本報告では、戦国時代に肥前国を席巻した龍造寺氏の重臣であり、「龍造寺四天王」の一人に数えられる円城寺信胤(えんじょうじ のぶたね)について、現存する史料の断片を丹念に繋ぎ合わせ、その出自、戦歴、とりわけ壮絶な最期を遂げた沖田畷の戦いにおける活躍、そして後世における評価などを多角的に掘り下げていく。信胤は、主君龍造寺隆信が討死したとの報を受け、隆信の甲冑を身にまとい、身代わりとなって敵陣に突入し戦死したという逸話で知られる。本報告は、この劇的な最期に至るまでの信胤の生涯と、彼を取り巻く歴史的背景を明らかにすることを目的とする。
利用者殿が既に把握されている「龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人といわれる。沖田畷合戦で主君・隆信戦死の報告を受けると、隆信に似せた出で立ちをしたのち、敵陣に斬り込んで戦死した」という円城寺信胤の概要は、彼の生涯における最も著名な側面を的確に捉えている。本報告では、この理解を基点としつつ、提供された調査資料群( 1 - 2 - 4 )を徹底的に分析することで、より詳細かつ多角的な人物像を提示する。具体的には、信胤が属した肥前円城寺氏の起源と系譜、信胤個人の具体的な戦功(史料で確認できる範囲)、彼が名を連ねる「龍造寺四天王」という呼称の史料による構成員の異同、そして沖田畷の戦いにおける彼の行動の詳細とその歴史的文脈について、深く掘り下げていく。特に、円城寺氏の出自の複雑さ、信胤の直接の祖先、そして「龍造寺四天王」という呼称が史料によってどのように記録されてきたかといった点に注目し、情報の精度を高めることを目指す。
円城寺信胤の家系である円城寺氏の起源については、いくつかの説が存在し、その全貌を掴むことは容易ではない。
一つの説として、円城寺氏は千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の子である園城寺律静房日胤(おんじょうじりっせいぼうにちいん)を始祖とするとされる伝承がある。日胤は源頼朝の祈祷僧であったが、近江国三井寺(園城寺)に居住し、源頼政らが以仁王を奉じて挙兵した際にこれに与し戦死したと伝わる。しかし、この説については、父常胤が日胤を祀るために下総国印旛郡に「円城寺」を建立したとされるものの、音の異なりなどから史実的な関連性は薄いと考えられている 5 。
より有力視されるのは、肥前円城寺氏に伝わる系譜(鍋島文庫所蔵『諸家系図』)に見える記述である。それによれば、前期原氏の末裔である牛尾五郎泰親の甥の子、円城寺左衛門尉胤清(えんじょうじさえもんのじょうたねきよ)が、千葉大隅守胤貞(ちばおおすみのかみたねさだ、 6 では千葉胤貞、 7 では千葉大隈守胤貞と表記)に随い、肥前国小城郡に下向し、晴気(はるけ)に住したことが記されている 5 。この円城寺氏は原氏と同族であり、原孫二郎胤春の子孫が印旛郡城村(現在の佐倉市城)に居住し、原氏とともに千葉家の重臣となったと推測されている 5 。このことから、肥前円城寺氏は千葉氏の有力な家臣団であった原氏の一族から分かれた系統である可能性が高い。
下総国における円城寺氏は、同じく千葉宗家の家宰であった原氏とは、所領などを巡り強い対立関係にあった可能性が示唆されている 5 。応永13年(1406年)当時の『香取御造営料足納帳』には、多くの円城寺氏の名が見られ、原氏と共に広範な活動を行っていたことが窺える 5 。
さらに注目すべきは、円城寺氏が単一の血統ではなかった可能性である。例えば、円城寺貞政(えんじょうじさだまさ)は蕪木(かぶらき)氏の出身で千葉宗家に仕えたが、九州千葉氏に重臣として仕えた円城寺胤清(前述の原氏出身の人物)とは同時代に生きたものの、直接の血縁関係はないとされる 6 。また、書状などから源姓を名乗る円城寺氏の存在も指摘されており 6 、1406年の香取神宮造営の納帳に多くの円城寺一族の名前が見られることは、貞政や原氏出身の円城寺氏以外にも、多様な出自を持つ円城寺氏が存在したことを示唆している 6 。
