最終更新日 2025-07-08

初鹿野昌次

戦国乱世を駆け、泰平の世に礎を築いた武将 ― 初鹿野昌次(信昌)の生涯に関する総合的研究

序章:乱世の転換期を生きた武将

日本の歴史において、戦国時代から江戸時代への移行は、社会構造、価値観、そして人々の生き方そのものが劇的に変化した一大転換期であった。この激動の時代を、一人の武将として、そして一つの家の創始者として生き抜いた人物がいる。その名を初鹿野昌次(はじかの まさつぐ)という。後世の史料では信昌(のぶまさ)の名でも知られる彼は、甲斐武田氏の家臣としてキャリアを開始し、主家の滅亡という最大の危機を乗り越え、新たな天下人である徳川家康に仕えることで家名を存続させ、泰平の世に旗本としての礎を築いた。

本報告書は、この初鹿野昌次(信昌)という人物の生涯を、現存する史料に基づき、多角的かつ徹底的に検証することを目的とする。ご依頼主が既に把握されている「武田家臣として先代の跡を継ぎ、主家滅亡後は徳川家で活躍した」という概要に留まらず、彼の出自の背景、武田家臣時代の具体的な役割と人物像、徳川家へ仕官するに至った経緯、そして旗本・初鹿野家の初代として果たした役割とその後の一族の繁栄に至るまで、その生涯の全容を解明する。

彼の人生を追う旅は、単なる一個人の伝記の探求に終わらない。そこには、史料に残る複数の名前(昌次、信昌、昌久)の謎、名門・初鹿野氏と国衆・加藤氏という二つの血脈の交差、そして『甲陽軍鑑』や『関東古戦録』といった軍記物語が伝える「かぶき者」としての逸話の解釈など、歴史研究の興味深い論点が数多く存在する。本報告書は、これらの謎を一つひとつ解き明かしながら、初鹿野昌次という武将が、いかにして時代の荒波を乗りこなし、自らと一族の未来を切り拓いたのかを明らかにしていく。彼の生き様は、戦国から江戸へと至る時代のダイナミズムそのものを体現する、貴重な歴史の証言なのである。

第一章:出自と家名の継承 ― 「初鹿野昌次」の誕生

一人の武将の生涯を理解するためには、その人物がどのような血脈を受け継ぎ、いかなる経緯でその名を名乗るに至ったかを知ることが不可欠である。初鹿野昌次の誕生は、甲斐の名門の悲劇と、それに対する主君・武田信玄の深慮、そして在地の実力者一族の存在が複雑に絡み合った結果であった。

第一節:二つの血脈 ― 甲斐源氏の系譜と国衆の誇り

初鹿野昌次が継承した「初鹿野」という家名は、甲斐国において特別な響きを持つものであった。初鹿野氏は、甲斐源氏の嫡流である武田氏の庶流に連なる一族とされる 1 。その起源については諸説あり、『寛政重修諸家譜』などによれば、武田信武の四男・公信が「初鹿」を称したことに始まるとされる 3 。また、武田信時の子・与次政頼を祖とする系図も存在する 3 。いずれにせよ、武田一門としての高い家格を有していたことは疑いない。そもそも「初鹿野」という地名は古く、平安時代の歌人・西行法師が「甲斐が根の ふもとの原は みな暮れて 夕日残れる 初鹿野の山」と詠んだ歌にも見え、その歴史の深さがうかがえる 1

一方で、昌次が生まれた実家は、この初鹿野氏とは異なる血脈を持つ、甲斐国都留郡を本拠とする国衆・加藤氏であった 5 。彼の父は加藤虎景(史料によっては信邦とも 7 )といい、武田信虎・晴信(信玄)の二代に仕えた武者奉行であった 6 。加藤氏は、源頼朝に仕えた御家人・加藤景廉の末裔を称する家柄であり 9 、父・虎景は晴信に兵法を指南したとも伝わるほどの実力者であった 6

