南方就正
南方就正は毛利氏の武将。大内輝弘の乱で活躍し、右田岳城代として防長支配に貢献。晩年には壱岐守を拝領し、毛利家中で重きをなした。

毛利氏の防長支配を支えた将、南方就正の実像
序論:安芸国人から毛利氏の勇将へ
南方就正(みなみがた なりまさ)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した毛利氏の武将である。彼の名は、大内氏の残党である大内輝弘が周防国で起こした反乱(大内輝弘の乱)において、敗走する輝弘軍を追撃し、その鎮圧に決定的な役割を果たしたことで知られている。しかし、その功績の大きさにもかかわらず、吉川元春や小早川隆景といった毛利一門の輝かしい将星や、他の著名な家臣たちの影に隠れ、彼の生涯全体が詳細に語られる機会は決して多くはなかった。
本報告書は、この南方就正という一人の武将の生涯を、その出自から晩年に至るまで丹念に追跡し、彼の果たした役割を多角的に分析することを目的とする。特に、毛利氏が中国地方の覇者としてその支配体制を確立していく過程、とりわけ旧大内領である周防・長門二国の統治を安定させる上で、就正のような譜代の国人出身家臣がいかに重要な存在であったかを明らかにしたい。
本報告の記述は、その多くを長州藩が江戸時代中期に編纂した公式の家臣記録である『萩藩閥閲録』巻四十七「南方九左衛門」の条に依拠している 1 。この史料は、南方家に伝来した古文書や家譜を基に構成されており、就正の具体的な軍功、知行地の変遷、そして主君である毛利元就や輝元との関係性を知る上で、最も信頼性の高い一次史料群である。これらを軸に、関連する軍記物や近年の研究成果を統合し、これまで断片的にしか知られてこなかった南方就正の実像に、より深く迫るものである。
表1:南方就正 略年表
西暦 (和暦) |
年齢 (数え) |
南方就正の動向 |
関連する毛利氏・天下の動向 |
典拠 |
1545 (天文14) |
1 |
南方元次の次男として安芸国に生まれる。 |
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1 |
1557 (弘治3) |
13 |
兄・就由に代わり家督を相続。 |
毛利元就、防長経略を完了し大内氏を滅ぼす。 |
1 |
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周防国右田岳城の城代に就任する。 |
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1 |
1562 (永禄5) |
18 |
石見国松山城攻めで武功を挙げる。 |
毛利氏、尼子氏と石見銀山を巡り抗争。 |
1 |
1568 (永禄11) |
24 |
安芸・長門に知行を加増される。 |
足利義昭、織田信長に奉じられ上洛。 |
1 |
1569 (永禄12) |
25 |
大内輝弘の乱で、敗走する輝弘軍を追撃・撃破する。 |
大友宗麟の策謀。毛利軍は北九州から撤退。 |
4 |
1570 (元亀元) |
26 |
出雲国へ出陣し、月山富田城の毛利元秋を補佐する。 |
尼子再興軍との戦い(布部山の戦い)。 |
1 |
1581 (天正9) |
37 |
備中国忍山城を守備。周防・長門に知行を加増される。 |
織田氏による中国侵攻(備中高松城の戦いの前年)。 |
1 |
1583 (天正11) |
39 |
輝元より伊予国への渡海を命じられる。 |
豊臣秀吉の四国攻めの前段階。 |
1 |
1604 (慶長9) |
60 |
輝元より「壱岐守」の受領名を与えられる。 |
関ヶ原の戦後、長州藩の体制固めの時期。 |
1 |
1609 (慶長14) |
65 |
4月23日、死去。 |
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1 |
第一章:南方氏の出自と就正の家督相続
一族の淵源:中原姓門司氏庶流としての南方氏
南方氏のルーツは、平安時代から鎌倉時代にかけて朝廷の実務官僚を輩出した中原氏の庶流、門司氏の一門である大積(おおつみ)系門司氏に遡る 1 。この系譜は、豊後国の大友氏や安芸国の厳島神社の神主家とも同族であることを意味しており、南方氏が西国に古くから根を張る由緒ある一族であったことを示唆している。
一族が「南方」の名字を称するようになったのは、南北朝時代の延元元年(1337年)頃、安芸国山県郡南方(現在の広島県山県郡北広島町南方)の地頭職を得たことに始まる 1 。これにより、彼らは安芸国の国人領主として、その歴史を刻み始めたのである。
安芸国人としての台頭と毛利氏への臣従
