏の娘を迎えており 14 、両家は婚姻によって結ばれた極めて密接な関係にあった。この事実は、後に政乗が小野寺氏から離反する決断の重さと、その背景にある冷徹な戦略性を一層際立たせることになる。

2-2. 自立への転換点:小田原征伐

天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして豊臣秀吉が発令した小田原征伐は、政乗にとって、そして多くの地方領主にとって運命の分水嶺であった。秀吉は、この征伐に参陣した大名の所領は安堵するが、参陣しない者は改易するという明確な方針(惣無事令)を打ち出していた。

この時、政乗は極めて大胆かつ戦略的な決断を下す。主家である小野寺氏の動向を待つことなく、独自に小田原へと馳せ参じたのである 5 。これは、地方の主従関係よりも、中央の最高権力者が定めた新しい時代の秩序を優先するという、明確な意思表示であった。この行動は大きなリスクを伴った。もし秀吉の天下が盤石でなければ、主家への裏切り者として攻め滅ぼされる危険性すらあった。しかし、政乗は秀吉の権力が絶対的なものであることを見抜き、リスクを取って行動した。

その結果は、彼の狙い通りであった。秀吉は政乗の参陣を認め、天正19年(1591年)1月17日付で、仙北中郡のうち約五千石(資料により4,518石とも 11 )の所領を安堵する朱印状を直接下した 5 。これは、小野寺氏という中間領主を介さない、豊臣政権直属の大名としての地位が公的に認められた瞬間であった。彼はこの「主家の飛び越え」戦略によって、小野寺氏の「家臣」から、小野寺氏と「同格」の豊臣大名へと、一気にその地位を向上させることに成功したのである。

2-3. 豊臣政権下での役割

豊臣大名の一員となった政乗は、天下人の臣下としての義務を忠実に果たした。天正20年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)では、他の多くの大名と同様に動員され、肥前国名護屋城まで出兵し、在陣している 4 。実際の朝鮮への渡海はなかったものの 5 、この軍役は豊臣政権への忠誠を示す重要な義務であった。

また、軍役だけでなく、伏見城建設のための用材として杉板を4年間にわたり供出するなど、普請役も担っている 5 。これらの負担は、彼が豊臣政権の統治システムに組み込まれ、その一員として機能していたことを示している。この時期を通じて、政乗は中央政権との関係を深め、来るべき次の時代の変化に備えていたのである。

第三章:関ヶ原の戦いと運命の決断

秀吉の死後、天下は再び動乱の時代へと逆戻りする。徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍との対立が先鋭化し、全国の大名は二者択一の厳しい選択を迫られた。この「天下分け目」の戦いにおいて、政乗は再び彼のキャリアを決定づける重大な決断を下す。

3-1. 天下分け目の岐路

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、出羽国もまた東西両軍の対立の舞台となった。政乗にとって状況は複雑であった。かつての主家であった横手の小野寺義道は、石田三成方、すなわち西軍に与することを明確にした 4 。一方で、隣接する出羽の大大名・最上義光は、家康と姻戚関係にあり、東軍の東北における拠点として中心的な役割を担っていた。六郷氏は、西軍の旧主と東軍の大勢力に挟まれる形で、その去就を決めなければならなかった。

3-2. 東軍参加と「出羽合戦」

この岐路に立ち、政乗の判断に迷いはなかった。彼は即座に東軍に属し、徳川家康方として行動を開始する 2 。これは、秀吉死後の政局を冷静に分析し、家康の勝利が最も確実であると判断した上での、極めて合理的な選択であった。

彼の忠誠は、単なる表明に留まらなかった。関ヶ原の本戦と同時期に東北で繰り広げられた「出羽合戦」において、政乗は最上義光の指揮下に入り、西軍に与した旧主・小野寺義道軍を激しく攻めたてたのである 4 。これは、個人的な恩讐を超え、新しい時代の覇者である家康に対して「私はあなた様のために、かつての主家とさえ戦う覚悟がある」という、最も強力な忠誠のメッセージを送るための、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。この「目に見える功績」こそが、他の多くの東軍参加大名との差別化を図り、戦後の論功行賞で大きな報酬を得るための戦略的な布石であった。

