日本の戦国時代、数多の武将が覇を競う中で、中国地方に一大勢力を築き上げた毛利氏。その礎を築いた「謀神」毛利元就、その跡を継いだ隆元、そして巨大化した組織を受け継いだ輝元。この毛利三代にわたり、一貫してその勢力拡大と領国経営を支え続けた一人の重臣がいた。その名は、口羽通良(くちば みちよし)。
彼の名は、毛利元就の子である吉川元春や小早川隆景といった、戦国史に燦然と輝く英雄たちの影に隠れがちである。しかし、通良は単なる一武将ではなかった。彼は、元春、隆景、そして毛利家庶流筆頭の福原貞俊と共に、若き当主・輝元を補佐する最高執政機関「御四人(ごようにん)」の一角を占め、毛利家の国政という中枢にその名を深く刻んだ人物である 1 。
本報告書は、これまで断片的に語られることの多かった口羽通良の生涯を、現存する史料から徹底的に追跡し、その実像を立体的に描き出すことを目的とする。彼はなぜ、元就の子である両川(りょうせん)や譜代筆頭の福原氏と並び称されるほどの地位を築き得たのか。その武功と、それ以上に高く評価される行政官としての才能、そして篤実な人物像に深く迫ることで、巨大組織・毛利家を内側から支えた「名家老」の真価を明らかにする。
口羽通良は、永正10年(1513年)、安芸国に生を受けた 1 。彼の出自は、大江広元を祖とする毛利氏の庶流、坂氏の一門である志道(しじ)氏の傍流にあたる 3 。これは毛利一門の中でも由緒正しい家柄であり、彼の生涯にわたる活躍の基盤となった。
通説では、彼の父は毛利興元・元就の二代にわたって執政を務め、「君は船、臣は水」という主従関係の本質を説いた遺訓で知られる名宰相・志道広良(しじ ひろよし)とされている 1 。広良は、元就が家臣の名を挙げる際に真っ先にその名を記すほど、絶大な信頼を寄せられた人物であった 6 。一部の史料には、広良の父・元良の子、すなわち広良の弟とする説も存在するが 3 、広良との年齢差や、広良の嫡男が早世していたことなどを考慮すると、広良の子とする説が有力視されている。この父子関係は、通良が若くして元就に重用される大きな要因となったことは想像に難くない。
通良が生まれた頃の毛利氏は、まだ安芸の一国人に過ぎなかった。父・広良が元就の家督相続を強力に後押しするなど、志道一族は毛利家の権力基盤確立に深く関与しており 10 、通良もまた、幼少期からその激動の渦中で成長したのである。
通良が歴史の表舞台に初めてその名を見せるのは、天文3年(1534年)、彼が21歳の時であった。主君・元就の命を受け、備後国の有力国人領主・山内直通(やまのうち なおみち)との外交交渉という大役を任されたのである 2 。当時、毛利氏は出雲の塩冶興久(えんや おきひさ)の処遇を巡って、中国地方の雄・尼子氏との関係が悪化していた。この状況下で、尼子氏と大内氏という二大勢力に挟まれた備後の山内氏を味方につけることは、毛利氏の存亡に関わる戦略的に極めて重要な任務であった。
この交渉の過程で、通良は山内直通との関係を深めるため、再三にわたって願い出て、直通の名から一字(偏諱)を授かり、名を「通良」と改めた 2 。これは単なる名誉の拝領ではない。主従関係に準ずる強い政治的結束を内外に示すための、高度な外交戦術であった。若き通良がこの大役を成功させたことは、彼の交渉能力と政治的センスの高さを物語っている。
通良のキャリアにおける次の転機は、享禄2年(1529年)頃、毛利元就が石見国の有力国人・高橋氏を滅ぼした後に訪れた。通良は、その旧領である石見国邑智郡口羽村(現在の島根県邑智郡邑南町)を領地として与えられたのである 5 。これ以降、彼は本姓の「志道」に代わり、その所領の地名(在名)を取って「口羽」を名乗るようになった 2 。当時まだ17歳という若さでの入部は、元就が通良に寄せる並々ならぬ期待の表れであった 13 。
