最終更新日 2025-05-15

可児才蔵

戦国武将 可児才蔵吉長の実像

序章:可児才蔵とは

戦国時代、数多の武将が覇を競う中、可児才蔵(本名:吉長)は特異な存在として歴史に名を刻んでいます。彼は一国一城の主でもなければ、特定の大名家の重臣として高位にあったわけでもありません 1 。しかしながら、その卓越した武勇、特に槍術における技量は広く知れ渡り、生涯を通じて多くの主君に仕えながらも、常に戦場の第一線で活躍しました。彼の生き様は、大部隊を指揮する「武将」というよりは、個人の武技を頼りに戦場を渡り歩いた一人の「兵(つわもの)」に近いものでしたが、その武名は当時から非常に高かったと伝えられています 2

可児才蔵のキャリアは、主君を頻繁に変えた点に特徴がありますが、これは彼の武勇が常に高く評価され、新たな仕官先で歓迎されたことの裏返しでもあります 2 。このような生き方は、戦国時代における武士のあり方、個人の技能が持つ価値を考える上で興味深い事例と言えるでしょう。本報告書では、この稀有な武人、可児才蔵吉長の実像に、現存する資料群を基に、その生涯、武勇と異名、人物像、そして彼にまつわる史跡や伝承を辿ることで迫ります。

第一章:可児才蔵の生涯

第一節:出自と流浪の日々

可児才蔵吉長は、天文23年(1554年)、美濃国可児郡(現在の岐阜県可児郡御嵩町)に生まれたとされています 3 。幼少期は同地の天台宗古刹である願興寺で過ごしたと伝えられています 3 。この願興寺の寺伝『大寺記』には、才蔵は元々越前の朝倉氏に仕えた人物の側室の子として生まれ、朝倉氏滅亡後に母と共に願興寺に身を寄せ、そこで生まれたという記述が見られます 3 。この出自が、後の彼の流浪の人生や、特定の家に縛られない価値観に影響を与えた可能性も否定できません。彼は可児氏(伴姓)の出身であったとされます 3

才蔵の武士としてのキャリアは、斎藤龍興への仕官に始まります。その後、織田信長の勢力拡大と共に歴史の表舞台に登場する柴田勝家、明智光秀、前田利家といった錚々たる武将たちに次々と仕えました 3 。一説には森長可に仕えた時期もあったとされています 3 。これほど頻繁に主君を変えることは、当時の武士としては異例の部類に入りますが、彼の抜きん出た武勇と率直な人柄が、新たな主君から常に求められた結果であったと考えられます 1 。主君を渡り歩く中で、織田信長の三男・信孝にも仕えましたが、天正11年(1583年)に信孝が羽柴秀吉の攻撃を受けて自害すると、秀吉の甥である豊臣秀次に仕えます。しかし、翌年の小牧・長久手の戦いで秀次が徳川家康に大敗を喫すると、才蔵は秀次と意見が対立し、結果として浪人の身となりました 3 。この時期の経験は、彼の武士としての生き方や、主君に対する考え方に更なる影響を与えたことでしょう。

このような経歴は、戦国時代における武士の「評判経済」とも言うべき側面を浮き彫りにします。すなわち、確固たる武勇や戦場での実績は、一種の「通貨」として機能し、家柄や特定の家への永続的な忠誠がなくとも、有力な主君の下で活躍する道を切り開くことを可能にしたのです。才蔵が多くの主君に歓迎された事実は、彼の武名が先行し、彼自身が価値ある「資産」として認識されていたことを示唆しています。

表1:可児吉長 主君遍歴

主君名

おおよその期間・関連事項

出典

斎藤龍興

初仕官

3

柴田勝家

織田信長家臣。詳細は不明。

3

明智光秀

織田信長家臣。山崎の戦い(1582年)に明智軍として参加した可能性が示唆される 8

3

前田利家

織田信長家臣。詳細は不明。

3

織田信孝

織田信長三男。天正11年(1583年)に信孝が自害するまで仕える。

3

豊臣秀次

羽柴(豊臣)秀吉甥。小牧・長久手の戦い(1584年)で秀次が大敗後、対立し浪人となる。

3

(森長可)