戦国時代の安芸国は、西の大国である周防の大内氏と、東の出雲の尼子氏という二大勢力の狭間に位置し、安芸武田氏、毛利氏、吉川氏、熊谷氏といった数多くの国人領主が、離合集散を繰り返す極めて複雑な政治情勢下にあった 6 。国人たちは、ある時は大内氏に、またある時は尼子氏に従属し、あるいは国人同士で一揆(同盟)を結ぶことで、自家の存続を図っていた 6 。
このような状況の中、南方氏は比較的早い段階で毛利氏との関係を深めていた。就正の父である南方元次の代に、毛利元就の父・毛利興元に仕えたと記録されている 1 。これは、毛利氏が安芸国人一揆の盟主として徐々に頭角を現していく過程で、南方氏がその将来性を見越し、麾下に加わったことを示している。
就正の生誕と家督相続の背景
南方就正は、天文14年(1545年)、南方元次の次男として生を受けた 1 。彼の母は、当時安芸国で大きな勢力を誇った国人・井上氏の惣領であった井上元兼の娘であった 1 。
本来であれば家督を継ぐ立場ではなかったが、弘治3年(1557年)、13歳の時に兄の南方就由に代わって家督を相続することになる 1 。この家督交代の背景には、毛利元就の冷徹な家臣団統制策が深く関わっていた。
『萩藩閥閲録』には、兄・就由について「子細が有って家が断絶した。母は井上元兼の娘である」と、意味深長な記述が残されている 3 。この「子細」の一つとして、就由が過度の酒好きであったという逸話が伝わっているが 1 、より本質的な理由は、彼の出自にあったと考えられる。就由の母の実家である安芸井上氏は、天文19年(1550年)、当主の元就に対して「驕慢であった」との理由で、元兼をはじめとする一族の主だった者たちが粛清されるという事件が起きていた 3 。
元就にとって、粛清した井上氏の血を濃く引く就由が、譜代の家臣である南方家の当主となることは、将来的な不安要素となり得た。たとえ就由自身に反意がなくとも、井上氏の残党やそれに同情する勢力に担がれる危険性を排除できなかったのである。元就は、血縁や長幼の序といった伝統的な価値観よりも、家臣団の安定と自らへの忠誠を最優先する極めて現実的な為政者であった。この厳格な人事方針が、兄・就由の廃嫡と、次男であった就正の家督相続という結果をもたらした。結果的に、この非情とも言える判断が、有能な武将である就正に活躍の場を与え、毛利家にとって大きな利益となるのである。
第二章:毛利氏の防長経略と右田岳城代への抜擢
周防国の戦略的要衝・右田岳城
右田岳城は、現在の山口県防府市に位置する右田ヶ岳(標高426m)に築かれた山城である 10 。この城は、かつて西国の雄として栄えた大内氏の本拠地・山口へと通じる山陽道と山口街道を押さえる、軍事・交通の両面における最重要拠点の一つであった 10 。山全体が花崗岩の岩峰で形成されており、麓から見上げるその姿は、まさに天然の要害と呼ぶにふさわしい 10 。毛利氏にとって、新たに支配下に置いた防長二国を安定的に統治するためには、この右田岳城の確保が不可欠であった。
城代就任の経緯と毛利氏の支配体制における役割
弘治元年(1555年)、厳島の戦いで陶晴賢を討ち破った毛利元就は、その勢いを駆って周防・長門への侵攻作戦、いわゆる「防長経略」を開始した 13 。この過程で右田岳城も毛利氏の支配下に入り、当時の城主であった右田隆量は降伏した 4 。
その後、弘治3年(1557年)に家督を相続したばかりの南方就正が、この右田岳城の城代(城番)に任命された 1 。当時、就正はまだ13歳という若さであり、この異例とも言える抜擢は、元就が就正個人、そして南方家に対して寄せていた絶大な信頼を物語っている。彼は、山口奉行に任じられた国司氏や井上氏らと共に、旧大内領の中核部を抑えるという極めて重要な責務を担うことになったのである 1 。
この人事は、単なる論功行賞以上の、計算された戦略的意味合いを持っていた。防長経略は電撃的に行われたが、征服された土地の支配は常に不安定である。大内氏の旧臣や領民による反発や一揆は十分に予想された。その中で、旧都・山口への陸路を完全に扼する「喉元」に位置する右田岳城に、譜代の信頼できる家臣を配置することは、物理的な防衛線を構築すると同時に、反乱の芽を早期に摘発するための情報収集拠点としての役割を期待するものであった。就正は、毛利氏による新たな支配体制を、その最前線で体現する存在としてこの地に送り込まれたのである。
大友氏勢力への警戒任務
右田岳城代としての就正の任務は、旧大内勢力への備えだけではなかった。大内氏滅亡後、その旧領である北九州の利権を狙う豊後の大友宗麟との緊張関係が高まっていた。永禄12年(1569年)7月、大友水軍が周防沿岸に来襲し、現地の地下人(じげにん)一揆を扇動するという事件が発生する 1 。この時、就正は山県元重ら他の毛利家臣と連携し、この一揆を見事に鎮圧した。
