戦国時代の四国、特に讃岐の歴史を語る上で、「鬼十河」の異名を持つ猛将・十河一存(そごう かずまさ)や、土佐の長宗我部氏に最後まで抗戦した悲劇の当主・十河存保(そごう まさやす)の名は、比較的広く知られている 1 。しかし、彼らが歴史の表舞台に登場する礎を築いた人物、すなわち一存を養子として迎え入れた十河家の当主については、その存在すら知る者は少ない。本報告書は、この歴史の影に隠れがちな人物、十河存春(そごう まさはる)の実像に迫ることを目的とする。
まず人物を特定すると、ユーザーが提示した「十河存春」は、同時代の史料や後世の編纂物において「十河景滋(そごう かげしげ)」の名でも記録されている 4 。高松市教育委員会が発行する文化財解説では「存春(まさはる)(景滋(かげはる))」と併記されており、両者が同一人物であることは確実視されている 4 。生年は永正7年(1510年)、没年は永禄2年(1559年)とされ、その活動期間は主に大永年間から永禄年間にわたる 5 。
存春の歴史的役割を理解する上で、彼がなぜ一存や存保ほど著名ではないのかという問いは重要である。その答えは、彼の果たした役割そのものに起因する。存春は、古くからの讃岐国人領主としての「旧来の十河氏」と、阿波の巨大勢力・三好氏と一体化して讃岐の覇権を握る「新生十河氏」とを繋ぐ、まさに「橋渡し」役であった。歴史物語は、一存の劇的な武勇伝や存保の悲壮な最期といったクライマックスに光を当てがちであり、その土台を築いた存春のような過渡期の人物は、その功績の重要性にもかかわらず後景に退きやすい。彼の歴史的な「不可視性」は、皮肉にも彼が果たした役割の性質を最も雄弁に物語っているのである。本報告では、この静かなる決断者の生涯を丹念に追うことで、戦国期における地方領主の生存戦略の一典型を明らかにする。
十河存春という一個人を理解するためには、まず彼が背負っていた十河一族の歴史的背景と、彼が生きた時代の讃岐国の政治情勢を把握する必要がある。
十河氏の出自は古く、伝承によれば第12代景行天皇の皇子である神櫛王(かんぐしおう)を祖とする古代氏族、讃岐氏の末裔を称している 6 。平安時代後期になると、この讃岐氏の庶流が武士化し、その中から植田氏が台頭した。十河氏は、この植田氏からさらに分かれた一族である 9 。
彼らは讃岐国山田郡十河郷(現在の香川県高松市十川町周辺)を本貫地とし 9 、同族の神内氏や三谷氏らと共に「植田党」と呼ばれる広域的な武士団を形成していた 9 。これは、十河氏が単独の豪族としてではなく、山田郡という特定の地域に根差した連合体の一翼を担う存在であったことを示している。この地域連合としてのアイデンティティは、後に寒川郡や大内郡を拠点とする寒川氏など、他の地域連合との大規模な抗争の基盤となった。存春の行動を理解する上では、彼が単に一個人の野心だけでなく、この「植田党」という共同体の利益を代表する立場にあったことを念頭に置かねばならない。なお、一族の家紋は、南北朝時代に細川清氏から賜ったとされる扇を三方に載せた紋が用いられたと伝わる 6 。
室町時代、讃岐国は管領を務めた細川京兆家(宗家)の分国であり、守護代として東讃に安富氏、西讃に香川氏が置かれ、十河氏をはじめとする国人たちはその被官として組み込まれていた 8 。しかし、永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された「永正の錯乱」をきっかけに、中央の細川京兆家は後継者を巡る深刻な内紛状態に陥った 13 。
この中央政権の混乱は、地方の支配体制にも大きな影響を及ぼした。讃岐においても守護細川氏の統制力は著しく弱体化し、これまで押さえつけられていた国人たちが自立化し、自己の領域拡大を目指して互いに争う群雄割拠の時代へと突入していく 16 。十河存春が歴史の表舞台に登場するのは、まさにこのような旧秩序が崩壊し、新たな実力主義の時代が到来した、激動の時代であった。特に、東讃の覇権を巡る有力国人・寒川氏との対立は、存春の時代の十河氏にとって最大の課題となっていく 18 。
旧来の秩序が崩壊し始めた讃岐国において、十河城主となった存春(景滋)は、一族の存亡をかけて激しい権力闘争の渦中へと身を投じていく。
十河存春(景滋)は、父・易正の子として永正7年(1510年)に生まれた 5 。父の跡を継いで十河城主となり、戦国時代の讃岐を舞台にその活動を開始する。彼が当主となった時期は、まさに細川氏の統制が緩み、地域の国人たちが実力で勢力を拡大しようとしのぎを削っていた時代であった。
存春の治世において、十河氏は東讃の有力国人であった寒川元政と宿敵として激しく争った。『南海通記』などの軍記物によれば、大永6年(1526年)、存春は阿波の三好氏と結んで寒川氏との戦いに臨んでいる 5 。この戦いは、存春の将来を決定づける重要な意味を持っていた。
