日本の戦国時代は、数多の武将が己の野心と知謀を頼りに、激しい権力闘争を繰り広げた時代である。その中でも、下野国(現在の栃木県)の那須郡にその名を刻んだ千本資俊(せんぼん すけとし、1519年 - 1585年) 1 の生涯は、戦国という時代の非情さと複雑さを凝縮した、特異な光彩を放っている。彼の名は、二つの劇的な裏切りによって歴史に記憶されている。一つは、主君である那須高資を自らの居城に誘い込み謀殺した「主君殺し」という下剋上の体現。そしてもう一つは、かつての同輩であった大関高増の謀略によって、自らもまた謀殺されるという「因果応報」を思わせる最期である。
千本資俊の行動は、単なる一個人の野心や裏切りに帰結するものであったのだろうか。あるいは、彼を生み出した下野国那須郡という土地が抱える特殊な権力構造と、宇都宮氏や佐竹氏といった周辺大名との熾烈な勢力争いが生んだ、必然的な帰結だったのであろうか。本報告書は、この問いに答えるべく、千本資俊という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、その行動の背景にある政治的、社会的力学を解明することを目的とする。
本報告書の構成は以下の通りである。まず、千本氏の出自と、彼が属した那須氏一族の権力構造を分析し、資俊の行動を可能にした土壌を明らかにする。次に、彼の生涯を決定づけた二つの謀殺事件、すなわち「那須高資暗殺事件」と「千本父子被謀殺事件」の深層を、関連する人物の思惑や政治的背景と共に多角的に検証する。最後に、これらの分析を通じて、千本資俊という人物を戦国史の中に正確に位置づけ、その歴史的意義を考察する。
年代 |
出来事 |
建久年間 (1190-1198) |
千本氏の祖・為隆が千本城を築城する 3 。 |
1519年 (永正16年) |
千本資俊、千本資次の子として誕生する 1 。 |
1549年 (天文18年) |
五月女坂の戦い。那須高資が宇都宮尚綱を討ち取り、宇都宮氏に深い遺恨を残す 5 。 |
1551年 (天文20年) |
千本資俊、宇都宮家臣・芳賀高定の調略を受け、主君・那須高資を千本城にて暗殺する 4 。高資の異母弟・那須資胤が家督を継承する 8 。 |
1560年代 |
大関高増が那須資胤と対立し、佐竹氏と結ぶなど、那須家中で台頭する 10 。 |
1568年 (永禄11年) |
大関高増、那須資胤と和睦し、那須七党の筆頭格としての地位を固める 10 。 |
1583年 (天正11年) |
那須資胤が死去し、その子・那須資晴が家督を継承する 12 。 |
1585年 (天正13年) |
12月8日、千本資俊・資政(隆継)父子が、大関高増の謀略により烏山の太平寺にて謀殺される。享年67 2 。 |
1590年 (天正18年) |
那須資晴、豊臣秀吉の小田原征伐への遅参を咎められ、改易される 13 。 |
千本資俊の行動を理解するためには、まず彼が置かれていた政治的環境、すなわち那須氏が抱える構造的な問題を把握する必要がある。宗家の権威が揺らぎ、有力な一族が半独立状態で割拠するという状況こそが、後の謀略の連鎖を生む温床となった。
那須氏は、治承・寿永の乱で活躍した那須与一を輩出した名門であり、鎌倉幕府の御家人として下野国北東部に確固たる勢力を築いた 14 。室町時代にはその勢威が頂点に達し、関東の有力大名家である「関東八屋形」の一つに数えられるほどであった 14 。しかし、その栄華は永続せず、15世紀前半には一族が上那須家と下那須家に分裂し、互いに室町幕府や鎌倉公方を後ろ盾として抗争を繰り返すという、慢性的な内紛状態に陥った 14 。
この長期にわたる内紛は、那須宗家の求心力を著しく低下させた。宗家当主の権威は相対的に弱まり、一族の統制は困難を極めた。このような宗家の弱体化は、次に述べる「那須七党」と呼ばれる有力な庶流や重臣たちが、その自立性をさらに強める直接的な原因となったのである。
那須七党(那須七騎とも称される)は、那須氏を中心とした武家連合組織である。具体的には、宗家である那須氏に加え、一族の蘆野氏・伊王野氏・千本氏・福原氏、そして重臣の大関氏・大田原氏の七家によって構成されていた 15 。
