加藤明成(かとう あきなり)は、江戸時代前期の大名として、その名を歴史に刻んでいる。しかし、その評価は決して芳しいものではない。父である「賤ヶ岳の七本槍」の一人、加藤嘉明が一代で築き上げた陸奥会津40万石という広大な所領を、家督相続からわずか12年で失った人物として記憶されている 1 。後世の編纂物では、金銭に執着し「一歩殿(いっぽどの)」と揶揄され、悪政によって領民を苦しめ、家臣団との対立の末にお家騒動(会津騒動)を引き起こし、ついには改易に至った暗君として描かれることが多い 3 。
しかし、この単純な「暗君」というレッテルは、加藤明成という人物の全体像を捉えきれているのだろうか。本報告書は、この定説に疑問を呈し、明成の生涯を多角的に再検討することを目的とする。偉大すぎる父・嘉明が遺した武断的な「家風」という重圧、藩主として直面した深刻な財政難と寛永の大飢饉という天災、そして幕藩体制が確立していく時代の変化の中で、彼がどのような役割を担い、なぜ破滅へと至ったのか。会津騒動の経緯、幕府の裁定、そして改易後の人生までを詳細に追うことで、単なる悪役ではない、より複雑で悲劇的な一人の大名の姿を浮き彫りにする。
年号 |
西暦 |
明成の年齢 |
出来事 |
関連史料 |
天正20年 |
1592年 |
0歳 |
山城国にて、加藤嘉明の長男として誕生。幼名は孫次郎。 |
1 |
元和元年 |
1615年 |
24歳 |
大坂冬の陣に、江戸城留守居役の父・嘉明に代わって出陣。 |
2 |
寛永8年 |
1631年 |
40歳 |
父・嘉明の死去に伴い、家督を相続。陸奥会津藩40万石の第2代藩主となる。 |
1 |
寛永16年 |
1639年 |
48歳 |
会津若松城の天守閣を5層に改修。家老・堀主水が一族郎党を率いて出奔(会津騒動)。 |
2 |
寛永18年 |
1641年 |
50歳 |
幕府の裁定により、出奔した堀主水の身柄が引き渡され、これを処刑する。 |
2 |
寛永19年 |
1642年 |
51歳 |
寛永の大飢饉が会津を襲い、重税と相まって領民の困窮が深刻化。約2000人が他藩へ逃散。 |
3 |
寛永20年 |
1643年 |
52歳 |
病身と藩政の困難を理由に、所領40万石の返上を幕府に申し出る。幕府はこれを受理し、会津加藤家は改易となる。 |
2 |
寛永20年 |
1643年 |
52歳 |
父・嘉明の功績により、嫡男・明友が石見国吉永に1万石を与えられ、家名存続が許される。明成は同地で隠居。 |
12 |
万治4年 |
1661年 |
70歳 |
石見国吉永にて死去。戒名は円通院休意。墓所は京都市東山の東大谷墓地。 |
1 |
加藤明成の生涯を理解するためには、まず彼の父であり、戦国時代を代表する猛将の一人である加藤嘉明の存在を抜きにしては語れない。嘉明が築き上げた栄光と、彼が形成した独特の「家風」は、明成にとって栄誉であると同時に、彼の運命を大きく左右する重圧となった。
加藤嘉明の出自は、決して恵まれたものではなかった。三河国の出身で、父・教明は三河一向一揆の際に徳川家康に敵対し、敗北後は流浪の身となった 14 。その後、親子は近江国で羽柴秀吉に仕える機会を得る。嘉明は当初、秀吉の養子・羽柴秀勝の小姓であったが、1576年、主君に無断で播磨攻めに参加した逸話が残る。この無断出陣を秀吉は咎めるどころか、その心意気を評価し、直臣に取り立てたという 6 。
この逸話に象徴されるように、嘉明は自らの武勇と才覚で道を切り開いた典型的な戦国武将であった。1583年の賤ヶ岳の戦いでは、福島正則や加藤清正らと共に目覚ましい活躍を見せ、「賤ヶ岳の七本槍」の一人としてその名を轟かせ、3,000石の加増を受けた 16 。その後も秀吉配下の水軍の将として九州征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役で戦功を重ね、伊予国に10万石を領する大名へと成長した 6 。