口羽村に入った通良は、琵琶甲城(びわこうじょう)を築き、自らの居城とした 2 。矢羽城とも呼ばれるこの城は、その名の通り、城の形状が楽器の琵琶に似ていたことに由来するとされる 14 。琵琶甲城は、出羽川と江の川の合流点を見下ろす標高280メートル(比高160メートル)の天然の要害に築かれた山城であった 12 。自然地形を巧みに利用し、多数の郭(くるわ)や空堀、竪堀を配したその構造は極めて堅固であり、その立地は安芸の本拠・吉田郡山城、尼子氏の領国・出雲、そして毛利家の財政を支える石見銀山を結ぶ、軍事・経済・交通の要衝であった 12 。毛利氏の山陰経略における最重要拠点の一つとして、この城は機能することになる 18 。
通良の青年期の経歴を俯瞰すると、外交交渉、領地拝領、そして拠点城郭の構築という一連の流れは、個別の出来事ではなく、毛利元就の周到な国家戦略と人材育成計画の中で、意図的に形成されたものであったことが見て取れる。元就は、父・広良の威光と本人の才覚を併せ持つ若き通良を、次代を担う中核的リーダーとして育成すべく、軍事・外交・領国経営の全てを経験させる戦略的な配置を行ったのである。通良は、毛利氏の勢力拡大の尖兵としての役割を的確に果たし、そのキャリアの出発点から、すでに毛利家の将来を担う重要人物として位置づけられていた。
毛利元就の次男・吉川元春が山陰方面の軍団を率いるようになると、口羽通良はその主要な補佐役として、宿敵・尼子氏との熾烈な戦いの最前線に身を投じた 3 。彼の武将としての経験は、この山陰経略の中で培われていった。
彼の名を刻む主要な合戦として、まず天文9年(1540年)から翌年にかけての「吉田郡山城の戦い」が挙げられる。尼子晴久が率いる大軍に本拠地を包囲されたこの決戦において、通良は父・広良らと共に城内に籠もり、元就の幕僚として防衛戦に参加した 2 。この絶体絶命の危機を乗り越えた経験は、彼の武将としての原点の一つとなった。
しかし、彼の戦歴は常に勝利に彩られていたわけではない。弘治2年(1556年)、石見銀山を巡る「忍原崩れ(おしばらくずれ)」では、吉川元春、宍戸隆家らと共に毛利軍の指揮官として出陣するも、尼子軍に手痛い敗北を喫している 20 。この敗戦は、山陰経略がいかに困難な道程であったかを物語っている。
そして、永禄8年(1565年)から翌年にかけての「第二次月山富田城の戦い」は、尼子氏を滅亡に追い込んだ最終決戦であった。通良もこの戦いに従軍し 21 、口羽家に残る記録によれば、この長期にわたる包囲戦では兵站担当として、補給線の維持に細心の注意を払ったとされている 22 。これは、彼が単なる前線の将としてだけでなく、軍事作戦の成否を左右する後方支援においても重要な役割を果たしていたことを示している。
戦国時代の日本経済において、石見銀山から産出される銀は、大名の財政を左右する極めて重要な戦略資源であった 20 。口羽通良は、この石見銀山の支配権を巡る争奪戦に深く関与している。
弘治2年(1556年)、毛利氏が一時的に銀山を確保した際には、通良が銀山の防衛拠点である山吹城の城主・刺賀長信(さつか ながのぶ)を毛利方に帰順させる交渉を担った 24 。これは、彼の外交手腕が再び発揮された好例である。また、彼の居城・琵琶甲城が石見銀山へと至る交通の要衝に位置していたことからも 12 、銀山の防衛と管理において、彼が地理的にも中心的な役割を担っていたことがわかる。
