戦国乱世から徳川泰平の世へと時代が大きく転換する中で、多くの武将が歴史の波に翻弄され、あるいは消えていった。その一方で、激動の時代を巧みに生き抜き、新たな秩序の中で確固たる地位を築き上げた者も存在する。千村平右衛門良重(ちむら へいえもん よししげ)は、まさに後者を代表する人物である。
彼は、信濃の名門・木曾氏の重臣としてキャリアを始めながら、主家の改易という苦難を乗り越え、関ヶ原の戦いを機に徳川家康に見出された。その功績は、単なる一武将としての武功に留まらない。彼は徳川秀忠軍の先導役を務め、東濃地方の平定に多大な貢献を果たした。その結果、幕府直臣たる旗本、それも大名に準じる格式を持つ「交代寄合」という破格の待遇を得るに至る。
しかし、千村良重の生涯を特異なものとしているのは、それに加えて御三家筆頭である尾張徳川家の付属家臣という、他に類例を見ない「両属」の身分を獲得した点にある。本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、木曾衆の宗家としての血統、関ヶ原での戦略的な働き、そして幕府と尾張藩の双方に仕えるという複雑な立場を確立するに至った彼の生涯を、その歴史的意義と共に詳細に解き明かすことを目的とする。彼の軌跡は、徳川家康の巧みな人材登用術と地方統治戦略、そして確立期にあった幕藩体制の複雑な実態を映し出す、貴重な歴史の証言と言えよう。
年代(西暦/和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
関連史料/役職 |
1566年(永禄9年) |
1歳 |
信濃国にて、千村家政(または重照)の子として生誕。 |
1 |
1590年(天正18年) |
25歳 |
主君・木曾義昌に従い、下総国網戸へ移る。義昌より700石の知行を拝領。 |
3 |
1600年(慶長5年) |
35歳 |
主家・木曾氏が改易され、浪人となる。下野国小山にて徳川家康に召し出され、東軍に加わる。東濃の戦いで木曾谷を平定し、苗木城・岩村城攻略に貢献。 |
2 |
1601年(慶長6年) |
36歳 |
関ヶ原の戦功により、美濃国に4,600石を与えられ、交代寄合の旗本となる。可児郡久々利に千村陣屋を構える。 |
8 |
1614-1615年(慶長19-元和元年) |
49-50歳 |
大坂の陣に参陣。冬の陣では信濃飯田城などを守備、夏の陣では天王寺口の戦いに参加。 |
9 |
1619年(元和5年) |
54歳 |
将軍・徳川秀忠の命により、旗本の身分のまま尾張藩の附属となる。 |
1 |
不明 |
- |
幕府領である信濃伊那郡の支配と、遠州の榑木奉行を兼任。 |
1 |
1630年(寛永7年) |
65歳 |
9月22日、死去。 |
1 |
千村良重が歴史の表舞台に登場する背景には、彼の出自と、主家である木曾氏との深い関係があった。彼が後に徳川家康から大役を任されるに至った要因は、この時代における彼の「血統」という無形の資産に深く根差している。
千村氏は、平安時代末期に源平合戦で活躍した朝日将軍・木曾義仲を祖とする、信濃の名門・木曾氏の支族である 9 。その起源は、木曾義仲から数えて六代目の子孫である木曾家村が足利尊氏に仕え、その五男・家重が上野国千村郷を領したことから「千村」の姓を名乗ったことに始まるとされる 6 。
良重の直接の系譜については、史料によって父を次郎右衛門重照とするもの 3 や、家政とするもの 2 があり、戦国期の混乱を反映してか必ずしも明確ではないが、彼が木曾氏一門の中でも特に重んじられる家柄であったことは疑いない。千村家は、同じく木曾氏の重臣である山村家と共に、木曾谷の在地武士団である「木曾衆」の宗家、すなわち本家筋として扱われており、地域社会において強い影響力と権威を有していた 1 。