秀吉の死後は、早くから徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として戦い、その功績により伊予松山20万石に加増転封された 6 。さらに徳川幕府の下でもその武勇と忠誠は高く評価され、3代将軍・家光の介添役を務めるなどの名誉を得た後、寛永4年(1627年)、東北の要衝である会津40万石(資料によっては42万石、43万5500石とも 7 )へと移封された 6 。これは、幕府が外様大名でありながらも嘉明の武門としての実力を信頼し、伊達政宗をはじめとする東北諸大名への抑えとして期待した証左であった 15 。
嘉明の成功は、彼の「剛毅(ごうき)」、すなわち何事にも屈しない強固な意志と行動力に支えられていた。しかし、その剛直さは時として同僚や家臣との激しい衝突を生んだ。例えば、同じ七本槍の藤堂高虎とは戦功を巡って長年不仲であり、一触即発の事態も引き起こしている 15 。また、一度家臣となった者が他家に仕官することを許さない「奉公構」を徹底し、出奔した家臣を執拗に追い詰めるなど、主従関係において極めて厳格な姿勢を貫いた 15 。
この嘉明の生き様そのものが、加藤家の「家風」となった。それは、一代で大藩を築き上げた成功体験に裏打ちされた、妥協を許さない厳格な支配の流儀であった。しかし、戦乱の世を生き抜くために培われたこの家風は、泰平の世を治める二代目にとっては、必ずしも有効な指針ではなかった。
明成は、天正20年(1592年)に山城国で生まれ、父の栄光の中で育った二代目であった 2 。彼にかけられた期待は、父が築いた武門の名家を、徳川の世において安泰なものとすることであった。嘉明の遺言とされる逸話は、その期待の大きさを物語っている。一つは、病床の嘉明が重臣の堀主水を呼び寄せ、藩の印章を預け、「明成が過ちを犯したならば、決してこの印を押してはならぬ」と命じたというものである 18 。また、家臣が大事な皿を割った際、嘉明は残りの皿も全て割り、「家臣は我が四肢である。逸品であろうと家来には代えられぬ」と諭したという話も伝わる 16 。これらの逸話が史実か否かは別として、嘉明が家臣との関係や藩主の在り方について強い信念を持っていたこと、そして息子・明成の将来を案じていたことが窺える。
偉大な父が遺したものは、40万石の広大な領地だけではなかった。それは同時に、「剛毅」であらねばならないという強烈なプレッシャーと、平和な時代にはそぐわない可能性を秘めた統治スタイルでもあった。明成は、父の武勇伝と成功譚を規範としながらも、父とは異なる時代、異なる状況下で藩主としての重責を担うことになったのである。
寛永8年(1631年)、父・嘉明の死を受けて40歳で家督を相続した明成は、会津40万石という大大名の二代目として藩政を開始した 1 。その治世は、近世会津の礎を築いた功績と、藩を破滅に導いたとされる失政の両面から評価される。
明成の藩主としての最大の功績は、若松城(鶴ヶ城)の大改修と城下町の整備である 1 。
これらの事業は、藩の威信を高め、領国の基盤を固める上で重要な治績であった。しかし、その一方で莫大な費用を要し、藩財政を圧迫する一因ともなった 3 。
明成の治世は、後世の史書において「悪政」として厳しく批判されている。その象徴が「一歩殿(いっぽどの)」という不名誉な渾名である。
加藤明成の治世における最大の汚点であり、改易の直接的な引き金となったのが「会津騒動」である。この事件は、藩主と重臣の対立が、幕藩体制の根幹を揺るがしかねない事態へと発展したものであった。
騒動の中心人物は、藩主・明成と、筆頭家老であった堀主水(ほり もんど)である 3 。堀主水は、もとは多賀井という姓であったが、大坂の陣での武功により、先代藩主・嘉明から「堀」の姓を賜ったほどの功臣であった 4 。彼は戦国時代の気骨を持つ武士であり、嘉明から絶大な信頼を寄せられていた 4 。
父の代からの重臣である主水は、明成の藩政運営、特に厳しい財政政策や家臣への対応に対して、繰り返し諫言を行ったとされる 4 。しかし、父・嘉明のような剛毅さを自らの統治の核としようとする明成にとって、主水の諫言は耳の痛いものであり、両者の関係は次第に悪化していった 25 。
決定的な亀裂は、主水の家来と明成の直臣との間で起きた些細な喧嘩をきっかけに生じた 25 。この裁定において、明成は主水の家来に非があるとし、さらに主水本人にも連座責任を問い、蟄居を命じた。この理不尽な処置に対し、主水は激しく抗議したが、明成は怒って主水を家老職から罷免するという強硬手段に出た 4 。
