千徳政氏は南部氏から離反し津軽為信と結ぶも、為信の謀略で浅瀬石城が落城し滅亡。南部氏の内紛に乗じ独立を図るも、盟友に裏切られ悲劇的な最期を遂げた国人領主。
戦国時代の末期、日本の北辺、奥州は大きな地殻変動の只中にあった。長らくこの地の覇者として君臨してきた名門・南部氏の権威に陰りが見え始め、その支配体制が内側から揺らぎ始めていた。この権力の真空を突くように、新たな勢力が胎動する。後の津軽藩初代藩主、津軽為信である。旧来の秩序が崩壊し、新たな秩序が形成される激動の時代、その二つの巨大な潮流が交錯する最前線に、一人の国人領主が立っていた。奥州黒石、浅瀬石城主・千徳大和守政氏(せんとく やまとのかみ まさうじ)である。
当時の南部宗家は、当主であった南部晴政と、その養嗣子・南部信直との間に対立の火種を抱えていた 1 。信直は晴政の叔父にあたる石川高信の子であり、この複雑な家督相続問題は、南部一族の結束に深刻な亀裂を生じさせていた。中央の権威が揺らげば、その影響は辺境の地にまで及ぶ。津軽地方に置かれた郡代・石川高信の支配力もまた、相対的に低下せざるを得なかった。この好機を逃さなかったのが、南部氏の庶流でありながら独立の野心を燃やす大浦為信であった 2 。為信は元亀年間(1570年~1573年)に石川城を急襲して高信を討ち、津軽独立への第一歩を踏み出す。
千徳政氏は、この「旧勢力(南部)の衰退」と「新興勢力(津軽)の勃興」という、抗いがたい歴史のうねりの中心にその身を置くこととなる。南部氏の配下として津軽支配の拠点を守るべき立場にありながら、彼は主家を見限り、新興の為信と手を結ぶという重大な決断を下す。この選択は、単なる個人の野心や裏切りといった言葉で片付けられるものではない。それは、主家の統制力が事実上崩壊しつつある状況下で、自領と一族の存続を賭けた、戦国領主としての極めて合理的かつ冷徹な戦略的判断であった。本報告書は、千徳政氏の生涯を徹底的に追跡し、彼の選択と行動、そしてその栄光と悲劇を通じて、戦国末期の北奥羽における勢力図の劇的な転換、そのダイナミズムを解き明かすことを目的とする。
千徳政氏の行動を理解するためには、まず彼が属した千徳一族の出自と、その歴史的背景を把握する必要がある。千徳氏は、清和源氏を本姓とし、奥州に巨大な勢力圏を築いた南部氏の有力な支族、一戸氏の流れを汲む一族であるとされている 4 。その出自は、南部一族の中でも由緒ある名門の系譜に連なるものであった。
しかし、その具体的な系譜については、参照する史料によって記述が異なり、いくつかの説が存在する。この情報の錯綜は、単なる記録の不備という以上に、後の津軽氏と南部氏の対立構造が、歴史記述そのものに影響を及ぼした結果と見るべきであろう。
代表的な説として、以下の二つが挙げられる。
『岩手県史』では、『千徳舘興廃実記』の記述を基に、一戸政英から政明、政吉、そして政氏へと家督が相続されたとしている 4 。一方で、政氏の父・政吉が浅瀬石城に移ったのは天正9年(1581年)以降であり、それ以前は閉伊郡の千徳城(現在の岩手県宮古市)を本拠としていた 4 。
これらの系譜の「揺れ」は、千徳政氏が南部氏を裏切り津軽為信に与したという歴史的事実と深く関わっている。勝利者である津軽氏(弘前藩)の公式記録では、政氏の行動は為信の津軽統一を正当化する文脈で語られる 6 。一方で、敗者となった南部氏側や、千徳氏の旧臣に伝わる記録では、異なる経緯や系譜が伝えられた可能性が高い。今日我々が目にする系譜の不一致は、政氏の行動が両勢力にとって極めて重大であったが故に、それぞれの立場から解釈・記録され、後世に伝えられた痕跡と考察される。
典拠史料 |
祖先とされる人物 |
主要な人物の続柄 |
備考 |
『奥南落穂集』 |
一戸行重 |
一戸行重の次男または三男・長重が浅瀬石氏の祖とされる 4 。 |
政氏の直接の系譜とは別に、浅瀬石氏の祖について言及。 |
『千徳舘興廃実記』 |
一戸政英 |
一戸政英 - 政明 - 政吉 - 政氏と相続したとされる 4 。 |
『岩手県史』などが採用する比較的有力な説。 |
『黒石星田家文書』 |
一戸行重 |
鎌倉時代の人物として行重を位置づけ、系図を記す 4 。 |
信憑性には疑問が呈されている。 |
千徳一族は元来、陸奥国閉伊郡(現在の岩手県沿岸中部)の千徳城を本拠としていた 4 。彼らが津軽の要衝である浅瀬石(あせいし)の地へ移ったのは、南部氏による津軽地方経営戦略の一環であった。千徳政氏の父とされる千徳政吉の代に、当時の津軽郡代であった石川高信(あるいは石川政信)を補佐するため、浅瀬石城主として入部したと記録されている 4 。これは、千徳氏が南部宗家から深く信頼され、対津軽政策の最前線を担う尖兵としての役割を期待されていたことを示している。
