最終更新日 2025-07-25

十四屋宗悟

十四屋宗悟は珠光から紹鴎へ茶の湯を繋いだ重要人物。山上宗二記で酷評されるも、名物「宗悟茄子」や肖像画から高い評価を得ていた。わび茶史のミッシングリンク。

戦国期茶人・十四屋宗悟の実像:『山上宗二記』の批判と名物「宗悟茄子」の謎をめぐって

序章:わび茶史における「謎」の存在

村田珠光(むらた じゅこう)がその礎を築き、武野紹鴎(たけの じょうおう)が深化させ、千利休(せんの りきゅう)によって大成されたと語られる「わび茶」。その発展の系譜を辿る上で、十四屋宗悟(じゅうしや そうご)という人物は、紹鴎の師として決定的に重要な環を成す存在として位置づけられる 1 。しかし、その実像は、後世の史料に残された二つの相克する評価によって、深い謎と矛盾の中に閉ざされてきた。

一方では、利休の高弟・山上宗二(やまのうえ そうじ)が記した茶の湯の秘伝書『山上宗二記』において、宗悟は「茶湯スキタル人也、但、目キカヌナリ(茶の湯は大変好む人だが、道具を鑑定する眼力はない)」と、その審美眼を痛烈に批判されている 3 。これは、茶人としての資質そのものに疑義を呈する、極めて手厳しい評価である。

しかし、もう一方では、その批判とは全く相容れない事実が存在する。宗悟は、天下に名高い唐物茶入の最高峰「大名物 宗悟茄子(そうごなすび)」の元所有者としてその名を茶道史に刻んでいる 4 。さらに、現存する茶人肖像画としては最古級に属する「十四屋宗伍像」が、彼の死後に制作されているという事実も確認されている 5 。一個人の評価として、これほどまでに矛盾した情報が残されている例は稀である。

本報告書は、この「眼力がない」と断じられた茶人が、なぜ歴史的な名物を所有し、後世に語り継がれるほどの社会的地位を築き得たのか、という根本的な矛盾を解き明かすことを目的とする。そのために、断片的に残された史料を丹念に読み解き、宗悟の生涯、彼が実践した茶の湯、そして彼が生きた戦国時代の京都という文化的ダイナミズムを多角的に分析する。これにより、これまで謎に包まれてきた十四屋宗悟という一人の茶人の実像に、可能な限り迫りたい。

第一章:十四屋宗悟の人物像と出自

1-1. 基礎情報の整理:松本宗悟という人物

十四屋宗悟に関する人物情報の根幹をなすのは、いくつかの基本的な記録である。まず、彼の姓は松本(まつもと)であったことが複数の史料で一致して伝えられている 1 。名は「宗悟」あるいは「宗伍」と表記されるが、本報告書ではより一般的に用いられる「宗悟」を主として使用する。また、号として卒休斎(そつきゅうさい)や休斎(きゅうさい)といった名も伝わっている 1

彼の生年は詳らかではないが、没年については天文21年(1552年)と明確に記録されている 1 。この没年は、わび茶の系譜における彼の位置を考える上で極めて重要である。わび茶の祖とされる村田珠光が1502年に、そして宗悟の弟子とされる武野紹鴎が1555年に没していることから、宗悟はまさに珠光から紹鴎へと茶の湯の精神が受け継がれる時代の中心に生きた人物であったことがわかる。

宗悟が活動の拠点としたのは、京都の下京であった 1 。より具体的には、室町通仏光寺上ル(現在の京都市下京区室町通仏光寺上る東側)に居を構えていたとされ、その地には現在「松本宗悟邸址」の石碑が建てられている 6 。当時の室町通は、足利三代将軍義満が造営した「花の御所」が置かれ、室町幕府の名の由来ともなった京都の中心地であった 8 。応仁の乱によって一時は荒廃したものの、戦国時代には京都の商業・文化の中心として再び活気を取り戻していた 10 。宗悟がこの一等地に居を構えていたという事実は、彼が単なる地方出身の商人ではなく、京の富裕な町衆の一員として確固たる地位を築いていたことを強く示唆している。