寛永16年(1639年)4月、家老職を解かれ、藩内での立場を失った堀主水は、ついに実力行使に出る。弟の多賀井又八郎ら一族郎党300余名を率い、白昼堂々と会津若松城下から退去したのである 2 。これは単なる脱藩ではなかった。彼らは若松城に向かって威嚇の鉄砲を撃ちかけ、関所を強行突破するという、幕府の法度を公然と破る暴挙に出た 4 。この行動は、主君への恭順を絶対とする武家社会において、極めて重大な反逆行為と見なされた。
主水一行はまず鎌倉に立ち寄り妻子を東慶寺に預けた後、高野山金剛峯寺に庇護を求めた 4 。激怒した明成は、会津40万石の威信にかけて主水らの引き渡しを要求。高野山もこれを匿いきれず、主水は紀州藩を頼ったが、ここにも追手が迫った 4 。進退窮まった主水は、江戸へ出て幕府の大目付に直訴する道を選ぶ。訴状では、明成の苛政に加え、幕府の許可なき城の改築や関所の新設といった違法行為を告発した 2 。
この前代未聞の騒動に対し、3代将軍・徳川家光自らが裁断を下した 18 。幕府の判断は、封建社会の秩序維持を最優先するものであった。たとえ主君に非があったとしても、家臣が主君に叛き、城に鉄砲を撃ちかけるなどの行為は「家臣の礼を失ひ国家の法をみだる」ものであり、断じて許されないとされた 4 。
その結果、寛永18年(1641年)、堀主水とその弟・多賀井又八郎、真鍋小兵衛の身柄は明成に引き渡され、江戸の加藤家下屋敷にて斬首という形で処刑された 2 。主水の訴えは退けられ、騒動は表向きには明成の勝利に終わった。
この騒動には、後日談として有名な逸話が残されている。明成は主水の処刑後も怒りが収まらず、鎌倉の東慶寺に逃げ込んでいた主水の妻子まで引き渡すよう要求した 25 。この時、東慶寺の住持であった天秀尼(豊臣秀頼の娘で、千姫の養女)が、「当寺は頼朝公以来の駆け込み寺であり、罪人であろうと引き渡した前例はない。理不尽な要求をするならば、加藤家を滅ぼすか、この寺を潰すか、二つに一つである」と啖呵を切り、養母の千姫を通じて幕府に訴えたという 25 。
この天秀尼の逸話は、主に『武将感状記』などの後代の逸話集に見られるもので、『徳川実紀』のような幕府の公式記録には登場しない 28 。そのため、史実としての信憑性には疑問が残るものの 31 、この物語が生まれるほど、明成の執拗な追及と、それに抵抗する勢力が存在したという当時の空気を伝えている。結果的に、主水の妻子は引き渡されることなく、保護された 25 。
この一連の騒動は、明成が藩内の統制を完全に失っていることを幕府に露呈させる結果となった。主水は処刑されたが、明成の藩主としての権威と立場は、もはや回復不可能なほどに傷ついていたのである。
会津騒動は堀主水の処刑によって一旦の決着を見たが、加藤家の運命はすでに暗転していた。騒動は幕府に明成の統治能力への深刻な疑念を抱かせ、最終的に40万石という大領地の没収、すなわち改易へと繋がっていく。
堀主水の処刑から2年後の寛永20年(1643年)5月、加藤明成は自ら幕府に対し、会津40万石の所領を返上したいと申し出た 2 。その理由として「近年病身となり、国政を執るに堪えられず、また藩政を任せられる良き家来もいなくなった」ことを挙げている 11 。この申し出は、前年からの寛永の大飢饉による領内の疲弊と多数の農民逃散という事態も背景にあった 3 。
幕府の公式記録である『徳川実紀』や、稲葉家に伝わる文書によれば、幕府老中たちは当初、明成を説得しようと試みた 4 。将軍家光も、父・嘉明の功績に免じて、明成は隠居させ、庶長子の明友(あきとも)に家督を継がせるという温情ある裁定を内々に示していた 11 。
しかし、ここでも明成は父譲りの剛毅さ、あるいは頑固さを見せる。彼は、明友が正室の子ではなく側室の子であることを理由に、この幕府の裁定を頑なに拒否したのである 12 。この明成の対応が、加藤家の運命を決定づけた。幕府は明成の申し出を受け入れ、会津40万石は没収、加藤家は改易となった 33 。この処分は、騒動を起こした当事者である明成だけでなく、支藩であった二本松藩の加藤家にも及んだ 33 。
会津40万石という大領を失ったものの、幕府は「賤ヶ岳の七本槍」として徳川家に尽くした加藤嘉明の功績を完全に無にはしなかった。明成の改易と同時に、その子・明友に石見国安濃郡吉永(現在の島根県大田市)において1万石の所領が新たに与えられ、加藤家の家名存続が許された 12 。