特筆すべきは、この時点で既に阿波の三好氏が深く介入していたことである。この養子縁組という決断は、決して突発的なものではなく、長年にわたる軍事同盟関係の延長線上にある、いわば最終的かつ最も強固な結合形態であったと位置づけられる。『香川県史』によれば、大永6年の戦いにおいて、十河氏は三好元長(後の一存の父)の要請に応じた阿波からの援兵1000人余りを得ていた 9 。これは単なる支援ではなく、大規模な軍事介入であり、十河氏が自力だけでは東讃の覇権を確立できないという現実と、三好氏が讃岐への影響力拡大の機会を常に窺っていたという、双方の利害が一致した結果であった。天文元年(1532年)の合戦においても同様に三好氏の介入が見られ、両者の連携が常態化していたことがうかがえる 9 。
こうした激しい抗争の最中、十河家に大きな悲劇が訪れる。存春には金光(かねみつ)という名の嫡男がいたが、享禄3年(1530年)頃に早世してしまったのである 5 。複数の史料が、この後継者の夭折が、後に三好一存を養子に迎える直接的な原因であったと記している 7 。跡継ぎを失ったことは、存春個人にとっての悲しみであると同時に、家そのものの存続を揺るがす最大の危機であった。この危機的状況が、存春をして、それまでの軍事同盟者であった三好氏との関係を、より恒久的で強固なものへと昇華させる決断へと向かわせたのである。
嫡男の早世という危機に直面した十河存春は、一族の存続と発展のため、戦国史に残る重大な決断を下す。それは、阿波の巨大勢力・三好氏から養子を迎え、一族の運命を委ねるという選択であった。
当時、阿波の三好氏は当主・三好長慶のもと、主家である細川氏を凌駕して畿内へと進出し、天下に覇を唱えようとしていた 2 。長慶は、その権力基盤を盤石にするため、弟たちを戦略的に要所へ配置する一族支配体制を構築していた。次弟の義賢(実休)には本国・阿波を、三弟の安宅冬康には瀬戸内海の要衝・淡路を、そして末弟の一存には讃岐を任せるという壮大な構想である 24 。
この戦略において、十河氏は三好氏の讃岐進出における「橋頭堡」、すなわち最前線の拠点としての極めて重要な役割を期待された 12 。後継者を失い、宿敵・寒川氏との争いを勝ち抜くための強力な後ろ盾を渇望していた存春と、讃岐に確固たる足場を築きたい三好氏の思惑は、ここで完全に一致したのである。
天文10年(1542年)、三好元長の四男であり長慶の末弟であった之虎(後の十河一存)が、存春の養子として正式に十河家に入嗣した 2 。この養子縁組は、しばしば三好氏による十河氏の「乗っ取り」と見なされがちである。しかし、存春の立場からすれば、これは決して「乗っ取られ」ではなく、自家の存続と発展のための最も合理的な「戦略的統合」であった。嫡男を失った以上、いずれ他家から養子を迎えねばならない。その際、敵対する寒川氏や香西氏を圧倒できるだけの力を持つ三好氏と結びつくことは、短期的に見て最善の選択であった。存春は、家の完全な独立性を一部犠牲にすることで、家そのものの存続と、一族の安全、そして繁栄を確保したのである。これは、弱者が強者に取り込まれる単純な吸収合併ではなく、変化する時代環境に適応するための、地域領主による能動的な生存戦略であったと評価すべきである。
この決断の結果、十河氏は名実ともに三好一族の一員となった。養子・一存は、養父・存春の名代として、あるいは実権を掌握して讃岐国内の平定戦を主導する。特に寒川氏との戦いでは、負傷した腕に塩をすり込んで戦い続けたという逸話が生まれるなど、その勇猛果敢な戦いぶりから「鬼十河」の異名を取り、十河氏の武名は飛躍的に高まった 2 。存春の決断は、十河氏を讃岐の一国人から、三好政権を支える有力な一翼へと、劇的に変貌させたのである。
三好一存を養子に迎え、十河家の舵取りを次代に委ねた存春。彼の後半生と、その生涯最大の決断が後世に遺した光と影を考察する。
一存が十河家の実権を握った後、存春がどのような立場で晩年を過ごしたかについて、詳細を伝える史料は乏しい。しかし、彼が永禄2年(1559年)に没するまで 5 、十河家の長老として、また三好一族との結合を成し遂げた象徴的な存在として、家中にあって一定の敬意を払われていたと推測される。特に、外部から来た一存が旧来の家臣団を掌握し、急進的な勢力拡大を進める上で、養父である存春の存在は、その正統性を担保し、家中の融和を促進する上で重要な緩衝材としての役割を果たした可能性は高い。
存春の決断は、十河氏に短期的な栄光と、長期的には避けがたい宿命をもたらした。
光(短期的な成功):
存春の決断により、十河氏は三好氏の強大な軍事力を背景に、長年の宿敵であった寒川氏、香西氏、さらには西讃の香川氏までも次々と支配下に置くことに成功した。これにより、十河氏は一時的に「讃岐一円を制した」と評されるほどの勢力を築き上げた 11。これは、存春が単独で統治を続けていたならば、到底成し得なかった偉業であった。
影(長期的なリスク):
しかし、三好氏との完全な一体化は、十河氏の運命を三好宗家の盛衰に完全に縛り付けることを意味した。この決断の最大の遺産は、十河氏を「讃岐の国人」という地域完結的な存在から、「三好一族」という、より大きな運命共同体の一員へと不可逆的に変質させた点にある。これにより、十河氏の命運はもはや讃岐国内の力学だけで決まるものではなくなった。畿内の政争、三好一族の内紛、そして織田信長や豊臣秀吉といった中央政権の動向が、直接、讃岐の十河城の運命を左右するようになったのである。
