戦国時代の播磨国にその名を刻んだ武将、別所就治(べっしょ なりはる)。彼は一般に、羽柴秀吉との壮絶な籠城戦「三木合戦」で知られる別所長治の祖父として、また、主家である赤松氏の衰退に乗じて勢力を拡大し、東播磨八郡を支配する別所氏の最盛期を築いた人物として認識されている 1 。しかし、その輝かしい功績の裏側には、彼の出自や家督継承の過程を巡る数多くの謎が存在し、その実像は未だ厚い歴史のヴェールに包まれている。
通説として、彼の生没年は大永2年(1502年)から永禄6年(1563年)とされるが 4 、その系譜については錯綜を極めている。彼を別所氏中興の祖・則治(のりはる)の直接の子とする説 6 と、則治の子・則定(のりさだ)の子、すなわち則治の孫とする説 4 が対立しているのである。この混乱の根源には、別所氏そのものの系図が10種類以上も現存し、それぞれが異なる伝承を記しているという史料的な問題がある 9 。この事実は、就治という一人の武将を理解する上で、彼が属した別所氏自体の成り立ちがいかに複雑であったかを示唆している。
本報告書は、これらの錯綜した情報を丹念に整理・分析し、別所就治の生涯を多角的に再構築する試みである。彼の出自の謎を解き明かすことから始め、「赤松氏からの独立」「畿内政局への参画」「領国経営者としての側面」、そして「次代への遺産」という四つの視点から、その生涯を立体的に描き出す。就治が単なる地方豪族に留まらず、いかにして時代の潮流を読み、播磨という地で独自の勢力を築き上げ、そしてその成功が次代にどのような光と影を落としたのかを明らかにすることを目的とする。以下の年譜は、本報告書で詳述する彼の生涯を概観するための一助となるであろう。
【別所就治 年譜(推定)】
西暦(和暦) |
年齢(推定) |
出来事 |
関連史料 |
1502年(文亀2年) |
1歳 |
生誕 |
4 |
1513年(永正10年) |
12歳 |
祖父(または父)・則治が死去。家督継承の時期はこれ以降とみられる。 |
9 |
1530年(享禄3年) |
29歳 |
柳本賢治と結び、宿敵・依藤氏を攻撃するも、賢治の暗殺により一時敗走。 |
11 |
1539年(天文8年) |
38歳 |
尼子晴久軍による第一次三木城攻撃を撃退。 |
11 |
1553年(天文22年) |
52歳 |
尼子晴久軍による第二次三木城攻撃を再び撃退。 |
7 |
1556年(弘治2年) |
55歳 |
嫡男・安治に家督を譲り隠居。 |
5 |
1559年(永禄2年) |
58歳 |
三好長慶の河内攻めに播磨衆を率いて参陣。同年、依藤氏を滅ぼし東播磨の覇権を確立。 |
15 |
1563年(永禄6年) |
62歳 |
死去。 |
4 |
この年譜が示すように、就治の生涯は、播磨国内の地域紛争から、尼子氏や三好氏といった巨大勢力との対決、そして畿内政局への関与まで、極めて広範なスケールで展開された。彼の行動を追うことは、戦国時代中期における一地方権力の興亡の軌跡を辿ることに他ならない。
別所就治の活躍を理解するためには、まず、彼に先立って別所氏の礎を築いた「中興の祖」、別所則治の存在を欠かすことはできない。則治の台頭は、主家である赤松家内部の複雑な権力闘争を背景としており、彼の功績こそが、次代の就治が独立大名へと飛躍するための重要な布石となった。
別所氏は、播磨の守護大名・赤松氏の庶流とされている 17 。その祖先は赤松季則の子・頼清が播磨国加西郡別所村に住んだことに始まるとの説もあるが 2 、現存する系図は多岐にわたり、その出自は混沌としているのが実情である 9 。室町時代を通じて播磨国内で別所姓の人物が散見されるものの、その活動は断片的であり、明確な系譜をたどることは困難である 9 。元々は美作国境に近い佐用郡を本貫としていた可能性も指摘されており 19 、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で主君・赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を殺害した際には、主家と共に別所氏も一時衰退したとみられる 1 。
