吉田康俊は長宗我部氏の忠臣。父の死後家督を継ぎ、四国統一戦や戸次川の戦いで活躍。長宗我部家改易後も盛親に忠義を尽くし、大坂の陣で奮戦した。
吉田康俊(よしだ やすとし、1565年 - 1634年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を生きた武将である 1 。彼の生涯は、主家である長宗我部氏の興隆と栄光、そして関ヶ原の戦いを経ての没落と滅亡という、歴史の大きなうねりと分かち難く結びついている。康俊は単なる一介の武将ではない。彼は、主家への揺るぎない忠誠と、武士としての矜持を胸に、戦国の終焉という時代の転換点に立ち向かった。その波乱に満ちた生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての武士の生き様、価値観、そして苦悩を色濃く映し出している。
本報告書は、吉田康俊という一人の武将の生涯を徹底的に追跡し、その行動原理の根底にあったものは何か、彼は時代の変化にどう向き合い、どのような選択を下したのかを解き明かすことを目的とする。彼の物語を通じて、戦国という時代の終焉を生きた武士のリアルな姿を浮き彫りにする。
吉田康俊の人物像を理解するためには、彼が背負っていた一族の歴史と名誉をまず知る必要がある。彼の忠誠心と武勇は、一朝一夕に形成されたものではなく、代々受け継がれてきた武門の血と誉れに深く根差していた。
土佐吉田氏は、その出自を藤原北家秀郷流を称する相模国の名門、山内首藤氏に持つ 1 。鎌倉時代初期、山内首藤俊通の子である俊宗が、足利尊氏に従って戦功を挙げ、その恩賞として土佐国に所領を得たことが、この一族の土佐における歴史の始まりであった 1 。その後、長岡郡吉田の地に拠点を構え、土佐の有力な国人領主として根を下ろしていった 4 。
吉田康俊の直系の先祖たちは、長宗我部家の躍進において不可欠な役割を果たした名将揃いであった。
康俊の曾祖父にあたる吉田重俊は、長宗我部国親・元親の二代にわたって仕えた重臣であり、その智勇兼備から「大備後」と称された人物である 2 。特に元親の土佐平定事業においては、その智謀が遺憾なく発揮された。永禄12年(1569年)の安芸国虎討伐戦では、奇計を用いて安芸軍を敗走させ、さらに籠城した安芸城に対しては巧みな計略をもって内部崩壊へと導き、安芸氏滅亡の決定的な要因を作り出した 2 。重俊の活躍なくして、元親の土佐統一は成し得なかったと言っても過言ではなく、吉田家が長宗我部家中でいかに重要な戦略的地位を占めていたかがうかがえる。
祖父の吉田重康もまた、武勇に優れた将として知られる 1 。上夜須城主であった重康は、本山氏攻めで功績を挙げたほか、永禄6年(1563年)に安芸国虎が5000の大軍を率いて元親の居城・岡豊城に攻め寄せた際には、見事にこれを撃退し、主家の危機を救った 7 。軍記物語『土佐物語』には、重康が城を留守にしている隙を突いて敵が攻めてきた際、その妻が城内の女中たちに甲冑を着せて兵がいるように見せかけ、敵軍を欺いて撤退させたという逸話も残されており、一族の武辺が多角的に語り継がれている 7 。
そして康俊の父である吉田孝俊も、父祖に劣らぬ忠臣であった 1 。元親の四国統一戦の主要な合戦に従軍し、天正10年(1582年)の中富川の戦いで壮絶な戦死を遂げるまで、その生涯を長宗我部家に捧げた 1 。
このように、吉田康俊は、智勇に優れ、主家への忠誠を貫いた輝かしい先祖を持つ一族の継承者であった。曾祖父・重俊の「智」、祖父・重康の「勇」、父・孝俊の「忠」。これらの資質は、康俊の行動原理を形成する上で極めて重要な精神的基盤となった。彼の生涯を通じて見られる数々の戦場での働きや、窮地における主君への忠節は、単なる個人的な感情の発露ではなく、一族の名誉を背負い、先祖代々受け継がれてきた役割を全うしようとする強い意志の表れと解釈できる。彼の物語は、一個人の記録であると同時に、戦国を生き抜いた武門一族の物語でもあるのだ。
吉田康俊の武将としてのキャリアは、長宗我部元親が四国統一へと突き進む、まさにその渦中で始まった。彼は数々の戦場で武功を立て、若くして頭角を現していく。