このように、「円城寺」という名字が、必ずしも単一の血族集団を指すのではなく、異なる起源を持つ複数の家系によって名乗られていたか、あるいは養子縁組などによって家名が受け継がれていった結果、多様な背景を持つに至ったと考えられる。これは戦国期において珍しいことではなく、家名の継承や分家、主君からの名字下賜などが複雑に絡み合っていた当時の武家社会の実情を反映している。したがって、円城寺信胤の出自を考察する上では、彼がどの「円城寺氏」の系統に属するのかを特定することが極めて重要となる。
円城寺信胤に繋がる肥前円城寺氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、九州における千葉氏の勢力伸長に伴い成立したと考えられる。
史料によれば、正和5年(1316年)、円城寺胤清(左衛門尉)が千葉胤貞(ちばたねさだ)に従って肥前国小城(おぎ)に下向し、九州千葉氏の重臣となったとされている 6 。鍋島文庫所蔵の『諸家系図』にも同様の記述があり、円城寺左衛門尉胤清は千葉大隅守胤貞( 7 では千葉大隈守胤貞)に随行し、肥前小城郡の晴気(現在の佐賀県小城市小城町晴気)に住したと記されている 5 。
さらに、建武4年(1337年)5月15日には、円城寺壽左衛門尉(えんじょうじじゅざえもんのじょう)という人物が、千葉胤泰(ちばたねやす)の命を受け、山田彈正忠(やまだだんじょうのちゅう)と共に河上社座主への「小城郡田地二町」の打渡(土地の引き渡し)を行っており 7 、この時期には既に円城寺氏が肥前小城郡で具体的な活動を行っていたことが確認できる。この壽左衛門尉が胤清と同一人物か、あるいはその近親者であった可能性が考えられる。
これらの記録は、肥前円城寺氏の祖とされる胤清の九州下向が、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士の移動と在地化の一例であることを示している。主家である千葉氏の九州における勢力基盤の確立に伴い、その重臣として円城寺氏も肥前に根を下ろしていったのであろう。
円城寺信胤の直接の血統については、鍋島文庫所蔵の『諸家系図』および『肥前諸家系図』に依拠する小城円城寺氏の略系図が重要な手がかりを提供する。この系図によれば、円城寺信胤は、肥前へ下向したとされる円城寺左衛門尉胤清の子孫であるとされている 7 。
具体的には、その系譜は以下のように記されている。
原胤春 ― 胤重(平右衛門尉) ― 勇圓(式部) ― 円城寺胤清(左衛門尉) ― 胤直(大和守) ― 胤安(大和守) ― 信胤(式部丞) 7。
これにより、円城寺信胤の父は円城寺大和守胤安、祖父は円城寺大和守胤直、曾祖父が肥前円城寺氏の祖とされる円城寺左衛門尉胤清であることが判明する。官途名(大和守、式部丞)も記されており、代々一定の家格を保持していたことが窺える。
ここで注目されるのは、肥前円城寺氏の祖とされる円城寺胤清、そして信胤に至る父・胤安、祖父・胤直、曾祖父・胤清と、代々の当主の名前に「胤」の字が共通して用いられている点である。彼らが仕えた九州千葉氏の当主も、千葉胤貞や千葉胤泰など「胤」の字を持つ人物が多い 6 。これは、主君からの偏諱(へんき、主君の名前の一字を家臣に与えること)か、あるいは千葉氏の通字(とおりじ、一族代々用いられる特定の文字)である「胤」を共有することで、主従関係の強固さや一族としての連帯を示していた可能性が高い。この「胤」の字の継承は、肥前円城寺氏が千葉氏の有力な庶流または重臣として、その勢力圏の中で代々忠勤に励んでいたことを象徴しており、後に龍造寺氏に仕える以前の円城寺氏のアイデンティティを考える上で重要な要素と言えるだろう。
円城寺信胤は、戦国時代の肥前国において急速に勢力を拡大した龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)に仕えた武将である。彼の生年は不明とされている 3 。龍造寺隆信への具体的な臣従の時期や、それに至る経緯、初期の活動に関する詳細な記録は、提供された資料からは限定的である。しかし、後に「龍造寺四天王」の一人に数えられることから 8 、隆信が肥前統一を進める過程において、その武勇と忠誠心によって重要な役割を果たし、高い評価を得ていたことは想像に難くない。戦国時代の多くの武将がそうであるように、信胤のキャリア初期における具体的な記録は乏しいが、四天王という呼称自体が、彼が龍造寺家中で重きをなしていたことを物語っている。