別所氏が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、別所則治の代からである。彼は「忽然と史上に登場する」と評されるほど、その前半生は謎に包まれている 11 。彼の活躍が顕著になるのは、応仁の乱(1467-1477年)を契機に、没落していた赤松氏が旧領回復を目指す過程においてであった。
文明15年(1483年)、赤松政則が但馬守護・山名政豊に大敗を喫し、家臣団の有力者であった浦上則宗らによって播磨から追放されるという事件が起こる 11 。この危機的状況において、則治は堺に亡命していた政則を擁して密かに入京し、前将軍・足利義政に働きかけるという重要な役割を果たした 11 。この行動が、則治の運命を大きく変えることになる。その後、政則は勢力を盛り返し、山名氏との間で約6年間にわたる播磨争奪戦を繰り広げるが、則治はこの戦いの中で着実に軍功を重ね、長享2年(1488年)には山名勢力の播磨からの駆逐に成功した 9 。
主君・政則の復権と播磨平定に多大な貢献をした則治は、その功績を認められ、東播磨八郡を管轄する守護代という破格の地位を与えられた 9 。そして明応元年(1492年)頃、交通の要衝である三木の地に釜山城(後の三木城)を築城し、別所氏の勢力基盤を確立した 1 。この功績により、則治は「別所氏中興の祖」と称されるに至る 1 。
しかし、この抜擢は単なる論功行賞以上の、高度な政治的意図を含んでいた。当時の赤松家では、浦上則宗をはじめとする譜代の家臣団が強大な権力を持っていた。一度は彼らに追放された経験を持つ政則にとって、これらの旧来勢力の権力を牽制し、自身の権力基盤を安定させることは急務であった。そこで政則は、自らの手で取り立てた新興勢力である則治を、浦上則宗と並び立つ存在として守護代に任じることで、家臣団内部に意図的なパワーバランスを創出しようとしたのである 9 。
このように、別所則治の台頭は、赤松家内部の権力闘争という特殊な状況が生み出したものであった。彼の権力は、主君・政則の個人的な信頼と、浦上氏への対抗勢力としての政治的必要性に支えられていた。この構造は、主家の権威が揺らげば別所氏の立場も不安定になる一方で、主家がさらに弱体化すれば、別所氏が自立する機会にも繋がるという、両刃の剣であった。この力学こそが、次代の就治の行動を規定する重要な背景となるのである。
別所氏の礎を築いた則治の後、家督を継いだのが別所就治である。しかし、この家督継承の過程は、彼の出自そのものと深く関わる大きな謎に包まれている。史料に残された断片的な情報を繋ぎ合わせ、諸説を比較検討することで、その最も蓋然性の高い歴史像に迫る。
別所就治の系譜については、大きく分けて二つの説が存在し、これが研究者を悩ませる最大の要因となっている。
一つは、就治を則治の「孫」とする説である。これは、則治の子として則定(のりさだ、法名は耕月)という人物がいたものの、彼が早逝したため、その子である就治が祖父・則治の跡を継いだとする見方である 6 。中国語版Wikipediaや一部の系図はこの説を採っており 4 、比較的有力な説として扱われることが多い。
もう一つは、就治を則治の直接の「子」とする説である 6 。この場合、則定の存在は介在せず、親子二代での継承となる。
この混乱は、別所氏の系図そのものの信頼性が低いことに起因する。則治が新興勢力として台頭したため、その出自を飾るために後世に様々な系図が作成され、かえって情報が錯綜した可能性が考えられる。
問題をさらに複雑にしているのが、「村治(むらはる)」という名の存在である。史料上、則治の子として「村治」という名が確認できる 11 。この「村」の字は、則治の死後、赤松宗家を継いだ赤松義村(よしむら、在位:1507-1521年)から偏諱(主君が家臣に名前の一字を与えること)として与えられた可能性が高いと指摘されている 11 。
一方で、「就治」という名が史料に初めて登場するのは、享禄3年(1530年)、彼が上洛して柳本賢治に支援を要請した際の記録である 11 。両者の活動時期や、東播磨の領主という立場が重なることから、この「村治」と「就治」は同一人物であり、元服時に「村治」と名乗り、後に何らかの理由で「就治」へと改名したとする説が極めて有力視されている 11 。
