本報告書は、戦国大名の嫡流として生まれながら、一族の没落により流転の生涯を送り、老境に至って名君に見出され、見事に一族を再興した武将・原田嘉種(はらだ よしたね)、後の原田種次(たねつぐ)の生涯を、多角的な視点から徹底的に解明するものです。彼の人生は、戦国時代の終焉と江戸幕藩体制の確立という、時代の大きな転換期における武士の生き様を象徴しています 1 。
嘉種の生涯は、大きく「没落」「雌伏」「再生」「継承」の四つの段階に分けることができます。本報告書では、それぞれの時代背景と共にその足跡を追います。父・原田信種の代における名門・筑前原田氏の凋落から始まり、加藤清正、寺沢広高への仕官と二度の浪人生活、島原の乱での不朽の武功、そして会津藩主・保科正之への仕官による奇跡的な再生と会津原田家の創始、さらには幕末の動乱期に忠義を尽くした子孫たちの活躍に至るまで、その波乱に満ちた生涯を詳述します。
彼の物語は、単なる一武将の立身出世伝ではありません。それは、家の存続という重責を背負い、時代の荒波を乗り越え、誇りを失わずに生き抜いた一人の人間の記録であり、近世武家社会の成立過程における貴重な証言でもあります。
年号(西暦) |
満年齢 |
出来事 |
天正12年(1584) |
0歳 |
筑前高祖城主・原田信種の長男として誕生 1 。 |
天正15年(1587) |
3歳 |
父・信種、豊臣秀吉の九州平定により所領を事実上没収される 4 。 |
慶長年間(父の死後) |
不明 |
家督を継ぎ、肥後熊本藩主・加藤清正に仕える 1 。 |
慶長年間(詳細時期不明) |
不明 |
加藤清正と対立し、領地没収の上、追放処分となる 1 。 |
慶長12年(1607) |
23歳 |
肥前唐津藩主・寺沢広高に1,000石で仕える 1 。 |
寛永14年(1637) |
53歳 |
島原の乱が勃発。天草・富岡城の守将として奮戦する 2 。 |
寛永14年(1637)以降 |
53歳〜 |
主家・寺沢氏の改易に伴い、再び浪人となる 2 。 |
慶安4年(1651) |
67歳 |
天海の斡旋により、会津藩主・保科正之に2,000石で召し抱えられる 7 。 |
承応3年(1654) |
70歳 |
会津表留守役に任じられ、会津へ下向。名を「原田種次」と改める 1 。 |
明暦3年(1657) |
73歳 |
隠居。家督を長男・種長に譲る 1 。 |
万治3年(1660) |
76歳 |
会津にて死去。墓は会津若松市の興徳寺に現存する 1 。 |
原田嘉種の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた「原田氏」という家の歴史と、その没落の経緯を知る必要があります。彼の行動原理の根底には、常に名門の嫡流としての矜持が存在していました。
原田氏の歴史は古く、平安時代中期にまで遡ります。その祖先は、天慶2年(939年)に起きた藤原純友の乱の鎮圧に功を挙げた大蔵春実(おおくらの はるざね)とされています 9 。春実以降、大蔵一族は代々大宰府の官人、特に現地の軍事・警察権を司る大監(だいげん)職を世襲し、九州北部に強固な地盤を築きました 11 。そして、筑前国御笠郡原田(現在の福岡県筑紫野市原田)の地に拠点を構え、その地名をもって「原田」を名乗るようになったのです 9 。
平安時代末期の源平合戦の際には、当時の当主・原田種直(たねなお)が平氏方の中核として活躍しました。彼は平清盛の長男・重盛の養女を妻に迎え、大宰府の権力を掌握し、九州における平氏の勢力基盤を支えました 9 。平家が都落ちした際には、自らの館を安徳天皇の仮皇居として提供するほど、平氏と深く結びついていました 14 。
しかし、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、種直もまた領地を没収され、鎌倉に幽閉されるという苦難を味わいます。それでも彼は赦免された後、源頼朝から鎌倉御家人として認められ、筑前国怡土庄(現在の福岡県糸島市一帯)に新たな所領を得て家を再興しました 14 。この怡土の地にある高祖山に、一族の新たな本拠となる高祖城を築き、鎌倉時代を通じて九州の有力武士団としての地位を保ち続けました。元寇の際には、一族を挙げて国難に立ち向かい、奮戦したことも記録されています 9 。