円城寺信胤の武将としての力量を示す具体的な戦歴として、史料で確認できるものはいくつか存在する。
元亀元年(1570年)、豊後の大友宗麟(おおとも そうりん)は龍造寺氏を討伐すべく大軍を派遣し、龍造寺隆信の居城である佐賀城を包囲した。この今山の戦いは、龍造寺氏の存亡をかけた重要な合戦であった。この危機的状況において、円城寺信胤は同僚の鍋島直茂(なべしま なおしげ、後の佐賀藩祖鍋島勝茂の父)を援護し、大友軍の総大将であった大友親貞(おおとも ちかさだ)を夜襲によって討ち破る上で大きな貢献を果たしたと記録されている 3 。
より具体的には、鍋島直茂(当時は信昌)が佐賀城中での軍議において夜襲を進言し、決行した際、最初に直茂に従った17騎の勇士の中に「円城寺美濃」の名が見える 10 。円城寺信胤は美濃守(みののかみ)を称したとされるため 1 、この「円城寺美濃」は信胤本人を指す可能性が極めて高い。この夜襲は成功し、大友軍は総大将を失い敗走、龍造寺氏は九死に一生を得た。この戦功により、信胤は龍造寺家中における評価を一層高めたと考えられる。また、後世の創作物である可能性も否定できないが、あるゲーム関連の情報では、今山の戦いにおける龍造寺軍の「大手柄武将」の一人として円城寺信胤の名が挙げられている 11 。
今山の戦いは、龍造寺氏が大友氏の圧倒的な攻勢を退け、その後の肥前統一、さらには九州北部への勢力拡大の大きな契機となった合戦である。信胤がこの決戦において、中心人物である鍋島直茂の側近として危険極まりない夜襲作戦に加わり、戦功を挙げたことは、彼の武勇と直茂からの信頼の厚さを示すものと言えよう。
一方で、龍造寺四天王の戦功として語られることのある他の戦いについては、円城寺信胤の直接的な関与が確認できないものもある。例えば、永禄5年(1562年)の梶峰城(かじみねじょう)攻めにおいて敵将・内田治部少輔(うちだじぶのしょうゆう)を討ち取った戦功や、天正6年(1578年)の梅尾城(うめおじょう)の小代(しょうだい)氏攻めに際し、小代親忠(しょうだいちかただ)の降伏を仲介した功績については、これらの戦功は主に龍造寺四天王のもう一人である木下昌直(きのしたまさなお、木下四郎兵衛尉)に帰せられている記録が多い 3 。
提供された資料においても、これらの戦いにおける円城寺信胤の具体的な役割については記載がない、と明確に述べられている 3 。
「龍造寺四天王」という集団的な呼称で語られる際、個々の武将の戦功が混同されたり、あるいは代表的な人物の功績として集約されて語られたりすることは往々にしてある。歴史を正確に理解するためには、史料に基づいて、信胤自身の確実な戦功と、他の四天王の戦功とを区別して把握することが肝要である。四天王というグループとしての勇名は非常に高いものであったが、個々の戦いにおける具体的な貢献者は史料によって特定される必要があり、全ての戦いに四天王全員が等しく、かつ同様の役割で関与したわけではないことを理解しておく必要がある。信胤の評価は、彼自身の確実な行動に基づいて行うべきである。
円城寺信胤は、「龍造寺四天王」の一人としてその名を戦国史に刻んでいる。この呼称は、龍造寺隆信配下の特に武勇に優れた武将たちを顕彰するものである 9 。
「龍造寺四天王」の具体的な構成員については、史料や時代によって若干の異同が見られる。例えば、ある資料では成松遠江守信勝(なりまつとおとうみのかみのぶかつ)、江里口藤七兵衛尉信常(えりぐちとうしちびょうえのじょうのぶつね)、百武志摩守賢兼(ひゃくたけしまのかみともかね)、そして円城寺美濃守信胤の4名を挙げる 9 。また別の資料では、これに木下四郎兵衛尉昌直を加え、「史実でも四天王なのに五人である」とし、江里口信常、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直の5名を列挙している 13 。
より詳細な史料比較は、以下の表に示す通りである。これは慶安3年(1650年)から享保9年(1724年)にかけて成立した複数の史料に見える「龍造寺四天王」またはそれに類する呼称と、その構成員の変遷をまとめたものである 14 。