(織田信長家臣。甲州征伐(1582年)の際に仕えていたとする説があり、「笹の才蔵」の異名の由来となる逸話がこの時期とされる 3 。)

3

佐々成政

元織田信長家臣。詳細は不明。

3

福島正則

豊臣家臣、後徳川家康方。浪人後、伊予11万石の領主となった正則に仕官。小田原征伐、関ヶ原の戦いなどで活躍。生涯最後の主君となる。

3

第二節:福島正則への仕官と晩年

浪人生活を送っていた可児才蔵ですが、その武名は衰えることなく、伊予国11万石の領主となった福島正則に750石(一説には700石 1 )という厚遇をもって召し抱えられました 3 。これが彼の最後の主君となり、最も長く安定した仕官生活を送ることになります。

福島正則の家臣となってからは、数々の重要な戦役に参加し、その武勇を遺憾なく発揮しました。天正18年(1590年)の小田原征伐では、北条氏規が守る韮山城への攻撃に参加し、自ら先頭に立って城壁を乗り越えようとするなど、勇猛果敢な戦いぶりを見せました 3

そして、彼の名を不動のものとしたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いです。福島軍の先鋒隊長として参戦した才蔵は、まず前哨戦である岐阜城攻めで敵兵の首を3つ挙げ、続く本戦では実に17もの首級を挙げるという大活躍を見せました 2 。この目覚ましい戦功は徳川家康からも高く評価され、賞賛を受けたとされています 3 。この功により、正則から新たに500石の知行を与えられ、最終的には746石にまで加増されました 3

表2:可児吉長 参加主要合戦一覧

合戦名

年月日

所属軍(主君)

具体的な戦功や逸話

出典

(甲州征伐)

(天正10年・1582年)

(森長可)

(「笹の才蔵」の異名由来となる逸話。16の首級を挙げ、笹の葉を目印としたとされる 1 。)

1

山崎の戦い

天正10年6月13日

明智光秀(可能性)

明智軍の一員として参加した記録がある 8 。具体的な活躍は不明。

8

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)

豊臣秀次

秀次配下で参戦。秀次が徳川家康に敗北 3

3

小田原征伐

天正18年(1590年)

福島正則

韮山城攻撃に参加し、先駆けを務める 3

3

関ヶ原の戦い

慶長5年9月15日

福島正則(東軍)

先鋒隊長として岐阜城攻めで首級3、本戦で首級17を挙げる。徳川家康から賞賛される。「笹の才蔵」の名を決定づける 2

2

関ヶ原の戦いの後、福島正則が安芸国広島藩49万8千石へ加増移封されると、才蔵もそれに従って広島へ移り住みました 3 。彼は若い頃から愛宕権現を篤く信仰しており、「自分は愛宕権現の縁日に死ぬだろう」と周囲に予言していたと伝えられています。そして慶長18年(1613年)6月24日、まさに愛宕権現の縁日の日に、斎戒沐浴して身を清め、甲冑を身に着け、床几に腰掛けたまま静かに息を引き取ったとされています。享年60歳でした 3

この才蔵の最期は、単なる偶然として片付けるにはあまりにも劇的であり、武士道における「良き死」の観念を色濃く反映していると言えるでしょう。戦場での勇猛な死だけでなく、平時における死の迎え方においても、自らの信念や美意識を貫き通そうとする姿勢は、彼の生き様そのものを象徴しているかのようです。それは、死を単なる生命活動の停止ではなく、生涯を締めくくる最後の自己表現と捉える、当時の武士の精神性の一端を示しているのかもしれません。

第二章:「笹の才蔵」―その武勇と異名

第一節:槍の名手としての才蔵

可児才蔵は、その生涯を通じて槍の名手として広く知られていました。彼の武勇は「戦国最強」とまで評されることもあったほどで、一騎当千の働きを見せたと言われています 1 。その槍術の背景には、当代随一の槍術流派である宝蔵院流槍術の開祖、興福寺の僧兵であった覚禅房胤栄(いんえい)から直接指導を受けたという伝承があります 2