昌次は、この加藤虎景の六男・弥五郎として生を受けた 8 。彼が後に継ぐことになる初鹿野家は、武田一門という血統的な「権威」を象徴する家である。対して、彼が生まれた加藤家は、在地に根を張る「実力」を持つ国衆であった。武田信玄の治世において、こうした国衆の力をいかに掌握し、統治体制に組み込むかは極めて重要な課題であった。昌次が、実力者の子として生まれ、後に権威ある名跡を継ぐという運命を辿ったことは、単なる偶然の養子縁組ではない。それは、在地勢力との結びつきを強化しつつ、名門を断絶させないという、信玄の巧みな人事戦略の一環であったと解釈することができる。この「権威」と「実力」の二重性は、彼の後のキャリアを方向付ける重要な要素となったのである。

第二節:川中島の悲劇と家督相続

初鹿野昌次が歴史の表舞台に登場する直接のきっかけは、戦国史上最も苛烈な戦いの一つとして知られる、第四次川中島の戦いにおける悲劇であった。永禄4年(1561年)9月10日、武田信玄と上杉謙信が信濃川中島の八幡原で激突したこの戦いで、武田軍は甚大な被害を受けた 11 。信玄の実弟である武田信繁、軍師として名高い山本勘助といった重臣たちが次々と討ち死にする中、初鹿野家の当主であった初鹿野忠次(通称:源五郎)もまた、その命を落としたのである 5

この忠次の戦死により、武田一門に連なる初鹿野家は断絶の危機に瀕した。これに対し、主君・武田信玄は迅速な手を打つ。信玄は初鹿野家の武名を惜しみ、その名跡を存続させることを決断した 7 。そして白羽の矢が立てられたのが、側近である加藤虎景の六男、弥五郎であった。信玄の命により、弥五郎は忠次の養子として初鹿野家に入り、その家督を継承することとなった 5 。この時、元々の家名であった「初鹿」に「野」の字を加えて「初鹿野」と改めたとする説も伝わっている 3 。かくして、加藤弥五郎は「初鹿野昌次」として、新たな人生を歩み始めることになった。

第三節:複数の名を持つ男 ― 昌次、信昌、昌久

初鹿野昌次の生涯を追う上で興味深い点の一つに、史料によって複数の名前で記録されていることが挙げられる。彼の名は「昌次」 7 、「信昌」 8 、そして「昌久」 10 と、様々な表記で現れる。幼名が弥五郎、通称が伝右衛門尉であったことは比較的多くの史料で一致している 7

この名前の揺れは、単なる記録上の誤記や混乱として片付けるべきではない。特に「昌」の字の使用は、彼と主君・信玄との関係を考察する上で重要な手がかりとなる。武田家において、「昌」の字は信玄が特に寵愛した若手の側近たち、いわゆる「奥近習六人衆」に与えた偏諱であったという指摘がある 18 。そのメンバーには、真田昌幸(武藤喜兵衛)や土屋昌続らが含まれる。昌次が「昌」の字を名乗っていることは、彼が信玄の命によって家を継いだという経緯と併せて考えれば、彼もまた信玄から特別な期待を寄せられた側近の一人であったことを強く示唆している。

一方で「信」の字は、武田家の始祖・信義以来、代々の当主が用いてきた通字であり、一門の証ともいえる字である。「信昌」という名は、武田一門としての公式な立場を示す際や、後年の徳川時代の史料である『寛政重修諸家譜』などで用いられた可能性が考えられる。また、彼の渾名が「昌次香車伝右衛門」であったとされることから 10 、「昌次」という名が、彼の個性と結びついた通称として広く知られていたことも推察される。これらの名前の変遷や使い分けは、彼の生涯における立場の変化や、彼が記録される文脈の違いを反映しており、その多層的なアイデンティティを物語っているのである。

第二章:武田家臣としての忠節と武勇 ― 「香車伝右衛門」の横顔

初鹿野の名跡を継いだ昌次は、信玄・勝頼の二代にわたり、武田家の中核を担う武将として活躍する。彼の人物像は、史料に残るいくつかの鮮烈な逸話と、彼が任された役職から浮かび上がってくる。それは、派手な振る舞いを好む「かぶき者」としての一面と、主君の側近くに仕える冷静な実務家としての一面を併せ持った、魅力的な武将の姿である。