通良の財政への関与を最も明確に示すのが、毛利家文書に残る一通の連署状である。この文書は「乍恐言上仕候、温泉・銀山御公領之事…」との書き出しで始まり、吉川元春、小早川隆景、福原貞俊という毛利家の最高幹部と共に、口羽通良も名を連ねている 25 。その内容は、石見銀山および温泉津の公領からの収入を他のいかなる用途にも流用せず、すべてを軍事費(御弓矢之御用)に充てるという元就の方針を再確認するものであり、毛利家の最高財政・軍事方針を示す極めて重要な史料である 25 。
この連署状に名を連ねているという事実は、通良が単なる現場の指揮官ではなく、毛利家の国家財政の根幹をなす経済政策の最高意思決定に関わる立場にあったことを雄弁に物語っている。彼は、文書で仮称される「銀山奉行」に準ずる、あるいはそれを監督する立場の重鎮として、毛利家の財政を支えていたのである 25 。
口羽通良は、戦場での武功と並行して、その卓越した行政手腕によって「名家老」と謳われている 2 。特に、占領地の統治や戦後処理において、その能力を遺憾なく発揮したと伝えられる 13 。
その一例として、元亀2年(1571年)に尼子再興軍との戦いで多くの死者が出た出雲・斐川の「軍原(いくさばら)」において、通良が戦後処理を行った記録が残っている 13 。ある説では、この時、通良が故郷である石見の地名にちなんでこの戦場を「軍原」と命名し、戦没者の慰霊を行ったのではないかと推測されており、彼の信仰心と配慮深さを窺わせる興味深い逸話となっている 13 。
また、自らの領地経営においても、凶作の際には蔵から米を放出して民を救い、戦時には城内に避難させるなど、民を慈しむ善政を敷いたという伝承も残されている 22 。
口羽通良の真価は、単なる武功や忠誠心に留まるものではない。彼は、軍事作戦の立案・実行から、その作戦を支える財政の管理、そして獲得した領地の安定化までを一貫して担うことができる、極めて有能な実務家であった。毛利元就の「謀略」という壮大な戦略を実行可能な形に落とし込み、組織を動かすテクノクラート(技術官僚)としての彼の存在なくして、毛利氏の急速な勢力拡大は、より困難なものとなっていた可能性が高い。
元亀2年(1571年)、毛利元就が75年の生涯を閉じると、毛利家は大きな転換点を迎えた。家督はすでに孫の毛利輝元が継承していたが、当時まだ19歳と若年であったため、その統治を支えるための集団指導体制が本格的に始動することになる 21 。
ここに、輝元を補佐するための執政機関として、いわゆる「御四人(ごようにん)」体制が確立された。その構成員は、元就の子である吉川元春と小早川隆景、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊、そして口羽通良の四人であった 1 。この体制は、元就の子で国衆でもある両川(元春・隆景)、血縁的に本家に最も近い譜代筆頭の福原貞俊、そして元就がまだ一国人であった時代からの宿老の系譜を引く口羽通良という、絶妙な勢力均衡の上に成り立っていた 29 。
この中で通良は、毛利氏「家中」の最高位の一人として 29 、譜代家臣団の意見を代表する立場にあった。そして、強大な軍事力と発言力を持つ両川と、若き当主・輝元、さらには他の家臣団との間を繋ぐ、極めて重要な「調整役」であり、組織の安定を保つ「重石」としての役割を担ったと考えられる。
「御四人」体制の機能を示す最も象徴的な出来事が、元亀3年(1572年)に制定された分国法(家法)「毛利氏掟」である。輝元の名で発布されたこの掟の制定において、口羽通良は中心的な役割を果たした。