南北朝時代の動乱期には足利尊氏に味方して戦功を挙げ、室町時代には周防の大内氏の麾下に入り、宿敵であった少弐氏との戦いで活躍するなど、時代の変遷に巧みに対応しながら勢力を維持しました 9 。戦国時代に入ると、大内氏滅亡後は龍造寺氏や島津氏といった強大な戦国大名と渡り合い、九州北部の独立した国衆(在地領主)として、その存在感を示し続けたのです 9 。
このように、原田氏は単なる一介の武士の家系ではありませんでした。平安時代から戦国時代に至るまで、数百年もの長きにわたり九州北部に根を張り、独自の勢力を保ち続けた名門中の名門でした。原田嘉種が、その嫡流として生まれたという事実は、彼の後の人生における誇りと苦悩の源泉となります。たとえ没落しようとも、彼が自らを「旧大名家の当主」と認識し、その家格にふさわしい生き方を模索し続けたであろうことは想像に難くありません。
原田氏の栄光の歴史に終止符を打ち、嘉種の流転の人生を決定づけたのは、彼の父である原田信種(のぶたね)の代でした。
信種は、原田氏の家督を継いだものの、その出自はやや複雑でした。祖父・原田了栄(隆種)の孫にあたりますが、実父は肥前の国衆である草野鎮永であり、一度は草野家に出ていた人物です。原田本家の後継者問題から、呼び戻されて家督を継承しました 4 。この経緯は、家臣団との間に軋轢を生む一因ともなりました 13 。
信種の時代、九州は島津氏、大友氏、龍造寺氏の三強が覇を競う動乱の只中にありました。信種は龍造寺氏、そしてその後は島津氏と結んで大友氏に対抗し、一時は糸島半島全域を掌握するほどの勢威を誇りました 9 。しかし、彼の運命を暗転させたのが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定でした。
当初、島津氏と共に秀吉に抵抗する姿勢を見せた信種でしたが、小早川隆景率いる圧倒的な豊臣軍が高祖城に迫ると、抗戦することなく降伏します 4 。問題はその後でした。秀吉に謁見し所領の安堵を求める際、信種は領地を没収されることを恐れるあまり、自らの所領を実際よりもはるかに少なく申告するという致命的な過ちを犯したのです 4 。この虚偽の申告はすぐさま秀吉の知るところとなり、彼の怒りを買いました。結果として、信種は「遅参」と「過少申告」を理由に、先祖代々受け継いできた筑前の本領を全て没収されてしまったのです 4 。
独立領主の地位を失った信種は、肥後国人一揆の鎮圧後に肥後北半国の新たな領主となった加藤清正の「与力」、すなわち配下でありながらも大名格として扱われる武将という立場を与えられました 4 。これは、事実上、加藤家の一家臣への転落を意味しました。その後、信種は清正の配下として文禄・慶長の役に従軍しますが、その最期については、慶長3年(1598年)の蔚山城の戦いで戦死したという説 13 や、それ以前に亡くなったとする説 5 などがあり、判然としません。
父・信種の判断ミスは、数百年にわたる原田氏の歴史に幕を下ろし、嫡男である嘉種の人生の出発点を「没落した家の当主」という、極めて過酷なものとしました。もし信種が時勢を正しく読み、秀吉に対して誠実に対応していれば、原田氏は小大名としてでも存続できたかもしれません。嘉種のその後の生涯は、この父の代で失われた「家」の再興という、宿命的な悲願を背負って始まることになったのです。
父から家督を継いだ原田嘉種の前には、いばらの道が広がっていました。失われた旧領を取り戻すことは叶わず、他家への仕官によって家名を存続させるしかありませんでした。この時期は、彼の武人としての能力が試され、人間的な器量が磨かれた雌伏の時代でした。
父・信種が加藤清正の与力であった関係から、嘉種も家督相続後、自然な流れで肥後熊本藩主・加藤清正に仕えることになりました 1 。しかし、この主従関係は長くは続きませんでした。諸記録は、嘉種が清正と対立し、結果として領地を没収され、追放処分になったと簡潔に記すのみで、その具体的な理由を明らかにしていません 1 。
この対立の原因を推察するには、両者の立場と性格を考慮する必要があります。一方の嘉種は、前章で述べた通り、平安時代から続く名門・原田氏の嫡流です。たとえ没落したとはいえ、その出自に対する強烈な自負心があったことは間違いありません。彼にとって、新興の武将である清正の家臣となること自体、複雑な感情を伴うものであったでしょう。