1-2. 「十四屋」の屋号と近江出身説の探求

宗悟の人物像をさらに深く探る上で鍵となるのが、「十四屋」という屋号と、彼の出自に関する説である。史料には「近江大津の人といわれるが確証はない」との記述が見られる 5 。確証こそないものの、この近江出身説は、戦国時代における商人の活動様態を鑑みると、非常に示唆に富んでいる。当時、近江商人は全国を行商し、特に京都や江戸に拠点を築いて大きな成功を収める例が数多く見られた 11 。近江出身の商人が、その商才を武器に文化の中心地である京都で財を成し、文化人として活動するという経歴は、十分に考えられるシナリオである。

しかし、より大きな謎として残るのが「十四屋」という屋号の由来である。近江商人の屋号には、「山形屋」のように出身地や扱う商品に由来するものが多いが 13 、「十四」という数字を冠した屋号は極めて異質であり、その直接的な由来を示す史料は見当たらない。この不可解な屋号は、単なる商業上の名称ではなく、宗悟自身の内面的な信条を反映したものである可能性を考慮すべきであろう。

ここで注目すべきは、茶の湯の発展が、特に大徳寺を中心とする禅宗と密接な関係にあったという歴史的背景である。宗悟自身も、後述するように大徳寺の僧である江隠宗顕や古岳宗亘と深い関わりを持っていたことが確認されている 1 。この仏教との繋がりを念頭に置くと、「十四」という数字は、仏教、特に『法華経』に由来する「十四誹謗(じゅうしひぼう)」という極めて重要な概念へと繋がっていく 14

「十四誹謗」とは、正法、すなわち仏の正しい教えを謗る14種類の罪を指す言葉である。具体的には、教えに対して驕り高ぶる「憍慢(きょうまん)」、修行を怠る「懈怠(けたい)」、我見で教えを判断する「計我(けいが)」、そして教えを信じる者を軽蔑し、憎み、嫉み、恨むことなどが含まれる 14 。一見すると、このような不吉とも言える言葉を屋号に掲げることは不可解に思える。しかし、これを逆説的に解釈するならば、それは自らの驕りや我執(がしゅう)を常に戒めるための、深い信仰心の表れと見ることも可能である。

この解釈は、初期のわび茶の精神とも深く共鳴する。わび茶の祖である村田珠光が遺したとされる『心の文』には、「此道、第一わろき事は、心のがまんがしやう也(この茶の湯の道において、最も悪いのは、我慢と我執である)」と記されており、慢心を戒める思想がわび茶の核心にあったことがわかる 18 。宗悟が「十四屋」という屋号を名乗ったとすれば、それは彼が日々「十四誹謗」の罪を犯すことのないよう自らを省み、珠光の教えを忠実に実践しようとした、敬虔な仏教徒であり、真摯な茶人であったことの証左となりうる。この屋号は、彼が単なる富裕な商人ではなく、深い内省と哲学を持つ文化人であったことを示唆する、強力な間接的証拠と言えるだろう。

第二章:わび茶の系譜における役割

十四屋宗悟の茶道史における重要性は、彼がわび茶の発展系譜の中で果たした役割、特に村田珠光と武野紹鴎という二人の巨人を繋ぐ「橋渡し」としての機能に集約される。しかし、その具体的な師弟関係については、史料によって記述が錯綜しており、慎重な検討を要する。

2-1. 師弟関係の錯綜

宗悟の師が誰であったかについては、主に二つの説が存在する。最も広く知られているのは、彼が「村田珠光の弟子」であったとする説である 1 。この説に従えば、宗悟はわび茶の祖から直接教えを受けた、第一世代の茶人ということになる。

一方で、より詳細な系譜を記す史料、特に『山上宗二記』の記述を基にした研究では、異なる見解が示されている。それによれば、珠光の茶は弟子の鳥居引拙(とりい いんせつ)に受け継がれ、宗悟はその引拙の弟子であったとされる 19 。この場合、宗悟は珠光の直弟子ではなく、孫弟子にあたる。

この師弟関係の解釈の違いは、主に『山上宗二記』と、それとは異なる伝承を汲むとされる『南方録』などの茶書との間の記述の差異に起因している 2 。どちらの説が歴史的により正確であるかを現存する史料のみで断定することは困難である。しかし、重要なのは、いずれの説を採るにせよ、十四屋宗悟が村田珠光によって創始された茶の湯の正統な流れを汲む人物であったという点に揺るぎはないということである。彼は、わび茶の黎明期における核心的な教えを、その身をもって体得していた人物であった。