良重は永禄9年(1566年)に生を受け、信濃の戦国大名・木曾義昌の家臣としてそのキャリアを開始した 1 。当時の木曾氏は、西の織田信長と東の武田信玄という二大勢力に挟まれ、巧みな外交で家の存続を図っていた。良重は、この激動の主家にあって忠実に仕えた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康が関東へ移封されると、それに伴い主君・木曾義昌も信濃木曾谷から下総国網戸(阿知戸、現在の千葉県旭市周辺)へ一万石で移された。良重もこれに従い、故郷を離れて下総へと移住した 3 。この時、良重は義昌から下総国内の十日市・蛇園などで700石の知行と、箕広66貫文の代官職を与えられている 2 。これは、彼が単なる家臣ではなく、知行地を預かる上級家臣として重用されていたことを明確に示すものである。
しかし、義昌の死後、跡を継いだ子の木曾義利が、叔父の上松義豊を惨殺するなど不行跡が続いたため、慶長5年(1600年)、徳川家康によって木曾氏は改易の処分を受ける 2 。主家を失った良重は、山村氏ら他の重臣たちと共に浪人の身となり、下総の佐倉で雌伏の時を過ごすこととなった 2 。
この浪人生活は、一見すれば良重のキャリアの断絶であった。しかし、歴史は彼に新たな役割を用意していた。彼が浪人となったまさにその年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。そして、徳川家康が中山道の要衝である木曾谷を迅速に確保する必要に迫られた時、数多いる浪人の中から白羽の矢が立ったのが、千村良重であった。家康が着目したのは、良重個人の武勇や才覚以上に、彼が持つ「木曾衆の宗家」という血統的権威であった。木曾谷の在地武士たちを動かすには、彼らが心服する旧主の一族の呼びかけこそが最も効果的であると、家康は的確に見抜いていたのである。良重にとって、主家の喪失は、結果として徳川の臣として飛躍するための好機へと転化したのであった。
慶長5年(1600年)、千村良重の運命は劇的に転回する。主家を失い浪人となっていた彼に、天下統一を目指す徳川家康から直接声がかかったのである。この抜擢は、彼の人生における最大の転機であり、その後の輝かしいキャリアの幕開けとなった。
同年7月、家康は会津の上杉景勝討伐のため、諸大名を率いて下野国小山に陣を敷いていた。そこで石田三成ら西軍挙兵の報に接し、軍を西へ返すことを決断する(小山評定)。この時、家康にとって喫緊の課題の一つが、中山道の確保であった。木曾谷は当時、西軍についた尾張犬山城主・石川貞清が太閤蔵入地の代官として支配しており、東軍の西上を阻む戦略的要衝となっていた 15 。
家康と本多正信、大久保長安らは、この木曾谷をいかにして速やかに平定するかを協議した。当初は改易された旧領主・木曾義利の起用も検討されたが、その器量に疑問符が付き、代わりに木曾の旧臣で人望の厚い千村良重、山村良勝、馬場昌次を召し出すことが決まった 7 。7月28日、家康は小山の陣に彼らを召し、木曾谷奪還の先鋒となることを命じたのである。これは、彼らが木曾衆に対して持つ影響力、すなわち在地ネットワークを最大限に活用しようとする、家康の極めて合理的な判断であった。
家康の命を受けた良重と良勝は、当初わずか数十人の手勢で木曾へと向かった 7 。彼らは道中、主家改易後に甲斐や信濃に潜んでいた木曾の旧臣たちに檄を飛ばし、味方になるよう呼びかけて兵力を結集していった 2 。
彼らの最初の目標は、木曾谷の入口にあり、石川貞清の家臣が守る贄川の砦であった。8月12日、良重らは砦への攻撃を開始するが、この攻略は力攻めではなかった。砦の中にいた千村次郎衛門重照、原図書助、三尾将監長次といった者たちが、同じ木曾旧臣である良重らの呼びかけに応じ、内から寝返ったのである 2 。この内応工作の成功により、良重らはほとんど抵抗を受けることなく砦を突破し、木曾谷全域を東軍の支配下に置くことに成功した。
木曾谷を確保した良重らは、続いて徳川秀忠率いる中山道本隊の先導役を務める 1 。さらに、家康の側近である大久保長安からの軍令状を受け 7 、美濃国東部(東濃)へと進撃する。ここでは、同じく旧領回復を目指す遠山友政(苗木城主)、遠山利景らと連携し、西軍方の田丸直昌が守る岩村城や、その支城である苗木城を次々と攻略した 2 。この一連の木曾谷から東濃にかけての平定作戦が「東濃の戦い」であり、良重の功績の中核をなすものである。