対する加藤清正は、豊臣秀吉に見出され、実力一つで大大名にのし上がった猛将です。彼の家臣団は、清正と共に戦場を駆け抜けてきた叩き上げの武士たちで構成され、家柄よりも実力を重んじる気風が強かったと考えられます 19 。このような環境の中で、旧家のプライドを隠さない嘉種が、他の家臣たちと円滑な関係を築けたかは疑問です。
また、父・信種は「与力」という客分に近い立場でしたが、代替わりした嘉種に対し、清正は完全な家臣としての奉公を求めた可能性があります。この「身分認識」の齟齬が、両者の間に溝を生んだのかもしれません。気性が激しいことで知られる清正と、名門の矜持を持つ嘉種、二つの強烈な個性が衝突した結果が「追放」という結末に繋がったと考えるのが、最も合理的な解釈でしょう。この出来事は、嘉種が戦国時代の価値観(家格)と、新たな江戸時代の価値観(主君への奉仕)の狭間で経験した、最初の大きな挫折でした。
加藤家を追放され、浪人となった嘉種に転機が訪れます。慶長12年(1607年)、彼は弟の種房と共に、肥前唐津藩40万石の藩主・寺沢広高に1,000石で召し抱えられました 1 。寺沢氏もまた豊臣政権下で台頭した大名であり、嘉種にとっては再起への重要な一歩となりました。
そして、彼の武人としての真価が天下に示される機会が訪れます。寛永14年(1637年)、寺沢家の所領であった天草・島原で、キリシタン弾圧と重税に苦しむ領民による大規模な一揆、すなわち「島原の乱」が勃発したのです。
当時53歳になっていた嘉種は、二人の息子・種長と種清を伴い、一揆勢に狙われた天草の拠点・富岡城の防衛に向かいました 2 。唐津藩の代官・三宅藤兵衛が討死し、城が数万の一揆勢に包囲されるという絶望的な状況の中、嘉種は城兵の指揮官として采配を振るいます。彼は、九州の名族・大蔵氏嫡流としての経験と誇りを胸に、数で圧倒的に勝る一揆軍の猛攻を前に、冷静沈着な指揮で城兵を鼓舞し、粘り強い抵抗を続けました 6 。一揆勢は本丸にまで肉薄しましたが、嘉種の巧みな防衛戦術の前に、ついに城を陥落させることはできませんでした。
この富岡城防衛の成功は、徳川幕府を震撼させた大乱において、一揆軍の勢いを食い止めた数少ない戦功の一つでした。この戦いは、嘉種が単に家柄が良いだけの武士ではなく、実戦において卓越した指揮能力と不屈の精神を持つ、真の武人であることを満天下に証明したのです。この老将の武功は、彼の名を幕府の中枢や諸大名の間に知らしめることとなり、後の奇跡的な再生へと繋がる重要な伏線となりました。島原の乱での活躍は、彼のキャリアにおける紛れもない頂点であり、未来を切り拓くための最も価値ある「実績」となったのです。
富岡城で輝かしい武功を立てた嘉種でしたが、運命は再び彼に試練を与えます。主君であった寺沢堅高(広高の子)は、島原の乱を引き起こした責任を幕府から厳しく問われ、領地を没収(改易)されてしまったのです 2 。
これにより、嘉種は主家を失い、50代半ばにして再び浪人の身となりました。大手柄を立てながらも報われず、彼の人生はまたしても不遇の時代へと逆戻りします。この時から、後に会津藩に仕官するまでの約14年間は、彼の足跡を伝える史料が乏しく、苦難に満ちた空白の期間であったと推察されます。
二度の浪人生活という長い雌伏の時を経て、嘉種の人生は老境に至って劇的な転換を迎えます。それは、江戸時代屈指の名君として知られる保科正之との邂-逅(かいこう)でした。
慶安4年(1651年)、原田嘉種は67歳にして、陸奥会津藩主・保科正之に2,000石という破格の待遇で召し抱えられました 7 。これは、当時の仕官としては極めて異例の抜擢でした。長年の浪人生活を送っていた老武将が、なぜこれほどまでに手厚く遇されたのでしょうか。
その背景には、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたり、幕政に絶大な影響力を持っていた天台宗の高僧・南光坊天海の存在があったと伝えられています 7 。天海と嘉種に直接の接点があったことを示す史料はありませんが、この斡旋には深い意味があったと考えられます。
保科正之は、三代将軍・徳川家光の異母弟という出自を持ち、幕政の中枢を担う重要人物でした。彼は藩政の安定と発展のため、身分や出自にとらわれず、全国から有能な人材を積極的に登用していました。一方の天海は、幕府の「知恵袋」として強大な情報網を持っていました。