第一節:「かぶき者」の逸話と人物像

初鹿野昌次の個性を最もよく表しているのが、「香車伝右衛門」という渾名の由来となった逸話である。この話は、江戸時代に成立した軍記物語『関東古戦録』巻八に記されている 10

永禄12年(1569年)、武田軍が北条氏康・氏政軍と雌雄を決した三増峠の戦いにおいて、昌次は戦場で人々の目を引く奇抜な出で立ちで現れた。彼が羽織っていた陣羽織には、表に将棋の駒である「香車」の文字が、そして裏には「成金」の文字が大きく描かれていたという 8 。戦が終わり、無事に帰陣した昌次に対し、同僚たちがからかって言った。「香車はまっすぐ前に進むだけで、決して後ろには戻れない駒だ。それなのに、なぜお主は生きて帰ってこられたのか」。すると昌次は、臆することなく陣羽織の裏を返し、そこに書かれた「成金」の文字を見せてこう言い放った。「時が経って、金に成り上がったのだ」。彼の機知に富んだ切り返しに、周囲はどっと沸き、大いに笑ったと伝えられる 10 。この逸話は、常に死と隣り合わせの戦場にあってユーモアを忘れぬ精神的な余裕と、奇抜な装いを好む大胆な性格、そして死線を乗り越える豪胆さを併せ持った、昌次の「かぶき者」としての一面を鮮やかに描き出している。

彼の型破りな性格を示す逸話はもう一つある。昌次は、武田家の精鋭部隊の一つである「百足衆」に配属されていた。この部隊は、背中に百足を描いた旗指物を背負うのが決まりであったが、昌次はこれを良しとせず、あろうことか勝手に真っ白で派手な軍旗に作り変えてしまった。これを知った信玄は激怒したが、当の昌次は悪びれる様子もなかったという 19 。主君である信玄にすら物怖じしないこの行動は、彼の強い自己顕示欲と独自の美意識、そして何物にも縛られない自由な精神の表れと言えよう。

第二節:信玄・勝頼への奉公と武田家中の地位

こうした派手な逸話の一方で、初鹿野昌次が武田家中で担っていた役割は、極めて重要かつ実務的なものであった。彼は、信玄の側近集団であり、戦場において大将の命令を最前線の各部隊に迅速かつ正確に伝える伝令部隊、「使番十二人衆」の一員に任じられていた 15 。この部隊は、その旗指物から「百足衆」とも呼ばれ、信玄の意思決定を戦場で具現化するための神経網ともいえる存在であった 20 。百足は前に進むだけで後ろに退かないことから武勇の象徴とされ、この部隊に選ばれることは武田家臣にとって大変な名誉であった 20 。昌次がこの一員であったことは、彼が信玄から厚い信頼を寄せられたエリートであったことを証明している。

一部の記録では、昌次が信玄の最側近グループである「奥近習六人衆」の一人であったとされることがある 7 。しかし、その構成員を具体的に列挙している史料を見ると、三枝守友、曽根昌世、真田昌幸(武藤喜兵衛)、甘利昌忠、長坂昌国、そして土屋昌続の名が挙げられており、初鹿野昌次の名は見当たらない 19 。この点については、「昌」の字を持つ「土屋昌続」と「初鹿野昌次」が後世の記録で混同された可能性が考えられる。しかし、特定の役職名にこだわる必要はない。彼が「奥近習六人衆」の正式な一員であったか否かにかかわらず、「使番十二人衆」という、同じく信玄の側近エリート部隊に所属していたことは紛れもない事実である。これは、彼が信玄の信頼篤い、武田家の中核的な側近武将であったことを何よりも雄弁に物語っている。

信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼の代になっても、その信頼は揺らがなかった。天正3年(1575年)の長篠の戦い以降、武田家が苦境に陥る中で、昌次は跡部勝資や長坂光堅らと共に勝頼の側近として主君を支え続けた 8 。父の代からの忠臣として、最後まで武田家の中枢にあり続けたのである。