掟の条文は、輝元から命じられた内容を「御四人」が連名で、家中の年寄衆や奉行衆に通達するという形式を取っている 2 。この事実は、通良が毛利家の最高法規の制定と執行に直接関与していたことを明確に示している。この掟は、単に輝元への権力集中を促すものではなく、むしろ「御四人」による合議制を公式化し、輝元を補佐すると同時にその権力を適度に規制する役割も持っていた 29 。通良の署名は、この新しい統治体制の正統性を家中に保証する上で、不可欠なものであった。
天正4年(1576年)、毛利輝元が京都を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭を庇護し、さらに織田信長と敵対する石山本願寺への支援を決定したことで、毛利氏は信長との全面戦争へと突入する 31 。この国家の命運を賭けた戦いにおいて、口羽通良もまた、播磨・備中方面の防衛線構築や、毛利方に寝返った宇喜多直家との連携など、対織田戦線の枢要な任務に関与した 22 。
そして天正10年(1582年)、羽柴秀吉による「備中高松城の水攻め」が発生すると、通良は輝元、両川らと共に、城主・清水宗治を救うべく救援軍本隊に従軍した 14 。毛利軍と秀吉軍が対峙し、戦線が膠着する中、京都では「本能寺の変」が勃発する。この歴史的激変の直後、毛利家が秀吉との和睦という重大な岐路に立たされる、まさにその渦中において、同年7月28日、口羽通良は石見国邑智郡の陣中にて70年の生涯を閉じた 1 。
「御四人」体制における口羽通良は、単なる補佐役ではなかった。彼は、毛利家の権力構造を安定させるための重要な政治的機能を担っていた。血縁の象徴である両川、家格の象徴である福原氏に加え、通良は「元就以来の功臣・吏僚」という第三の権威を体現していた。彼の存在は、輝元政権の正統性と安定性を支えるための、いわば「政治的接着剤」であり、不可欠な柱であったと言えるだろう。
口羽通良の人物像を語る上で欠かせないのが、その篤い信仰心である。特に、天正4年(1576年)の石山合戦への関与は、彼の精神世界に大きな影響を与えた。この戦いで、通良は毛利水軍を率いて織田水軍を破り、籠城する石山本願寺に兵糧を運び込むという大功を立てた 36 。この経験を通じて、本願寺の宗主であった顕如上人に深く帰依するようになったとされる 13 。
この信仰心は、具体的な行動となって現れる。永禄3年(1560年)に自らが創建した真言宗の寺院・西蓮寺を、天正5年(1577年)に浄土真宗へと改宗させたのである 36 。さらに、顕如上人から三男・元可に「泉秀」という法名を授かり、同寺の初代住職とした 36 。この一連の行動は、通良個人の深い信仰の表れであると同時に、当時同盟関係にあった本願寺との結びつきを宗教的な側面からも強化するという、高度な政治的判断を含んでいたと考えられる。
戦国武将の生涯を評価する上で、その婚姻関係や子孫の動向は、家臣団内での地位や影響力を測る重要な指標となる。口羽通良は、毛利氏庶家の筆頭格である福原広俊の娘を正室に迎えている 2 。この婚姻は、譜代家臣団の中核をなす志道(口羽)家と福原家の結束を固める上で、極めて重要な意味を持っていた。
通良には複数の子女がいた。嫡男の広通は早世したとみられるが 2 、次男の春良が家督を相続した 2 。春良は、天正16年(1588年)に輝元が上洛した際、豊臣秀吉への謁見にも列席しているが 41 、文禄の役の最中に朝鮮にて病没した 41 。
口羽家は、主家の危機を乗り越え、その血脈を後世に伝えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れ、防長二国に大減封されると、口羽家も主君に従って萩に移住した 4 。江戸時代を通じて、口羽家は萩藩の上級武士である寄組(よりぐみ)として1018石余の禄高を有し、代々藩の要職を歴任する名家として存続した 5 。