年代 |
史料名 |
呼称 |
構成員1 |
構成員2 |
構成員3 |
構成員4 |
慶安3年 (1650) |
成松遠江守信勝戦功略記 |
龍造寺の四天王 |
(成松)遠江守 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛尉 |
江里口藤七兵衛尉 |
元禄13年 (1700) |
九州記 |
四本槍 |
成松遠江 |
百武志摩 |
円城寺美濃 |
江里口藤七兵衛 |
正徳2年 (1712) |
陰徳太平記 |
四天王の槍柱 |
成松遠江守 |
百武志摩守 |
円成寺美濃守 |
江里口藤七兵衛 |
享保元年 (1716) |
葉隠 |
四天王 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛 |
成松遠江守 |
江里口藤七兵衛 |
享保5年 (1720) |
九州治乱記(北肥戦誌) |
隆信四天王 |
成松遠江守 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛 |
江里口藤七兵衛 |
享保9年 (1724) |
焼残反故 |
隆信公四天王 |
百武志摩守 |
成松遠江守 |
木下四郎兵衛 |
円城寺美濃守 |
表1:龍造寺四天王の構成員の異同 ( 14 に基づき作成)
この表からもわかるように、「四天王」という呼称は後世に形成された顕彰的な意味合いも含むため、その構成員にはある程度の揺れが生じやすい。しかしながら、円城寺信胤(美濃守)は、木下昌直が含まれない場合の「四本槍」という呼称の際にも名を連ねるなど、多くの史料において一貫して主要なメンバーの一人として認識されていたことは確かである。
円城寺信胤は、主君である龍造寺隆信の影武者として討死するという、四天王の中でも特に忠義を象徴する壮絶な最期を遂げた人物として記憶されている 3 。
他の四天王に目を向けると、例えば成松信勝は今山の戦いで敵の総大将・大友親貞を討ち取るという比類なき大手柄を立て 15 、江里口信常も沖田畷の戦いで隆信の死を知った後、敵陣に単身斬り込んで戦死したと伝わる( 17 には具体的な戦死の様子の記述はないが、 1 で沖田畷での戦死が確認できる)。百武賢兼(志摩守)もまたその武勇で知られ 9 、隆信から「百人並みの武勇を持つ」と賞賛された逸話が残る。一方で、木下昌直は沖田畷の戦いを生き延び、後に鍋島直茂に仕えている 12 。
四天王それぞれが異なる戦功や逸話を持つ中で、円城寺信胤の評価は、やはり沖田畷の戦いにおける自己犠牲的な行動に集約される傾向が強い。彼の死に様は、他の四天王の武勇伝と比較しても、際立った忠烈さを示していると言えるだろう。
天正12年(1584年)3月24日、島原半島で勃発した沖田畷(おきたなわて)の戦いは、九州の勢力図を大きく塗り替えることになった合戦であり、円城寺信胤の生涯にとっても終焉の地となった。
当時、九州で急速に勢力を拡大していた龍造寺隆信は、肥前国統一をほぼ成し遂げ、さらに筑前・筑後・肥後・豊前の一部にまでその影響力を及ぼしていた。「五州二島の太守」を自称する隆信にとって、最後まで抵抗を続けていた島原の有馬晴信(ありま はるのぶ)の存在は看過できないものであった。天正12年(1584年)、隆信は有馬氏を完全に屈服させるため、自ら大軍を率いて島原へ出陣した 3 。
これに対し、窮地に陥った有馬晴信は、薩摩の島津義久(しまづ よしひさ)に救援を要請。島津氏はこれに応じ、義久の弟である島津家久(しまづ いえひさ)を総大将とする援軍を派遣した。こうして、龍造寺軍と島津・有馬連合軍が、島原半島の沖田畷において激突することとなったのである 2 。
龍造寺軍の兵力は2万5千 3 とも、あるいはそれ以上の数万とも言われる大軍であったのに対し、島津・有馬連合軍は1万に満たない寡兵であったと伝えられている 3 。兵力においては龍造寺方が圧倒的に有利であった。
戦場となった沖田畷は、その名の通り「畷」(田んぼの中の細い道)であり、両側を沼地や深田に挟まれた極めて狭隘な地形であった 18 。このような地形は、龍造寺軍のような大軍の展開には全く不向きであり、兵力の優越性を活かすことが困難であった。