さらに同年8月には、大友方が周防に潜伏する大内氏の遺臣と連絡を取るために派遣した密使が、吉敷郡名田島に上陸する。就正は機敏にこれを察知して捕縛し、その油断なき対応を毛利輝元から賞賛されている 1 。これらの出来事は、数ヶ月後に勃発する大内輝弘の乱の、まさに前哨戦とも言うべきものであり、就正が常に臨戦態勢で国境警備の任に当たっていたことを示している。
第三章:大内輝弘の乱における武功 ― 生涯最大のハイライト
第一節:乱の勃発と毛利軍の危機
永禄12年(1569年)、毛利氏の歴史における大きな転換点の一つとなる事件が勃発する。当時、毛利元就・輝元父子は、北九州の覇権を巡って豊後の大友宗麟と激しく対峙しており、その主戦場は筑前国の立花山城周辺であった(多々良浜の戦い) 5 。戦況が膠着する中、大友宗麟は戦局を打開するための大胆な策を講じる。それは、毛利領国の本拠地である周防・長門を直接攻撃し、後方を攪乱することであった 5 。
この作戦の主役として白羽の矢が立てられたのが、かつて大内氏の当主であった大内義隆の従兄弟にあたり、豊後で大友氏の庇護下にあった大内輝弘であった。宗麟は輝弘に兵を与え、大内家再興という大義名分を掲げさせて周防へと送り込んだのである 5 。この動きは、時を同じくして出雲国で尼子氏の再興を掲げて蜂起した山中幸盛らの軍勢とも連動しており、毛利氏を東西から挟撃する一大戦略であった 5 。
同年10月11日、大友水軍に護衛された輝弘は、周防国吉敷郡の秋穂浦に上陸した 5 。大内一族の帰還という報は瞬く間に広がり、旧恩を懐かしむ大内氏の遺臣たちが続々と馳せ参じた。その軍勢は、当初の2,000から、山口に侵攻する頃には6,000にまで膨れ上がったと伝えられる 5 。翌12日、輝弘軍は山口市中に突入。毛利方が配置していた山口町奉行・井上就貞を討ち取り、市川経好が九州出陣のため留守にしていた高嶺城を包囲した 5 。経好の妻・市川局らが奮戦し、城は辛うじて持ちこたえたものの、毛利氏の防長支配は、発足以来最大の危機に瀕したのである。
第二節:輝弘軍の敗走と南方就正の追撃
長門国赤間関で九州方面の指揮を執っていた毛利元就は、輝弘侵攻の急報に接するや、即座に九州からの主力の撤退を決定した。この決断の速さこそ、元就の真骨頂であった。吉川元春と福原貞俊が率いる1万の精鋭部隊が、ただちに山口へと急行した 5 。
毛利本隊が凄まじい勢いで迫っているとの報は、輝弘軍に致命的な動揺をもたらした。大内旧臣の寄せ集めであった彼らの士気は急速に萎え、戦わずして離散し始めた 20 。高嶺城を落とせないまま、逆に包囲されつつある状況を悟った輝弘は、山口攻略を断念。10月25日、残った手勢約800を率いて、上陸地点である秋穂浦へと撤退を開始した 5 。
しかし、輝弘を待ち受けていたのは、さらなる絶望であった。頼みの綱であった大友水軍の船団は、秋穂浦から影も形も消えていた。既に豊後へ帰国してしまったのか、あるいは毛利水軍の襲撃によって撃破されたのか、その理由は定かではないが、これにより輝弘は海上への脱出路を完全に断たれた 5 。
進退窮まった輝弘は、別の港を求めて海岸線に沿って東へ、防府の三田尻方面へと、約20キロメートルから30キロメートルに及ぶであろう、悲壮な敗走を続けた 5 。そして、この逃避行の途上、輝弘軍は決定的な一撃を受けることになる。彼らの眼前に立ちはだかったのが、
南方就正が率いる右田岳城の城兵 であった 4 。
この追撃は、輝弘の乱の帰趨を決する上で極めて重要な意味を持っていた。輝弘軍は毛利本隊との直接戦闘を前に士気を喪失していたとはいえ、まだ800名ほどの兵力を保持していた 5 。彼らの唯一の希望は、三田尻などの港で船を見つけ、豊後へ逃れることであった。右田岳城から眼下の街道を東へ向かう敗残兵の列を発見した就正は、吉川元春ら本隊の到着を待つことなく、自らの判断で城兵を率いて出撃した。この機を逃さない果断な行動は、輝弘軍に物理的な損害を与えただけでなく、彼らの組織的な移動能力を完全に破壊し、最後の希望を打ち砕く心理的な打撃となった。この一撃により、輝弘軍の敗走は統制を失った潰走へと変わり、体勢を立て直す時間的・精神的余裕は完全に奪われた。南方就正のこの行動こそ、輝弘の逃避行にとどめを刺した、決定的な武功だったのである。
第三節:乱の終結と戦功の評価
就正の猛追をかろうじて振り切った輝弘であったが、その先にもはや活路はなかった。三田尻でも船を見つけることはできず、さらに東の都濃郡富海(とのみ)まで逃れたものの、ついに追いついた毛利軍に茶臼山で包囲され、もはやこれまでと覚悟を決め、子の大内武弘と共に自刃して果てた 5 。