福島正則に仕えてからの逸話として、正則の許しを得て改めて奈良の宝蔵院に赴き、十文字槍の修行に励んだという話が伝えられています 1 。一度目の修行を終えた際、才蔵はかえって恐怖心が強くなったと感じたといいます。これを師に告げると、「それはまだ半分しか学べていないからだ」と諭され、さらに修行を重ねることでついに奥義を会得したとされます。その後、戦場では敵の槍の動きが手に取るように見えるようになったといい、彼の槍術が一層磨かれたことを示しています 1 。このエピソードは、既に名手として知られていた才蔵が、なおも自身の技芸を高めようとする探求心の強さと、それに応える師の存在、そして主君である正則が家臣の技能向上を後押ししたという、当時の武士社会における技能と庇護の好ましい関係性を示唆しています。卓越した技能は主君からの庇護を引き寄せ、その庇護が更なる技能研鑽を可能にし、結果として双方に名誉と実利をもたらすという循環がそこには見て取れます。

第二節:「笹の才蔵」異名の由来

可児才蔵を最も特徴づけるのが「笹の才蔵」という異名です。これは、彼が戦場で討ち取った敵兵の首級に、目印として笹の葉を咥えさせたり、あるいは耳や鼻の穴に差し込んだりしたことに由来します 1 。戦功の確認は首級の数で行われるのが常でしたが、多数の首級を運搬するのは困難です。そこで才蔵は、自らの指物(戦場での個人識別用の旗印)であった笹の葉を用いることで、誰の戦功であるかを明確にしたのです 3

このユニークな習慣の起源とされる有名な逸話が、彼が森長可に仕えていた頃のものです。天正10年(1582年)頃の甲州征伐の折、長可が戦後の首実検を行った際、才蔵は三つの首を携えて現れ、「拙者は16の首級を挙げ申した」と豪語しました。長可が訝しんで「三つしかないではないか」と問いただすと、才蔵は「首級があまりに多いため、持ちきれずに戦場に打ち捨てて参りました。ただし、拙者が討ち取った首には全て笹の葉を含ませて目印としております」と答えました。長可が部下に確認させたところ、果たして笹の葉を咥えさせられた首が13発見され、才蔵の言葉が真実であることが証明されたといいます 1 。この一件以来、彼は「笹の才蔵」として広く知られるようになったとされています。

この方法は、混沌とした戦場において自らの戦功を確実にアピールするための、極めて合理的かつ効果的な「戦場でのブランディング」であったと言えるでしょう。物理的な制約を克服し、自身の功績を正確に記録させるための工夫であり、彼の独創性と実利を重んじる性格を物語っています。

第三節:関ヶ原の戦いにおける武功と評価

「笹の才蔵」の武名が最も輝いたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいてでした。福島正則隊の先鋒として参戦した彼は、50歳近い年齢であったにも関わらず、獅子奮迅の働きを見せました。本戦において17もの首級を挙げ、その全てに目印の笹を挿したと記録されています 2

興味深いことに、この時才蔵は合戦前に何らかの理由で主君・正則から謹慎処分を受けていたにも関わらず、密かに陣を抜け出して戦場に赴き、この大功を立てたと伝えられています 1 。この行動は、彼の型破りな性格と、戦働きに対する強い自負心を示していると言えるでしょう。

この関ヶ原での目覚ましい活躍は、東軍総大将であった徳川家康の耳にも達しました。家康はその武勇を大いに賞賛し、一説には家康自身が「笹の才蔵」という通り名を与えたとも、あるいはこの戦いがその名を決定的なものにしたとも言われています 1 。戦後も家康は福島正則に会うたびに「才蔵はどうしているか」と気にかけて尋ねたといい、天下人からの評価の高さが窺えます 1 。この家康による認知は、才蔵の武名を全国的なものへと押し上げる決定的な要因となったと考えられます。

第三章:可児才蔵の人物像

第一節:主君を渡り歩いた背景と武士としての矜持

可児才蔵は、その生涯において斎藤龍興に始まり、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、そして最後に福島正則と、実に8人もの主君に仕えました 3 。このような頻繁な主君替えは、ややもすれば忠誠心に欠ける「変節漢」と見なされかねない行為ですが、才蔵に関してはそうした否定的な評価は少ないようです。むしろ、その剛勇さと率直な人柄ゆえか、当時から人気が高かったと伝えられています 1 。同じく多くの主君に仕えた藤堂高虎が後世に毀誉褒貶ある評価をされるのとは対照的であり、この違いは注目に値します 3