このことから推察されるのは、嘉種の登用が単なる一個人の就職活動の結果ではなく、幕府の安定を願う最高指導者層による「戦略的な人材配置」の一環であった可能性です。天海は、その情報網を通じて、島原の乱で幕府への忠誠と卓越した軍事能力を証明しながらも不遇をかこっていた老将・原田嘉種の存在を知り、有能な人材を求める正之に推薦したのではないでしょうか。
嘉種の持つ、旧大名家としての由緒ある家格、戦国時代を生き抜いた豊富な実戦経験、そして何よりも島原の乱で証明された忠誠心と指揮能力は、正之が率いる会津藩の家臣団に厚みと権威を与える上で、まさにうってつけの人材でした。天海の斡旋による保科正之への仕官は、嘉種の能力と人格が、時の最高権力層に認められたことを意味します。彼の流転の生涯は、この一点をもって完全に報われたと言えるでしょう。
会津藩に仕えた嘉種は、承応3年(1654年)、名を「原田種次」と改め、「会津表留守役」という重要な役職に任命され、会津若松へと下向しました 1 。
「留守居役」とは、藩主が国元にいる際に江戸の藩邸にあって、幕府との公式な交渉、他藩との外交、そして幕政や諸藩の動向を探る情報収集など、藩の渉外業務一切を担う、極めて重要な役職でした 21 。単なる連絡係ではなく、藩の命運を左右しかねない外交官であり、情報将校でもあったのです。その職務には、高度な政治力、交渉力、情報分析能力が求められました。
嘉種が任じられた「表留守役」の「表」が何を意味するかは定かではありませんが、江戸に常駐する「江戸留守居役」と連携し、国元(会津)にあって藩主・正之の側近として、藩の外交・情報戦略全体を統括する立場であったと推察されます。
保科正之が、70歳を過ぎた嘉種にこの重責を任せたという事実は、彼が嘉種の能力をいかに高く評価していたかを物語っています。正之は、嘉種の経歴の中に、単なる武勇伝以上の価値を見出していたのです。九州の有力国衆の嫡流として生まれ、様々な大名家を渡り歩き、時代の荒波を乗り越えてきたその経験そのものが、複雑な政治情勢を読み解く「知恵」の源泉になると考えたのでしょう。戦国乱世を生き抜いた経験は、平時における外交交渉の駆け引きにおいても、大きな武器となります。
「会津表留守役」への任命は、嘉種が単なる武人としてだけでなく、豊富な経験に裏打ちされた知見を持つ政治顧問、あるいはストラテジストとして、名君・保科正之に認められたことを示しています。それは、彼のキャリアの集大成であり、武勇だけではない多面的な能力が、最高の形で評価された瞬間でした。
会津の地でようやく安住の地を得た原田嘉種(種次)は、穏やかな晩年を送りました。明暦3年(1657年)、73歳になった彼は隠居を決意します。家督と2,000石の知行のうち1,500石を長男の種長に譲り、次男の種清には500石を分与して分家を立てさせました 1 。これにより、会津藩における原田家の礎は盤石なものとなりました。
さらに、三男の種弼(たねすけ)を、原田氏の分家筋にあたる江上氏の養子に入れるなど、一族全体の繁栄にも細やかな配慮を見せています 1 。これは、自らが再興した家を、様々な形で未来へ繋いでいこうとする彼の強い意志の表れでした。
そして万治3年(1660年)、嘉種は76年の波乱に満ちた生涯を、会津の地で静かに閉じました 1 。その墓は、会津若松城下の興徳寺に現存し、会津原田家の祖として今も静かに眠っています。
原田嘉種がその生涯をかけて再興した「家」は、彼の死後もその遺志を継ぎ、新たな歴史を刻んでいきます。九州の名門は、遠く離れた東北の地で、忠義の家門としてその名を知られるようになりました。
嘉種が興した会津原田家は、その後も代々会津藩に仕え、藩の重臣を輩出する家系として確固たる地位を築きました 3 。そして、その忠義の血脈が最も鮮やかに輝いたのが、幕末の戊辰戦争でした。
藩が存亡の危機に瀕した際、嘉種の子孫たちは会津藩士として、藩主・松平容保への忠義を貫き、最後まで戦い抜きました。その中には、藩の最高職である家老職に就いた原田種龍(たねたつ、通称:又助)、主力部隊である朱雀隊の一員として戦った原田種英(たねひで)、そして飯盛山で自刃した悲劇で知られる白虎隊に名を連ねた原田勝吉(かつきち)などがいます 3 。