龍造寺軍はこの不利な地形で行動の自由を奪われ、身動きが取れない状態に陥った。一方、寡兵の島津軍は、このような地勢を巧みに利用し、得意とする「釣り野伏せ」(つりのぶせ)と呼ばれる戦法を用いた。これは、一部の部隊がおびき寄せ役となって敵を深部に誘い込み、両翼に潜ませた伏兵によって挟撃するという戦術である 2 。龍造寺軍は、まさにこの島津軍の術中にはまってしまったのである。
龍造寺軍の敗因としては、戦場の地形に対する認識の甘さや、大軍であることへの過信などが指摘されることが多い 18 。島津軍は、兵力では劣りながらも地の利を最大限に活かし、巧みな戦術と将兵の高い士気によって龍造寺軍を翻弄した。
戦闘が続く中、天正12年3月24日の未の初刻(午後2時頃)、龍造寺軍本陣で床几(しょうぎ)に腰掛けて采配を振るっていた龍造寺隆信は、島津方の武将・川上忠堅(かわかみ ただかた)によって発見され、不意を突かれて討ち取られてしまった 2 。享年56であった 3 。総大将の突然の戦死は、龍造寺軍に致命的な打撃を与え、全軍の混乱と崩壊を招いた。
主君・隆信戦死の報は、円城寺信胤のもとにも届いた。この絶望的な状況下で、信胤は驚くべき決断を下す。主君の死を悼み、また敵の目を欺き味方の撤退を助けるためか、あるいは武士としての意地か、隆信が着用していたものと同様の甲冑を身にまとい、隆信の馬印などを掲げ、あたかも隆信自身がまだ生きているかのように装ったのである 8 。
信胤が隆信の影武者となることを選んだ背景には、複数の要因が考えられる。第一に、総大将の戦死という情報は、軍の士気を著しく低下させ、組織的な抵抗を不可能にする。信胤が隆信の姿をすることで、一時的にでも隆信生存を偽装し、敵に混乱を生じさせ、あるいは味方が態勢を立て直したり撤退したりする時間を稼ぐという戦略的意図があった可能性が考えられる。第二に、主君と同じ姿で死ぬことは、当時の武士の価値観において、忠義の極致を示す行為であり、主君と運命を共にするという精神的な意味合いも強かったと推測される。これは単なる自暴自棄の行動ではなく、武士道における「義」の実践として捉えることができる。信胤のこの行動は、単なる感情的なものではなく、戦国武将としての合理性と、武士としての倫理観が融合した結果であったのかもしれない。
龍造寺隆信の姿に扮した円城寺信胤は、死を覚悟して島津軍の陣中に猛然と突入した。その奮戦は凄まじかったと想像されるが、衆寡敵せず、激闘の末に討死を遂げた 1 。その日は、主君隆信と同じ天正12年(1584年)3月24日のことであった 1 。
軍記物である『北肥戦誌』には、龍造寺隆信の最期について、側仕えの小姓とのやり取りなどが記されていることが示唆されているが 4 、提供された資料の断片の中には、円城寺信胤が影武者として具体的にどのように戦い、どのように討死したかの詳細を直接引用した箇所は見当たらない。しかしながら、信胤が隆信の影武者となり、敵陣に斬り込んで戦死したという話は、複数の二次資料や伝承によって広く知られており 3 、歴史的事実として受け入れられている。
円城寺信胤のこの壮絶な最期は、龍造寺家臣の忠烈を象徴するエピソードとして、後世に長く語り継がれることになった。彼の死は、沖田畷の戦いにおける龍造寺方の悲劇性を一層際立たせるものであり、主君のために命を捧げた武士の鑑として、その名を不動のものとしたのである。
円城寺信胤の生涯は、沖田畷の戦いにおける壮絶な最期によって強烈な印象を残すが、その人物像や評価について、残された資料から考察する。
円城寺信胤個人に関する具体的な逸話や、その性格を詳細に伝えるような人物評は、提供された資料の中では、沖田畷での最期に関するものを除いて乏しい。しかし、彼が「龍造寺四天王」の一人に数えられていること 8 、そして今山の戦いにおいて鍋島直茂の危機を救う活躍を見せたこと 3 などから、彼が武勇に優れ、主君や同僚からの信頼も厚い、有能な武将であったことは間違いないだろう。