改易後、明成は剃髪して「休意(きゅうい)」と号し、息子・明友の領地である石見国吉永に下って隠居生活を送った 7 。彼は藩政に口を出すことなく静かな余生を送り、万治4年(1661年)1月21日、70歳でその生涯を閉じた 1 。墓所は京都市東山区の東大谷墓地にある 1 。
一方、新たに吉永藩主となった加藤明友は、父とは対照的に堅実な藩政を行った。明友自身は江戸で奏者番という幕府の要職に就くことが多かったため、実際の領国経営は会津から付き従ってきた優秀な家臣団が中心となって担った 35 。彼らは三瓶山での牛の放牧を始めるなど、地域の特性を活かした産業振興策に取り組み、その後の大田市の産業の礎を築いたと評価されている 35 。また、大田市に伝わる「天ぷらまんじゅう」という郷土食は、会津から移り住んだ加藤家の人々によって伝えられた文化ではないかという説もある 36 。
加藤家は吉永藩1万石の大名として再出発を果たした後、再び栄達の道を歩む。天和2年(1682年)、明友は祖父・嘉明の功績と自身の幕府への忠勤が評価され、1万石を加増の上で近江国水口(現在の滋賀県甲賀市)2万石へ転封となった 1 。
水口藩主となった加藤家は、その後、譜代大名の格式を与えられ、代々藩主を務め、明治維新を迎えることとなる 37 。明成の代で失った40万石の栄華を取り戻すことはなかったが、その子孫は小藩ながらも大名家として存続し、父祖の功績と息子の努力によって家名を後世に伝えたのである。
加藤明成の生涯は、一般に「偉大な父の遺産を食い潰した暗君」という物語で語られる。確かに、彼の治世下で藩政が混乱し、最終的に40万石の大封を失った事実は動かない。しかし、その背景を詳細に分析すると、単純な個人の資質の問題だけでは片付けられない、より複雑な要因が浮かび上がってくる。
第一に、父・加藤嘉明が築いた「剛毅」な家風の存在である。戦国の世を武勇と気骨で駆け上がった嘉明にとって、その uncompromising な姿勢は成功の源泉であった。しかし、幕藩体制が確立し、武力よりも統治能力や協調性が求められるようになった江戸時代において、その家風は時代錯誤となりつつあった。明成は、父の成功体験を絶対視するあまり、その「剛毅さ」を柔軟性に欠ける頑迷さとして発揮してしまい、家臣団との融和を損なった 15 。堀主水との対立は、まさに旧時代の価値観と新時代の統治のあり方の衝突であったと言える。
第二に、明成が直面した客観的な困難である。若松城の改修や江戸城の普請手伝いといった幕府からの要求は藩財政に重くのしかかり 3 、その負担は必然的に領民への増税へと繋がった。そこに寛永の大飢饉という未曾有の天災が追い打ちをかけ、領内は疲弊した 9 。彼の「悪政」とされる施策の多くは、こうした財政的・社会的危機への、不器用で強引な対応であった可能性が高い。後世に作られた「一歩殿」という逸話は、そうした彼の苦境を捨象し、単なる強欲な君主という分かりやすい物語に単純化したものと見るべきであろう 4 。
第三に、会津騒動から改易に至る過程における幕府の政治的意図である。幕府は、主君に反旗を翻した堀主水を処罰することで、武家の主従秩序の絶対性を天下に示した 4 。その上で、藩内をまとめきれず、幕府に騒動の裁定を仰ぐという失態を演じた明成を、統治能力に欠けるとして排除した。これは、徳川の平和(パクス・トクガワーナ)を維持するためには、個々の武将の武勇よりも、安定した統治能力が重要であるという、幕府の明確な意思表示であった。明成の改易は、一個人の失敗であると同時に、戦国から江戸へと時代が転換する中で、求められる大名像の変化に適応できなかった者の悲劇であった。
最終的に、加藤明成は暗君であったというよりも、偉大な父の影に苦しみ、時代の変化の波に乗り切れなかった悲運の藩主であったと評価するのが妥当であろう。彼の功績である若松城の改築は会津の地に残り 7 、彼が失った家名は息子・明友の代に再興され幕末まで続いた 1 。その生涯は、二代目としての苦悩、そして絶対的な主君への忠誠と藩の安定という二つの価値観が衝突した、江戸時代初期の転換期を象徴する事例として、我々に多くの教訓を与えてくれる。