第三節:甲州征伐と武田家の終焉

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康による連合軍が甲斐に侵攻し、武田家は滅亡の時を迎える(甲州征伐)。この武田家最期の日々において、初鹿野昌次の身には悲劇的な逸話が伝えられている。

追い詰められた主君・武田勝頼に合流し、最後まで運命を共にしようと出陣の準備を整えていた昌次であったが、突如として足止めを食らうことになる。彼の領地の領民たちが、彼の妻子を人質に取り、勝頼のもとへ向かうことを妨害したのである 8 。忠節を尽くそうとする領主の行動を、その領民自らが阻むという異常事態であった。

この逸話は、単に昌次個人の不運な物語として片付けることはできない。これは、武田家の支配体制そのものが、末端の領民レベルから崩壊していたという、武田家滅亡の内部要因を象徴する出来事である。圧倒的な軍事力で迫り来る織田・徳川連合軍を前に、武田家の敗北を悟った領民たちが、新たな支配者に恭順の意を示すために、自らの領主を裏切ったのである。これは、戦国大名の権力が、家臣団の忠誠心のみならず、領民の支持という基盤の上に成り立つ、ある種の脆さを持っていたことを示している。一人の武将を襲った悲劇は、巨大な戦国大名が崩れ去る際の、ミクロな実態を我々に伝えているのである。

第三章:徳川家臣としての再生 ― 旗本への道

主家・武田氏の滅亡は、初鹿野昌次にとって生涯最大の危機であった。しかし、彼はこの絶望的な状況から、新たな活路を見出し、その後の人生を大きく転換させることに成功する。それは、戦国の世が新たな秩序へと再編されていく中で、自らの価値を的確に見極め、次なる天下人・徳川家康の下で再生を果たす道であった。

第一節:天正壬午の乱と徳川家への帰属

天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、武田家の旧領である甲斐・信濃は、主を失った権力の空白地帯となった。この地を巡り、徳川家康、相模の北条氏直、越後の上杉景勝が熾烈な覇権争いを繰り広げる。これが世に言う「天正壬午の乱」である 23

主家を失った武田の旧臣たちは、この三つ巴の争いの中で、自らの生き残りをかけて誰に与するかという重大な選択を迫られた。この時、徳川家康は武田旧臣を積極的に自軍に編入する「武田遺臣団の受け入れ」政策を強力に推進した 6 。家康は、武田家の統治システムや人材の優秀さを高く評価しており、彼らを味方に引き入れることが旧領支配の安定化に不可欠であると理解していた。

初鹿野昌次もまた、この家康の呼びかけに応じた武田旧臣の一人であった。彼は天正壬午の乱において徳川方として戦い、その忠誠を認められたと考えられている 2 。こうして彼は、かつての敵であった徳川家の家臣として、新たなキャリアをスタートさせることになった。

第二節:徳川軍の中核としての活躍

徳川家康に仕えることになった初鹿野昌次は、その後の徳川の天下統一事業において、数々の重要な合戦に従軍し、武功を重ねていく。その戦歴には、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐、そして慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけての大坂の陣といった、徳川の歴史を画する主要な戦いの名が連なっている 8

これらの輝かしい戦歴の中でも、特に注目すべきは、天下分け目の決戦であった慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける彼の役割である。この合戦において、昌次は徳川家康本陣の「使番」を務めたことが記録されている 10 。使番とは、大将の側にあって命令伝達の任を担う、極めて重要な役職である。

この事実は、彼の人生を考える上で非常に示唆に富んでいる。彼は、かつて武田信玄の下で「使番十二人衆(百足衆)」という、同じ役割を担うエリート部隊に所属していた。主家が滅び、新たな主君に仕えることになった後も、彼が全く同じ専門職で、しかも天下分け目の決戦という最も重要な局面で起用されたのである。これは、昌次が徳川家で重用された理由が、単に武田の旧臣だったからというだけでなく、彼が持つ「使番」としての卓越した専門的能力と豊富な経験が、家康自身によって高く評価され、信頼されていたことを明確に示している。