この戦いの経過は、良重の成功が単なる武勇によるものではなく、旧知の在地勢力との「内応」工作と、他の旧領主たちとの巧みな「連携」という、二つの要因に支えられていたことを示している。彼は軍事指揮官であると同時に、地域の諸勢力を束ねるコーディネーターとしての役割を果たし、最小限の戦闘で最大限の戦果を挙げるという、家康の期待に見事に応えたのである。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、戦功の論功行賞が行われた。東濃の戦いにおける良重の働きは高く評価され、彼は幕府から美濃国の恵那郡、土岐郡、可児郡内にまたがる4,600石(後に分知により4,400石)の知行地を与えられた 9 。
さらに、彼の身分は単なる旗本ではなく、将軍への謁見資格を持ち、参勤交代の義務を負うなど、大名に準じる格式を持つ「交代寄合」とされた 2 。これは、彼の功績の大きさと、木曾衆の宗家としての家格が考慮された破格の待遇であった。
慶長6年(1601年)、良重は新たな本拠地として、美濃国可児郡久々利村に陣屋を構えた 8 。この「千村陣屋」は、彼の新たな栄光の象徴となり、以後、明治維新に至るまで千村家の拠点として存続することになる。
関ヶ原の戦功により、千村良重は幕府直臣としての確固たる地位を築いた。しかし、彼のキャリアを他に類を見ないものにしたのは、それに加えて、徳川御三家筆頭である尾張藩に付属するという特殊な立場を確立したことである。この「両属」という身分は、良重個人の処遇の問題に留まらず、徳川幕府の巧みな統治システムの一端を象徴するものであった。
良重に与えられた役割は、軍事的なものだけではなかった。彼は自身の4,600石の知行地とは別に、幕府から重要な経済官僚としての役務を委任された。具体的には、幕府直轄領(天領)であった信濃国伊那郡と遠州(現在の静岡県西部)における「榑木(くれき)」、すなわち城郭や寺社の建設・修築に不可欠な建築用木材の管理・供給を命じられたのである 1 。
良重が支配を委任された信濃伊那郡の預地は、合計で6,197石にも及んだ。彼はこの広大な預地を管理するため、伊那郡の箕瀬羽場(後に荒町へ移転)に陣屋を設置し、実務を取り仕切った 9 。さらに、遠州奥の山では榑木奉行に任じられ、後には同国の船明村の榑木改役を務めるなど、幕府の林政、特に戦略物資である木材の安定供給に深く関与した 1 。これは、彼が武人としてだけでなく、行政・経済面でも高い能力を持つと評価されていたことを示している。
幕府の直臣として活躍する一方、良重は慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣。冬の陣では信濃飯田城の守備、夏の陣では天王寺口の戦いに参加するなど、徳川家のために働き続けた 9 。
大坂の陣が終結した元和元年(1615年)、家康はかつての木曾氏の所領であった木曾谷を、九男・徳川義直が藩主を務める尾張藩に加増する意向を示した。それに伴い、木曾衆の宗家である千村良重と山村良勝を、尾張藩の専属家臣としようとしたのである 9 。
しかし、良重はこの申し出に難色を示した。幕府から信濃・遠州に広大な預地を任されている以上、一つの藩に専属することは困難であるというのがその理由であった 9 。これに対し、尾張藩主の徳川義直は、木曾谷と木曾衆を完全に掌握するために、その宗家である千村家を自藩に組み込むことを強く望んだ。交渉が難航すると、義直は兄である二代将軍・徳川秀忠に直接働きかけ、千村家を尾張藩に所属させるよう命じてほしいと談判に及んだ 1 。
最終的に、元和5年(1619年)、将軍秀忠の命令という形で決着がつく。千村家は「幕府直臣(交代寄合)の身分のまま、尾張藩の附属となる」ことが決定されたのである 1 。
この将軍命令を受け、良重は老中を通して将軍に、信濃・遠州における幕府の役職を今後どうすべきか伺いを立てた。これに対し、秀忠は今後も従来通り支配するようにとの上意を下した 9 。
これにより、千村家は江戸幕府と尾張藩の両方に仕えるという、極めて特殊で前例のない「両属」の立場を法的に確立した。彼らは幕府の交代寄合として参勤交代を行い、江戸に屋敷を持つ一方で 1 、尾張藩では城代格大寄合という重臣の待遇を受け、名古屋にも屋敷を与えられた 6 。
