吉岡定勝は因幡の国人領主。鳥取城攻防戦で秀吉軍に抗戦し、防己尾城に籠城。敗戦後、武士を捨て帰農。兵農分離の時代を象徴する人物。
西暦(和暦) |
吉岡定勝および吉岡一族の動向 |
因幡国および日本の主要な出来事 |
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1532年(天文元年) |
吉岡定勝、誕生 1 。 |
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1544年(天文十三年) |
防己尾城の地に妹尾右京亮が砦を構えたとの伝承あり 2 。 |
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1573年(天正元年) |
吉岡氏、本拠を丸山城から箕上山城へ移す 3 。 |
織田信長、室町幕府を滅ぼす。 |
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1577年(天正五年) |
羽柴秀吉、織田信長の命により中国攻めを開始 5 。 |
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1579年(天正七年) |
吉岡定勝、湖山池畔に防己尾城を築城し、本拠とする 3 。 |
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1580年(天正八年) |
第一次鳥取城合戦。城主・山名豊国が羽柴秀吉に降伏 6 。 |
秀吉、三木城を兵糧攻めで攻略(三木の干殺し)。 |
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1581年(天正九年) |
第二次鳥取城合戦。 ・3月:毛利氏より吉川経家が鳥取城主として入城 7。 |
・7月-10月:秀吉軍が鳥取城を包囲(鳥取の渇え殺し) 7。 |
・吉岡定勝、防己尾城に籠城し、秀吉軍の背後を脅かす 8。 |
・10月25日:吉川経家が自刃し、鳥取城が開城 7。 |
・鳥取城開城後、亀井茲矩の攻撃により防己尾城も落城 10。 |
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1582年(天正十年) |
定勝、安芸国へ赴き毛利氏を頼るも、後に離れて諸国を放浪 1 。 |
本能寺の変。織田信長が死去し、秀吉が天下統一へ邁進。 |
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1588年(天正十六年) |
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豊臣秀吉、刀狩令を発布。兵農分離政策が本格化 12 。 |
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時期不詳 |
定勝、因幡に帰国し、娘夫婦を頼り帰農する 13 。 |
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1600年(慶長五年) |
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関ヶ原の戦い。戦後、池田氏が因幡・伯耆の領主となる 15 。 |
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1606年(慶長十一年) |
吉岡定勝、死去 1 。 |
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日本の戦国時代、数多の武将が歴史の表舞台で覇を競う中、地方の片隅で自らの存亡をかけて戦い、特異な軌跡を辿った人物がいる。因幡国(現在の鳥取県東部)の国人領主、吉岡将監定勝(よしおかしょうげんさだかつ)その人である。彼の名は、天下人・豊臣秀吉の中国攻めにおいて、その精強な軍勢を相手に一歩も引かず、秀吉の象徴とされる「千成瓢箪」の馬標を奪い取ったという勇壮な伝説と共に語り継がれてきた 13 。
