最終更新日 2025-07-19

吉弘統幸

吉弘統幸は大友家最後の忠臣。父鎮信の死後家督を継ぎ、戸次川の戦いや文禄の役で活躍。関ヶ原で旧主大友義統に殉じ、石垣原で壮絶な討死を遂げた。

吉弘統幸、最後の忠義 ―石垣原に散った「真の義士」の実像―

序論:石垣原に散った「真の義士」

「敗軍の将は兵を語らず」という諺は、歴史の常道を示す。勝者はその功績を喧伝され、敗者は多くの場合、沈黙のうちに忘れ去られる。しかし、この通念を覆す稀有な存在がいる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いと時を同じくして豊後国石垣原に散った武将、吉弘統幸(よしひろ むねゆき)である。彼は紛れもない敗軍の将であった。にもかかわらず、彼を討ち取った敵将、黒田家の公式記録である『黒田家譜』は、統幸を「古今たぐいすくなく事なり」と、比類なき人物として最大級の賛辞を贈っている 1

なぜ、敗者である吉弘統幸が、敵方からすら「真の義士」として称賛され、四百年の時を超えて語り継がれるのか。本報告書は、この問いを起点とし、彼の生涯を徹底的に追跡することで、その謎を解き明かすことを目的とする。彼の物語は、単なる忠臣の美談に留まらない。それは、傾きゆく主家、天下分け目の激動、そして武士としての倫理観という三つの奔流が交錯する中で、一人の人間がいかにして自らの「義」を問い、貫き通したかの壮絶な記録である。

本報告書では、まず彼の出自、すなわち大友家の名門として誉れ高き吉弘一族の系譜を辿り、彼の忠誠心の源泉を探る。次に、主家が衰退する中で彼がいかにして武将としての武名を高め、その柱石となったかを明らかにする。そしてクライマックスである関ヶ原合戦において、彼が下した非合理とも映る決断の真意を、石垣原での最後の戦いを通して克明に描き出す。最後に、後世に与えた影響と数々の伝説を検証し、彼が体現した「忠義」の本質とは何だったのかを深く考察する。彼の生涯を俯瞰することで、戦国という時代の倫理観と、そこに生きた武士の実像に迫りたい。

吉弘統幸 年表

西暦

和暦

年齢

事柄

1564

永禄7年

1

豊後国都甲庄、筧城にて誕生。幼名は松市太郎 2

1571

元亀2年

8

祖父・吉弘鑑理が病死 2

1576

天正4年

13

長安寺の権執行に任ぜられる 2

1578

天正6年

15

日向・耳川の戦いで父・吉弘鎮信が戦死。家督を相続する 2

1580

天正8年

17

田原親貫の反乱に際し、屋山城を改修。籠城して戦功を挙げる 2

1586

天正14年

23

叔父・高橋紹運が筑前・岩屋城の戦いで壮絶な戦死を遂げる 2

1592

文禄元年

29

文禄の役(朝鮮出兵)に従軍し、武功を挙げる 2

1593

文禄2年

30

主君・大友義統が敵前逃亡の罪で改易。統幸も領地を失い、浪人となる 2

従弟・立花宗茂の庇護下に入る 2

1597

慶長2年

34

立花家臣として慶長の役に従軍 2

1600

慶長5年

37

関ヶ原合戦勃発。旧主・義統の西軍参加に対し東軍加担を諫言するも、聞き入れられず。義統に従い豊後へ渡る 3

9月13日

豊後・石垣原の戦いで黒田如水の軍と激突。奮戦の末、井上九郎右衛門との一騎討ちに敗れ戦死 2

第一部:吉弘一族の源流と武門の誉れ

吉弘統幸という人物を理解するためには、まず彼を育んだ土壌、すなわち吉弘一族の歴史と、彼らが仕えた大友家におけるその地位を深く知る必要がある。彼の行動原理の根底には、一族が代々受け継いできた「武門の誉れ」と、主家に対する宿命的なまでの忠誠心が存在した。