この一見複雑な身分は、徳川幕府の高度な統治術の表れであった。幕府の視点から見れば、この体制には三つの狙いが秘められていた。第一に、良重を榑木奉行として留任させることで、戦略物資である木材の供給ラインを幕府が直接管理し続けることができる。第二に、御三家筆頭という強大な力を持つ尾張藩の領内に、将軍に直接忠誠を誓う有力旗本を「楔(くさび)」として打ち込むことで、その動向を監視・牽制する役割を期待できる。そして第三に、統制が難しい在地武士団・木曾衆の管理を、宗家である千村・山村両氏を通じて尾張藩の責任で行わせつつ、彼らの旗本身分を保証することで幕府への忠誠心も維持できる。
千村良重の「両属」という身分は、単なる個人への恩賞ではなく、中央集権と地方分権のバランスを取りながら、戦略的要地と資源、そして有力大名を巧みにコントロールしようとした、徳川幕府の精緻な統治メカニズムの重要な一部だったのである。
幕府と尾張藩への両属という特異な地位を確立した千村良重は、その後も領主として、また一族の長として、その安泰と繁栄の礎を築いた。彼が残したものは、物理的な陣屋や知行地に留まらず、幕末まで続く一族の繁栄と、歴史の中に刻まれた確かな足跡であった。
良重が本拠地とした美濃国可児郡久々利の千村陣屋は、単なる旗本の屋敷の規模を遥かに超えるものであった。その敷地は東西300メートル、南北260メートルにも及び、周囲には堀の役割を果たす久々利川が流れ、石垣が巡らされていたことから「さながら城郭のごとし」と評された 18 。
陣屋内は、政務を執り行う「上屋敷」(久々利役所とも呼ばれた)と、当主の隠居所や家族の生活空間である「下屋敷」に分かれていた 10 。陣屋の周囲には家臣の屋敷が70軒ほども立ち並び、さながら小規模な城下町の様相を呈していたという 10 。
現在、この陣屋跡地には可児郷土歴史館が建てられており、往時を偲ばせる石垣の一部が今も残されている 8 。また、隣接地には下屋敷の庭園であった「春秋園」や、千村家に伝わる貴重な古文書を収蔵・公開する「木曽古文書館」があり、良重とその一族の歴史を今に伝えている 8 。
寛永7年(1630年)9月22日、千村良重は65年の生涯を閉じた 1 。法名は春陽道甫と伝わる 2 。
彼の跡は子の重長が継ぎ、以降、千村平右衛門家の当主は代々「平右衛門」を襲名し、幕府の交代寄合、そして尾張藩の重臣という二つの顔を持ちながら幕末まで家名を保った 9 。一族からは、分家して幕府の直参旗本となる者も現れた 18 。また、尾張藩内では、千村一族と他の木曾衆の有力者たちで「久々利九人衆」と呼ばれる家臣団の中核を形成し、藩内で特別な地位を占め続けた 9 。
時代は下り、明治維新を迎えると、十一代当主・仲展の子である仲重の代に、一族は先祖の姓である「木曾」に復姓した 20 。これは、木曾義仲の末裔としての誇りを、新たな時代においても継承しようとする意志の表れであった。
千村良重の菩提寺は、彼の本拠地であった岐阜県可児市久々利にある久昌山東禅寺である 2 。この寺は、もともと良重の旧主君・木曾義昌が、移封先の下総国網戸に建立した寺であった。良重は主君を偲び、その法嗣を招いて久々利の地に寺を移転・再興したのである 20 。
東禅寺の境内にある千村家墓所は、可児市の文化財に指定されている。中央の廟に初代・良重の墓が祀られ、その周りには歴代当主の墓石が壮大に立ち並ぶ。特に二代目から十一代までの墓石は、高さが約3メートルにも及ぶ巨大な板碑型であり、一族の格式の高さを物語っている 23 。
総括すると、千村良重は、主家への忠誠を尽くしながらも、その没落後は時代の流れを的確に読み、自らが持つ血統的価値と能力を最大限に活かして、徳川家康という新たな時代の覇者に仕えた、優れた現実主義者であった。東濃の戦いでは、武勇だけでなく政治的調整能力を発揮して戦功を挙げ、平時には幕府の経済官僚として林政を担うなど、多岐にわたる才能を示した。そして何よりも、幕府と尾張藩という二つの巨大権力の間で巧みに立ち回り、一族に他に類を見ない安泰と繁栄をもたらした。彼の生涯は、戦国の武士が泰平の世の官僚へと変貌していく、時代の移行期を象徴する、知勇兼備の武将であったと結論づけることができる。