しかし、この華々しい武勇伝は、その多くが江戸時代に成立した軍記物語『因幡民談記』などに由来するものであり、史実と伝説が混淆しているのが実情である 17 。近年の研究では、そもそも秀吉が当時その馬標を使用していなかった可能性も指摘されており、我々は伝説のフィルターを通してではなく、史料批判の視座から彼の生涯を再構築する必要がある 3 。
本報告書は、吉岡定勝という一人の武将の生涯を、現存する史料や研究成果に基づき、その出自から、因幡の動乱期における戦略、羽柴秀吉との攻防の真相、そして戦に敗れた後の意外な結末である「帰農」に至るまで、徹底的に詳述することを目的とする。
彼の人生は、織田・毛利という二大勢力の狭間で翻弄され、最終的には豊臣政権による「兵農分離」という巨大な社会変革の波に呑み込まれていく、戦国末期の地方国人領主が辿った典型的な軌跡を示す。吉岡定勝の生涯を丹念に追うことは、単に一地方武将の伝記を知るにとどまらず、戦国という時代がいかにして終焉を迎え、近世という新たな社会秩序へと移行していったのか、そのダイナミズムを解明するための重要な事例研究となるであろう。
吉岡定勝の行動原理を理解するためには、まず彼が属した因幡吉岡氏の出自と、彼らが根差した土地の歴史的背景を把握することが不可欠である。彼らは単なる一代の武将ではなく、長年にわたり特定の地域に深く根を下ろした「国人領主」であった。
因幡吉岡氏は、その系譜を村上源氏赤松氏の支流に持つとされる、由緒ある一族である 19 。江戸時代の地誌『因幡志』によれば、因幡国高草郡吉岡村(現在の鳥取市吉岡温泉周辺)を本貫地として領有したことから「吉岡」の姓を称するようになったと伝えられている 19 。この出自は、彼らが在地に根を張る土豪であると同時に、名門の系譜に連なるという自負を持つ武士団であったことを示唆している。
戦国時代における「国人(国衆)」とは、守護大名などの上位権力に服属しつつも、自らの所領において半独立的な支配権を維持していた在地領主層を指す 21 。吉岡氏もまた、因幡守護であった山名氏の家臣という立場にありながら 1 、自律的な領主経営を行い、地域の安寧に責任を負う存在であったと考えられる。その名は、南北朝時代の軍記物語『太平記』にも「吉岡安芸守」として登場することから、一族が古くからこの地に勢力を有していたことが窺える 19 。
吉岡定勝の父は、吉岡春斎入道と伝わる 1 。春斎の時代、一族は戦国争乱の激化に対応するため、本拠地として丸山城(現在の鳥取市六反田)を築いたとされる 2 。これは、それまでの平穏な荘園領主としてのあり方から、より軍事的な緊張状態に適応しようとする一族の意志の表れであった。
このように、吉岡氏は南北朝の動乱期から戦国時代に至るまで、数百年にわたり湖山池西岸地域に深く根を下ろし、その土地と不可分の関係を築いてきた。彼らのアイデンティティは、仕える主君以上に、先祖代々受け継いできたこの土地そのものに深く結びついていた。この強固な在地性、すなわち土地への執着こそが、後に吉岡定勝が人生の岐路に立たされた際に下す重大な決断、すなわち武士の身分を捨ててでも土地に生きる「帰農」という選択へと繋がる、重要な伏線となっているのである。彼の物語は、天正九年(1581年)の華々しい戦いのみで語られるべきではなく、その根底に流れる一族の土地との永い歴史を抜きにしては、その本質を理解することはできない。
戦国末期、因幡国は織田と毛利という二大勢力が激突する最前線となり、国内の政治情勢は混沌の極みにあった。この激動の時代にあって、吉岡定勝は旧来の拠点から新たな戦略拠点へと移るという大胆な決断を下す。それは、彼の卓越した戦略眼と、来るべき決戦への覚悟を示すものであった。
天正年間(1573年-1592年)の因幡国は、西から勢力を維持する毛利氏と、東から破竹の勢いで伸張する織田信長勢力との緩衝地帯であり、熾烈な角逐の場であった 22 。因幡守護であった山名豊国は、この二大勢力の間で巧みな外交を展開し、家の存続を図ろうとした。しかし、その態度は家臣団の分裂を招き、天正八年(1580年)の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻めでは、親毛利派の家臣が徹底抗戦を主張する中、豊国自身は秀吉に降伏。その後、家臣団によって追放されるという事態に至った 6 。