才蔵は、相手が誰であろうと媚びへつらうことなく、自らの心の命じるままに生きたと評されています 1 。この独立心旺盛な気質が、一つの家に留まることを良しとしなかった一因かもしれません。一方で、彼の幼馴染であったとされる可児六郎左衛門秀行からは、「辛抱力と我慢と忍耐力が足りない」と評されたという逸話も残っています 12 。この評価は、彼が理想の主君や働き場所を求めて、より良い条件や理解者を求めて渡り歩いた可能性を示唆しており、単なる気まぐれではない、彼なりの基準があったことを窺わせます。

第二節:伝わる逸話に見る人となり

可児才蔵の人となりを伝える逸話はいくつか残されており、特に最後の主君となった福島正則との関係を示すものが興味深いです。

福島正則に召し抱えられる際の面接での逸話は、才蔵の unconventional な思考と、それを見抜く正則の眼力を示しています。正則が才蔵に得意なことを尋ねると、才蔵は「長年修練を積んだ結果、自分の髪を自分で上手に結えるようになりました」と答えたといいます。他の家臣たちがこれを奇妙な答えとして嘲笑する中、正則は「いやいや、後ろに目がなければ髪を綺麗に結うことは難しいだろう。それが上手にできるということは、目の前のことであれば何でも容易にこなせるということの証左だ」と述べ、才蔵の非凡さを見抜いて採用したと伝えられています 1 。この逸話は、福島正則のような慧眼の持ち主が、型破りな経歴を持つ浪人の中からでも真の才能を見出し、登用することがあった戦国時代の一側面を示しています。実績と潜在能力が、従来の慣習や経歴の瑕疵を補って余りあると判断されれば、活躍の機会が与えられたのです。

また、才蔵は部下に対して非常に情が厚かったようです。竹内久右衛門という信頼する部下がおり、福島正則に仕える以前から自身の俸禄の半分を与えていましたが、正則から700石(あるいは750石)で召し抱えられた際にも、その半分の350石を久右衛門に分与したと伝えられています 1 。主君を渡り歩く一方で、一度信頼関係を結んだ部下には深い配慮を示すという、彼の義理堅い一面が垣間見えます。

さらに、広島城で門番を務めていた際の逸話も、彼の厳格な一面と主君への敬意の深さを示しています。ある時、才蔵が休憩中に門のそばで寝転んで仮眠を取っていると、正則からの使いの小坊主がウズラの届け物を持ってきました。小坊主が寝ている才蔵に「殿からの下され物でございます」と声をかけると、才蔵は「殿からの下賜品を、寝転んでいる者に伝えさせるとは何事か。殿に対してあまりにも無礼である」と厳しく叱責したといいます。この話を聞いた正則は、「家臣たちが皆、才蔵のような心構えでいてくれたならば、私の思う通りに何事も運ぶであろうに」と感嘆したと伝えられています 1 。これらのエピソードは、才蔵が単に武勇に優れただけでなく、主君への忠誠心(少なくともその時点での主君に対しては)や部下への情誼、そして武士としての矜持を併せ持った人物であったことを物語っています。彼の「忠誠」は、特定の家系や領地への永続的なものではなく、むしろその時々に仕える主君や、直接的な人間関係の中で発揮される、より個人的で状況に応じたものであったのかもしれません。

第三節:『名将言行録』に見る評価

江戸時代後期に岡谷繁実によって編纂された武将たちの言行録である『名将言行録』には、数多くの戦国武将と共に可児吉長(才蔵)の名も収録されており 13 、彼の逸話や人物評が後世に語り継がれていたことがわかります。

この書物の中で、可児吉長の言葉として「年寄りにても人に寄るべし」という一節が紹介されています 15 。この言葉は、「年老いても人と交わり、頼るべきところは人に頼るべきである」とも、「年老いてもなお人に頼られるような存在であるべきだ」とも解釈でき、彼の長い武家奉公の経験から得た人間観や処世術の一端を示すものと考えられます。多くの主君に仕え、様々な人間関係を経験してきた彼ならではの含蓄のある言葉と言えるでしょう。