彼らの特筆すべき点は、単なる主従関係にある家臣団ではなかったことである。各史料は一致して、彼らが「非常に独立性が強く、しばしば主家の那須氏に背く事もあった」 15 と記している。これは、彼らが各自の所領と軍事力を背景に、半独立の領主として振る舞っていた実態を示している。彼らは那須宗家を盟主として仰ぎつつも、その利害が一致しない場合には、公然と宗家に反旗を翻したり、あるいは周辺の佐竹氏や宇都宮氏といった外部勢力と独自に結びついたりすることも厭わなかった 10 。
この権力構造は、一般的な戦国大名とその家臣団の関係とは一線を画すものであった。宗主と家臣というよりも、盟主とそれに連なる小領主連合というべき、極めて流動的で脆弱な統治システムだったのである。この構造的脆弱性こそが、外部勢力による調略を容易にし、また内部での下剋上や権力闘争を誘発する最大の要因であった。千本資俊による主君殺しは、まさにこのシステムの歪みの中で発生した事件だったのである。
那須七党の中でも、千本氏は特に由緒ある家柄であった。その祖は、屋島の戦いで扇の的を射抜いた那須与一宗隆の兄、那須為隆(十郎為隆)に遡る 3 。為隆は源平合戦での功により、建久年間(1190年代)に下野国千本(現在の栃木県芳賀郡茂木町町田周辺)の地を賜り、千本氏を名乗ったとされる 3 。
以来、千本氏は同地に築いた千本城を代々の居城とした 3 。千本城は、標高約250メートルの山頂に本丸を構え、自然の地形を巧みに利用した典型的な山城であった 4 。城郭は南北に長く、麓から本丸にかけて階段状に郭が配置され、堅固な土塁や深い堀切が今なおその痕跡を留めている 7 。この城の構造は、千本氏が単なる一介の家臣ではなく、独立した軍事力を持つ有力な領主であったことを物語っている。千本資俊は、このような名門の出自と堅城を背景に、那須家中で確固たる地位を占めていたのである。
分類 |
人物名 |
千本資俊との関係 |
備考 |
千本家 |
千本資俊 |
- |
本報告書の中心人物。 |
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千本資政(隆継) |
息子 |
父と共に謀殺される 2 。 |
那須宗家 |
那須高資 |
主君 |
資俊によって千本城で暗殺される 2 。 |
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那須資胤 |
高資の異母弟、後継当主 |
高資と対立。資俊の主君殺しを事実上黙認した可能性が高い 8 。 |
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那須資晴 |
資胤の息子、後継当主 |
大関高増の進言を受け入れ、千本父子の謀殺を承認する 2 。 |
宇都宮家 |
芳賀高定 |
主君殺しの共謀者 |
主君・宇都宮尚綱の仇である高資を排除するため、資俊を調略する 2 。 |
那須七党 |
大関高増 |
政敵、謀殺の実行者 |
資俊の息子と娘の離縁を機に、資俊父子を謀殺する 2 。 |
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大田原綱清 |
高増の弟、謀殺の共犯 |
兄・高増に協力し、太平寺での謀殺に加担する 2 。 |
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大関高増の娘 |
息子の元妻 |
資政(隆継)と離縁。これが両家の対立の引き金となる 2 。 |
天文20年(1551年)、千本資俊は主君・那須高資を自らの城で殺害するという、戦国史上でも稀に見る大胆な行動に出る。この事件は、単独の犯行ではなく、那須氏を取り巻く外部勢力の思惑と、那須家内部の権力闘争が複雑に絡み合った結果であった。
事件の直接的な引き金は、隣国・宇都宮氏の家臣、芳賀高定による調略であった。その背景には、両家の積年の確執、特に事件の2年前に起こった「五月女坂の戦い」が存在する。
天文18年(1549年)、宇都宮尚綱は数千の兵を率いて那須領に侵攻した。しかし、那須高資はこれを迎え撃ち、五月女坂(現在の栃木県さくら市)において宇都宮軍を奇襲。この戦いで宇都宮軍は総崩れとなり、総大将であった尚綱自身が高資によって討ち取られるという劇的な結末を迎えた 5 。この勝利は那須氏の武威を周辺に轟かせたが、同時に宇都宮家中に、当主を殺されたことに対する強烈な復讐心を植え付けた 5 。特に、幼い新当主・宇都宮広綱を補佐して家中の再興を担っていた筆頭家老・芳賀高定にとって、那須高資は不倶戴天の仇敵となったのである 5 。