この主家の混乱に乗じ、因幡国内では武田高信のような有力な国人が鳥取城の実権を狙い 23 、また但馬国から進出した垣屋光成のように、いち早く秀吉に恭順して因幡国内に所領を得る者も現れるなど 25 、まさに群雄割拠の様相を呈していた。このような複雑な情勢下で、吉岡定勝は毛利方につくことを選択し、織田勢力に対抗する因幡国人衆の中核を担う存在となっていく 27 。
吉岡定勝の戦略家としての一面は、その拠点の変遷に明確に見て取れる。一族は当初の丸山城から、天正元年(1573年)頃には、より防御に適した峻険な山城である箕上山城へと本拠を移した 3 。しかし、定勝はこの拠点に満足しなかった。箕上山城は「あまりに峻険かつ深山だったため」 3 、防御には優れるものの、機動的な軍事行動や兵站の維持には不向きであった。山奥に籠もる受動的な防御思想から、より能動的・戦略的な拠点への転換が必要であると判断したのである。
そして天正七年(1579年)、定勝は新たな本拠として防己尾(つづらお)城を築く 3 。この城は、当時「吉岡城」あるいは「亀山城」と呼ばれており、「防己尾」という名称は江戸時代以降に定着したものである 3 。
防己尾城の最大の特徴は、その立地にある。日本海に通じる湖山池(こやまいけ)に半島状に突き出した標高約39メートルの丘陵に築かれ、水運を最大限に活用できる「水城(みずじろ)」としての性格を色濃く持っていた 3 。当時の湖山池は、湖山川を通じて日本海の要港・賀露港と結ばれており、物資輸送や兵員移動の重要な水路であった 28 。定勝は、この地理的優位性に着目したのである。
城の構造もまた、定勝の戦略思想を反映している。それぞれ独立した三つの丘を本丸・二の丸・三の丸とし、それらを堀切や竪堀、切岸といった防御施設で厳重に連結。麓には船着場や小規模な町屋も形成されていたとされ、小規模ながら極めて攻め難い、攻防一体の拠点であった 3 。
この防己尾城への拠点移行は、単なる居城の変更ではない。それは、来るべき羽柴秀吉の大軍との決戦を見据え、湖山池の水運という「道」を抑えることで、味方(鳥取城や海路からの毛利本隊)との連携を保ち、兵站を確保し、さらには敵の背後を突く奇襲攻撃を可能にするという、高度な軍事的判断の表れであった。吉岡定勝は、単に武勇に優れた武将ではなく、地政学を理解し、それを戦略に活かすことのできる「智将」であった側面が、この築城計画から鮮やかに浮かび上がってくる。
天正九年(1581年)、織田信長の天下統一事業は最終段階に入り、その矛先は西国の雄・毛利氏に向けられた。羽柴秀吉を総大将とする織田軍の因幡侵攻は、日本の戦史に残る凄惨な籠城戦「鳥取の渇え殺し」を引き起こす。この歴史的な攻防戦において、吉岡定勝は防己尾城を拠点に、智勇の限りを尽くして巨大な敵に立ち向かった。
前年の山名豊国の降伏と追放を受け、鳥取城には毛利氏から猛将・吉川元春の縁者である吉川経家(きっかわつねいえ)が新たな城主として送り込まれた 7 。経家は死を覚悟して入城し、城兵の士気を高め、徹底抗戦の構えを見せた。
これに対し、秀吉は2万ともいわれる大軍を率いて因幡に再侵攻する 7 。彼は、かつて播磨の三木城を攻略した際に絶大な効果を発揮した「兵糧攻め」を、さらに周到な形で実行に移した 31 。すなわち、軍勢を進めるに先立ち、因幡国内および周辺諸国の米を相場の数倍という高値で密かに買い占め、鳥取城内の兵糧備蓄を事前に枯渇させたのである 33 。その上で、鳥取城の周囲に全長12キロメートルにも及ぶ長大な包囲網を築き、陸路・海路からの兵糧搬入を完全に遮断した。この徹底した兵站破壊戦略により、鳥取城内は瞬く間に飢餓地獄と化し、世にいう「鳥取の渇え殺し」が始まった 7 。
この絶望的な状況下で、鳥取城を支援し、秀吉軍の包囲網に一矢報いようと奮戦したのが、吉岡定勝であった。彼は父とされる吉岡入道質休(しつきゅう)、弟の右近(うこん)ら一族郎党二百余騎と共に、鳥取城の西に位置する防己尾城に籠城した 29 。