戦国から江戸への移行期において、武士が生き残るためには、旧来の家柄や忠誠心だけでは不十分であった。個人の持つ専門的なスキルや実務能力こそが、新たな主君の下で自らの価値を証明し、家名を存続させるための最大の武器となったのである。初鹿野昌次の生涯は、この時代の生存戦略を見事に体現している。彼の「かぶき者」として知られる個性的な一面と、「使番」として主君の神経網を担う冷静な実務家としての一面。この二つを併せ持っていたからこそ、彼は激動の時代を乗りこえ、新たな世で確固たる地位を築くことができたのである。

第四章:泰平の世における礎 ― 旗本・初鹿野家の創設

徳川家康の下で戦功を重ねた初鹿野昌次は、戦乱の世が終わり、泰平の世が訪れると共に、武将としてだけでなく、新たな時代の支配層である「旗本」として、その基盤を固めていく。彼の後半生は、武蔵国の一領主として、新たな土地に根を下ろし、一族の永続的な繁栄の礎を築くための地道な営みに費やされた。

第一節:武蔵国土呂の領主として

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康は関東への移封を命じられる。この家康の関東入府に伴い、初鹿野昌次(この頃には昌久、信昌とも名乗る)は、これまでの功績を賞され、武蔵国足立郡土呂村(現在の埼玉県さいたま市北区土呂町周辺)において700石の知行地を与えられた 1

新たな領地を得た昌次は、この地に領主としての拠点である「土呂陣屋」を築いた 6 。この陣屋は、700石という石高に比して、約9900平方メートルという比較的規模の大きなものであった可能性が指摘されており 6 、彼の旗本としての格式の高さがうかがえる。

領主となった昌次は、領内の統治にも力を注いだ。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いがあったこの年に、彼は故郷である甲州から氏神として御嶽社を勧請し、土呂村の鎮守とした 27 。また、一族の墓守堂として地蔵堂を建立するなど 17 、領民の精神的な支柱となる施設を整え、領主としての基盤を固めていった。これらの社や堂は、後の区画整理などで移転や再建を経験しつつも、その名残を現代に留めており、昌次がこの地に刻んだ歴史の深さを物語っている。

第二節:晩年と死

数々の合戦を生き抜き、徳川の世の到来を見届けた初鹿野昌次は、寛永元年(1624年)11月15日、その波乱に満ちた生涯に幕を下ろした 8

彼の没年齢については、史料によって見解が分かれている。江戸時代後期の甲斐国の地誌である『甲斐国志』は享年を81歳とする一方 4 、江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』は84歳であったと記している 4 。この享年の違いから生年を逆算すると、『甲斐国志』の説では天文14年(1545年)生まれ 4 、『寛政重修諸家譜』の説では天文13年(1544年)生まれ 10 となり、いずれにせよ戦国時代の只中に生を受けたことがわかる。

彼の墓所は、自らが土呂の地に勧請した御嶽社(現在のさいたま市大宮区寿能町)にあると伝えられている 10 。戦国の記憶が遠くなりつつあった寛永の世に、彼は自らが築いた安住の地で静かに眠りについたのである。

第五章:後代への継承 ― 旗本・初鹿野家の繁栄

一人の人物の歴史的評価は、その個人の功績のみならず、彼が後世に何を残したかによっても測られる。初鹿野昌次が築いた最大の功績は、武田家滅亡という断絶の危機から家名を救い、徳川旗本として永続する家系の礎を築き上げたことであった。彼の子孫たちは、その礎の上で、江戸時代を通じて幕府に仕え、一族の歴史を紡いでいった。