こうして、毛利氏の支配体制を根底から揺るがした大内輝弘の乱は、わずか半月足らずで鎮圧された。この一連の戦いにおける南方就正の働きは、乱の迅速な終結に大きく貢献したものであり、彼の名は、毛利氏配下の勇将として、この事件と共に後世に記録されることとなった 1 。この功績に対して、特定の恩賞を与えられたという直接的な記録は『閥閲録』には見られないものの 5 、後の知行加増や主君・輝元からの変わらぬ信頼を見るに、その功績が高く評価されたことは疑いようがない。
第四章:その後の軍歴と毛利家中での地位
大内輝弘の乱での目覚ましい活躍の後も、南方就正は毛利氏の主要な合戦に身を投じ、その武勇を発揮し続けた。
主要な合戦への従軍
- 対尼子氏(出雲国): 元亀元年(1570年)、尼子勝久らが率いる尼子再興軍との戦いが続く出雲国へ出陣した。この時、月山富田城の城番を務めていた毛利元秋(元就の五男)を、宿将・天野隆重と共に補佐している 1 。これは、就正が防長という限定された地域だけでなく、毛利氏の領国経営全体、特に山陰方面の安定化にも貢献していたことを示すものである。
- 対織田氏(備中国): 天正9年(1581年)、天下統一を進める織田信長の勢力が中国地方に及ぶと、就正はその最前線である備中国へ進出し、忍山城の守備にあたった 1 。これは、毛利氏が織田氏という中央の巨大勢力と直接対峙する、まさに国家の存亡をかけた戦いの一翼を担ったことを意味する。
- 四国出兵(伊予国): 天正11年(1583年)、毛利輝元より伊予国への渡海を命じられている 1 。当時、四国では長宗我部元親が急速に勢力を拡大しており、毛利氏のこの出兵は、それに対する牽制と軍事介入の一環であった。
なお、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)への従軍記録は、現存する史料からは確認されていない 24 。
知行地の変遷と家臣団内での序列
就正の軍功は、知行地の加増という形で着実に評価されていった。
- 永禄11年(1568年)、安芸国山手重永名1町7段大の土地と、長門国豊浦郡武久の内40貫の地を加増された 1 。
- 天正9年(1581年)には、備中忍山城での守備の功により、周防国吉敷郡朝倉の内15石、同郡浄光寺の4石、そして長門国厚東郡の内の浄名寺から上がる出米15石を与えられている 1 。
同年9月29日付で小早川隆景、福原貞俊・元俊父子、口羽春良という毛利家の最高幹部が連署した書状によると、南方一族全体の知行高が記録されている 1 。
表2:天正9年(1581年)時点での南方一族の知行高
知行主 |
知行高 (貫) |
備考 |
典拠 |
南方就正 (宮内少輔) |
400貫 |
当主。 |
1 |
南方弥次郎 (元俊か) |
300貫 |
嫡男。既に独立した知行を持つ。 |
1 |
須子中務丞 |
30貫 |
一族か、配下の有力武士か。 |
1 |
竹屋平兵衛尉 |
25貫 |
同上。 |
1 |
大村四郎 |
20貫 |
同上。 |
1 |
河窪彦次郎 |
20貫 |
同上。 |
1 |
金子善三郎 |
25貫 |
同上。 |
1 |
合計 |
820貫 |
南方一族(または南方就正の組)全体の知行高。 |
1 |
この820貫という知行高は、毛利家臣団の中で南方家が確固たる地位を占めていたことを客観的に示している。戦国期の1貫文は概ね10石に換算されるため、一族全体で約8,200石に相当する。これは、毛利家の重臣クラスの知行高に匹敵するものであり、特に嫡男の弥次郎(後の元俊か)が既に300貫という独立した知行を与えられている点は、南方家が一家として重く扱われていた証左と言える。就正個人の武功だけでなく、南方氏という一族が、毛利家中で有力な上級家臣として認識されていたことが窺える。
晩年の官位「壱岐守」受領
慶長9年(1604年)12月30日、南方就正は主君・毛利輝元から「壱岐守(いきのかみ)」の受領名を与えられた 1 。受領名とは、朝廷の正式な官職名に由来する名誉的な称号であり、戦国時代から江戸時代にかけて、大名が特に功績のあった家臣に恩賞として与えるものであった 25 。
この時、毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担がれた結果、112万石から周防・長門の約37万石へと大幅に減封され、極めて苦しい状況にあった 28 。このような困難な時期に、輝元が長年にわたり忠勤に励んだ老臣・就正に対し、その功績を称え、家中の秩序と権威を保つためにこの受領名を与えたものと考えられる。これは、就正がその晩年に至るまで、毛利家にとってかけがえのない重臣であり続けたことを示す、何よりの証拠である。
第五章:晩年、子孫、そして長州藩士南方家
関ヶ原の戦い後の毛利氏減封と就正の動向