浅瀬石城は、現在の青森県黒石市に位置し、津軽平野の南東部を扼する戦略的要地であった 5 。この城を拠点とすることで、南部氏は津軽地方の諸豪族を監視し、支配を盤石にしようと図ったのである。しかし、皮肉にもこの城は、後に南部氏への反旗の拠点となり、津軽の歴史を大きく塗り替える舞台となる運命にあった。
千徳政氏の生涯における最大の転換点は、疑いなく主家・南部氏への反旗と、新興勢力・津軽為信との同盟締結である。この決断は、彼の名を奥州戦国史に刻むとともに、一族を悲劇的な運命へと導く序章でもあった。
政氏が南部氏から離反した直接的な動機について、史料は明確に語らない。しかし、その背景には、前述した南部宗家の内紛と、それに乗じて急速に勢力を拡大する津軽為信の存在という、抗いがたい外的要因があったことは確実である 1 。自領の安堵と発展を願う国人領主として、もはや権威の揺らいだ旧主に従い続けるよりも、目前で勝利を重ねる新たな実力者と手を結ぶ方が、生き残りの道として有望に見えたとしても不思議ではない。また、政氏は「大力無双の勇将」と伝えられており 7 、その武勇への自負が、独立への野心を掻き立てた可能性も考えられる。
永禄4年(1561年)、政氏は為信との間に軍事同盟、通称「永禄の約」を締結したとされる 8 。この同盟の具体的な内容は、共同で津軽地方に残る他の南部系諸城を攻略し、津軽統一が成った暁には、その領地を為信と政氏で二分して支配するというものであったと伝わる 9 。この内容は極めて重要である。なぜなら、それは政氏が単に為信の軍門に降ったのではなく、対等なパートナーとして津軽の共同統治者となることを企図していたことを示しているからである。
政氏の反逆に激怒した南部信直は、天正13年(1585年)4月、重臣・東政勝を大将とする3000の討伐軍を浅瀬石城へ派遣した 7 。世に言う「宇杭野の合戦」である。政氏はこの南部軍を浅瀬石城に籠って迎え撃ち、地の利を活かした奮戦の末、見事に撃退することに成功する 7 。この勝利は、千徳政氏の武威を津軽全土に知らしめる輝かしい戦果であった。
しかし、この勝利の裏で、同盟関係の根幹を揺るがす重大な事件が起きていた。同盟者であるはずの津軽為信が、この決戦に際して一兵の援軍も送らなかったのである 8 。政氏にとって、これは許しがたい背信行為であった。この一件が、両者の間に修復不可能な不信の種を蒔き、後の千徳氏滅亡の直接的な遠因となった 10 。
為信が援軍を送らなかった行動は、単なる見殺しではなく、極めて計算された戦略であった可能性が高い。為信の最終目標は、津軽の「完全」統一であり、領地を二分するという「永禄の約」は、当初から反故にするつもりであったと考えられる。宇杭野の合戦において、南部軍が勝利すれば為信自身が脅かされる。しかし、もし千徳氏が独力で、かつ多大な犠牲を払って辛勝すれば、為信にとっては一石二鳥であった。すなわち、敵である南部氏の戦力を削ぐと同時に、将来の障害となりうる同盟者・千徳氏をも消耗させることができるからである。消耗した千徳氏は、ますます為信への依存を深めざるを得なくなる。為信の辣腕な知略 13 を鑑みれば、援軍を送らないという選択は、彼にとってリスクを最小化し、リターンを最大化する最善手であった。政氏の輝かしい勝利は、結果として為信の掌の上で演じられた、悲劇への序曲に過ぎなかったのである。
南部氏との決別を決定づけた宇杭野の合戦と同じ年、千徳政氏はさらに後戻りのできない、血塗られた道へと足を踏み入れる。それは、自らの血を分けた一族との戦いであった。
浅瀬石からほど近い田舎館(いなかだて)の地には、田舎館城が存在した。この城は、文明7年(1475年)に浅瀬石城主の分家である千徳貞武(政実)が築いたとされ、城主の千徳氏は浅瀬石千徳氏の分家筋にあたる一族であった 9 。
本家である浅瀬石の政氏が津軽為信と結び、南部氏に反旗を翻したのに対し、田舎館城主であった五代・千徳掃部政武(せんとく かもん まさたけ)は、あくまで旧主・南部氏への忠義を貫く道を選んだ 9 。ここに、同じ千徳の名を冠する一族の間で、忠誠の対象を巡る深刻な対立が生じた。本家が選んだ「革新」と、分家が守ろうとした「伝統」。この選択の違いが、一族を相克の悲劇へと導いたのである。
天正13年(1585年)5月、宇杭野の合戦の直後、千徳政氏は兵600を率い、津軽為信の軍勢と共に、自らの分家である田舎館城に攻め寄せた 5 。政武は300余名の城兵と共に籠城し、必死の抵抗を見せるが、大軍の前に衆寡敵せず、城は落城。城主・政武をはじめ、300名を超える将兵が討ち死にしたと伝えられている 15 。現在、田舎館城跡には、この時亡くなった兵士たちを弔うために植えられたとされるサイカチの巨木が、往時の悲劇を静かに物語っている 17 。