これらの断片的な情報を統合すると、一つの説得力ある仮説が浮かび上がる。それは、「 則治の子・則定が家督を継ぐことなく早逝したため、その子である村治(後の就治)が、祖父・則治の後見のもと、あるいはその死後に家督を継承した 」という流れである。
この仮説に基づけば、一連の謎が合理的に説明できる。まず、「村治」と「就治」が同一人物であると仮定する。次に、鍵となるのが則定の「早逝」である 6 。則治は永正10年(1513年)に没している 9 。もし、本来の跡継ぎであった則定がその直後、あるいはそれ以前に亡くなっていたとすれば、実質的な権力継承は祖父・則治から孫・就治(当時は村治)へと直接的、あるいは変則的な形で行われることになる。
この特殊な継承形態こそが、後世の記録において、就治が「則治の子」とも「則定の子(則治の孫)」とも解釈される余地を生んだ根本原因と考えられる。これは単なる記録の誤りというより、当時の複雑な権力移譲の実態を反映した結果と見るべきであろう。この仮説は、系図の混乱、則定の早逝、そして村治と就治の同一性という、一見バラバラに見える情報を一つの論理的な物語として結びつけ、就治のキャリアの出発点をより明確にするものである。
【別所氏系図(諸説の整理)】
説 |
系譜 |
史料的根拠(一部) |
解説 |
孫説(有力) |
別所則治 → 別所則定(早逝) → 別所就治 |
4 |
則定が家督を継ぐ前に亡くなったため、祖父・則治から孫・就治へ実質的な権力移譲が行われたとする説。 |
子説 |
別所則治 → 別所就治 |
6 |
則定の存在を介さず、就治を則治の直接の子と見なす説。変則的な継承を簡略化した記録の可能性がある。 |
名前の変遷 |
村治 (赤松義村から偏諱)→ 就治 |
11 |
元服時に主君・赤松義村から一字を賜り「村治」と名乗り、後に政治状況の変化に伴い「就治」へ改名したとする説。 |
別所就治が家督を継承した16世紀前半の播磨国は、大きな転換期にあった。守護・赤松氏の権威は失墜し、国内は群雄割拠の様相を呈していた。この権力の真空状態を好機と捉え、就治は父祖が築いた基盤の上に、名実ともに独立した戦国大名としての地位を確立していく。
別所氏台頭の背景には、主家である赤松氏の急速な衰退があった。赤松政則の死後、赤松宗家は守護代であった浦上村宗との深刻な対立に陥る 8 。永正16年(1519年)、当主・赤松義村はついに浦上村宗によって殺害され、その子である晴政(当初は政村)が傀儡として擁立される事態となった。これにより、赤松宗家の播磨における統制力は事実上崩壊した。
この結果、播磨国内では、龍野城を拠点とする赤松政秀 22 や御着城の小寺氏といった有力な国人領主たちが、それぞれ赤松氏の軛(くびき)から離れ、自立的な動きを強めていった 23 。播磨は、守護大名による一元的な支配体制が解体され、実力を持つ者が覇を競う、まさに戦国乱世の縮図と化したのである。
この権力の真空状態は、東播磨に確固たる地盤を持つ別所就治にとって、飛躍の絶好の機会であった。彼は、当初支配していた東播磨三郡 1 を基盤として、赤松氏からの実質的な独立を果たし、戦国大名として名乗りを上げた 1 。彼の独立は、もはや形骸化した守護の権威に頼るのではなく、自らの武力と領国経営能力によって領域を支配するという、新たな時代の到来を象徴するものであった。
彼の支配領域は、美嚢(みのう)、明石、加古、印南(いなみ)、加西、加東、多可、神東(じんとう)の八郡に及び、その勢力は東播磨一帯を席巻した 1 。これにより、別所氏はその最盛期を迎え、就治は播磨における最有力大名の一人として、その地位を不動のものとした。
就治の独立戦略が巧みであったのは、彼が旧主・赤松氏を完全に打倒・排除するのではなく、その権威を自らの立場を正当化するために利用した点にある。彼の行動は、単なる下克上という言葉では片付けられない、洗練された政治的リアリズムに基づいていた。
例えば、天文8年(1539年)、彼は尼子氏との関係から一時対立したものの、播磨守護である赤松晴政を三木城に迎え入れている 11 。また後年には、晴政とその嫡男・義祐が対立した際には、父に追われた義祐を居城の三木城に保護している 21 。これらの行動は、彼が赤松宗家を滅ぼすべき敵ではなく、自らの支配を正統化するための「権威の源泉」として認識していたことを示している。