2-2. 武野紹鴎への茶法伝授

師が誰であったかという問題以上に、宗悟の歴史における不変の功績として挙げられるのが、わび茶を深化・発展させた武野紹鴎への茶法伝授である。複数の信頼性の高い史料が、宗悟が同門の十四屋宗陳(じゅうしや そうちん)と共に、紹鴎に茶の湯を教えた師であったと記録している 1

武野紹鴎は、茶の湯の世界に入る以前、当代一流の文化人であった三条西実隆に師事して連歌を学び、和歌や古典文学に深く通じた人物であった 22 。彼が茶の湯という新たな芸道に進むにあたり、その基礎を築いたのが宗悟と宗陳であった。紹鴎は彼らから珠光以来の茶の湯の基本、すなわち禅的な精神性と具体的な点前の技術を学んだ。この土台があったからこそ、紹鴎は後に自らの深い古典の素養を茶の湯に融合させ、「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」という藤原定家の和歌にわびの心髄を見出し、独自の茶境を切り拓くことができたのである。

この意味で、宗悟は単なる一茶人にとどまらない。彼は、珠光が確立した禅宗の精神性を基盤とする茶の湯を、次代の革新者である紹鴎へと確実に繋ぐ、まさに「橋渡し役」という極めて重要な歴史的役割を果たしたのである。

表1:わび茶の主要な系譜(諸説整理)

以下に、主要な茶書に見られる村田珠光から千利休に至る師弟関係の諸説を整理する。この表は、複雑で時に矛盾する史料の記述を視覚的に比較し、どの伝承においても十四屋宗悟が珠光と紹鴎を結ぶ重要な位置を占めていることを明確に示している。

| 伝承の源流 | 村田珠光 | → | (珠光の弟子) | → | (紹鴎の師) | → | 武野紹鴎 | → | 千利休 |

| :--- | :--- | :--- | :--- | :--- | :--- | :--- | :--- | :--- |

| 『南方録』系の説 | 村田珠光 | → | 十四屋宗悟・宗陳 | → | (同左) | → | 武野紹鴎 | → | 千利休 |

| 『山上宗二記』系の説 | 村田珠光 | → | 鳥居引拙 | → | 十四屋宗悟 | → | 武野紹鴎 | → | 千利休 |

| 異説(藤田宗理説) | 村田珠光 | → | 藤田宗理 | → | (同左) | → | 武野紹鴎 | → | 千利休 |

この整理からも明らかなように、宗悟の名は、わび茶の正統な系譜を語る上で決して欠かすことのできない存在として、複数の伝承の中に確固として存在している。

第三章:『山上宗二記』における宗悟評の深層分析

十四屋宗悟の人物像を複雑にし、後世の評価を決定づけた最大の要因は、千利休の高弟・山上宗二が記した『山上宗二記』における、あの辛辣な一文である。この批判を文字通りに受け取るのではなく、その背景にある歴史的・文化的文脈を深く読み解くことによってのみ、宗悟の実像に近づくことができる。

3-1. 「目キカヌナリ」という批判

『山上宗二記』の「秘伝」と題された部分には、当時の茶人たちへの人物評が記されている。その中で宗悟は、次のように評されている。

下京宗悟、茶湯スキタル人也、但、目キカヌナリ、小道具數多所持、善キ道具無 3

(訳:下京の宗悟は、茶の湯を大変好む人だが、しかし道具を鑑定する眼力はない。小道具は数多く所持しているが、良い道具は一つもない。)

この一文は、宗悟が茶の湯への情熱は持ち合わせているものの、その核心である道具の審美眼、すなわち「目利き」の能力が欠如していると断じている。この評価を下した山上宗二は、単なる一茶人ではない。彼は、師である千利休に最も近しい弟子の一人であり、利休の茶の湯を絶対的な基準として信奉し、それを後世に正しく伝えることを自らの使命としていた人物である 24 。事実、『山上宗二記』そのものが、利休の茶の湯の正当性を証明し、その秘伝を伝えるという目的のために書かれた書物であった 26 。したがって、この宗悟評は、宗二個人の感想というよりも、利休を中心とする茶の湯集団の公式見解に近いものと考えるべきである。

