吉川経家(きっかわ つねいえ)の名は、戦国時代の数多の武将の中でも、特に悲劇的な自己犠牲と武士としての高潔な精神性を象徴する存在として記憶されている 1 。彼の生涯の頂点であり、同時に終焉の地となった天正9年(1581年)の鳥取城籠城戦は、羽柴秀吉の冷徹な戦略「渇え殺し(かつえごろし)」によって引き起こされた地獄絵図として、日本の戦史に特異な位置を占めている 4 。城兵と領民の命を救うため、敵将である秀吉からの助命の申し出を断り、自らの腹を切って責任を全うしたその最期は、敵味方の区別を超えて称賛された。
一般に経家は「毛利家臣」として知られ、その生涯は鳥取城での壮絶な4ヶ月間に集約されがちである。しかし、彼の行動原理と決断の背景を深く理解するためには、その出自、毛利家における彼の複雑な立場、そして彼が死の淵で遺した言葉の真意を、多角的に検証する必要がある。本報告書は、現存する史料を丹念に繋ぎ合わせ、経家が単なる悲劇の将ではなく、自らの置かれた状況を深く理解し、その中で最善の道を選び取った一人の人間としての実像に迫ることを目的とする。
吉川氏の源流は、平安時代の名門・藤原南家工藤氏に遡る 7 。その一族が駿河国入江庄吉川(現在の静岡県静岡市清水区)に居を構え、地名を姓としたのが吉川氏の始まりである 8 。鎌倉時代、吉川氏は源頼朝の挙兵に功を立て、安芸国大朝庄(現在の広島県北広島町)の地頭職を得て西遷し、安芸吉川氏(宗家)としての基盤を築いた。
経家の家系である石見吉川氏は、この安芸吉川氏から分かれた一族である。吉川経光の子・経茂が石見国の在地領主の娘を娶ったことを契機に同地との関係を深め、やがて石見津淵荘の地頭職を得て成立した 7 。経家の父である吉川経安は、石見吉川氏の当主・経典に男子がいなかったため、同族の久利氏から養子として迎えられた人物であり、経家は石見の有力な国人領主の嫡男として、天文16年(1547年)に生を受けた 7 。
経家が幼少期を過ごした16世紀半ばの中国地方は、周防の大内氏と安芸の毛利氏という二大勢力が覇を競う激動の時代であった。当時、石見吉川氏は大内義隆の麾下にあった 9 。天文23年(1554年)、毛利元就が大内氏からの完全独立を宣言した「防芸引分」の際、元就の次男・吉川元春が家督を継承していた安芸吉川宗家は毛利方として大内氏と袂を分かった。しかし、父・経安が率いる石見吉川氏は、すぐには毛利氏に与せず、大内氏に留まるという独自の政治判断を下している 9 。この事実は、石見吉川氏が宗家の動向に一方的に従うのではなく、自らの領地と家臣団を持つ独立した国人領主として、独自の外交路線を模索していたことを明確に示している。
後に毛利氏の勢力拡大に伴いその傘下に入るが、その関係性は単純な主従関係ではなかった。史料が「吉川元春の家臣となったわけではない」と明記している点は極めて重要である 9 。これは、経家が毛利家という巨大な軍事連合体の一員でありながらも、自身の領国を治める独立領主としての側面を色濃く残していたことを意味する。彼の立場は、毛利宗家の当主・毛利輝元、そして輝元を補佐する叔父であり吉川宗家当主の吉川元春、さらに後述する元春の嫡男・元長という、複雑で多重的な主従・同盟関係の中に位置づけられていた。この独立領主としての誇りと、毛利一門としての責任感との相克が、後の彼の悲劇的な運命を決定づける一因となる。
永禄3年(1560年)、経家は14歳で元服を迎える。この重要な儀式において、加冠役(烏帽子親)を務めたのは、安芸吉川宗家の当主・元春の嫡男である吉川鶴寿丸、後の吉川元長であった。元長から「経」の一字を賜り、「吉川小太郎経家」と名乗った 9 。翌永禄4年(1561年)には、毛利氏を裏切り尼子方についた石見の国人・福屋隆兼が率いる5,000の大軍に居城の福光城を包囲されるが、15歳の経家は父・経安と共にこれを迎撃し、初陣を飾っている 9 。