第一章:国東の地に根差した吉弘氏

吉弘氏は、単なる大友家の譜代家臣ではない。その血筋は、九州探題として栄華を極めた大友氏の血を引く、名門中の名門であった。

出自と勢力基盤

吉弘氏の祖は、鎌倉時代に遡る大友氏の庶流、田原氏から分かれた一族である 5 。初代・吉弘正堅は、豊後国東郡武蔵郷の吉広川上流に吉広城を築き、その地名から「吉弘」を姓とした 6 。この出自は、吉弘家が大友一門衆として、家臣団の中でも特別な家格と発言力を有していたことを意味する。彼らは国東半島に強固な地盤を築き、在地領主として、また大友宗家の藩屏として重きをなした。

居城の変遷と戦略

吉弘氏は、時代の要請に応じてその本拠地を巧みに変えている。当初の吉広城から、戦国中期の天文年間には、周防の大内氏との緊張が高まる最前線、都甲谷へと拠点を移した 6 。ここで彼らが採用したのが、平時の居館である「筧城(かけいじょう)」と、有事の際の詰城である「屋山城(ややまじょう)」を一体として運用する防衛体制であった 9

屋山城は標高543メートルの険峻な山城であり、一方の筧城は山麓の館であった。この平時と有事の拠点を使い分ける戦略は、統幸の叔父である高橋紹運が平時の岩屋城と要害の宝満城を使い分けた例にも見られ、当時の北九州における緊迫した軍事状況と、それに対応するための高度な戦略思想を物語っている 9

信仰との関わり

国東半島は、古来より「六郷満山」と呼ばれる独自の仏教文化が花開いた地である。吉弘氏もその地の有力者として、深く信仰に関わっていた。一族の菩提寺として金宗院や永泰寺を建立し、手厚く保護した記録が残る 1 。特に統幸自身は、13歳の若さで六郷満山の有力寺院であった長安寺の権別当職に任じられている 1 。彼が残した願文には、武門の家に生まれた宿命を受け入れつつも、仏道に深く帰依したいという敬虔な心情が吐露されており、この深い信仰心が、後の彼の死生観や、私利私欲を超えた忠義の精神を形成する上で、少なからぬ影響を与えた可能性が考えられる。

第二章:大友家を支えた「死をも恐れぬ」忠誠の系譜

吉弘統幸の生涯を決定づけたのは、彼個人の資質のみではない。祖父、父、叔父へと連なる一族の歴史そのものが、「大友家への自己犠牲的な忠誠」という一つの主題によって貫かれていた。

統幸の祖父・吉弘鑑理は、主君・大友宗麟の下で「豊後三老」の一人に数えられた宿老であり、その智勇は広く知れ渡っていた 7 。鑑理の存在が、大友家中における吉弘家の不動の地位を築いた。

その嫡男であり、統幸の父である吉弘鎮信もまた、宗麟の側近として筑前方面の戦いや博多の経営で活躍した有能な武将であった 10 。しかし天正6年(1578年)、大友家の命運を賭けた日向・耳川の戦いにおいて、鎮信は奮戦の末に戦死する 11 。この時、統幸はわずか15歳。父の死は、彼に吉弘家の家督と共に、「主家のために死ぬ」という武門の宿命を、痛烈に刻み込む出来事となった。

この「死をも恐れぬ忠誠」の系譜は、さらに続く。鎮信の弟、すなわち統幸の叔父である高橋紹運は、天正14年(1586年)、島津の大軍を前に筑前・岩屋城に籠城し、玉砕を遂げた。その壮絶な最期は、戦国史上屈指の籠城戦として今なお語り継がれている 2 。そして、その紹運の子、統幸の従弟にあたる立花宗茂は、後に「西国無双」と称えられる武将として、その武名を天下に轟かせた 2

これらの事実を個別に捉えるのではなく、一つの連続した物語として見るとき、吉弘一族に流れる血の宿命が浮かび上がってくる。祖父の献身、父の戦死、叔父の玉砕。これらは単なる過去の出来事ではなく、若き統幸にとって、自らが歩むべき道を示す道標であり、武門の家に生まれた者が背負うべき「あるべき姿」として、その精神に深く刻み込まれたはずである。彼の生涯の最後に下される、一見非合理にも見える決断は、この一族の歴史という文脈なくしては、その本質を理解することはできない。それは個人的な選択であると同時に、一族の歴史をその一身に背負った上での、必然的な帰結であったとも言えるのである。