芳賀高定は、武力で那須氏を屈服させることが困難であると判断し、謀略によって高資を排除する道を選んだ。彼の狙いは、第一章で述べた那須氏の構造的脆弱性、すなわち「那須七党」の強い独立性にあった。高定は、那須家中の有力者でありながら、宗家に対して必ずしも一枚岩ではない人物を調略の標的として選定した。それが千本資俊であった。
高定は資俊に対し、高資を殺害すれば、恩賞として2000石の加増(史料によっては高根沢郡の割譲)を約束したという 9 。資俊がこの破格の条件を受け入れた背景には、単なる物欲だけでなく、那須家中の勢力図を塗り替え、自らの影響力を拡大しようとする野心があったと考えられる。芳賀高定の復讐心と、千本資俊の野心が、ここに合致したのである。
天文20年(1551年)1月、計画は実行に移された。資俊は、主君・高資が大変な馬好きであることを利用し、「類い稀な駿馬が手に入りましたので、是非とも御覧いただきたく存じます」と偽りの口実で、高資を自らの居城・千本城へと招待した 4 。
高資は、家臣たちが危険を諫めるのも聞かず、少数の供回りのみで千本城を訪れた 9 。資俊は高資を盛大な酒宴でもてなし、完全に油断させたところで、隠していた手勢に襲わせ、これを殺害した 4 。主君を自らの城に招き、謀殺するという前代未聞の事件は、こうして完遂された。
通常であれば、主君殺しという大逆罪を犯した者は、一族郎党ことごとく討伐されるのが戦国の常である。しかし、千本資俊のその後は不可解なものであった。彼は処罰されるどころか、那須家の家臣としての地位を保ち続け、その後30年以上にわたって那須七党の一角を占め続けたのである 2 。
この不可解な事実を解く鍵は、高資の死によって誰が最も利益を得たかという点にある。高資の死後、那須家の家督を継いだのは、彼の異母弟である那須資胤であった 8 。資胤は、兄・高資と家督を巡って対立しており、事件当時は一時的に那須家から追放されていたとも伝わる 8 。兄の死によって彼は那須家当主の座に返り咲くことができた、最大の受益者なのである。
資胤が、兄を殺した大逆人である資俊を何ら処罰しなかったという事実は、両者の間に何らかの密約、あるいは暗黙の了解があったことを強く示唆している。つまり、芳賀高定の調略は、資胤の家督奪取という那須家内部の権力闘争と連動していた可能性が極めて高い。資俊は、宇都宮氏の復讐の駒であると同時に、資胤が兄を排除するための先兵でもあったと考えられる。資胤にとって、資俊は憎き兄を排除してくれた「功労者」であり、処罰するどころか、その存在を認めざるを得なかったのである。この沈黙の共犯関係こそが、資俊がその後も那須家中で生き永らえることを可能にしたのであった。
主君殺しという大罪を犯しながらも、那須家中で生き延びた千本資俊。しかし、彼の権勢は永続しなかった。那須家中に、彼を凌ぐ新たな実力者が台頭したからである。その人物こそ、同じく那須七党の一人、大関高増であった。
大関高増は、千本資俊とは対照的に、那須資胤の時代に一度は主家と対立し、佐竹氏に内通するなど反抗的な態度を示した武将であった 10 。しかし、永禄11年(1568年)に資胤と和睦してからは、その武勇と知謀をもって忠誠を尽くし、次第に家中の信頼を勝ち取っていった 10 。特に、資胤の子・那須資晴が家督を継ぐと、高増はその補佐役として那須七党の筆頭格となり、家中における最大の実力者として権勢を誇るに至った 11 。彼は弟の福原資孝や大田原綱清といった一族を要職に就け、那須家中の権力基盤を巧みに固めていった 24 。
那須家中に二つの太陽は存在し得なかった。千本氏と大関氏、二大勢力の対立が表面化するきっかけとなったのは、一見すると些細な家庭内の問題であった。那須資胤の死後、資俊の嫡子・資政(史料によっては隆継とも記される) 13 が、妻としていた高増の娘を離縁し、実家に送り返してしまうという事件が起きたのである 2 。