さらに永禄11年(1568年)、経家は再び元長から「式部少輔」の官途名を与えられた 9 。元服と授官という武士のキャリアにおける二つの重要な節目を、いずれも同世代である元長と結んだことは、二人の間に単なる形式的な主従関係を超えた、極めて強い個人的な信頼関係があったことを物語っている。この盟友ともいえる元長との絆は、後に父・元春が経家に鳥取城督という死地への赴任を要請する際、断りがたい重圧として作用した可能性は想像に難くない。それは「毛利家のため」という公的な命令であると同時に、「盟友の家を救ってほしい」という私的な義理をも伴う要請であったと考えられる。
天正5年(1577年)以降、織田信長の天下統一事業は西国へと及び、その命を受けた羽柴秀吉による中国攻めが本格化する。これにより、因幡国(現在の鳥取県東部)は、織田と毛利という二大勢力が激突する最前線となった 11 。山陰における毛利方の拠点であった鳥取城の帰趨は、中国地方全体の戦局を左右するほどの戦略的重要性を持っていた 11 。織田信長自身、毛利の主力部隊が鳥取城の救援に動けば、自ら出馬して雌雄を決すると公言するほど、この地を重視していた 11 。
天正8年(1580年)、秀吉は因幡へ侵攻し、第一次鳥取城攻めを開始する。この時、鳥取城主であった山名豊国は、城内の徹底抗戦を主張する家臣団の意見を退け、単身で秀吉の陣に赴き降伏した 4 。しかし、秀吉が軍を引くと、毛利方への忠誠を貫く重臣の森下道誉や中村春続らは、豊国の降伏を主君にあるまじき裏切り行為とみなし、彼を城から追放するという実力行使に出た 4 。
城主を失った彼ら因幡国人衆は、山陰方面の毛利軍を統括する吉川元春に対し、強大な秀吉軍と渡り合える有能な武将を新たな城督として派遣するよう強く要請した 4 。経家が直面することになる鳥取城は、単に外部の敵と対峙するだけでなく、城主を追放したばかりの、猜疑心と焦燥感に駆られた内部の家臣団をまとめ上げなければならないという、二重の困難を抱えた場所であった。
この難局を収拾する将として白羽の矢が立ったのが、石見の吉川経家であった。彼は文武に優れ、人望も厚いことから、この分裂した城内をまとめ、織田軍に対抗できる唯一の人物と見なされたのである 22 。
天正9年(1581年)3月、経家は毛利からの加番衆に迎えられ、因幡に上陸し鳥取城に入った 14 。その際、自らの首を入れるための「首桶」を持参して入城したと伝えられている 22 。これは、生きてこの地を出るつもりはないという、凄絶な決意の表れであった。この「首桶持参」という行為は、単なる個人の覚悟を示すにとどまらない。それは、前の城主の「生への執着」を裏切りと断じた城兵たちに対する、「私はお前たちが唾棄した臆病者とは違う。この城を死に場所と定めた。私を信じ、共に戦え」という、極めて強力な無言の政治的メッセージであった。この象徴的な行動によって、経家は着任と同時に、疑心暗鬼であった城兵の心を掌握し、絶望的な状況下でのリーダーシップを確立したのである。
しかし、彼を待ち受けていた現実は、その覚悟すら揺るがしかねないほど過酷であった。入城して城内の検分を行った経家は、備蓄兵糧がわずか三ヶ月分程度しかないことを知り、愕然とする 4 。これは、秀吉側の周到な事前工作により、周辺地域の米が法外な高値で買い占められ、それに釣られた城兵や商人たちが城内の備蓄米まで売り払ってしまっていたためであった 4 。冬の到来による積雪で秀吉軍が撤退するまで持ちこたえる、という籠城戦略の根幹が、入城の時点ですでに崩壊していたのである。
播磨の三木城攻め(三木の干殺し)において、1年10ヶ月という長い時間を費やした苦い経験から、羽柴秀吉は兵糧攻めの戦術をさらに冷徹で合理的なものへと進化させていた 4 。鳥取城攻めで彼が展開したのは、武士個人の武勇を無力化する、近代的ともいえる兵站破壊戦であった。