この決断は、戦国時代的な「恩」や「義理」といった旧来の価値観から、近世的な「功」と「禄」という、より実利的な価値観への移行を政乗自身が体現していることを示している。彼は古いしがらみを冷徹に断ち切り、新しい時代の論理にいち早く適応することで、自らの家を大名として存続させる道を選んだ。それは、彼が単なる武人ではなく、時代の転換点を的確に読み解くことのできる、卓越した政治家であったことの証左に他ならない。

3-3. 論功行賞と近世大名への飛躍

関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わり、家康は天下の支配者としての地位を確立した。戦後、家康は東軍に参加した諸将の功績を査定し、大規模な領地の再編を行った。

政乗の「出羽合戦」における功績は、家康に高く評価された。慶長7年(1602年)、彼はそれまでの出羽六郷4,500石(あるいは約5,000石)の所領から、常陸国府中(現在の茨城県石岡市)において一万石へと、倍増以上の加増移封を命じられた 2 。この一万石という石高は、当時の制度上、国人領主から「大名」へと身分が変わる画期的なものであった。六郷政乗は、この論功行賞によって、名実ともに近世大名の一員へと飛躍を遂げたのである 4

第四章:常陸府中藩主、そして大坂の陣へ

故郷の出羽を離れ、常陸国府中の新たな領主となった政乗。ここでの約21年間は、彼が地方の国人領主から、徳川幕府の統治システムを担う近世大名へと、その本質を変貌させるための重要な期間であった。

4-1. 初代府中藩主としての統治

慶長7年(1602年)、政乗は常陸国府中(現在の石岡市)に入封し、常陸府中藩一万石を立藩、その初代藩主となった 3 。この移封は、徳川家康による巧みな大名配置戦略の一環であった。出羽という旧来の地盤から引き離し、徳川御三家の一つである水戸藩に近い関東の地に置くことで、政乗を完全に徳川の監視・影響下に組み込む狙いがあった。

この新しい土地で、政乗は藩政の基礎を築くという課題に直面する。この期間の具体的な藩政に関する詳細な記録は乏しいが、彼がこの地で約21年間にわたり統治を行ったという事実は 5 、彼が大名としての統治実務を着実にこなし、幕藩体制下での領国経営の経験を積んだことを示している。この常陸府中での期間は、彼にとって単なる「仮住まい」ではなく、幕府の秩序を学び、それに適応するための、決定的に重要な「修練期間」であった。

4-2. 徳川への忠誠の証:大坂の陣

徳川の世が盤石になりつつある中で、豊臣家の存在は依然として天下の火種であった。慶長19年(1614年)の冬の陣、そして元和元年(1615年)の夏の陣と、徳川家が豊臣家を滅亡させるための最終戦争である大坂の陣が勃発すると、政乗もまた徳川方の大名として両陣に参加した 4

彼の部隊が具体的にどのような戦闘で活躍したかを記した詳細な資料は少ないものの 4 、参陣した大名の一覧にはその名が確かに記されている 19 。この参陣は、関ヶ原以降も徳川家への忠誠が全く揺るぎないものであることを、改めて天下に示すための重要な軍役であった。この時、彼のアイデンティティはもはや「出羽の六郷氏当主」ではなく、徳川の天下を支える「幕府の一員」へと完全に転換していた。常陸府中での経験を経て、彼は幕藩体制を構成する歯車として、その役割を忠実に果たしたのである。この揺るぎない忠誠が、後のさらなる飛躍へと繋がっていく。

第五章:故郷への帰還と本荘藩の創設

大坂の陣を経て徳川の天下が盤石となった後、幕府は全国の統治体制の再編に着手する。その一環として、政乗の運命は再び大きく動き、彼は予期せぬ形で故郷の地へ帰還することになる。