その格式を今に伝えるのが、萩市堀内地区に現存する「口羽家住宅」である。主屋と表門が国の重要文化財に指定されており 5 、萩に現存する武家屋敷の門としては最大級の規模を誇る長屋門や、主君を警護するための「武者隠し」、押入れに偽装した非常口といった特殊な構造は 43 、萩藩における口羽家の高い地位を物語っている。この家の存続と繁栄は、通良が築き上げた功績と信頼という「無形の遺産」がいかに巨大であったかを物理的に証明している。
関係 |
氏名 |
備考(その関係が持つ意義) |
父 |
志道 広良 |
毛利元就の執政を務めた名宰相。通良のキャリアの強力な後ろ盾となった。 |
兄弟 |
志道大蔵少輔、志道就良、坂元貞、志道元信、志道元親、他姉妹多数 |
姉妹の一人は有力家臣・桂元澄に嫁いでおり、志道一族の広範な姻戚関係を示す 2 。 |
正室 |
福原広俊の娘(花岳寿栄) |
福原氏は毛利氏庶家の筆頭。この婚姻は譜代家臣団の中核である志道(口羽)家と福原家の結束を固める上で極めて重要な意味を持った 2 。 |
子女 |
広通(長男、早世か)、春良(次男、家督相続)、元可(三男、西蓮寺住職)、他女子多数 |
娘たちは志道元保(志道氏本家)、南方就由、井原元良、赤穴幸清、そして毛利一門の重鎮である宍戸元続(継室)など、毛利家中の有力武将に嫁ぎ、家臣団の結束強化に大きく貢献した 2 。 |
口羽通良の人物像を伝える史料は、多岐にわたる。島根県邑南町の吉祥山延命寺には彼の肖像画が残り 2 、その姿を今に伝えている。また、菩提寺である同町の宗林寺には墓所が存在し、その移設の際には古銭や刀剣が出土したと記録されている 2 。
彼の名は、数多くの書状にも見られる。石見銀山の運営に関する連署状 25 、毛利氏掟の通達文 2 、足利義昭を支援するための軍役「鞆夫(ともふ)」に関する書状 46 など、彼が毛利家の政策決定に深く関与した実務家であったことを裏付ける史料は枚挙に暇がない。
通良の生涯には、派手な一騎討ちや奇策といった武勇伝は少ない。しかし、若き日に外交交渉を成功させ 2 、長期の籠城戦で兵站という生命線を管理し 22 、偉大な主君の死後は若き当主を支えて巨大組織の法を定め 2 、そして篤い信仰に生きた 13 という一連の経歴そのものが、彼の忠実で実直、かつ思慮深い人物像を何よりも雄弁に物語っているのである。
口羽通良の70年の生涯は、安芸の一国人に過ぎなかった毛利氏が、中国地方の覇者へと飛躍し、やがて天下の動向を左右する巨大勢力へと変貌を遂げる過程と、まさに軌を一にしていた。彼はその全ての段階において、常に組織の中枢で中心的な役割を担い続けた。
彼は、父・志道広良から「君臣の道」を、主君・毛利元就から「謀略と実務」を学び、それらを自らの生涯を通じて実践した、理想的な家臣であったと言える。彼は、武勇を誇る猛将でも、奇策を弄する軍師でもない。しかし、軍事、外交、行政、経済の全てに精通し、巨大組織・毛利家を内側から支え続けた彼の存在は、派手な英雄譚以上に、戦国という時代の組織経営の本質を我々に教えてくれる。
結論として、口羽通良は、毛利元就という傑出したリーダーのビジョンを現実に落とし込み、次代の輝元の下ではその巨大な遺産を安定的に運営するための「統治システム」を構築した、稀代の宰相であった。彼の生涯を丹念に追うことは、毛利家の強さの秘密を解き明かす鍵であり、戦国時代における「理想の家老像」を浮き彫りにする試みなのである。彼の功績は、毛利家の歴史、ひいては日本の戦国史を理解する上で、決して看過することのできない重要な一頁を成している。