康俊が初めて戦場の土を踏んだのは、天正7年(1579年)、15歳の時であった。阿波国(現在の徳島県)の重清城・岩倉城攻めが彼の初陣となった 1 。この戦役における小松島の戦いでは、早くもその武勇を示す逸話を残している。同輩の桑名親勝が敵に囲まれ危機に陥った際、康俊は果敢に救援に駆けつけ、親勝を救出した 1 。通説では、この時に康俊自身も腕を斬られる重傷を負いながらも、怯むことなく奮戦したと伝えられている 1 。この若き日の武功は、彼の武将としての将来を予感させるものであった。
天正10年(1582年)、長宗我部氏の阿波平定における最大の決戦、中富川の戦いが勃発する 12 。この戦いで康俊は、従兄弟の吉田政重と共に元親の旗本として戦い、戦功を挙げた 1 。しかし、この勝利は大きな代償を伴うものであった。父・吉田孝俊がこの戦いで討死したのである 1 。父の死により、康俊は18歳という若さで吉田家の家督と、土佐東部の要衝である甲浦城を継承することになった 1 。その後、その器量と一族の実績を認められ、安芸郡の軍事を統括する「安芸郡惣軍代」という要職に就任しており、若くして元親から絶大な信頼を寄せられていたことがわかる 1 。
天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉が、10万を超える大軍を四国へ差し向けた 14 。四国をほぼ手中に収めていた長宗我部元親も、この圧倒的な物量の前には抗う術がなかった。この国家存亡の危機において、康俊は阿波方面の重要拠点である渭山城(現在の徳島城)の守将という重責を任された 1 。
この時の逸話が『土佐物語』に記されている。秀吉軍の猛攻により木津城が早々に陥落すると、海部城を守っていた元親の弟・香宗我部親泰は戦わずして城を放棄し、土佐へ撤退した。親泰は康俊に援軍を要請していたが、その親泰がすでに逃げ去ったとは露知らず、康俊は渭山城を引き払って海部城へ救援に向かった。しかし、城はもぬけの殻。これを見た康俊は「親泰め、逃げおったな」と激しく憤り、城内にうち捨てられていた鎧や太刀、旗指物などを残らず回収して土佐へ帰還したという 1 。この逸話は、康俊の実直で激情家な一面を伝えるとともに、秀吉軍の圧倒的な力の前に、長宗我部家中の足並みが乱れ、将帥の間にも動揺や不信感が広がっていた当時の切迫した状況を象徴している。
秀吉に降伏し、土佐一国を安堵された長宗我部家は、豊臣政権下の一大名として九州征伐に従軍する。しかし天正14年(1586年)、豊後戸次川の戦いで軍監・仙石秀久の無謀な作戦により、島津軍の罠にはまり壊滅的な敗北を喫する。この戦いで、元親が最も期待をかけていた嫡男・信親が討死。長宗我部軍は総崩れとなった。主君・元親も命の危険に晒されるが、この絶体絶命の窮地において、康俊は他の家臣らと共に必死に元親を護衛し、無事に土佐まで送り届けるという大任を果たした 1 。
信親の死は、長宗我部家中に深刻な亀裂を生んだ。元親は次男・香川親和、三男・津野親忠を差し置いて、溺愛する四男・盛親を後継者に指名した。この決定に対し、多くの重臣が反対の意を唱えたが、その筆頭が吉良親実であった 16 。
康俊は、この盛親反対派の吉良親実と非常に親しい間柄であった 1 。その背景には、康俊の母と親実の母が姉妹であり、二人が従兄弟同士であったという血縁関係がある 9 。康俊の行動は、単なる派閥争いへの加担ではなく、主家の将来を憂い、序列や器量を重んじる立場からの是々非々の精神に基づくものだったと考えられる。しかし、結果としてこの立場が仇となる。親実が元親の命により切腹させられると、康俊も連座する形で甲浦城を召し上げられ、蟄居処分に追い込まれた 1 。
しかし、彼の武将としての能力は埋もれたままではなかった。やがて許された康俊は、小田原征伐、そして文禄の役(朝鮮出兵)に従軍。特に晋州城攻めでは戦功を挙げており、その実力をもって家中で再び名誉を回復した 1 。この一連の経緯は、彼の忠誠が特定の個人(盛親)への好悪を超え、あくまで「長宗我部家」そのものに向けられていたことを示唆している。処分には潔く従い、再び戦場で功を立てることで自らの存在価値を示す。その姿は、戦国武士の複雑な倫理観を体現している。
表1:吉田康俊 詳細年表
和暦 |