3-2. 評価の背景にある価値観の対立

では、なぜ利休一派は宗悟をこれほどまでに低く評価したのか。その答えは、宗悟と宗二が生きた時代の間に起こった、茶の湯における美意識の劇的なパラダイムシフトに見出すことができる。

まず、時間的・地理的な隔たりを考慮する必要がある。宗悟が没したのは1552年であり、彼の活動の中心は京都であった。一方、『山上宗二記』が記されたのは、それから約30年後の天正14年(1586年)頃であり、その文化的背景には、新興の自由都市・堺で隆盛を極めた利休の茶の湯がある。この30年間で、茶の湯の世界は大きな変貌を遂げていた。

宗悟の時代、特に彼が属した京都の富裕な町衆の間では、美意識の基準は依然として室町将軍家以来の伝統的な価値観に強く依拠していた。すなわち、中国大陸から渡来した「唐物」と呼ばれる舶来品を至上のものとし、その格や由緒を重んじる美学が主流であった 29 。彼らにとっての「目利き」とは、こうした唐物名物の真贋を見極め、その価値を正しく評価する能力を意味していた。

これに対し、利休と宗二が主導した堺のわび茶は、まさにこの伝統的価値観に対する革命であった。彼らは、高価で華麗な唐物だけでなく、ありふれた日常の雑器や、朝鮮半島で焼かれた無名の茶碗(いわゆる高麗茶碗)、あるいは国産の素朴な焼物(「今焼」)の中に、新たな美を見出す「見立て」の精神を極限まで推し進めた 22 。それは、既成の価値に依存するのではなく、自らの眼で新たな価値を「創造」する行為であった。

この文脈で『山上宗二記』の批判を再読すると、その真意が浮かび上がってくる。宗二が言う「目利き」とは、単なる真贋鑑定能力や市場価値の判断力ではない。それは、利休が提示した「わび」という新しい美の基準に合致した道具を選び出し、茶の湯の空間全体を構成する、極めて創造的な能力を指している可能性が高い。

この革新的な基準から見れば、伝統的な唐物名物を収集し、その格式を重んじることに価値を置いていたであろう宗悟のスタイルは、独創性に欠け、「わび」の心が理解できていない古風なものと映ったに違いない。その結果が、「目キカヌナリ(眼力がない)」「善キ道具無(良い道具がない)」という、痛烈な評価に繋がったのである。

したがって、宗悟への批判は、彼の個人的な能力の欠如を単純に指摘するものではない。それはむしろ、茶の湯の歴史における美意識のパラダイムシフトを象徴する、極めて重要な言説なのである。それは、伝統を重んじる京都の茶の湯と、革新を志向する堺のわび茶との間に生じた、価値観の衝突を記録した歴史的証言と解釈すべきであろう。宗悟は、古い価値観の体現者として、新しい時代の視点から断罪されたのである。

第四章:現存する物証からの再評価

『山上宗二記』が下した厳しい評価は、長らく十四屋宗悟の人物像を規定してきた。しかし、その評価に真っ向から異を唱える、動かぬ「物証」が存在する。それらは、宗悟が単なる「目キカヌ」数寄者ではなかったことを雄弁に物語っており、彼の再評価を迫るものである。

4-1. 大名物「宗悟茄子」の雄弁な存在

宗悟の名を後世に最も強く印象付けたのは、彼がかつて所持したとされる唐物茶入「宗悟茄子(そうごなすび)」の存在である。この茶入は、数ある茶道具の中でも特に格が高いとされる「大名物」の一つに数えられており、その価値は計り知れない 4

「宗悟茄子」は、中国の南宋時代(13世紀)に作られたとされる漢作の茄子茶入である 34 。その特徴は、茄子形の茶入としては大振りでふっくらとした優美な形状、光沢のある美しい飴色の釉薬、そして肩先からむらむらと流れ落ちる青みを帯びた白釉の景色にあると評される 4 。まさに、唐物茶入の傑作と呼ぶにふさわしい品格を備えている。