ただし、『名将言行録』は歴史的史料としての正確性については議論があり、巷間に流布していた逸話や俗説も含まれている可能性が指摘されている点には留意が必要です 13 。それでもなお、可児才蔵が後世の編纂物に名を連ねるほど、人々の記憶に残る武将であったことの証左とはなり得ます。

第四章:史跡と伝承

第一節:墓所と信仰

可児才蔵の最期の地となったのは、主君福島正則に従って移り住んだ広島です。慶長18年(1613年)に60歳で亡くなった後、彼の遺言により広島の矢賀村(現在の広島市東区)の坂の脇に葬られたとされています。その墓所は現在、広島市東区東山町にある才蔵寺(さいぞうじ)にあり、手厚く弔われています 3

この才蔵寺は、その名の通り可児才蔵吉長を祀るために建立された寺院で、境内には甲冑を身に着け槍を構えた勇ましい才蔵の像や、彼の墓と伝えられる石碑が現存しています 9 。興味深いのは、才蔵の墓碑の前に「ミソ地蔵」と呼ばれる地蔵尊が祀られていることです。この地蔵は脳病平癒や知能啓発にご利益があるとされ、願い事を書いた紙を味噌の入った袋に貼り、地蔵の頭や自身の頭に乗せて祈願するという独特の風習が伝えられています 9 。一説には、才蔵が籠城戦の際に味噌を用いて敵を撃退し、また地蔵の力で兵糧を得たという伝説と結びつけられていますが、才蔵の没年と福島正則の改易(これに伴い浅野氏が広島に入封し、伝説上の籠城戦の相手となる)の時期にはズレがあるため、このミソ地蔵と才蔵を直接結びつける籠城伝説は史実ではない可能性が高いとされています 9 。しかし、このような伝説が生まれること自体が、才蔵という人物が地元の人々にとって記憶され、語り継がれる対象であったことを示しています。

一方、遠く離れた埼玉県行田市埼玉にも、可児才蔵の墓と伝えられる場所が存在します 17 。しかし、こちらの墓は才蔵本人のものではなく、彼の子孫のものであることが判明しています。才蔵の子孫は、福島家が改易となった後、阿部家に仕え、その阿部家が忍藩(現在の行田市)に移封された際にこの地へ来住したとされています 17 。面白いことに、この行田の墓所は、才蔵が討ち取った首の耳や鼻に笹の葉を挿したという「笹の才蔵」の逸話から、いつしか耳鼻の病に霊験あらたかと信仰されるようになったといいます 17 。これは、中心となる伝説の要素(笹の葉と耳鼻)が、全く異なる文脈(子孫の墓と病気平癒)で再解釈され、新たな信仰を生んだ興味深い事例です。

これらの墓所やそれにまつわる信仰は、歴史上の人物が死後も人々の記憶の中で生き続け、時には新たな物語や意味を付与されながら、地域社会と関わりを持つ「生きた」史跡となることを示しています。特に広島の才蔵の墓は、江戸時代には参勤交代で西国街道を通る大名たちが、その武勇を讃えて下馬し礼を送ったと伝えられており 3 、彼の名声が当時から広まっていたことを物語っています。

第二節:生誕地・御嵩町の伝承

可児才蔵の生誕地とされる岐阜県可児郡御嵩町では、現在も彼を郷土の英雄として顕彰する動きが見られます 5 。前述の通り、町内の古刹・願興寺には、寺の記録である『大寺記』の中に、越前朝倉氏が滅亡した際に落ち延びてきた側室が願興寺に匿われ、そこで才蔵を産んだという内容の記述が残されています 3 。この伝承は、才蔵の出自にまつわるミステリアスな側面を付加するとともに、彼と御嵩町との深いつながりを強調しています。

近年では、御嵩町内に「可児才蔵武功伝承館」が設けられ、彼の甲冑のレプリカや戦功を紹介するパネル展示が行われるなど、その生涯や武勇を後世に伝えようとする試みがなされています 6 。こうした活動は、歴史上の人物が地域アイデンティティの核となり得ることを示しており、才蔵の物語が現代においても新たな役割を担っていると言えるでしょう。