政氏が自らの一族である田舎館城を攻撃したという事実は、極めて重い意味を持つ。これは、彼が南部氏との関係を完全に、そして決定的に断ち切ったことを示す象徴的な事件であった。同時に、新たな同盟者である津軽為信に対して、血族を犠牲にしてでも従うという、非情なまでの「忠誠の証」を立てた行為でもあった。為信の側から見れば、この一件によって政氏がもはや南部方に戻ることはないと確信でき、彼を自陣営に完全に取り込むことができた。しかし、政氏にとっては、この行動が自らの孤立を深め、為信への依存度を致命的に高める結果を招いた。一族の血で染められた勝利は、自らの首を絞める罠の引き金を引くことと同義だったのである。
一時は津軽為信と肩を並べ、津軽の共同統治者となるかに見えた千徳政氏。しかし、その栄華は長くは続かなかった。かつての盟友は、やがて最も恐るべき敵へと姿を変え、浅瀬石千徳氏は滅亡への道を突き進むことになる。
津軽統一が現実のものとなるにつれ、為信にとって千徳氏の存在は、分割統治の約束を履行せねばならない厄介な存在へと変わっていった 19 。宇杭野の合戦以来の不信感に加え、両者の力関係は為信優位に大きく傾いていた。文禄3年(1594年)、為信は政氏の子・政康(史料によっては政保)を堀越城に招き、津軽の半領を授けるという約束を持ち出した。しかし、実際には家臣並みの待遇しか与えられなかったことに政康は強く反発し、両者の対立は決定的となった 20 。
慶長2年(1597年)2月、ついに為信は千徳氏の殲滅に乗り出す。津軽軍2500が浅瀬石城に殺到した。この時、落城の決定打となったのは、外部からの攻撃だけではなかった。千徳氏の重臣であった木村越後守らが為信に寝返り、城の内部から本丸を急襲したのである 5 。内部からの崩壊により、2000の城兵は奮戦も空しく、城は落城。城主・千徳政康は燃え盛る城の中で自害し、ここに浅瀬石千徳氏は滅亡した 10 。
嫡子・政康の最期は落城と同時であったと伝えられるが、千徳政氏自身の最期については、史料によって記述が大きく異なり、謎に包まれている。
これらの諸説の中で、どれが真実であるかを断定することは困難である。しかし、「辣腕」「知略に長ける」と評された津軽為信の人物像 13 を考慮すれば、有力な同盟者を正面からの力攻めではなく、謀略を用いて排除するという「謀殺説」は、極めて高い蓋然性を持つ。公式記録が「戦いで滅んだ」と記すのは、勝利者である津軽氏にとって最も都合の良い歴史だからである。同時代の記録が「謀殺」を伝えるという事実は、為信の非情なやり方に対する当時の人々の認識を反映している可能性が高い。政氏の最期を巡る情報の錯綜自体が、彼の死が単純な戦死や病死ではなく、為信による周到な政治的暗殺の結果であったことを強く示唆しているのかもしれない。
説の名称 |
死亡年(和暦) |
死因・状況 |
典拠史料 |
信憑性に関する考察 |
落城時死亡説 |
慶長2年 (1597) |
浅瀬石城落城の際に、子・政康と共に死亡。 |
『青森県史』、『岩手県史』 7 |
津軽藩の公式見解に近い可能性。滅亡の物語として整理されている。 |
病死説 |
天正16年 (1588) |
病により死去。 |
千徳家臣の文献 7 |
為信との直接対決を否定する内容。旧臣による記録か。 |
謀殺説 |
不詳(慶長2年以前か) |
津軽為信により堀越城に呼び出され、子息と共に殺害される。 |
『永禄日記』 7 |
為信の人物像と一致し、蓋然性が高い。同時代人の認識を反映か。 |
千徳政氏の生涯は、旧来の権威が揺らぐ中で、生き残りをかけて新興勢力と結び、一時は成功を収めながらも、最終的にはその強大な力に飲み込まれていくという、戦国時代の多くの国人領主が辿った栄光と悲劇の軌跡を、まさに体現している。彼は、自らの意思で歴史の転換点に身を投じ、その渦の中で激しく生きた。
彼の行動が津軽史に与えた影響は計り知れない。政氏が南部氏から離反し、為信に協力したことは、為信の津軽統一事業を大きく前進させる決定的な要因の一つであった。特に、南部氏の津軽支配の拠点であった浅瀬石城が反南部勢力に変わったことの戦略的価値は絶大であった。彼は、意図せずして津軽藩成立の「産婆役」の一人を務めたと言えるだろう。しかし、その代償は一族の滅亡という、あまりにも大きなものであった。
千徳政氏の物語は、公式の歴史書から消え去った後も、地域の記憶の中に深く刻まれ、生き続けている。浅瀬石城落城の悲話は、やがて民衆の口承文芸と結びつく。菩提寺であった神宗寺の常縁和尚が、落城の際に浅瀬石川の濁流に身を投じ、村人たちがその死を悼んで歌った唄が、やがて津軽を代表する民謡「津軽じょんから節」になったという発祥伝説が、その代表例である 12 。この伝説は、彼の生涯が持つ「栄華からの転落」「信じた者からの裏切り」「一族滅亡」という、人々の心を強く揺さぶる悲劇的な要素が、口承文芸のテーマとして極めて適していたことを物語っている。