第二部:斜陽の主家と統幸の武勇

大友宗麟の治世後期から、その子・義統の代にかけて、かつて九州六カ国を支配した大友家の威勢には、翳りが見え始めていた。家臣団の離反、宿敵の台頭。この斜陽の時代にあって、吉弘統幸は一人の武将としてその武勇を輝かせ、傾きかけた主家を必死に支え続けた。

第三章:家督相続と試練の始まり

天正6年(1578年)、父・鎮信の死により15歳で家督を相続した統幸の前に、早速大きな試練が訪れる。耳川の戦いでの大敗は、大友家中の結束を著しく揺るがした。この混乱に乗じて、同族である田原親貫が反乱の狼煙を上げる 2

この田原親貫の反乱は、単なる一個人の野心によるものではなく、大友宗麟のキリスト教への過度な傾倒や、それに伴う寺社領の破壊、そして従来の家臣団統制の弛緩といった、大友家が内包していた構造的な問題が噴出した事件であった 12 。まさに主家の存亡に関わる危機的状況であった。

この時、若き当主・統幸は、主君・大友義統の命を受け、ただちに行動を開始する。彼は本拠である屋山城の守りを固め、反乱軍の拠点・鞍懸城の背後を脅かす形で籠城 2 。巧みな用兵で反乱軍の動きを牽制し、その鎮圧に大きく貢献した。この初陣とも言える大舞台で示した忠誠心と卓越した将器は、彼が父や祖父に劣らぬ器であり、傾きかけた大友家にとって不可欠な支柱であることを、家中に強く印象付けたのである。

第四章:天下の舞台での活躍

統幸の武名は、豊後の国に留まらなかった。天正20年(1592年)から始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)において、彼は大友軍の一員として海を渡り、その武勇を天下の舞台で披露する。

数々の戦功の中でも特筆されるのが、明の将軍・李如松の軍旗を奪い取ったという逸話である。この功により、統幸は総大将である豊臣秀吉本人から「無双の槍使い」と賞賛され、武士にとって最高の栄誉の一つである「皆朱の槍(かいしゅのやり)」、すなわち穂先から柄まで全てが朱色に塗られた槍を授かったと伝えられている 1 。これは、彼の武将としての能力が、地方の枠を超え、全国レベルで通用するものであったことを雄弁に物語っている。

しかし、この輝かしい武功は、皮肉な対比を生むことになる。統幸が個人の武勇で誉れを高める一方で、彼の主君である大友義統は、同じ戦役において、友軍である小西行長からの救援要請を無視し、敵前逃亡するという致命的な失態を犯してしまう 1 。有能な家臣の活躍と、力量に欠ける主君の失策。この鮮やかなまでの対照は、統幸の行く末に暗い影を落とすとともに、戦国という時代の非情さ、そして武将が自らの主君を選べないという宿命の悲劇性を象徴している。

第五章:主家改易と流転の日々

主君・大友義統の失態は、許されるものではなかった。文禄2年(1593年)、秀吉の逆鱗に触れた義統は改易を命じられ、鎌倉時代から続いた名門・大友家は、大名としての歴史に一旦幕を下ろす 2 。豊後一国は没収され、義統は幽閉の身となった。

主君の警護役として関東まで供をした統幸もまた、故郷・都甲谷の領地を失い、一介の浪人へと転落する 1 。しかし、彼の武名と人徳は、路頭に迷うことを許さなかった。統幸はまず、豊前中津城主・黒田家の家臣であった井上九郎右衛門(後の井上之房)のもとに身を寄せ、旧交を温めた 1 。その後、筑後柳川13万石の大名となっていた従弟・立花宗茂に客将として招かれ、2,000石の厚遇で迎えられることとなる 2

この流転の日々は、彼の人生における重要な伏線となる。特に、黒田家臣・井上九郎右衛門の世話になったという事実は、単なる一時的な寄食に留まらない。後に天下分け目の戦いの中で、この二人が敵味方として再会し、互いの命を懸けて槍を交えることになるからである。かつての恩義と、武士としての現在の立場。この個人的な関係性が、石垣原での最後の戦いを、単なる戦闘行為から、運命の皮肉が織りなす人間ドラマへと昇華させる。統幸の雌伏の期間は、彼の生涯の最終章を彩る、極めて悲劇的でドラマティックな構図を準備する期間でもあったのだ。