第一節:家督の継承と旗本家の確立

初鹿野昌次の死後、家督は子の初鹿野信吉が継承した 8 。信吉が父の築いた旗本としての地位と知行地を受け継いだことにより、初鹿野家は徳川幕府の体制下に確固たる一議席を占めることになった。昌次には信吉の他に、昌季という子や、石野広光に嫁いだ娘がいたことも記録されており 10 、一族が安定した基盤の上で枝葉を広げていった様子がうかがえる。こうして創設された旗本・初鹿野家は、その後、幕末に至るまで存続することになる 1

第二節:一族のその後 ― 江戸北町奉行の輩出

江戸時代を通じて旗本として続いた初鹿野家からは、幕府の要職に就く者も現れた。一族の中には、日光奉行や浦賀奉行といった重要な役職を歴任した者もいたと伝えられている 1

その中でも特に著名な子孫が、江戸時代中期に活躍した初鹿野信興(のぶおき)である 2 。信興は依田家から初鹿野家へ婿養子として入った人物であるが、その能力は高く評価され、小姓組番士から使番、目付、浦賀奉行と順調に昇進を重ね、天明8年(1788年)には江戸北町奉行に就任した 29 。町奉行として、彼は当時の浮世絵などの出版物を統制するため、江戸地本錦絵問屋組合の結成を主導するなど、江戸の文化政策にも大きな影響を与えた 29

この初鹿野信興の目覚ましい活躍は、初代である昌次の功績を遡って証明するものと言える。信興が江戸町奉行という幕府の中枢を担う要職にまで登り詰めることができたのは、彼個人の才覚はもとより、彼が継承した「旗本・初鹿野家」という安定した社会的地位と経済的基盤があったからこそである。その盤石なプラットフォームを、主家滅亡というゼロ以下の状況から、自らの才覚と適応能力で一代にして築き上げたのが、まさしく初鹿野昌次であった。子孫の繁栄は、戦国の乱世を駆け抜け、泰平の世に礎を築いた初代の偉大な功績が、いかに大きなものであったかを物語っているのである。

終章:初鹿野昌次の歴史的評価

初鹿野昌次(信昌)の生涯を総括する時、我々の前には、単一の言葉では捉えきれない、多面的で魅力的な武将像が浮かび上がる。彼は、将棋の駒をあしらった派手な陣羽織を身にまとう「かぶき者」としての豪胆さと個性を持ちながら、主家滅亡という絶体絶命の危機に際しては冷静に時勢を読み、新たな支配者である徳川家康の下で自らの専門性を発揮して生き抜いた、極めて優れた現実主義者であり、適応能力の持ち主であった。

彼の人生は、戦国時代から江戸時代への移行期そのものを象徴している。血統や旧主への忠誠といった中世的な価値観が絶対ではなくなり、個人の持つ実務能力、専門性、そして時流を読む政治感覚が、武士の家名の存続を左右する時代。昌次は、武田家で培った「使番」としてのスキルセットを、徳川家という新たな組織で再評価させることに成功した。これは、主家が滅んでも個人の能力が次のキャリアを拓くという、時代の転換期における生存戦略の一つの典型例である。

初鹿野昌次の物語は、歴史の教科書を彩る華々しい大名たちの物語の陰で、数多の中級武士たちが、いかにして激動の時代と向き合い、苦悩し、そして未来への礎を築いていったかという、よりリアルな歴史の姿を我々に伝えてくれる。彼の選択と行動がなければ、旗本・初鹿野家は存在せず、江戸の町人文化に影響を与えた町奉行・初鹿野信興も現れなかったであろう。彼の生涯は、一個人の成功譚に留まらず、一つの家系を泰平の世へと導いた、偉大な功績として評価されるべきである。

最後に、本報告書で言及した彼の人物像、特にその個性を示す逸話の多くが、『甲陽軍鑑』や『関東古戦録』といった後代に成立した軍記物語に依拠している点は、学術的な観点から留意が必要である。これらの史料は、歴史的事実を核としつつも、読者の興味を引くための文学的な脚色が加えられている可能性が指摘されている 30 。したがって、彼の「かぶき者」としての一面は、史実そのものというよりは、彼を知る人々によって語り継がれ、形成されていった「人物イメージ」として捉えるのが、より正確な歴史理解に繋がるであろう。この点を踏まえつつも、初鹿野昌次が戦国乱世を駆け抜け、新たな時代を築いた重要な人物の一人であったという評価は、決して揺らぐものではない。