主君である龍造寺隆信は、「肥前の熊」と渾名されるほど、若い頃から幾度も肥前を追われた経験からか、猜疑心が強く冷酷非情な一面があったと言われる一方で、そうした気質と卓越した戦略眼があったからこそ、肥前の一国人に過ぎなかった龍造寺氏を、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上げたのだという評価もある 22 。このような強烈な個性を持つ隆信の覇業を支えるためには、信胤のような忠誠心に厚く、武勇に優れた家臣の存在が不可欠であったと考えられる。信胤の存在は、隆信の急速な勢力拡大を人的側面から支えた重要な要素の一つであったと言えよう。戦国時代の武将の人物像は、多くの場合、特定の行動や合戦での役割を通じて形成される。信胤の場合、その評価は沖田畷での忠死によって決定づけられている面が大きいが、それは彼の武士としての本質を最もよく表しているのかもしれない。
円城寺信胤の忠義は、彼の死後も忘れられることはなかった。沖田畷の戦いの後、龍造寺氏の家督を継いだ龍造寺政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、信胤の忠功を賞し、円城寺家の家督を継いだ信胤の次男・円城寺吉三郎(えんじょうじ きちさぶろう)に対して感状を発給している 7 。これは、信胤の死が主家によって公式に認められ、その忠義が高く評価された証である。
信胤の子孫は、その後も佐賀の地で家名を保った。吉三郎の子である円城寺久右衛門は「手明槍」として出仕しており、正式な藩士ではなかったが、その子の円城寺権兵衛も手明槍であった。しかし、さらにその子である円城寺権兵衛実清(さねきよ)の代、宝永元年(1704年)になって、正式に佐賀藩士として登用され、切米二十石(後に二十五石)を給されるに至った 7 。その後も円城寺家は佐賀藩士として続き、信胤の忠義の記憶は子孫繁栄の礎となった。
信胤の壮絶な最期の地となった沖田畷古戦場(現在の長崎県島原市)には、彼の忠勇を偲ぶ何らかの顕彰碑や案内などが存在する可能性が示唆される。具体的な碑の存在は提供資料からは直接確認できないものの、彼の行為を伝える記事が存在すること自体が 8 、その記憶が地域に留められていることの証左と言えるかもしれない。
信胤の行動は、単なる個人的な犠牲に留まらず、結果として円城寺家の家格維持や再興に繋がった。これは、戦国時代から江戸時代にかけての武士社会において、「忠義」が単なる精神的な美徳としてだけでなく、家とその子孫の社会的地位を保障するための実利的な意味をも持っていたことを示す好例である。信胤の最期は、その最も劇的な現れの一つとして、後世に大きな影響を与えたと言えるだろう。
円城寺信胤は、その出自を辿れば千葉氏の重臣であった原氏に連なり、肥前小城郡に根を下ろした肥前円城寺氏の系譜に名を連ねる武将である。彼は龍造寺隆信に仕え、元亀元年(1570年)の今山の戦いなどで武功を挙げ、主家の危機を救う働きを見せた。その武勇と忠誠心から「龍造寺四天王」の一人に数えられ、龍造寺氏の勢力拡大に貢献した。
しかし、円城寺信胤の名を戦国史に不朽のものとして刻みつけたのは、何と言っても天正12年(1584年)3月24日の沖田畷の戦いにおけるその最期であろう。主君・龍造寺隆信が島津・有馬連合軍との戦いで討死したとの報に接するや、信胤は隆信の甲冑を身にまとい、影武者となって敵陣に勇猛果敢に突入し、壮絶な討死を遂げた。この自己犠牲的な行動は、戦国武将の忠義の鑑として、後世に長く語り継がれることとなった。
円城寺信胤の生涯は、戦国乱世という極限状況における武士の生き様、特に主君への絶対的な忠誠という価値観を鮮烈に体現したものであった。龍造寺氏の隆盛からその頂点での悲劇的な終焉という大きな歴史の流れの中で、信胤は際立った個性を放つ存在として記憶されるべきである。
提供された資料群からは、彼の出自から最期に至るまで、断片的ではあるものの、その人物像を多角的に考察するための貴重な情報が得られた。これらの情報を繋ぎ合わせることで、一人の戦国武将の実像に、より深く迫るためのかけがえのない手がかりとなるであろう。円城寺信胤の生き様は、現代に生きる我々に対しても、忠誠や犠牲、そして武士道といったテーマについて深く考えさせるものがあると言える。