秀吉の周到な戦略により、鳥取城内は急速に飢餓地獄へと変貌した。籠城開始からわずか2ヶ月後の9月には兵糧が完全に底を突き、城兵や領民は牛馬や犬猫、さらには城内に生える草木の根や若葉まで食べ尽くした 9 。
3ヶ月目に入ると、餓死者が続出する。織田方の従軍記録である太田牛一の『信長公記』には、その凄惨な状況が克明に記されている。飢餓の極限状態に達した人々が、餓死者の亡骸を食らい、「子は親を食し、弟は兄を食した」という、人肉食(カニバリズム)にまで至る地獄絵図が繰り広げられたという 5 。飢えに耐えかねて城外の柵にすがりつき、助けを求める者は、秀吉軍の鉄砲隊に容赦なく射殺され、その亡骸にまだ息のある者たちが群がって肉を貪り食うという、筆舌に尽くしがたい光景が日常と化した 30 。経家は、武士としての勇猛さや覚悟では抗いようのない、新しい時代の戦争がもたらす組織的で非人間的な暴力の奔流に飲み込まれていったのである。
城内で地獄の苦しみが続く中、毛利本隊もまた、救援のために動いていた。吉川元春率いる主力部隊は、鳥取城の西約40キロメートルに位置する東伯耆まで進軍し、救援の機を窺っていた 11 。しかし、秀吉が構築した強固な包囲網と、織田方に与する宇喜多氏などの勢力が背後を脅かしていたため、決戦を挑むことができなかった 16 。
最終的に、毛利輝元ら毛利首脳部は、鳥取城という一つの城を救うために主力軍を危険に晒すことのリスクを鑑み、出雲・伯耆といった毛利領の中核地帯の防衛を優先するという、大局的かつ冷徹な戦略的判断を下さざるを得なかった 16 。経家と鳥取城の籠城者たちは、毛利家という巨大な組織の存続のために、戦略的に「切り捨てられる駒」となったのである。彼らは、一門の名誉と城兵の命という重責を背負いながら、巨大な戦略の歯車の中で孤立無援となり、見殺しにされる形で犠牲となった。
籠城開始から4ヶ月が経過した10月、城内の惨状は極限に達した。これ以上の籠城は無益な死者を増やすだけであると判断した経家は、ついに降伏を決意する。彼は秀吉に使者を送り、自らの命と引き換えに、城内にいる全ての兵士と領民の命を救うことを条件として開城を申し出た 9 。
この申し出に対し、秀吉は意外な返答をする。経家の武将としての器量と、絶望的な状況下で見せた奮戦ぶりを高く評価していた秀吉は、「籠城の責任は、前城主の山名豊国を追放した森下道誉・中村春続らにある。貴殿に罪はない」として、経家自身の助命を提案したのである 1 。しかし、経家はこの申し出を、「城将たる自分の責任である」として断固として拒否。自刃の意志を覆すことはなかった 9 。困惑した秀吉は主君・信長に指示を仰ぎ、信長は経家の覚悟を認め、その自刃を許可した 9 。
天正9年(1581年)10月25日早朝、経家は城内の広間にて、家臣たちと今生の別れの盃を交わした。その最期の様子は、彼の小姓であった山県長茂によって詳細に記録され、後世に伝えられている 9 。彼は、自らの死を前に、父、主筋にあたる吉川広家、家臣、そして故郷に残した幼い子供たちに宛てて、複数の遺書を書き遺した 9 。
表1:吉川経家 遺書・辞世の句 全文と現代語訳
項目 |
原文 |
現代語訳 |
解説 |
辞世の句 |
武士の 取り伝へたる 梓弓 かえるやもとの 栖なるらん |
「伝統の弓は元のすみかへ帰るだろう」 |
武士としての役目を果たし潔く去る心を詠む。 |
広家宛 遺書 |
(抜粋)「御弓矢の場」で自害できるのは名誉、末代の名誉… |
翻訳参照 |
織田と毛利の間で戦い抜いた名誉を称える。 |
家臣宛 遺書 |
― |
― |
家臣への感謝と自らの覚悟を綴る。 |
子供宛 遺書 |
とっとりのこと よるひる二ひゃく日 こらえ候 ひょうろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのを助け申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おききあるべく候 天正九年十月二十五日 つね家 花押 あちゃこ 申し給へ かめしゆ まいる かめ五 とく五 |
