徳川家康による天下統一事業は、数多の武将たちの活躍によって成し遂げられた。その中でも、内藤信成(ないとうのぶなり)は、単なる譜代の重臣という枠を超え、家康の「身内」とも言うべき特別な立場でその治世の礎を支えた人物である。彼の生涯を語る上で常に付きまとうのが、「家康の異母弟」という説である 1 。この説の真偽そのものを超えて、それが象徴する家康との強固な信頼関係こそ、信成の生涯と徳川家における特異な地位を読み解く鍵となる。
本報告書は、信成の謎に満ちた出自から、戦塵に明け暮れた武将としての功績、家康の天下取りを支えた譜代大名としての道、そして越後村上藩の藩祖として後世に残した遺産に至るまで、その生涯を多角的に検証する。これにより、徳川泰平の世を築いた一人の武将の、これまで十分に語られてこなかった実像に迫ることを目的とする。
内藤信成は、天文14年(1545年)5月5日に生まれたとされる 1 。父は徳川家康の実父である松平広忠、母は広忠の家臣であった内藤清長の娘と伝えられている 1 。『藩翰譜』などの記録によれば、その誕生の経緯は複雑であった。母は広忠の寵愛を受けて信成を身籠ったが、その後、別の武士である嶋田景信に嫁ぎ、その嫁入りからわずか3ヶ月後に信成を出産したという 3 。この事情を知った母方の祖父、内藤清長が信成を引き取り、自らの養子として育て上げたとされる 3 。
信成の人生が大きく転換するのは、弘治3年(1557年)のことである。13歳にして、当時松平元信と名乗っていた後の徳川家康と初めて公式に対面した。この時、家康から「信」の一字(偏諱)を与えられて「信成」と名乗り、以降、家康の側近として仕えることとなった 3 。これが、彼の徳川家臣としての輝かしいキャリアの公式な始まりであった。
信成の出自には、二つの側面が存在する。一つは内藤家の家伝や巷説として語られる「家康の弟」としての顔であり、もう一つは幕府の公式記録に記された「藤原氏の武将」としての顔である。
内藤家の家伝や後世の様々な記録においては、信成が家康の異母弟であることは半ば公然の事実として扱われている 4 。しかしその一方で、江戸幕府が公式に編纂した『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』といった系譜集では、この説は採用されていない 5 。これらの公式記録では、信成は他の内藤一門と同様に、藤原秀郷の流れを汲む名門「藤原氏」の出身として扱われている 5 。当初、幕府の記録では内藤清長の実子・家長の養子とされていたが、年上の信成を年下の家長が養子にすることは不自然であるため、後に清長の養子へと訂正されるなど、その記述には若干の揺れも見られる 1 。
この公式記録と家伝の間に見られる乖離は、徳川幕藩体制における特有の事情を反映しているものと考えられる。すなわち、徳川将軍家は、その血筋の権威性と純粋性を保つため、公式な系図上では庶子の存在、特に他家へ養子に出た者の存在を明記することを避けた可能性が高い。これは、幕府の秩序を維持するための「建前」であったと言える。一方で、家康が信成に示す並々ならぬ信頼と破格の厚遇は、周囲の者たちに「やはり御弟だからだ」と納得させるに十分なものであった。この「内々の事実」こそが、信成の特別な地位を保証し、家伝として大切に語り継がれていったのである。信成の生涯は、この公式な立場と非公式な出自との間で、その両方の恩恵を受けながら特別な地位を保ち続けた、極めて稀有な事例であった。
家康の側近となった信成は、すぐさま武将としての頭角を現していく。永禄元年(1558年)、信成は14歳にして初陣を飾る。三河国の広瀬城主・三宅氏が家康に反旗を翻した際、養父・内藤清長を将とする討伐軍に従軍し、奮戦して敵の降伏に貢献した。この時の武功は諸将から大いに賞賛されたという 1 。
彼の武名が一躍高まったのは、永禄5年(1562年)から翌年にかけて発生した三河一向一揆での働きである。この一揆は、多くの家臣が家康に背くという徳川家にとって最大の試練であったが、信成は一貫して家康の側に付き従った。特に上野城攻めでは、城から討って出てきた坂部と名乗る勇猛な武士を、家康の眼前で見事に討ち取るという抜群の功績を上げた 1 。この比類なき働きにより、信成は初めての知行地として三河国中島に600石を与えられた 3 。これは、彼の働きが正当に評価され、独立した武将としての確かな第一歩を記した瞬間であった。