防己尾城は、鳥取城を包囲する秀吉軍の背後を脅かす絶好の位置にあり、毛利方の重要な支城として機能した 8 。定勝は、湖山池の地理を熟知している利点を最大限に活かし、水路からの奇襲やゲリラ戦を展開。変幻自在の戦法で秀吉軍を翻弄し、その攻撃を三度にわたって撃退したと伝えられている 9 。この戦いぶりは、防己尾城が単なる籠城のための防御拠点ではなく、秀吉軍の後方連絡線を攪乱するための、極めて能動的な攻撃拠点として活用されていたことを示している。
吉岡定勝の名を不朽のものとしたのが、秀吉の馬標「千成瓢箪」を奪ったとされる逸話である。江戸時代の『因幡民談記』や現地の伝承によれば、吉岡軍の活躍は目覚ましく、特に弟の右近が率いる一隊は、秀吉の馬廻衆である黄母衣衆(きぼろしゅう)を討ち取り、敵中に突入して秀吉の象徴たる千成瓢箪の馬標を奪い取るという、空前の大勝利を挙げたとされる 9 。また、討ち取った敵兵を手厚く葬るために六地蔵を建立したという、定勝の情け深さを伝える話も残っている 9 。
しかし、この劇的な逸話は、史実として鵜呑みにするには慎重な検討を要する。第一に、近年の研究では、秀吉が千成瓢箪を馬標として大々的に用いるようになるのは、これより後の賤ヶ岳の戦い以降とされており、天正九年の時点で既に使用していたかについては疑問が呈されている 3 。第二に、この逸話の主要な典拠である『因幡民談記』や『陰徳太平記』といった軍記物語は、歴史的事実を記録する史書であると同時に、読者を楽しませる娯楽性や、郷土の英雄を顕彰する意図から、創作や脚色が含まれることが少なくない 18 。
だが、この伝説が史実でない可能性が高いとしても、それが生まれ、今日まで語り継がれてきたこと自体の歴史的意義は大きい。中央の巨大な権力者である秀吉を、因幡の一地方武将が智勇によって打ち破るという物語は、戦に敗れ、歴史の敗者となった因幡の人々にとって、自らの誇りやアイデンティティを維持するための、かけがえのない精神的な支柱として機能したのである。
吉岡定勝の奮戦も空しく、戦いの大勢を覆すことはできなかった。彼の戦いはあくまで戦術レベルでの勝利であり、秀吉が仕掛けた経済戦と兵站戦という、より高次の戦略レベルでの戦局を覆すには至らなかった。主城である鳥取城は、四ヶ月にわたる飢餓の末、城兵の助命を条件に吉川経家らが自刃することで、天正九年十月二十五日に開城した 7 。
これにより、防己尾城は完全に孤立無援となった。鳥取城の始末を終えた秀吉軍は、その矛先を防己尾城に向ける。秀吉配下の武将・亀井茲矩(かめいこれのり)の猛攻を受け、最後まで抵抗を続けた防己尾城も、ついに落城の時を迎えた 10 。
吉岡定勝の戦いは、戦国時代の伝統的な「いくさ」の価値観、すなわち個人の武勇や奇襲戦法が、秀吉が導入した近世的な「戦争」の概念、すなわち経済力や兵站管理を駆使した総力戦の前に無力化されていく、時代の転換点を象徴する出来事であった。彼の敗北は、一個人の能力の限界というよりも、時代の構造変化の中で生じた、必然的な結末であったといえるだろう。
防己尾城の落城は、吉岡定勝の武士としてのキャリアに終止符を打った。しかし、彼の物語はここで終わらない。敗戦後の流浪の果てに彼が下した「帰農」という決断は、彼の人生の最終章を飾ると同時に、戦国という時代の終焉そのものを象徴する、極めて重要な意味を持っていた。
城を落ち延びた定勝は、主筋であった毛利氏を頼り、その本拠である安芸国(現在の広島県)へと赴いた 1 。毛利氏にとって、定勝は自らのために戦い、城を失った忠臣であった。しかし、当時の毛利氏もまた、織田氏との長期にわたる戦いで疲弊しており、敗戦した一国人を手厚く遇するだけの余裕はなかったのかもしれない。あるいは、誇り高い定勝自身の気質が、寄食の身に甘んじることを潔しとしなかった可能性も考えられる。いずれにせよ、彼はやがて毛利氏のもとを離れ、諸国を放浪する困窮した生活を送ったと伝えられている 2 。
数年にわたる流浪の末、定勝は故郷である因幡の地へと戻る。そして、かつて一城の主であった彼が下した最後の決断は、武士として再起を図ることではなく、娘夫婦を頼って土に生きる、「帰農」の道を選ぶことであった 2 。