また、浅瀬石の地名の由来となったとされる「汗石」の伝説や、落城後に再建された羽黒神社に千徳家代々の御霊が今も祀られていることなど 21 、彼の記憶は地域の文化や信仰の中に溶け込んでいる。千徳政氏は、歴史の敗者として消え去ったのではなく、地域の集合的記憶の中で、悲劇の象徴として、また故郷の歴史を彩る重要な登場人物として、今なお語り継がれているのである。
西暦/和暦 |
千徳氏の動向 |
津軽為信の動向 |
南部氏の動向 |
関連する出来事 |
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1561年 (永禄4) |
千徳政氏 、津軽為信と「永禄の約」を締結か 8 。 |
大浦為信 、千徳政氏と同盟を結ぶ。 |
南部晴政、家中の統制に苦慮。 |
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1570-73年 (元亀年間) |
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為信 、石川城を攻略し、南部郡代・石川高信を討つ 2 。 |
津軽郡代・石川高信が討たれ、津軽の支配力が大きく後退。 |
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1578年 (天正6) |
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為信 、浪岡城を攻略し、浪岡氏を滅ぼす 1 。 |
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1582年 (天正10) |
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南部晴政が死去。跡を継いだ晴継も急死し、家督争いが勃発 1 。南部信直が当主となる。 |
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1583年 (天正11) |
政氏 、津軽石氏と漁業権を巡り争い、津軽石勝富を謀殺 7 。父・政吉の跡を継ぎ浅瀬石城主となる。 |
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1585年 (天正13) |
4月: 政氏 、南部信直の討伐軍を宇杭野で撃退 7 。5月: |
政氏 、為信と共に田舎館城を攻略し、分家の千徳政武を滅ぼす 5 。 |
為信 、宇杭野の合戦に援軍を送らず 8 。政氏と共に田舎館城を攻略。 |
南部信直 、政氏討伐軍を派遣するも敗北。 |
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1588年 (天正16) |
政氏 、この年に病死したとする説あり 7 。 |
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1590年 (天正18) |
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為信 、小田原征伐に参陣。豊臣秀吉から津軽の所領を安堵される 2 。 |
南部信直 も小田原に参陣。為信の津軽領有を認める裁定が下る。 |
豊臣秀吉による奥州仕置。 |
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1591年 (天正19) |
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為信 、九戸政実の乱鎮圧軍に参加 2 。 |
南部信直 、九戸政実の乱を鎮圧。 |
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1594年 (文禄3) |
子の 政康(政保) 、為信の処遇に不満を抱き、対立が深まる 20 。 |
為信 、居城を大浦城から堀越城に移す 19 。 |
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1597年 (慶長2) |
2月:浅瀬石城が津軽軍に攻められ落城。子の 政康 は自害し、浅瀬石千徳氏は滅亡 10 。 |
政氏 もこの時死亡、あるいは事前に謀殺されたとする説あり 7 。 |
為信 、浅瀬石城を攻略し、千徳氏を滅ぼす。これにより津軽統一を完成させる 19 。 |
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