表1:初鹿野昌次(信昌)関連年表

西暦 (推定)

和暦

昌次の年齢 (推定)

出来事

関連人物

名前の表記例

主要典拠

1544/1545

天文13/14年

0歳

加藤虎景の六男として誕生。幼名は弥五郎。

加藤虎景

弥五郎昌久

4

1561

永禄4年

17/18歳

第四次川中島の戦いで初鹿野忠次(源五郎)が戦死。信玄の命により名跡を継ぎ、初鹿野昌次と名乗る。

武田信玄, 初鹿野忠次

初鹿野昌次

5

1569

永禄12年

25/26歳

三増峠の戦いに従軍。「香車伝右衛門」の逸話が生まれる。

武田信玄, 北条氏康

昌次香車伝右衛門

10

(不明)

-

-

武田信玄の「使番十二人衆(百足衆)」に任命される。

武田信玄

初鹿野昌次

15

1575以降

天正3年以降

31/32歳以降

長篠の戦い以降、武田勝頼の側近として仕える。

武田勝頼

初鹿野信昌

8

1582

天正10年

38/39歳

甲州征伐。武田家滅亡。領民に妻子を人質に取られ、勝頼に合流できず。その後、天正壬午の乱を経て徳川家康に仕える。

武田勝頼, 徳川家康

初鹿野信昌

2

1584

天正12年

40/41歳

小牧・長久手の戦いに従軍。

徳川家康

初鹿野信昌

10

1590

天正18年

46/47歳

小田原征伐に従軍。家康の関東入府に伴い、武蔵国足立郡土呂村に700石の知行地を与えられ、土呂陣屋を築く。

徳川家康

初鹿野昌久

6

1600

慶長5年

56/57歳

関ヶ原の戦いに家康本陣の使番として従軍。土呂村に御嶽社を勧請。

徳川家康

初鹿野昌久

10

1614-1615

慶長19-元和元年

70-72歳

大坂の陣(冬・夏)に従軍。

徳川家康

初鹿野信昌

10

1624

寛永元年

80/81歳

11月15日、死去。享年は81歳(『甲斐国志』)または84歳(『寛政重修諸家譜』)。

-

初鹿野信昌

4

引用文献

  1. 初鹿野(はじかの)の歴史について - はじかのひろき(ハジカノヒロキ) - 選挙ドットコム https://go2senkyo.com/seijika/188218/posts/862898
  2. 初鹿野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%B9%BF%E9%87%8E%E6%B0%8F
  3. 武家家伝_初鹿野氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/k_hazika.html
  4. マイナー武将列伝・初鹿野伝右衛門 - BIGLOBE http://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/bu_0024.htm
  5. 初鹿野忠次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%B9%BF%E9%87%8E%E5%BF%A0%E6%AC%A1
  6. 徳川の旗本、初鹿野信昌築造の土呂陣屋 https://ameblo.jp/0123gogogo/entry-12511735480.html
  7. 初鹿野昌次 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/HajikanoMasatsugu.html
  8. 初鹿野昌次 (はじかの まさつぐ) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12030880036.html
  9. 猪突猛進「香車の伝右衛門」こと戦国武将・初鹿野信昌が陣羽織に仕込んだネタにアッパレ! https://mag.japaaan.com/archives/174800
  10. 初鹿野信昌 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%B9%BF%E9%87%8E%E4%BF%A1%E6%98%8C
  11. 川中島合戦はなぜ起こったのか、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは本当なの? - 額縁のタカハシ https://www.gakubuti.net/framart/why_happen.html
  12. 『第四次川中島の戦い』陣形や布陣図を使って解説!勝敗はどっち? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/kawanakajimanotatakai-layout/
  13. 歴史の目的をめぐって 初鹿野忠次 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-26-hajikano-tadatsugu.html
  14. 初鹿野河内守 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/hajikano.html
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