元亀3年(1572年)、武田信玄が遠江国へ侵攻し、徳川家は存亡の危機に立たされる。この三方ヶ原の戦いにおいて、信成の真価が発揮されることとなる。家康は、徳川四天王の一人である本多忠勝と並び、信成を最前線の物見(偵察)という重役に抜擢した 1 。これは、彼の冷静な状況判断能力と武勇が、家臣団の中でも最高水準にあると家康が認めていたことの証左である。
先行した偵察隊は武田軍の先鋒と遭遇し、一言坂で戦闘が始まる 7 。圧倒的な兵力差の前に徳川軍は総崩れとなり、家康は浜松城への撤退を決断する。この絶体絶命の状況で、信成は本多忠勝らと共に、最も危険な殿(しんがり)を務め、家康本隊の撤退を助けた 3 。『寛政重修諸家譜』などの記録によれば、味方が大敗し誰もが防戦を躊躇する中、信成は自ら進み出て「某、相残るべし(私が残りましょう)」と申し出たとされる 6 。この決死の防戦は、彼の忠義と自己犠牲の精神を象徴する逸話として語り継がれている。
この時の鬼気迫る活躍は、後に講談『三方ヶ原軍記』の中で「内藤の物見」という有名な一席となり、民衆に広く知られることとなった 1 。史実における偵察任務と殿での奮戦が、英雄譚として昇華された事実は、彼の武勇がいかに人々の心に強い印象を残したかを物語っている。
信成の戦歴を俯瞰すると、華々しい一番槍の功名よりも、こうした危機的状況で軍全体を「守る」役割を担うことが多い。三方ヶ原での殿における成功体験は、家康に「信成は守りにこそ真価を発揮する」という絶対的な信頼を植え付けたと考えられる。後の小牧・長久手の戦いにおける清州城守備 3 や、関ヶ原の戦いにおける三枚橋城守備 6 といった重要な任務は、この三方ヶ原での実績と評価が原点となっている。信成の真骨頂は、攻撃的な「矛」としてではなく、主君の生命線と軍の根幹を支える強固な「盾」としての役割にあった。この比類なき信頼性こそが、家康にとって何物にも代えがたい価値を持っていたのである。
三方ヶ原の危機を乗り越えた後も、信成は家康の天下取りへの道を支え続けた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、家康軍の先手侍大将を務めた。この時、「金の軍配団扇に黒い七星」という華やかな背物(旗指物)を掲げて奮戦し、その武功は同盟者である織田信長からも直接賞賛されたという 1 。信長のたっての願いにより、その面前で面頬を外して顔を見せたという逸話は、彼の武名が敵味方を問わず広く轟いていたことを示している 3 。
その後も、高天神城の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどに従軍し、着実に功績を重ねた 3 。そして、天下統一の総仕上げとなる天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加した 3 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが迫ると、信成は東海道の要衝である駿河国の三枚橋城の守備を命じられた 6 。この時、信成は本戦への従軍を強く願ったが、家康はそれを許さなかった。家康は信成を諭し、「子(汝)をしてこの城を守らせたのは特別な理由がある。行って関ヶ原で戦うことも、留まって城を死守することも功は一つである」と述べたとされる 3 。この言葉は、家康の戦略眼の深さを示している。家康にとって、万が一にも江戸や東国の本拠地への連絡路である東海道を脅かされることは絶対に避けねばならず、その最重要拠点の守りを最も信頼できる将に託したのである。これは信成が単なる一武将ではなく、家康の描く広範な戦略的意図を深く理解し、忠実に実行できる不可欠な存在であったことの、何よりの証明であった。
数々の戦功を重ねた信成は、徳川家中で不動の地位を築き、大名への道を歩み始める。天正18年(1590年)、家康が関東へ移封されると、信成は伊豆国韮山に1万石を与えられ、韮山城主として初めて大名の列に加わった 4 。韮山は旧北条氏の重要拠点であり、徳川領国の西の玄関口を守る戦略上の要地であった。
関ヶ原の戦いでの勝利の後、慶長6年(1601年)、信成は4万石に加増され、駿府城主へと抜擢された 3 。この人事は、単なる論功行賞以上の特別な意味を持っていた。駿府は、家康が人質として幼少期を過ごし、後に武田氏から奪還した因縁の地であり、徳川家にとって戦略的にも感情的にも極めて重要な拠点であった 9 。家康がこの時点で、将来自身が将軍職を退いた後の隠居地として駿府を念頭に置いていたことは想像に難くない。その重要な城を、自分が大御所として入城するまでの間、最も信頼する「弟」に預けたのである。信成の駿府城主就任は、家康の政権構想、特に大御所政治の実現に向けた準備段階における、信成への最大限の信頼と期待が込められた人事であったと言えよう。