第三部:関ヶ原合戦と最後の忠義

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下を二分する関ヶ原の戦いへと発展した。この巨大な渦は、遠く九州の地にも及び、浪人として雌伏していた吉弘統幸を、その運命の最終局面へと引きずり込んでいく。彼がこの時下した決断は、合理性や損得勘定では到底測ることのできない、自らの「義」を貫くための、最後の忠義であった。

第六章:運命の岐路―義か、理か

関ヶ原の戦いが勃発すると、改易され不遇をかこっていた旧大名たちに、家名再興の好機が訪れた。幽閉を解かれていた旧主・大友義統もその一人であった。西軍の総大将となった毛利輝元は、義統に対し「味方すれば、旧領である豊後一国を安堵する」という破格の条件を提示する 1

この報に接した統幸は、当時江戸にいた義統の嫡男・義乗(よしのり)に合流すべく向かう道中、西軍に与することを決意した義統と再会する。ここで、統幸は主君に対し、生涯で最も激しい諫言を行った。彼は、「大友家を改易に追い込んだ豊臣方(西軍)に味方することは不義であり、むしろ義統様の赦免に尽力された徳川家康公(東軍)に付くことこそが道理である」と、東軍への加担を強く主張した 3 。これは、嫡男・義乗が徳川秀忠に近侍しているという現実的な状況判断も踏まえた、極めて論理的な献策であった 4

しかし、義統の耳にその言葉は届かなかった。旧領回復という甘言、そして一説には大坂にいた側室と庶子が西軍によって人質に取られていたという状況が、彼の判断を曇らせた 15 。主君の決意が覆らないことを悟った統幸は、自らの運命を静かに受け入れた。敗戦を予期しながらも、彼は主君に従い、共に豊後の地へ渡ることを決意する。

その覚悟は、従弟・立花宗茂との別れの逸話に象徴されている。宗茂のもとを辞する際、統幸は自らの太刀を形見として渡し、死を覚悟した別れを告げた。宗茂もまた、その悲壮な決意を汲み取り、自らの差料を贈って、言葉なくしてその門出を見送ったと伝えられている 16 。それは、義によって死地へ赴く者と、それを引き留めることのできない者との、武士としての深い共感と無念が交錯する、静かで厳粛な儀式であった。

第七章:石垣原の戦い―九州の関ヶ原

義統を奉じた大友軍が豊後に上陸すると、九州の情勢は一気に緊迫する。東軍に与した豊前中津城主・黒田如水(官兵衛)は、長年蓄えた金銀を放出して浪人や領民をかき集め、急遽一万にも及ぶ大軍を編成。大友軍の旧領回復を阻止すべく、電光石火の速さで豊後へと進軍した 18 。両軍は、別府湾を望む石垣原の地で対峙することとなる。世に言う「九州の関ヶ原」の火蓋が切られた瞬間であった。

【表1:石垣原の戦い 両軍兵力・布陣比較】

大友軍(西軍)

黒田軍(東軍)

総大将

大友義統

黒田如水

主力武将

吉弘統幸、宗像掃部

井上九郎右衛門、母里友信

兵力

約2,000

約10,000

布陣

立石本陣

実相寺山

出典: 19

兵力差は歴然、実に五倍である。客観的に見れば、大友軍の勝利は万に一つもなかった。しかし、統幸は臆することなく、先陣を切って黒田軍に襲いかかった。彼の奮戦は凄まじく、旧領回復に燃える旧臣たちの士気も相まって、大友軍は緒戦で黒田軍の第一陣、第二陣を立て続けに撃破。一時は黒田軍本陣に迫るほどの勢いを見せた 2 。この戦いで統幸は、一人で三十余りの首級を挙げたと伝えられている 16

だが、衆寡敵せず。続く黒田軍の波状攻撃の前に、大友軍は次第に消耗し、押し返されていく。自らの死を悟った統幸は、その最期の相手として、かつて流浪の身であった自分を匿ってくれた恩人、井上九郎右衛門との一騎討ちに臨んだ。この一騎討ちの結末については、諸説ある。激闘の末に力尽き、討ち取られたとする説。そしてもう一つは、旧知の井上に武士としての手柄を立てさせるため、あるいは自らの死に場所としてこれ以上ない相手と見て、潔く首を差し出したとする説である 1