史料には、その理由が「姑(資政の母、すなわち資俊の妻)との不和」であったと記されている 21 。しかし、戦国時代の政略結婚における離縁は、単なる家庭不和で済まされる問題ではない。それは、両家の同盟関係の破棄を意味する、極めて重大な政治的決裂であった。この一件で面目を潰された高増は激怒し、千本氏の排除を決意したとされている 21 。那須家中の権力闘争は、この離縁を機に、もはや後戻りできない段階へと突入した。
大関高増は、単なる私怨で政敵を排除するような短慮な人物ではなかった。彼は自らの行動を正当化するため、周到な政治的演出を行った。高増は、若き新当主・那須資晴に対し、次のように進言したのである。
「千本氏は、貴方様の伯父上にあたる那須高資様を謀殺した、許されざる仇敵にございます。今こそ、34年来のその怨みを晴らし、那須家の正義を示すべき時ではございませんか」 21 。
この進言は、高増の老獪さを示すものであった。彼は、自らの個人的な遺恨には一切触れず、問題を「先代当主の仇討ち」という公的な大義へとすり替えたのである。高資の死を不問に付したのは、資晴の父・資胤であったにもかかわらず、代替わりした若い当主の忠誠心と正義感に訴えかけることで、自らの政敵排除に「主命」というお墨付きを得ようとしたのだ。資晴はこの進言を受け入れ、高増に千本父子の討伐を命じた 2 。これにより、高増は私怨を晴らすための戦いを、主君の命による「公的な誅伐」として実行する大義名分を手に入れた。
天正13年(1585年)12月8日、計画は実行された。高増は、千本資俊と息子・資政を、那須氏の本拠地である烏山(現在の那須烏山市)の太平寺へと誘い出した 2 。何らかの謀議を口実にしたものと思われる。寺に到着し、無防備になった父子を、高増と弟の大田原綱清らが率いる兵が取り囲み、その場で惨殺した 2 。享年67。主君を謀殺した梟雄は、自らもまた謀略の刃に倒れるという皮肉な最期を遂げた。
この事件により、千本氏の勢力は完全に瓦解し、居城であった千本城も落城した 4 。高増は、殺害した千本父子を後に供養したと伝わるが 27 、これもまた彼の政治的計算の一環であったと考えられる。敵対者の魂を鎮めるという儀式を主宰することは、その死の責任と処理を自らが引き受け、千本氏の旧領と家臣団を完全に自らの支配下に置いたことを内外に宣言する、高度な政治的パフォーマンスだったのである。
千本資俊の生涯は、主君を裏切り自らの勢力拡大を図る「下剋上」の精神と、より狡猾な者に謀略によって排除されるという、戦国武将の非情な現実を凝縮したものであった。彼は、名門の出自と堅城を背景に持ちながらも、自らが属する那須氏という共同体の構造的欠陥と、周辺勢力の思惑が交差する中で、生き残りをかけて最も過激な選択をした人物であった。
彼は当初、宇都宮氏の復讐心と、那須資胤の家督奪取という二つの思惑が交差する中で、両者の利害を代行する「駒」として利用された。しかし、主君殺しという一線を越えた時点で、彼自身も下野国の勢力図を塗り替えようとする「プレイヤー」へと変貌した。だが、最終的に彼は、自身以上に老獪な政治感覚と権力への執着を持つプレイヤー、大関高増によって、歴史の盤上から取り除かれる運命にあった。高増の謀略は、私怨を公憤に昇華させ、政敵を合法的に抹殺するという、戦国期の権力闘争の一つの完成形を示している。
歴史の皮肉は、その後の両家の運命に顕著に表れている。資俊の死で一時断絶した千本氏は、茂木氏から養子を迎えて家名を再興し、豊臣秀吉の小田原征伐にいち早く参陣することで所領を安堵された 7 。その後も巧みに時勢を読み、江戸時代には3000石余の大身旗本として幕末まで存続した 7 。一方で、資俊を排除し、家中を一時的に掌握したかに見えた那須宗家は、そのわずか5年後、小田原征伐への遅参を豊臣秀吉に咎められ、改易という憂き目に遭う 13 。この対照的な結末は、戦国末期から近世への移行期において、個々の武将の謀略の巧拙以上に、時代の大きな潮流を読み解く能力こそが、一族の存亡を分けたことを示唆している。
千本資俊は、英雄でもなければ、単なる悪役でもない。彼は、自らが置かれた時代の矛盾と力学の中で、野心を抱き、謀略を用い、そしてその結果として滅び去った、極めて人間的な武将であった。彼の生涯は、安定した秩序が崩壊した時代において、個人がいかにして生き、そしていかにして散っていったのかを物語る、一つの貴重な歴史的証言なのである。