慶長11年(1606年)、家康が将軍職を徳川秀忠に譲り、大御所として駿府城へ入ることが正式に決まった 10 。これに伴い、信成は駿府城を家康に明け渡し、采地を改められて近江国長浜4万石へと移封された 3 。
この長浜への配置もまた、家康の深謀遠慮の表れであった。当時、大坂城には豊臣秀頼が依然として大きな影響力を保持しており、近江国は徳川が支配する東国と、豊臣恩顧の大名が多い西国とが直接接する最前線であった 1 。その地へ、駿府という重要拠点を任せていた信成を配置したことは、対豊臣政策における極めて重要な布石であった。
信成の領主としての具体的な治績、例えば善政や領国経営に関する詳細な記録は多く残されていない 2 。彼の役割は、民政家として領地を豊かにすることよりも、家康の意を体現し、軍事・戦略上の拠点を確実に管理する司令官としての側面が強かったと推察される。
慶長17年(1612年)7月24日、信成は居城であった長浜城において、68年の生涯を閉じた 1 。その法名は「法善院殿陽竹宗賢大居士」と贈られた 1 。
信成の死後、彼が築いた功績は子孫へと受け継がれ、内藤家は有力な譜代大名として幕末まで続くことになる。家督は長男の内藤信正が継ぎ、近江長浜藩の2代藩主となった 1 。信正は後に摂津高槻藩へ移り、伏見城代を経て初代大坂城代という幕府の要職を務めるなど、父に劣らぬ活躍を見せた 5 。
信成を始祖とする内藤家は、その後も移封を重ね、陸奥棚倉藩、駿河田中藩などを経て、享保5年(1720年)に越後村上藩に5万90石で入封した 4 。以降、内藤家は明治維新に至るまで同地を治め、繁栄を続けた。信成一代の功績が、彼の子孫を幕末まで続く大名家として存続させる確固たる礎となったのである。
代 |
藩主名 |
期間(西暦) |
藩(居城) |
石高 |
備考 |
初代 |
内藤信成 |
1606-1612 |
近江長浜藩(長浜城) |
4万石 |
家康の駿府入城に伴い移封 3 |
2代 |
内藤信正 |
1615-1617 |
摂津高槻藩(高槻城) |
4万石 |
大坂の陣後、長浜から移封 5 |
2代 |
内藤信正 |
1617-1626 |
(伏見城代) |
5万石 |
伏見城代就任に伴い1万石加増 11 |
3代 |
内藤信照 |
1627-1665 |
陸奥棚倉藩(棚倉城) |
5万石 |
5 |
5代 |
内藤弌信 |
1705-1720 |
駿河田中藩(田中城) |
5万石 |
4 |
5代 |
内藤弌信 |
1720-1725 |
越後村上藩 (村上城) |
5万90石 |
以後、幕末まで定着 4 |
信成の遺徳は、大名家の藩祖としてだけでなく、神として祀られるという形で後世に伝えられた。時代が下った享保2年(1717年)、子孫の繁栄を願い、5代当主の内藤弌信が江戸の内藤家屋敷内に藩祖・信成の霊を祀る霊廟を創建した 14 。これが、現在に続く藤基神社の始まりである。
この霊廟は後に内藤家の本拠地である越後村上の城内三之丸に遷され、信成は「藤基大神」として、歴代藩主と共に祀られることとなった 15 。信成は、兄・家康を戦で守り抜いた「鉄壁の武将神」として、勝運や安産、厄除けなどのご利益があるとされ、今日に至るまで地域の人々の信仰を集めている 17 。
また、村上にある内藤家の菩提寺・光徳寺も信成と深い関わりを持つ。寺の院号である「法善院」は信成の戒名に由来し、山号の「常照山」も信成が伊豆韮山城主時代に建立した寺の名にちなむものである 19 。同寺には内藤家歴代藩主の墓所が集められており、信成が子孫からいかに敬愛されていたかを物語っている 21 。
内藤信成は、単に勇猛な武将であったわけではない。彼は主君・徳川家康の戦略的意図を深く理解し、特に最も困難で忍耐を要する「守り」の局面においてこそ、その真価を発揮する、類稀なる忠誠心と責任感を兼ね備えた武将であった。
「家康の異母弟」という出自は、彼のキャリアを通じて特別な意味を持ち続けた。それは彼に譜代大名としての栄光をもたらすと同時に、生涯を通じて徳川宗家を支え続けるという重い責務を課した。信成の生涯は、徳川家康という巨大な存在の「影」として、あるいは最も信頼できる「盾」として、天下泰平の礎を築くために捧げられたものであったと言える。その功績は、彼一代の武功に留まらず、越後村上藩内藤家の永きにわたる繁栄、そして神として今なお人々の信仰を集めるという形で、後世に確かに記憶されている。彼の人生を追うことは、徳川政権成立の裏面史を垣間見ることに他ならない。