この茶入の価値は、その輝かしい伝来によっても証明されている。宗悟の手を離れた後、織田信長の弟・有楽斎の子である織田長好(三五郎可休)、徳川将軍家(柳営御物)、そして老中の土屋相模守政直といった、時の権力者たちの手を経て受け継がれ、現在は五島美術館に収蔵されている 4 。「宗悟茄子」という銘が冠されていること自体、宗悟がその最初の、あるいは初期の重要な所有者として認識されていたことを示している。

ここに、根本的な矛盾が露呈する。『山上宗二記』が記すように、もし宗悟が「善キ道具」を一つも持たず、「目キカヌ」人物であったならば、なぜこのような最高級の「大名物」が彼の名を冠して後世に伝わっているのだろうか。この一点を以てしても、『山上宗二記』の評価が、ある特定の価値観に基づいた一面的なものであることは明らかである。宗悟は、少なくとも同時代の数寄者たちが垂涎する最高級の名物を所有し、それを正しく評価するだけの眼力と財力を兼ね備えていたのである。

4-2. 「十四屋宗伍像」が示す社会的地位

宗悟の人物像を再構築する上で、もう一つ極めて重要な物証が「十四屋宗伍像」である。この肖像画は、宗悟の死後、嫡子である景勝が制作を依頼したものと伝えられており、現存する茶人肖像画の中では最古級の作例として、美術史的にも非常に価値が高い 5

この肖像画の重要性をさらに高めているのが、画中に記された賛(詩文)の存在である。この賛を寄せたのは、大徳寺第86世住持であった江隠宗顕(こういん そうけん)という高僧であった 1 。大徳寺は、当時の禅宗文化の中心であり、多くの茶人が参禅し、精神的な指導を仰いだ場所である。その住持が、一介の商人に過ぎないはずの宗悟の肖像画に賛を寄せるということは、宗悟が単なる商人ではなく、大徳寺と深い交流を持ち、高い社会的・文化的名声を得ていた人物であったことを何よりも雄弁に物語っている。

さらに、他の史料によれば、宗悟は大徳寺大仙院の開祖として名高い古岳宗亘(こがく そうこう)にも参禅していたと伝えられており 4 、彼の禅宗との関わりの深さが改めて裏付けられる。

肖像画の制作と高僧による賛の存在は、宗悟が経済的な豊かさのみならず、茶の湯を通じて培われた深い精神性や、当時の文化人サークルにおける確固たる地位をも兼ね備えていたことを証明するものである。これは、『山上宗二記』が描く「道具の審美眼に欠ける数寄者」という限定的な人物像を覆し、彼の多面的な実像を浮かび上がらせる、決定的な反証と言えるだろう。

第五章:矛盾の調停と十四屋宗悟の実像

『山上宗二記』による辛辣な批判と、「宗悟茄子」や肖像画といった物証が示す高い評価。この二つの乖離した宗悟像をいかにして調停し、彼の実像を導き出すか。その鍵は、彼が生きた時代の「過渡期」という性質と、文化的中心地の「地理的差異」にある。

5-1. なぜ評価は乖離したのか

十四屋宗悟は、わび茶の歴史において、まさに時代の転換点に立った人物であった。彼の茶の湯は、村田珠光が確立した草創期のスタイル、すなわち「唐物名物を和様の空間で味わう」という精神を色濃く受け継いでいたと考えられる。それは、伝統と格式を重んじる京都の町衆文化に深く根差したものであった。

一方で、『山上宗二記』が記された時代は、武野紹鴎や千利休が推し進めた「創造的な見立てと徹底した侘びの追求」という、成熟期のわび茶が主流となっていた。特に、その価値観が育まれたのは、旧来の権威から自由な新興都市・堺であった 20 。革新的で、時にラディカルですらある堺の美意識から見れば、京都の伝統的なスタイルは古風で停滞したものに見えたであろう。この京都と堺という二つの都市の文化的対立が、宗悟への評価の乖離を生んだ大きな要因と考えられる。

また、宗悟が商人(町衆)であったという点も考慮すべきである。彼にとって茶道具の収集は、純粋な美的探求であると同時に、資産としての価値や、伝統的な名物に対する社会的敬意の表明という側面も持っていた可能性が高い。これは、茶の湯をあくまで精神的な求道の場と捉え、既成の価値からの脱却を目指した利休一派の理想主義とは、必ずしも相容れないものであったかもしれない。