実権を失った旧主を庇護下に置くことで、就治は自らが播磨の秩序維持者であることを内外に示し、他の国人領主に対する優位性を確保しようとしたのである。これは、既存の権威の衣をまといながら実質的な支配権を確立していく、過渡期の戦国大名に共通して見られる極めて高度な政治戦略であった。彼の独立は、旧秩序の「破壊」ではなく、その権威構造を巧みに利用した「乗っ取り」に近い形で行われたと言えるだろう。この現実主義こそが、彼を一代で東播磨の覇者へと押し上げた原動力の一つであった。
独立した戦国大名として東播磨に君臨した別所就治の治世は、決して平穏なものではなかった。播磨国内のライバル、西から迫る山陰の雄、そして畿内を席巻する新興勢力。彼はこれらの脅威に対し、巧みな合従連衡と現実主義的な判断を駆使して渡り合い、武威を示すことでその地位を固めていった。
就治にとって、まず乗り越えるべき障壁は、同じく赤松家臣であり、東播磨の覇権を巡って長年対立してきた依藤(よりふじ)氏であった 5 。享禄3年(1530年)、浦上村宗と結んだ依藤氏が勢力を増すと、就治はこれに対抗するため、畿内で勢威を振るっていた細川高国配下の有力武将・柳本賢治に支援を要請した 6 。これは、播磨国内の局地的な争いを、畿内のより大きな政治的対立の構図に持ち込むことで、有利な状況を作り出そうとする高度な戦略であった。
就治は柳本軍と共に依藤氏の居城を攻撃し、一ヶ月半に及ぶ攻防戦を繰り広げた。しかし、この戦いの最中、頼みの綱であった柳本賢治が浦上方の刺客によって陣中で暗殺されるという不測の事態が発生する 12 。総大将を失った連合軍は混乱し、就治は依藤・浦上勢の反撃を受けて敗北。一時は本拠地である三木城からの逃走を余儀なくされるほどの苦境に立たされた 12 。
だが、就治はここで屈しなかった。その後の大物崩れで、依藤氏の後ろ盾であった浦上村宗が細川晴元・三好元長連合軍に敗れて戦死すると、力関係は逆転する。就治は勢力を盛り返し、相対的に弱体化した依藤氏を徐々に圧迫。そして永禄2年(1559年)頃、ついに宿敵・依藤氏を滅ぼし、長年にわたる東播磨での抗争に終止符を打ったのである 15 。この勝利は、就治が東播磨における唯一の覇者であることを決定づけるものであった。
就治の武威が播磨国外にまで知れ渡るきっかけとなったのが、山陰地方に巨大な勢力圏を築いていた尼子氏との戦いである。天文8年(1539年)、当主・尼子晴久(当時は詮久)に率いられた大軍が播磨に侵攻した。この時、播磨の国人領主の多くが尼子氏の威勢に恐れをなして次々と降伏する中、就治はただ一人、三木城に籠って徹底抗戦の構えを見せた 13 。尼子軍は三木城を包囲攻撃したが、堅固な城の守りと別所勢の士気の高さの前に攻めあぐね、ついに撃退された 13 。
さらに天文22年(1553年)にも、尼子晴久は再び播磨へ侵攻し、三木城に迫った 7 。この時も就治は動じることなくこれを退け、二度にわたって尼子氏の侵攻を頓挫させた。この戦いは、別所就治の軍事的能力と、本拠地・三木城が難攻不落の堅城であることを天下に示し、彼が播磨の独立を守る防波堤としての役割を担う実力者であることを証明するものであった。
尼子氏という巨大な外敵を退けた就治であったが、彼の戦略の真骨頂は、武力一辺倒ではない柔軟な現実主義にあった。16世紀半ば、畿内では細川晴元を打倒した三好長慶が新たな覇者として台頭し、その勢力は播磨にも及んできた。
当初、就治は細川晴元方に属していたとされるが 3 、三好長慶が有馬重則らと結んで播磨に圧力をかけてくると、これに正面から敵対する道を選ばなかった。尼子氏を撃退したほどの武勇を誇りながらも、彼は長慶の圧倒的な力を冷静に判断し、和睦を結ぶことで衝突を回避したのである 5 。
彼の現実主義は、単なる守りの姿勢に留まらなかった。永禄2年(1559年)6月、三好長慶が河内国の畠山高政を攻めるため大軍を動員した際、就治はこれに積極的に呼応した。彼は明石氏、有馬氏といった播磨の国人衆を糾合し、三好軍の一翼を担って河内へ参陣したのである 16 。この行動は、彼が「中国地方の脅威(尼子)」と「畿内の脅威(三好)」を冷静に比較衡量した結果であった。彼にとって、遠方の尼子氏と敵対し続けるよりも、隣接する畿内の覇者である三好氏と良好な関係を築くことの方が、自領の安定にとって死活的に重要だと判断したのである。