5-1. 出羽への凱旋

元和8年(1622年)、出羽の大藩であった山形藩主・最上氏が、お家騒動を理由に幕府から改易を命じられるという大事件が起こった 1 。これにより生じた広大な旧最上領を管理するため、幕府は大規模な領地の再編を行った。

この政治的変動の中で、六郷政乗に白羽の矢が立った。大坂の陣での功績も加味され、元和9年(1623年)、彼は一万石の加増を受け、合計二万石で故郷の出羽国、由利郡本荘への移封を命じられたのである 2 。これは、常陸府中に移ってから約21年ぶりの故郷地方への帰還であった 5 。この本荘への入部に際しては、宇都宮城主から失脚させられた本多正純が一時的に由利に減転封され、その改易後に六郷氏、岩城氏、打越氏といった複数の大名が新たに入部するという複雑な経緯があった 1

この帰還は、単なる「故郷への凱旋」ではなかった。それは、徳川幕府による「東北地方安定化政策」の一環として、幕府の意向を体現する代理人として送り込まれたという側面が強い。幕府が政乗を選んだ理由は明確であった。第一に、彼は出羽出身であり、土地の事情に明るい。第二に、約20年間関東で統治を行い、徳川の秩序を完全に身につけているため、地方の旧来のしがらみに囚われず、幕府の方針に忠実に統治を行うことが期待できる。彼がこの地に戻ったのは、一地方領主としてではなく、幕府の地方統治機構の一翼を担うために他ならなかった。

5-2. 本荘藩の藩祖として

政乗が本荘に入部した時、彼を待ち受けていたのは困難な状況であった。本荘の拠点であった本城城は、最上氏の改易後、幕府の命令によって一度取り壊されていたのである 1 。彼は、まさにゼロからの藩庁建設を余儀なくされた。

政乗は、この破却された城を修復・再建し、新たな本荘城を築いた 1 。その際、彼は単に旧状を復するのではなく、城郭の規模を自らの石高である「二万石にふさわしい」形に縮小して再編した 1 。この事実は、彼が幕府から与えられた自らの格付け(石高)を正確に理解し、その分をわきまえた統治者として振る舞ったことを象徴している。こうして彼は、本荘藩の初代藩主として、その後明治維新まで11代にわたって続く六郷家による統治の揺るぎない礎を築いたのである 1

5-3. 戦国秋田武将の「唯一の生き残り」

ここで改めて特筆すべきは、六郷政乗が成し遂げたことの歴史的な特異性である。戦国時代、秋田(出羽北部)の地では、小野寺氏、安東(秋田)氏、戸沢氏など、六郷氏よりもはるかに大きな勢力を誇る武将たちが覇を競っていた。しかし、彼らの多くは改易や転封によってその地を去り、結果的に、近世大名として秋田の地に藩を残すことができたのは、六郷氏ただ一族のみであった 1 。この事実は、政乗の政治的判断がいかに的確で、時代の変化に対応する能力が突出していたかを何よりも雄弁に物語っている。

第六章:晩年と後世への遺産

本荘藩の初代藩主として藩政の基盤を固めた政乗は、その晩年を比較的穏やかに過ごした。彼が後世に残したものは、単なる領地や城ではなく、一族を永続させるための、より本質的な遺産であった。

6-1. 安寧の中の終焉

藩祖としての役割を果たした政乗は、寛永11年(1634年)4月28日、本荘の地でその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年68 3 。その亡骸は、由利本荘市給人町にある曹洞宗の永泉寺に葬られた 4 。戦国の動乱を駆け抜け、大名の座を勝ち取り、最後は自らが築いた藩の地で安らかに没したその生涯は、一人の武将として見事な大往生であったと言えよう。

6-2. 一族の繁栄

政乗の死後、家督は長男の六郷政勝が滞りなく継承した 6 。政勝は、父が築いた基礎の上に、弟の政徳、政直、政秀らと協力して藩政の安定に努めた 20 。さらに、政乗の三男・政直や四男・政秀の子孫は、それぞれ200俵、600石の旗本として幕府に仕え、別家を立てることに成功している 13 。これにより、六郷一族は本荘藩主家だけでなく、幕臣としてもその血脈を広げ、徳川体制下での安泰をより確かなものにした。