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、毛利氏の運命を大きく変えた。西軍の総大将という立場であった毛利輝元は、戦後、徳川家康によって中国地方8カ国に及んだ広大な領国を没収され、周防・長門の二国、約37万石に押し込められた 29 。この大減封に伴い、毛利家は膨大な数の家臣を抱えきれなくなり、多くの者が暇を出される(リストラされる)という苦渋の決断を迫られた。
このような厳しい状況下にあっても、南方就正は引き続き毛利家に仕え、長州藩(萩藩)士として新たな時代を迎えることができた 1 。これは、彼の長年にわたる数々の軍功と、主家に対する揺るぎない忠誠心が、輝元をはじめとする藩首脳から高く評価され続けていたことを明確に示している。
慶長14年(1609年)の死と、その後の南方家
関ヶ原の動乱を乗り越え、長州藩の基礎が固まりつつあった慶長14年(1609年)4月23日、南方就正は65年の生涯を閉じた 1 。
彼の跡は、嫡男の元俊が継いだと考えられる 1 。また、就正の娘の一人は、同じく毛利氏の家臣である内藤元勝の子・就久に嫁いでいる 31 。これは、南方家が他の有力家臣との婚姻関係を通じて、藩内での家格と地位を安定させようとしていた様子を窺わせる。
江戸時代の長州藩士としての南方家
南方家は、就正の死後も途絶えることなく、江戸時代を通じて長州藩士として存続した 1 。その事実自体が、藩内で由緒ある家柄として認められていたことの証である。その証拠に、享保年間に編纂された『萩藩閥閲録』には、巻四十七に「南方九左衛門」として、その家譜と先祖伝来の古文書が収録されている 3 。
時代が下り、幕末期の藩の分限帳(家臣の名簿)には、「足軽 南方九左衛門組」という記述が見られる 33 。これは、就正の子孫である南方家の当主が、「物頭(ものがしら)」、すなわち足軽大将の役職に就き、藩の常備兵力である足軽の部隊を指揮する立場にあったことを示している 34 。禄高は時代によって変動したであろうが、南方家は藩の中級武士として、代々軍事組織の一翼を担い続け、その家名を明治維新まで伝えたのである。
結論:南方就正の歴史的再評価
南方就正の生涯を詳細に追っていくと、彼が単に「大内輝弘を討った武将」という一面的な評価に留まる人物ではないことが明らかになる。彼の人生は、安芸国の一国人領主が、毛利元就という傑出した指導者の下でその家臣団に組み込まれ、主家の勢力拡大に多大な貢献を果たし、やがて近世大名の家臣としてその地位を確立していくという、戦国時代から江戸時代初期への移行期を生きた武士の、一つの典型的な姿を映し出している。
彼の数ある功績の中でも、周防国右田岳城の城代としての働き、そして大内輝弘の乱における機敏かつ果断な軍事行動は、毛利氏による防長支配の安定化に決定的な役割を果たしたと言って過言ではない。宗麟の謀略によって最大級の危機に陥った毛利氏にとって、就正の追撃は輝弘の息の根を止める最後の一撃であった。彼のこの功績は、毛利氏が北九州の戦線から主力を撤退させ、領国の再編と安定化に集中するという、大きな戦略的転換を可能にした一因であり、その歴史的意義はより高く評価されるべきである。
最後に、本報告の根幹をなした『萩藩閥閲録』の存在の重要性を強調したい。この史料は、南方就正のような、歴史の表舞台で常に主役を張るわけではないが、組織を支える上で不可欠であった家臣たちの具体的な活躍を、後世に伝える貴重な記録である。一人の武将の生涯を通じて、我々は戦国大名・毛利氏の厳格な人事制度や家臣団統制の実態を垣間見ることができる。南方就正という人物は、毛利氏の強さの源泉を、個々の家臣のレベルから考察する上で、極めて重要な示唆を与えてくれる存在なのである。
引用文献
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- 閥閲録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A5%E9%96%B2%E9%8C%B2
- 南方就由 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E5%B0%B1%E7%94%B1
- 右田ヶ岳城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%94%B0%E3%83%B6%E5%B2%B3%E5%9F%8E
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- 毛利元就の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8100/
- 解説集 – 毛利氏 - 江戸の世のひろしま探訪|広島県の歴史・文化ポータルサイト https://hiroshima-history.com/motonari/