嘉種の人生の目的が、父の代で失われた「家の再興」であったとするならば、その事業の成否は、彼一代の栄達だけで測られるものではありません。子孫がその地位を維持し、仕える藩の中で確固たる信頼を勝ち得てこそ、真の再興と言えます。幕末の動乱期に、彼の子孫が家老という藩の最高幹部や、藩の命運をかけて戦う部隊の中核を担っていたという事実は、原田家が200年以上にわたって会津藩に深く根付き、君臣共に信頼される家臣であり続けたことを何よりも雄弁に物語っています。
嘉種は、遠く会津の地で、かつての筑前の名門に勝るとも劣らない、忠義の家門を打ち立てることに成功したのです。幕末における子孫たちの姿は、嘉種の生涯をかけた再興事業が、見事に完成したことを示す証と言えるでしょう。
世代 |
人物名 |
続柄・役職・特記事項 |
初代 |
原田嘉種(種次) |
会津原田家初代。会津藩表留守役。知行2,000石 1 。 |
子 |
長男: 原田種長 |
二代当主。1,500石を相続 1 。 |
子 |
次男: 原田種清 |
分家を創設。500石を分与される 1 。 |
子 |
三男: 江上種弼 |
原田氏の分家筋である江上家の養子となる 1 。 |
子孫(幕末期) |
原田種龍(又助) |
会津藩家老 9 。 |
子孫(幕末期) |
原田種英 |
朱雀隊士 9 。 |
子孫(幕末期) |
原田勝吉(克吉) |
白虎隊士 9 。 |
会津に移り住み、藩士として新たな人生を歩んだ原田家でしたが、彼らが祖先の地である筑前を忘れることはありませんでした。そのことを示す感動的な逸話が残されています。
江戸時代後期の文政3年(1820年)と天保5年(1834年)、会津藩に仕える原田家の人々が、はるばる筑前の地を訪れました。彼らは、高祖山麓にある原田氏ゆかりの寺・金龍寺で、先祖である大蔵春実らの盛大な法要を営んだのです。その際には、筑前に残っていた旧家臣の子孫たちにも連絡を取り、多くの人々が集まって先祖を偲んだと記録されています 23 。
この行動は、単なる先祖供養以上の深い意味を持っています。それは、会津の武士となった彼らが、自分たちのルーツ、すなわち「我々は九州の名門・筑前原田氏の末裔である」というアイデンティティを、200年以上の時を経てもなお、強く意識し、子孫に継承していたことの証です。嘉種が子孫に伝えたのは、会津藩士としての忠義だけではありませんでした。自分たちが何者であるかという、一族の誇り高き歴史そのものであったのです。
この逸話は、原田嘉種の物語に感動的なエピローグを加えてくれます。彼が再興した「家」は、会津藩における物理的な知行や役職だけでなく、数百年前に失われた故郷への思いと、一族の長大な歴史に対する誇りをも内包していました。嘉種の遺産は、物質的なものを超え、精神的なアイデンティティとして、確かに子孫へと受け継がれたのです。
原田嘉種の生涯は、戦国の価値観が終焉を迎え、近世武士の生き方が確立される時代の大きな転換期を、まさに体現したものでした。彼は、旧大名家の嫡流という「家格」を誇りとして背負いながらも、それに固執することなく、二度の浪人という現実の苦難に屈しませんでした。そして、実力と忠誠心によって自らの価値を証明し続け、老いてなお再起の機会を掴み取り、見事に一族を再興させた不屈の精神の持ち主でした。
したがって、彼を単なる不運な武将と評価するのは正しくありません。その生涯は、武勇だけでなく、政治的なバランス感覚、そして何よりも時代の変化に適応し、生き抜くための強靭さを持っていたことを示しています。
加藤清正との対立は、古い家格の誇りと新しい実力主義の衝突を象徴し、島原の乱での武功は、いかなる逆境でも忠義と実力を発揮できる武士の鑑(かがみ)たる姿を示しました。そして、名君・保科正之による老境での抜擢は、彼の持つ経験と知見が、新しい時代の藩経営においていかに価値あるものであったかを物語っています。
原田嘉種の物語は、一個人の成功譚に留まりません。それは、多くの名家が歴史の波に消えていく中で、いかにして家名を存続させ、新たな時代にその血脈を繋いでいくかという、武士階級全体の普遍的なテーマを我々に示してくれます。彼は、筑前原田氏の歴史に終止符を打ったのではなく、会津原田氏という新たな章を開始した、偉大な「創始者」として記憶されるべき人物なのです。