終章:戦国を駆け抜けた孤高の武人―可児才蔵の今日的意義

可児才蔵吉長は、特定の家に深く根を下ろすことなく、自らの武勇と才覚を頼りに戦国乱世を渡り歩き、数々の戦場で類稀なる武功を立てた武将でした。その生き様は、主家への絶対的な忠誠や組織への強い帰属意識が一般的であった武士社会において、際立った個性を放っています。彼は、家柄や世襲によってではなく、純粋に個人の実力でのし上がることが可能であった戦国時代の一つの典型を示していると言えるかもしれません。

「笹の才蔵」という一度聞いたら忘れられない異名は、彼の戦場における合理的な判断力、自己の功績を効果的に示す才覚、そして何よりも他を圧するほどの圧倒的な強さの象徴として、今も私たちの記憶に刻まれています。それは、単なる勇猛さだけでなく、知恵と工夫を凝らして戦い抜いた彼の姿を彷彿とさせます。

彼の名は、『名将言行録』のような後世の編纂物や、広島、御嵩、さらには行田といった各地に残る伝承を通じて語り継がれてきました 3 。その生涯や数々の逸話は、現代に生きる私たちに対しても、組織と個人の関係性、専門技能の持つ普遍的な価値、そして自らの信念を貫くことの意義など、様々な示唆を与えてくれます。特に、主君を頻繁に変えながらも、その都度実力を認められ、最終的には徳川家康という天下人にまでその武名を記憶されたという事実は、実力主義が色濃く反映されていた戦国乱世の一側面を鮮やかに映し出しています。

可児才蔵の物語は、固定的な身分制度や組織の論理に必ずしも縛られない、個人の力と意志の可能性を示唆している点で、時代を超えて人々の心を捉えるのかもしれません。彼の型破りな生き方と、それによって勝ち得た名声は、戦国という時代の多様性と、そこに生きた人々の複雑な魅力を今に伝えています。

引用文献

  1. 豊臣秀次に向かって「くそくらえ」!?破天荒すぎる戦国武将「笹の才蔵」エピソード集 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/133518/
  2. カードリスト/豊臣家/豊066可児才蔵 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki ... https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/1713.html
  3. 可児吉長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E5%85%90%E5%90%89%E9%95%B7
  4. 可児才蔵の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 - 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/144
  5. 御嵩町ゆかりの戦国武将『可児才蔵』 - 岐阜県観光連盟 https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6772.html
  6. 御嵩町 笹の才蔵!|ブログ|FM GIFU[エフエム岐阜] https://www.fmgifu.com/blog/detail_11350_0_0_202008.html
  7. #可児才蔵 隠れ最強武将を辿る [探訪776] | 隠居音屋KKの [御城印 & 城景 探訪] https://ameblo.jp/mico315-kk/entry-12618339423.html
  8. 山崎の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  9. 才蔵寺 - 可児才蔵とミソ地蔵の不思議な縁起 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/hirosima/saizoji.html
  10. 美濃国の住人ときの随分衆也 - 岐阜県 https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/80739.pdf
  11. 泥にまみれて戦国を駆け抜けた放浪の武士 笹の才蔵 可児才蔵 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=FokGv0V9F5k
  12. 才蔵の帰郷 - 戦国異聞 池田さん(べくのすけ) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054887145954/episodes/1177354054888692206
  13. 名将言行録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2
  14. 可児才蔵について調べている。参考となる書籍等はないか。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000255961
  15. 『名将言行録』に学ぶリーダー哲学 続篇 | 川﨑 享 |本 | 通販 | Amazon https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8E%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2%E3%80%8F%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E7%B6%9A%E7%AF%87-%E5%B7%9D%EF%A8%91-%E4%BA%AB/dp/4492962387
  16. 『名将言行録』に学ぶリーダー哲学 続篇 - 東洋経済STORE https://str.toyokeizai.net/books/9784492962381/
  17. 笹の葉でおなじみの可児才蔵のお墓が埼玉県行田市に? - 旦さまと私 https://lunaticrosier.blog.fc2.com/blog-entry-987.html
  18. 可児才蔵コース - 御嵩町 https://www.town.mitake.lg.jp/wp-content/uploads/sengokumap_japanese.pdf