いずれにせよ、彼は武士として見事な最期を遂げた。その死を前に、彼は一首の辞世を詠んでいる。

明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影 9

(明日の夜、この石垣原で、今日と同じように美しい月光に照らされるのは、いったい誰の骸なのだろうか)

統幸の死によって、大友軍は完全に崩壊。義統は降伏し、大友家再興の夢は、石垣原の露と消えた。

この一連の行動を分析すると、統幸の忠義が、単なる主家への奉仕とは異なる次元にあったことが見えてくる。彼は東軍が有利であり、西軍につくことが非合理的であることを誰よりも理解していた。にもかかわらず、主君の誤った決定に従った。それは「理」よりも「義」を優先した選択である。そして敗戦必至の戦場にあって、彼は最後まで諦めず奮戦し、武士として最も誉れある死に様を求めた。

彼の忠義は、結果として主家を救うこと、すなわち功利的な目的を目指してはいなかった。いかなる状況下でも家臣としての本分を違えず、主君の決定に従い、己の死をもってその責務を全うするという、自己の倫理観と美学を貫徹すること自体に目的があったのではないか。彼の死は、主君への忠誠であると同時に、彼自身の武士道精神の最終的な表現、すなわち「自己完結」であった。その高潔なまでの精神性こそが、敵将黒田如水をして「真の義士」と言わしめた根源なのである。

第四部:後世への影響と人物像の再評価

吉弘統幸の死は、石垣原の戦いを終結させただけでなく、彼の存在を一つの伝説へと昇華させた。その影響は敵味方の垣根を、そして時代の境界をも越えて、現代にまで及んでいる。彼の生き様がどのように受け止められ、評価されてきたかを検証することは、統幸という人物像の核心に迫る上で不可欠である。

第八章:語り継がれる「義士」の伝説

統幸の死後、彼の評価を最も雄弁に物語るのは、敵であった人々からの称賛と顕彰である。

敵からの称賛と顕彰

黒田家の公式な歴史書である『黒田家譜』に、「吉弘統幸がごとき真の義士は、古今たぐいすくなく事なり」と記された一文は、その最たるものである 1 。一族の輝かしい勝利を記録する史書の中に、敵将に対してこれほどの賛辞を贈るのは極めて異例であり、彼の生き様がいかに敵方の武士たちの心を捉えたかを客観的に示している。

さらに驚くべきは、統幸の死後、その墓所に廟を建立したのが、同じく東軍に属し、黒田如水と共に戦った小倉城主・細川家であったという事実である 1 。この廟が、現在の吉弘神社の起源となった。敵味方を超えた顕彰は、統幸が示した「義」が、特定の家への忠誠という枠を超え、当時の武士社会が共有する普遍的な価値観や美意識に深く響いたことの証左に他ならない。

地域伝承と子孫

統幸の故郷である国東半島・都甲谷にも、彼の死を悼む伝説が残されている。彼の菩提寺である金宗院の住職が、命懸けで石垣原から持ち帰った統幸の首を都甲川で洗おうとしたところ、首が突如として目を見開き、「ああ、住職、よしな(もうやめなさい)」と語ったという 1 。以来、その川は「吉名川(よしながわ)」と呼ばれるようになったと伝えられる。この民話は、死してなお威厳を失わない、統幸の峻厳な人物像を象徴している。

彼の血脈は、皮肉な形で存続した。次男の吉弘正久は、父を死に追いやった敵方である細川家に仕官し、その家名を後世に伝えた 24 。吉弘神社の境内に今も残る精巧な石殿は、この正久の縁で細川家が建立したものである。

一方で、統幸が命を捧げた主君・大友義統は、戦後助命されたものの常陸国へ流罪となり、失意のうちにその生涯を終えた 17 。大友家は、嫡男・義乗の系統が徳川幕府の旗本としてかろうじて存続し、後に庶流から養子を迎えることで「高家」として明治維新まで家名を保ったが、大名としての再興はついに叶わなかった 27