これは単なる隠居や引退とは本質的に異なる。戦国時代から近世への移行期において、「帰農」とは武士の身分を捨て、農民として土地に生きることを選択する、身分上の重大な転換を意味した。それは、刀を置き、領主としての特権を放棄し、新たな社会秩序の一員となることを受け入れる行為であった。
定勝が敗戦し、放浪していた時期は、奇しくも豊臣秀吉が天下統一を成し遂げ、日本の社会構造を根底から変革していた時代と完全に一致する。秀吉が推し進めた最も重要な政策の一つが、太閤検地と刀狩令(天正十六年、1588年)に象徴される「兵農分離」であった 12 。
この政策は、武士を城下町に集住させて俸禄で養う専門の戦闘員階級とし、農民からは武器を取り上げて土地に縛り付け、年貢を納める生産者階級とするものであった。これにより、中世を通じて曖昧であった武士と農民の境界は明確に分離され、土地と武士身分は切り離された。
この巨大な社会変革の波は、定勝のような在地性の強い国人領主たちに、厳しい二者択一を迫った。一つは、先祖伝来の土地の支配権を完全に放棄し、新たな領主(因幡の場合は池田氏)の家臣団に組み込まれ、城下町に住む俸禄取りの武士として生きる道。もう一つは、武士の身分を捨て、検地帳に登録された土地の耕作者、すなわち庄屋などの有力農民として村に残り、土地と共に生きる道である 39 。
吉岡定勝の「帰農」は、この歴史的な岐路において、彼が後者を選んだことを意味する。それは、彼のアイデンティティの根源が、主君に仕える「武士であること」以上に、第一章で述べたように、先祖代々の土地の「主であること」にあったことの何よりの証左である。見知らぬ主君に仕えるために土地を捨てるよりも、たとえ武士の身分を失おうとも、一族が数百年にわたり守り抜いてきた故郷の地に根差して生きることを選んだのである。
したがって、定勝の帰農は、単なる敗者の悲哀物語として片付けるべきではない。それは、中世的な「土地と一体化した武装領主」が解体され、近世的な「土地から切り離された官僚的武士」と「武装解除された農民」へと社会が再編成されていく歴史の巨大な地殻変動の渦中で、一人の人間が自らの価値観に基づき下した、主体的かつ本質的な決断の記録なのである。
吉岡定勝は、慶長十一年(1606年)、帰農した故郷の地でその波乱の生涯を閉じたと伝えられる 1 。彼の人生は、因幡国の一国人領主として生まれ、戦国末期の激動の中で智勇を奮って中央の巨大権力に一矢を報い、そして最後は武士の矜持を胸に秘めながらも、土地に生きる道を選んだ、一人の人間の力強い軌跡であった。
彼の選択は、戦国という時代の終焉と、近世社会の到来を象徴している。彼は歴史の表舞台における「敗者」であったかもしれない。しかし、その敗北は、彼の能力不足によるものではなく、個人の武勇が経済力や兵站といった近世的な戦争の論理に凌駕されていく、時代の必然であった。そして、その後の「帰農」という決断は、敗北に打ちひしがれた末の選択ではなく、兵農分離という新たな社会秩序の中で、自らのアイデンティティの根源である「土地」を守るために下した、主体的で意義深い選択であった。
吉岡定勝が歴史に残したものは、千成瓢箪の伝説だけではない。彼の死後も、一族の一部は鳥取藩主となった池田氏に仕官したとされ、武士としての家名を繋いだ者もいたことが示唆されている 1 。また、彼が本拠とした地は「吉岡温泉郷」としてその名を今に留め 1 、鳥取市野坂の光明寺には、彼のものと伝わる甲冑が大切に保存されている 10 。これらの痕跡は、彼の存在が単なる伝説としてではなく、地域の歴史の中に確かな実体をもって記憶され続けていることの証である。
全国的な知名度こそ高くないものの、吉岡定勝の生涯は、戦国時代から近世への移行期における地方国人領主の動向、中央権力との相克、そして兵農分離という社会変革の実態を解き明かす上で、極めて示唆に富んだ好例といえる。彼は、歴史の敗者でありながらも、その鮮烈な抵抗と最終的な選択を通じて、時代の転換点を生き抜いた人間の矜持と力強さを我々に示している。彼の物語は、歴史が勝者や英雄だけの物語ではなく、土地と共に生きることを選び、名もなき土に還っていった無数の人々の歴史によっても織り成されているという、普遍的な真実を教えてくれるのである。