三好長慶の死後、三好政権が内紛と織田信長の台頭によって弱体化すると、その影響を十河氏は直接的に受けることとなる。強力な後ろ盾を失った十河存保(一存の養子)は、四国統一を目指す長宗我部元親の猛攻の矢面に立たされ、孤軍奮闘の末に旧領を失う。最後は豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、戸次川の戦いで奮戦の末に戦死した 11 。存春は自家の存続を願って外部の力を導入したが、その力はあまりに強大であり、結果として十河氏を自律的なプレイヤーから、より大きなゲームの駒へと変えてしまった。存春の決断は、一族に未曾有の栄華をもたらした一方で、結果的にその滅亡へと至る道を拓く遠因ともなったのである。この構造は、戦国時代における多くの地域領主が辿った運命の縮図でもあった。
十河存春(景滋)は、一存や存保のように、その武勇や悲劇的な生涯で歴史物語の主役となる人物ではないかもしれない。しかし彼は、戦国時代という大きな転換点において、一族の未来を左右する極めて重大な決断を下した人物であった。彼の生涯は、旧来の秩序が崩壊し、新たな権力構造が形成されていく戦国乱世の本質を体現している。
嫡男を失い、家の断絶という現実に直面した存春は、地域内の敵対勢力を圧倒し、一族の存続と繁栄を確保するために、当時畿内で最も勢いのある三好氏との「戦略的統合」を選択した。それは、家の独立性と引き換えに、より大きな権力構造に組み込まれることで生き残りを図るという、戦国時代の地方領主が直面した厳しい現実の中での、極めて合理的な生存戦略であった。
もし存春が三好氏との結合を選ばず、他の道、例えば讃岐国人同士の連携強化などを模索していたら、十河氏の、そして讃岐の歴史はどうなっていただろうか。もちろん、やがて来る長宗我部氏の強大な軍事力の前に、いずれかの時点で同様の、あるいはそれ以上に過酷な決断を迫られたであろうことは想像に難くない。
十河存春の生涯は、我々に戦国時代の地方領主が置かれた過酷な状況と、その中での必死の選択を教えてくれる。彼の決断なくして、「鬼十河」一存の武名も、その後の十河存保の悲壮な戦いも存在しなかった。彼は、自らが歴史の表舞台で脚光を浴びることはなく、次代の者たちが繰り広げる華々しくも悲劇的な物語の、静かなる立役者だったのである。
西暦 (A.D.) |
和暦 |
十河存春及び十河氏の動向 |
三好氏の動向 |
讃岐・畿内の主要情勢 |
1507年 |
永正4年 |
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管領・細川政元が暗殺される(永正の錯乱) 16 。 |
1510年 |
永正7年 |
十河存春(景滋)、誕生 5 。 |
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1526年 |
大永6年 |
阿波三好氏の援軍を得て、寒川元政と戦う 18 。 |
十河氏に援軍を派遣し、讃岐への介入を強める 9 。 |
細川家の内紛が継続。畿内は混乱状態にある。 |
1530年頃 |
享禄3年頃 |
嫡男・金光が早世し、後継者不在の危機に陥る 5 。 |
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1532年 |
天文元年 |
寒川氏と再度交戦 9 。 |
当主・三好元長が堺で一向一揆に攻められ自害。嫡男・長慶が家督を継ぐ 22 。 |
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1542年 |
天文11年 |
三好元長の四男・一存を養子として迎える。十河氏は三好一族となる 2 。 |
長慶の弟・一存が十河家の養子となり、讃岐進出の橋頭堡を確保する 26 。 |
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1549年 |
天文18年 |
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三好長慶、江口の戦いで勝利し、畿内の実権を掌握。三好政権が確立する 2 。 |
足利将軍家が京都を追われ、三好氏が中央政治を主導する。 |
1559年 |
永禄2年 |
十河存春(景滋)、死去(享年50) 5 。 |
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1561年 |
永禄4年 |
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養子・十河一存が死去。一存の甥(三好実休の子)・存保が十河家の家督を継ぐ 2 。 |
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