第九章:考察―吉弘統幸の「忠義」とは何か

吉弘統幸の生涯は、「忠義」という概念の多層性と複雑さを我々に突きつける。彼の行動を理解するために、他の著名な忠臣たちと比較し、その独自性を浮き彫りにすることが有効である。

諫言と服従の二律背反

江戸時代の武士の心得を説いた『葉隠』は、「奉公の至極は、主に諌言して、国家治むる事也」と述べ、主君の過ちを正す諫言こそが最高の忠義であると説いている 30 。この点において、統幸は確かに主君・義統に西軍参加の非を説き、諫言の務めを果たした。しかし、それが受け入れられないと知るや、彼はその誤った道に、自らの命を賭して従った。これは、「諫言する忠義」と「殉じる忠義」という、二つの異なる忠義の形態が、一人の武将の中で矛盾なく(あるいは悲劇的に)共存した稀有な例と言える。

比較対象としての忠臣たち

  • 山中幸盛(鹿介) : 滅亡した主家・尼子氏の再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈り、織田信長など外部の勢力を積極的に利用して戦い続けた 32 。彼の忠義は「主家再興」という明確な目的達成に向けられた、能動的で戦略的なものであった。
  • 遠藤直経 : 姉川の戦いで主君・浅井長政の敗色が濃くなると、敵兵を装って敵総大将・織田信長の本陣に単騎で突入し、討ち死にした 35 。彼の忠義は、主君を救うという一点に集約された、極めて自己犠牲的なものであった。

統幸の独自性

吉弘統幸の忠義は、幸盛のように戦略的でもなければ、直経のように純粋な救出目的でもない。彼は、主君の判断の誤りを明確に認識した上で、その「主君の決定に従う」という行為自体を、家臣が守るべき絶対の「義」とした。これは、主君と家臣という身分秩序そのものへの、ある種、絶対的で悲劇的なまでの誠実さの表れである。

ここに、戦国武将が直面する根源的なパラドクスが浮かび上がる。武士にとって、自らの「家」を存続させることは、何よりも優先されるべき至上命題であった 37 。しかし同時に、主君への「忠義」もまた、武士の美学を構成する絶対的な価値観であった 38 。統幸が下した、敗戦必至の主君に従うという選択は、客観的に見れば吉弘家の当主として「家の存続」を危うくする行動に他ならない。

彼は、この二つの価値観が両立し得ない究極の状況に立たされた時、迷いなく後者を選んだ。すなわち、「家」の当主としての実利よりも、「一個の武士」としての美学を優先したのである。この悲劇的な選択こそが、結果として敵方からも「見事な最期」「真の義士」と称賛される理由となった。彼は「家の当主」としては失敗したかもしれないが、「武士」としてはその理想を完璧に体現してみせた。この逆説的な構造こそが、吉弘統幸の物語の核心であり、四百年後の我々の心をも惹きつけてやまない魅力の源泉なのである。

結論:敗軍の将、輝ける魂

吉弘統幸の生涯を詳細に追跡してきた結果、彼が体現した「忠義」は、決して盲目的な滅私奉公ではなかったことが明らかになる。それは、自らが生まれ育った武門の家風、深く帰依した仏教的死生観、そして戦国乱世の只中で磨き上げられた彼自身の美学に根差した、極めて主体的で高潔な精神の発露であった。

彼は、主君の判断が論理的に誤っていることを喝破し、家臣としての諫言の義務を果たした。しかし、その進言が退けられた時、彼は自らの論理を押し通すのではなく、主君の決定という、彼が仕えるべき秩序そのものに身を委ねた。それは、敗北と死を予期した上での、覚悟の選択であった。石垣原での彼の奮戦と壮絶な最期は、勝利を目指すための戦いではなく、自らが信じる「武士としてのあるべき姿」を、その死をもって完成させるための、最後の儀式であったと言えよう。

結果や勝敗のみが評価されがちな現代社会において、吉弘統幸の生き様は、我々に根源的な問いを投げかける。「いかに生き、いかに自らの信条を貫くか」。彼は、自らの命と引き換えに、その問いに対する一つの崇高な答えを示した。だからこそ、彼は単なる敗軍の将として歴史の闇に消えることなく、その魂は「真の義士」として、四百年の時を超えてなお、色褪せることのない輝きを放ち続けているのである。