- 戦国武将・中国地方の覇者・謀神【毛利元就】|concierge voyage - note https://note.com/joyous_daphne460/n/nf2515408ebc1
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- 周防 右田岳城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/suo/migitagadake-jyo/
- 右田ヶ岳 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%94%B0%E3%83%B6%E5%B2%B3
- 【右田ヶ岳】花崗岩の岩峰が見事なご当地低山 - Sapporo Nature Times ‐ 札幌ネイチャータイムズ https://sapporo-nature-times.com/migitagadake-trekking/
- 防長経略とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%98%B2%E9%95%B7%E7%B5%8C%E7%95%A5
- 右田ヶ岳城(山口県防府市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/7883
- 防长经略- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E9%98%B2%E9%95%B7%E7%B6%93%E7%95%A5
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- 名門・大内氏復活を掲げた大内輝弘の乱!それを取り巻く諸将の思惑 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Zv3_nOcGSqw
- 「大友宗麟の群像」大内輝弘の乱。 川村一彦 - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/rekisinokkaisou/diary/202311250011/
- 尼子家の「御一家再興」戦争と山中幸盛 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/plusonline/online2.data/1kou.pdf
- 大内輝弘 大友家の居候・毛利家に反抗し山口侵攻も即討伐される https://suoyamaguchi-palace.com/ochi-teruhiro/
- ルート検索結果|中央区から富海ふれあい店舗までの車ルート https://mapfan.com/directions/points/35.670572318397,139.77200115716,%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA,,,,/34.050841215124,131.64670330456,%E5%AF%8C%E6%B5%B7%E3%81%B5%E3%82%8C%E3%81%82%E3%81%84%E5%BA%97%E8%88%97,SACH,J,GHNY7,/types/car/settings/now,0,0,1,0,1,30,80,50
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- 南方長忠(みなかた ながただ) 拙者の履歴書 Vol.311~毛利家と共に歩んだ七十有余年 - note https://note.com/digitaljokers/n/n2d9e2487d701
- 岸本良信公式ホームページ 藩士と幕臣の名簿 長州藩(萩藩・周防山口藩)3 https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9%EF%BC%88%E8%90%A9%E8%97%A9%E3%83%BB%E5%91%A8%E9%98%B2%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%97%A9%EF%BC%89%EF%BC%93/
- 長州藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9
- 足軽大将 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ashigaru-taisho/
- 足軽大将 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD%E5%A4%A7%E5%B0%86