河内攻めへの参加は、彼が三好政権という新たな政治秩序の中で、播磨方面における責任者という公的な地位を確保し、自らの支配の正統性をさらに強固にするための、極めて戦略的な投資であった。この一連の動きは、就治が単なる勇将ではなく、大局を見据えた外交戦略を展開できる、優れた政治家でもあったことを雄弁に物語っている。
別所就治の真価は、その軍事的な成功のみならず、東播磨八郡という広大な領国を安定的に統治した経営手腕にも見出すことができる。彼は、本拠地・三木城を単なる軍事拠点としてではなく、政治・経済の中心地として整備し、在地産業を育成することで、別所氏の権力基盤を盤石なものとした。その統治のあり方は、孫の長治の代まで続く別所氏の繁栄の礎となった。
就治の領国経営の中核をなしたのが、父祖・則治が築き、彼自身が拡張・整備した三木城である。美嚢川左岸の台地上に位置するこの城は、典型的な中世の平山城であり、石垣を用いない土塁と堀を主体とした「土の城」としては、播磨屈指の規模と堅固さを誇った 20 。
城郭は、本丸と二の丸を中心に、新城(しんじょう)、鷹尾山城、宮ノ上要害といった複数の曲輪(くるわ)が連携して防御網を形成する、並立的な構造を持っていた 20 。城の北側は美嚢川の急流と切り立った崖、南側は山と谷という自然地形を巧みに利用した、まさに天然の要害であった 20 。
さらに特筆すべきは、三木城が単なる城郭に留まらず、城下町を内包する「惣構(そうがまえ)」の構造を持っていた可能性が高いことである 13 。姫路道、明石道、有馬道(湯の山街道)など五つの主要街道が交差する交通の要衝に位置し 27 、これらの街道を城下に取り込むことで、物流を支配し、領主と領民が一体となって領土を防衛する、先進的な城郭都市を形成していたと考えられる。この構造こそが、尼子氏の大軍を退け、後の三木合戦で2年近くもの籠城を可能にした物理的・精神的な基盤であった。
就治の統治者としての先見性は、城下町の形成と産業育成策に顕著に表れている。彼は、領国の富国強兵を目指し、城下に多くの職人や商人を積極的に集住させた。
特に木工職人は優遇され、城下には多くの大工が住んでいたと伝わる 13 。これは、城や寺社の建設に不可欠な技術者集団を確保する目的があった。さらに、天文4年(1535年)頃からは、大和国から瓦職人である橘氏一門を招き、三木を拠点として播磨一円の寺院の瓦を製作させている 13 。これは、地域の文化的インフラ整備を主導することで、領主としての権威を高める狙いもあっただろう。
また、軍事力と直結する鋳物生産にも力を入れた。姫路を拠点とする鋳物師を召し抱え、別所氏の支配領域内での鋳物師としての仕事を独占させた記録が残っている 13 。これは、刀や武具の安定的な生産体制を確立するための重要な政策であった。
これらの職人集住政策は、直接的な軍事・建設需要に応えるだけでなく、三木の地に高度な技術を集積させる効果をもたらした。この技術の蓄積こそが、戦国時代の終焉後、三木が「金物のまち」として全国に名を馳せることになる、その遠い源流となったのである 30 。
就治が支配した播磨国、特にその沿岸部と内陸部は、元来経済的に豊かな地域であった。瀬戸内海に面した立地は海上交通の要衝であり 32 、古くから製塩業が盛んであった 33 。また、内陸部では製鉄や製紙、窯業なども行われており、多様な産業が領国の経済基盤を支えていた 34 。
さらに、人的・社会的な側面として、播磨が浄土真宗の門徒勢力が非常に強い地域であったことも見逃せない。戦国大名にとって、強固な信仰で結ばれた門徒組織は、時に脅威となり、時に強力な味方となった。後の三木合戦において、別所長治が籠城した際に、多くの浄土真宗門徒が城内に馳せ参じ、共に戦った事実が記録されている 35 。このことから逆算すれば、就治の時代から別所氏は門徒勢力と協力関係を築き、あるいは巧みに統制することで、人的・経済的なリソースを確保していた可能性が高い。
就治の強さの根源は、個人の武勇や軍事力だけでなく、こうした領国の経済力を体系的に強化し、社会構造を把握して統治する、優れた経営能力に支えられていた。城郭の整備、交通網の掌握、産業の育成、そして人的資源の活用。これらを有機的に結びつけた彼の領国経営は、一代で別所氏を東播磨の覇者へと押し上げた最大の要因であり、彼の統治者としての一面を色濃く示している。