付録:関連史跡探訪

吉弘統幸の生涯と、彼が貫いた「義」の精神は、今なお大分県の各地に残る史跡を通して感じることができる。

吉弘神社(大分県別府市石垣西)

統幸の御霊を祀る中心的な場所。石垣原の戦いの後、敵であった細川家によって建立された廟が起源とされ、後に末裔や地元の人々によって神社として整備された 24 。境内には、細川家が建立したとされる、統幸の家紋と細川家の九曜紋が刻まれた石殿や、統幸の墓とされる板碑が安置されている 24 。また、墓所の側に植えられた松の前を乗馬したまま通ると必ず落馬するという「下馬の松」の伝説も残る 24

  • アクセス : JR別府駅より車で約7-10分。路線バス(亀の井バス、大分交通)を利用し、「吉弘神社前」または「鶴見病院東口」バス停で下車 41

石垣原古戦場跡(大分県別府市)

「九州の関ヶ原」の舞台となった場所。現在は住宅地となっているが、各所に戦いの痕跡を伝える碑や案内板が点在している 18

  • 大友義統本陣跡 : 統幸が最後の別れを告げたであろう大友軍の本陣跡。観海寺温泉西方の高台に石碑が立つ 40
  • 黒田如水本陣跡 : 実相寺山の麓、鶴見地区の公園内に石碑がある 40
  • 吉弘統幸陣所跡・七ツ石 : 統幸が陣を構え、激戦が繰り広げられた場所。七ツ石稲荷神社として祀られている 1

    これらの史跡を巡ることで、両軍の布陣や戦いの激しさを体感することができる。

金宗院跡と吉名川(大分県豊後高田市都甲町)

統幸の故郷であり、吉弘氏の菩提寺であった金宗院の跡地。統幸の墓所と、父・鎮信のものとされる国東塔が静かに佇んでいる 45 。すぐそばを流れる川が、統幸の首が「よしな」と語ったという伝説の舞台、「吉名川(よしながわ)」である 25 。故郷の地が、彼の悲劇を今に伝えている。

筧城跡(大分県豊後高田市都甲町)

統幸が生誕した地と伝えられる吉弘氏の居館跡 46 。旱魃に苦しむ領民のために、吉弘氏が筧(かけひ)で水を引き、人々から慕われたという逸話も残る 46 。現在は地域住民の手によって案内石碑が建てられ、その歴史を伝えている。統幸の原点とも言える場所である。

引用文献

  1. 都甲谷が生んだ勇将・吉弘統幸について - 鬼が仏になった里くにさき https://www.onie.jp/topics/detail/4863b0f3-ca3c-4356-ad23-f7cd429b77c4
  2. 豊後高田市で活躍した戦国武将・吉弘統幸について - 文化財室 https://www.city.bungotakada.oita.jp/site/bunkazai/1988.html
  3. 吉弘統幸(よしひろむねゆき)『信長の野望・創造PK』武将データ http://hima.que.ne.jp/souzou/souzouPK_data_d.cgi?equal1=7703
  4. 大友戦記 石垣原の合戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/story13.html
  5. 武家家伝_吉弘氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yosihiro.html
  6. 吉弘嘉兵衛統幸について - 別府市 http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=60
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  38. 第三章 武士道における美意識 | 美しい日本 https://utsukushii-nihon.themedia.jp/pages/715194/page_201611041521
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  41. 吉弘神社 | 忠義を貫いた豊後最強の武将 吉弘統幸公をお祀りしております https://yoshihirojinja.com/
  42. 吉弘神社(よしひろじんじゃ) | 日本一の「おんせん県」大分県の観光情報公式サイト https://www.visit-oita.jp/spots/detail/6459
  43. 別府駅前(大分県)→吉弘神社前 - 石垣線[亀の井バス] - NAVITIME https://www.navitime.co.jp/bus/diagram/timelist?departure=00083459&arrival=00253914&line=00079444
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  45. 【統幸公ゆかりの地・其の一】金宗院跡 - 豊後高田市ホームページ https://www.city.bungotakada.oita.jp/soshiki/5/2034.html
  46. 【統幸公ゆかりの地・其の二】筧城(吉弘氏館)跡 伝承地 - 豊後高田市 https://www.city.bungotakada.oita.jp/soshiki/5/2035.html