昼夜200日耐え、兵糧尽きたが… |
父の愛情、名誉と幸せの伝承を。 |
経家が自刃した後、その首は秀吉のもとへ届けられた。首実検に臨んだ秀吉は、経家の顔を見るなり「哀れなる義士かな」と述べ、人目もはばからず男泣きに泣いたと伝えられている 9 。その後、経家の首は安土城の織田信長のもとへ送られ、信長もその忠義と武勇を称え、丁重に葬らせたという 9 。
開城後、秀吉は飢餓に苦しむ城兵や領民に粥などの食料を振る舞ったが、長期間の飢餓状態にあった身体が急な食事を受け付けず、かえって命を落とす者(リフィーディング症候群による死と推測される)が続出したといい、鳥取城の悲劇は最後まで続いた 5 。
経家の自己犠牲は、結果として彼の家族と家名を未来へと繋いだ。彼の妻は境経輝の娘であり、経家の死後、残された子供たちは保護された 7 。
経家の「死」は、結果として子供たちの「生」の道を切り開いた。彼が遺書に記した「しあわせものがたり」は、子孫の繁栄という形で、ある意味では実現したと言えるのかもしれない。
経家の潔い最期は、敵将秀吉をはじめ、主家の毛利家からも高く評価され、後世「武士の鑑」として語り継がれていく 1 。特に、彼が命を懸けて守ろうとした鳥取の地では、攻め手である天下人・秀吉ではなく、守り抜いて散った経家が郷土の英雄として深く敬愛されている。鳥取城跡の麓には、彼の武勇と義を称える銅像が建立されており、その姿は今なお鳥取の街を見守っている 1 。この事実は、軍事的な勝敗という結果を超えて、責任を全うするリーダーシップと、他者のために自らを犠牲にする高潔な精神が、時代を超えて人々の心を打つことの証左である。
経家は、同じく秀吉の中国攻めにおいて、城兵の助命と引き換えに自刃した備中高松城の清水宗治や、三木城の別所長治としばしば比較される 39 。城主が責任を取って自決するという構図は共通しているが、その背景には明確な相違点が存在する 39 。
清水宗治は、秀吉による水攻めという特殊な状況下で、毛利本隊が見守る中、湖上に舟を浮かべて舞を舞った後に自刃するという、儀式的で演出された最期を遂げた。これは、秀吉が講和の絶対条件として宗治の切腹を要求した結果であった。対して経家の場合、秀吉はむしろ彼の助命を望んでいたにもかかわらず、経家自身がそれを拒絶して自刃を選んだ 32 。そして何よりも、その背景には人肉食にまで至る飢餓地獄があり、その悲惨さの度合いにおいて、経家の置かれた状況は他のどの籠城戦よりも際立っている。勝者である秀吉や官兵衛ではなく、敗者である経家や宗治が英雄として記憶されやすいのは、彼らの物語が、冷徹な「戦略」や「権力」の論理ではなく、個人の「義」や「自己犠牲」という、より普遍的で人々の共感を呼ぶ価値観を体現しているからに他ならない 40 。
吉川経家の35年の生涯は、その大半が石見の一国人領主として穏やかに過ぎたが、最後の半年間で凝縮された悲劇と高潔さによって、戦国史に不滅の名を刻んだ。彼の選択は、軍事的合理性から見れば完全な敗北であった。しかし、自らの命を以て4,000人ともいわれる城兵と領民を救い、一門の名誉を全うしたその生き様は、時代を超えて「リーダーシップとは何か」「責任を負うとはどういうことか」という根源的な問いを我々に投げかける。
彼の物語は、単なる過去の美談ではない。組織の論理と個人の良心、大局的な戦略と目の前の人命が対立する局面は、現代社会においても枚挙に暇がない。その中で、経家が見せた苦悩と決断は、今なお我々に多くの示唆を与えてくれる。鳥取の地で彼が「郷土の英雄」として語り継がれているのは 1 、その行動の根底にある普遍的な道徳性と人間愛に、人々が心を揺さぶられ続けるからに他ならない。吉川経家は、敗北の中にこそ人間の最も気高い精神が輝くことがあるという、逆説的な真実を後世に伝え遺したのである。