永禄2年(1559年)に宿敵・依藤氏を滅ぼし、三好長慶の河内攻めに参陣して畿内の新秩序にも組み込まれた別所就治の治世は、安定期を迎える。彼は自らが築き上げた最盛期を次代に引き継ぐべく、周到な権力移譲を行った。しかし、彼が遺した強大な力と独立の気風は、皮肉にも次世代における深刻な対立の火種となり、別所家の未来に光と影の両方を落とすことになる。
三好長慶との和睦以降、大きな戦乱から距離を置いた就治は、領国経営に専念し、安定した治世を享受した。そして弘治2年(1556年)、彼は嫡男である安治(やすはる)に家督を譲り、自らは隠居の身となった 5 。これは、戦国大名にありがちな後継者争いを未然に防ぎ、権力の安定的な継承を意図した、計画的な禅譲であったと考えられる。その後、就治は永禄6年(1563年)に62歳の生涯を閉じた 5 。彼が築いた東播磨の覇権は、円滑に次代へと引き継がれたかに見えた。
就治には、安治、吉親(よしちか)、重宗(しげむね)という、それぞれに異なる個性を持つ息子たちがいた。彼らの関係性が、就治亡き後の別所家の運命を大きく左右することになる。
安治の存命中は、彼の強力なリーダーシップと信長への明確な協力姿勢によって、家中の路線対立は水面下に抑えられていた。しかし、彼の早逝と、まだ若年の長治が家督を継いだことで、後見人である叔父たちの対立が一気に先鋭化する。別所家が進むべき道を巡るこの深刻な亀裂が、最終的に長治を信長への反逆に踏み切らせ、あの壮絶な「三木の干し殺し」と、それに続く一族の滅亡を招く直接的な引き金となったのである 2 。
就治が一代で築き上げた成功と、独立大名としての誇り。それ自体が、時代の大きなうねりの中で、次世代にとっては乗り越えるべきか、固守すべきかを巡る、あまりにも重い遺産となってしまった。就治の遺した「独立性」と「現実主義(従属性)」という二つの側面が、それぞれ吉親と重宗という息子たちに分かれて継承され、激しく衝突した結果が、別所家の悲劇であった。就治の成功が、皮肉にも次代の破滅の種を内包していたという、歴史の非情さがここにはっきりと見て取れる。
別所就治の生涯を振り返る時、彼は単に「三木合戦で滅んだ悲劇の将・別所長治の祖父」という、後世からの消極的な評価に留まるべき人物ではないことが明らかになる。むしろ彼は、主家の内紛と守護大名体制の崩壊という時代の好機を的確に捉え、卓越した政治・軍事・経済の総合的な手腕によって、一代にして東播磨に独立勢力を築き上げた、戦国時代中期を代表する「創業型大名」として、より積極的に評価されるべきである。
彼の功績は、次代に偉大な「光」の遺産を残した。彼が拡張・整備した堅城・三木城、職人技術の集積と交通網の掌握によって支えられた豊かな経済基盤、そして播磨の国人衆や民衆から寄せられた信望。これら全てが、孫の長治が、天下人・織田信長とその総力戦体制に2年近くも抗戦することを可能にした原動力であった。秀吉をして「三木の干し殺し」という、当時としては異例の長期包囲・兵糧攻めに追い込ませた別所氏の底力は、まさしく就治が築き上げた遺産の賜物であった。
しかし、その成功は同時に、次代を破滅へと導く「影」の側面も内包していた。彼が確立した「独立大名」としての強烈なプライドと、畿内の覇者に巧みに従属することで生き残りを図る「現実主義」という、一見すると二律背反の政治姿勢。この二つの遺産は、強力な後継者であった安治の早逝後、吉親と重宗という息子たちの間で深刻な路線対立として噴出した。旧来の独立性を守ろうとする者と、時代の変化に対応しようとする者との間に生まれた埋めがたい亀裂は、最終的に別所家を滅亡へと導いた。
結論として、別所就治の生涯は、守護大名体制が崩壊し、実力主義の国人領主が新たな支配者として台頭する戦国時代中期の動乱を、まさに象徴するものであった。彼の成功と、その成功が内包していた矛盾がもたらした次代の悲劇は、一つの地方勢力が時代の大きな転換期にいかにして適応し、あるいは適応しきれずに淘汰されていったかを示す、極めて貴重な歴史的ケーススタディと言える。彼の物語は、播磨という一地域の興亡史に留まらず、戦国時代そのもののダイナミズムと複雑性を理解する上で、我々に重要な示唆を与え続けてくれるのである。