5-2. 結論としての宗悟像:わび茶史のミッシングリンク

以上の考察を経て、十四屋宗悟の実像は次のように結論づけることができる。彼は「目利きができない」のではなく、 千利休とは異なる美の基準を持つ、当代一流の「目利き」であった 。彼は、唐物名物が持つ歴史的・美術的価値を深く理解し、それを収集・鑑賞する伝統的な茶の湯の世界に精通した、富と教養を兼ね備えた文化人であった。

そして、彼の歴史的な役割は、村田珠光から受け継いだわび茶の精神と形式を、その豊かな財力と文化的ネットワークをもって保持し、次代の天才である武野紹鴎へと確実に伝達した点にある。彼は、珠光と紹鴎という二つの巨大な山脈を繋ぐ、重要な稜線であった。

利休の時代から歴史を遡って見れば、宗悟のスタイルは「古い」と見なされ、批判の対象となったかもしれない。しかし、歴史の順路を辿れば、彼という存在がいなければ、紹鴎の革新も、その先の利休による大成も、あるいは違った形になっていたかもしれない。その意味で、十四屋宗悟は、わび茶の発展史における、決して欠かすことのできない**「ミッシングリンク(失われた環)」**だったのである。

結論:歴史の狭間に立つ茶人

十四屋宗悟をめぐる調査は、一人の歴史上の人物に対する評価が、後代の価値観や史料の性質によっていかに規定され、時に歪められうるかという、歴史解釈の根源的な難しさと、同時にその面白さを示している。山上宗二による辛辣な批判は、宗悟という人物の客観的で絶対的な評価ではなく、わび茶の歴史が経験した大きな地殻変動、すなわち美意識の革命の一つの証言として捉えるべきである。

その一方で、「大名物 宗悟茄子」や「十四屋宗伍像」といった動かぬ物証は、彼が戦国時代の京都という文化の坩堝において、経済力と精神性を兼ね備えた一流の茶人であったことを、時代を超えて静かに物語っている。彼は、伝統を重んじる保守性と、禅の精神を深く内包する革新性の両方を併せ持ち、村田珠光から武野紹鴎へと至るわび茶の道を、その身をもって確かに繋いだのである。

歴史の表舞台に立つ英雄たちの華々しい活躍の影で、十四屋宗悟のような人物が果たした、地道だが決定的に重要な役割を丹念に掘り起こすこと。それによって私たちは、茶の湯という日本を代表する文化が、単一の理念によってではなく、いかに多様な価値観の交錯と、時には激しい葛藤の中から生まれてきたかを、より深く、立体的に理解することができる。彼の存在は、商いと信仰と芸術が分かち難く結びつき、新たな文化が胎動していた戦国時代の京都の、生きた証人と言えよう。

引用文献

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  31. 茶の湯 | 承天閣美術館 | 臨済宗相国寺派 https://www.shokoku-ji.jp/museum/exhibition/chanoyu/
  32. 見立て - 日本文化再構研究所 https://nihon-bunka.com/kan/mitate-3/
  33. 京都府×JR東海presents「利休の夢、秀吉の夢 戦国から拓かれる茶の湯の世界」 https://souda-kyoto.jp/other/rekishi_kouza/index.html
  34. 唐物茄子茶入 銘 宗伍茄子 | 公益財団法人 五島美術館 https://www.gotoh-museum.or.jp/2020/10/16/02-043/
  35. 大徳寺 大仙院 | 観光情報 | 京都に乾杯 https://kyotonikanpai.com/spot/05_01_murasakino_takagamine/daisen_in.php
  36. 古岳宗亘筆偈 | Keio Object Hub: 慶應義塾のアート&カルチャーを発信するポータルサイト https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/258
  37. 第14研究 京都の茶文化の学際的、国際的見地からの研究と、その地域活性化への還元に関する研究研究代表者:佐伯 順子(社会学部) - 同志社大学 人文科学研究所 https://jinbun.doshisha.ac.jp/jinbun/theme/report/2019/2019_14.html