政乗が築いた本荘藩六郷家は、その後も着実に代を重ね、11代、約250年にわたって存続し、明治維新を迎える 1 。明治時代に入ると、その子孫である六郷政鑑は華族令によって子爵に列せられ 8 、政乗が一代で築き上げた大名家としての地位は、近代に至るまで受け継がれた。この事実は、彼が築いた基盤がいかに強固なものであったかを証明している。

6-3. 歴史的評価の総括

六郷政乗の生涯を振り返るとき、我々は彼を単なる武勇に優れた武将としてではなく、時代の流れを的確に読み、家名の存続と発展という至上命題のために、時に非情とも思えるほどの合理的な判断を下し続けた、卓越した政治家・戦略家として評価すべきである。

彼の最大の遺産は、石高や城といった物理的なものではなかった。それは、「幕藩体制下で大名家として存続するための行動規範」そのものを、自らの生涯をもって子孫に示したことであった。すなわち、第一に、中央の最高権力(幕府)の意向を絶対視すること。第二に、自らの石高、すなわち「分」をわきまえ、決して出過ぎた行動をとらないこと。第三に、旧来の地域のしがらみよりも、幕府の一員としての役割を優先すること。これらの原則は、彼のキャリアにおける全ての重要な決断――小田原参陣、関ヶ原での旧主との戦い、そして本荘城の規模をわきまえた再建――に一貫して流れている。

後継者たちは、この初代藩主の生き様そのものを「家訓」として受け継いだ。それにより、江戸時代の長きにわたる平和な、しかし常に改易の危険と隣り合わせの時代を、安定して乗り切ることができたのである。六郷政乗が戦国秋田武将の中で「唯一の生き残り」となった究極の理由は、この近世を生き抜くための処世術を誰よりも早く、そして完璧に体得し、それを無形の遺産として次世代に継承することに成功したからに他ならない。彼の生涯は、地方の小領主が、自らの才覚と決断力によっていかにして激動の時代を乗り越え、近世大名としての地位を確立し得たかを示す、貴重かつ輝かしい歴史的実例として、後世に語り継がれるべきものである。

引用文献

  1. 本荘城のあらまし「本荘の歴史」|由利本荘市公式ウェブサイト https://www.city.yurihonjo.lg.jp/1001503/1002098/1002120/1003701.html
  2. 本荘藩 と松尾 芭蕉 https://akitakenjinkai.jp/news/%E3%81%82%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%B3vol12%EF%BD%9C%E2%97%90%E6%9C%AC%E8%8D%98%E8%97%A9%E3%81%A8%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89%E3%80%80%E6%97%85%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%99/
  3. 六郷政乗(ろくごう まさのり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%94%BF%E4%B9%97-1121220
  4. 六郷政乗の紹介 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/daimyo/b-rokugou.html
  5. 六郷氏・岩城氏・打越氏、由利本荘市入部400年 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/987/400_rekishi_1027.pdf
  6. 本荘藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%8D%98%E8%97%A9
  7. 出羽 六郷城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/rokugo-jyo/
  8. 六郷氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%B0%8F
  9. 六郷城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/akita/rokugou/rokugou.html
  10. 六郷城(秋田県仙北郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/782
  11. 六郷道行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%B7%E9%81%93%E8%A1%8C
  12. 羽後六郷城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/rokugou.htm
  13. 六郷政乗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%94%BF%E4%B9%97
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  15. 六郷政乗(ロクゴウマサノリ)|戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&word=&initial=&gyo_no=&dictionary_no=3012
  16. 本荘藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_honjyo.html
  17. F031 六郷道行 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/f031.html
  18. 石岡市 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B2%A1%E5%B8%82
  19. 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
  20. 六郷政勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%94%BF%E5%8B%9D