西暦 |
康俊の年齢 |
主な出来事(吉田康俊関連) |
関連する歴史的出来事(長宗我部家・日本史全般) |
永禄8年 |
1565年 |
0歳 |
吉田孝俊の子として土佐に誕生 1 。 |
- |
天正7年 |
1579年 |
15歳 |
阿波の重清城・岩倉城攻めで初陣。小松島の戦いで武功を立てる 1 。 |
長宗我部元親、四国統一戦を本格化。 |
天正10年 |
1582年 |
18歳 |
中富川の戦いで戦功を挙げるも、父・孝俊が戦死。家督と甲浦城を継承 1 。 |
本能寺の変。長宗我部元親、阿波を平定。 |
天正13年 |
1585年 |
21歳 |
豊臣秀吉の四国攻めで渭山城(徳島城)を守備。長宗我部家は秀吉に降伏 1 。 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
天正14年 |
1586年 |
22歳 |
九州征伐に従軍。戸次川の戦いで敗走する元親を護衛し帰還させる 1 。 |
長宗我部信親、戸次川で戦死。 |
天正16年頃 |
1588年頃 |
24歳頃 |
後嗣問題で吉良親実に同調したため、甲浦城を没収され蟄居処分となる 1 。 |
元親、四男・盛親を後継者に指名。吉良親実ら粛清。 |
文禄元年 |
1592年 |
28歳 |
許され、文禄の役(朝鮮出兵)に従軍。晋州の戦いで戦功を挙げる 1 。 |
豊臣秀吉、朝鮮に出兵。 |
慶長4年 |
1599年 |
35歳 |
長宗我部元親が死去。盛親に仕える 1 。 |
- |
慶長5年 |
1600年 |
36歳 |
関ヶ原の戦いに西軍として参陣。敗走後、盛親の謝罪行に随行。長宗我部家改易 1 。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。 |
慶長5-6年 |
1600-01年 |
36-37歳 |
山内一豊に仕えるが、浦戸一揆の大将との讒言を受け土佐を退去。大和へ隠棲 1 。 |
浦戸一揆発生。山内一豊が土佐に入国。 |
慶長19年 |
1614年 |
50歳 |
大坂冬の陣。旧主・盛親の招きに応じ、大坂城に入城。「右近」と改名 1 。 |
大坂冬の陣が勃発。 |
元和元年 |
1615年 |
51歳 |
大坂夏の陣。八尾・若江の戦いで奮戦。大坂城落城後、松平忠明に仕える 1 。 |
大坂夏の陣。豊臣家滅亡。長宗我部盛親、斬首。 |
寛永11年 |
1634年 |
69歳 |
3月29日、仕官先の姫路にて死去 1 。 |
徳川家光の治世。 |
元親の死後、康俊は正式な当主となった長宗我部盛親に仕える。しかし、時代の奔流は長宗我部家に過酷な運命をもたらし、康俊もまたその渦中に飲み込まれていく。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。主君・盛親は西軍に与することを決断し、康俊もそれに従って出陣した 9 。長宗我部軍は南宮山に布陣したが、前面に陣取る毛利秀元や吉川広家らが徳川方に内通して動かなかったため、戦闘に参加することなく西軍の敗北を迎えることとなった 9 。
康俊は、敗走する盛親を護衛して命からがら土佐へ帰国。その後、盛親が徳川家康へ謝罪するために上洛した際にも、忠実に付き従った 1 。軍記『南路志』によれば、この上洛の道中、家康からの討手が来るとの噂が広まり、多くの家臣たちが盛親を見捨てて逃げ出す中、康俊は江村孫左衛門などごく少数の者たちと共に、最後まで盛親の側に留まり続けたという 1 。この逸話は、康俊の忠誠心の篤さを如実に物語っている。しかし、彼らの必死の謝罪も虚しく、盛親が兄・津野親忠を殺害したことなども咎められ、長宗我部家は所領である土佐一国を没収、改易という最も厳しい処分を下された 1 。
主家が改易され、多くの家臣が浪々の身となる中、康俊は土佐に留まり、新たな領主として入国した山内一豊に仕えるという道を選んだ 1 。これは、彼の武将としての名声と能力が、新領主である山内家からも高く評価されていたことを示している。しかし、彼の土佐での平穏は長くは続かなかった。
関ヶ原の戦いの直後、浦戸城の明け渡しを拒んだ長宗我部旧臣たちが蜂起する「浦戸一揆」が発生した 23 。この混乱の中、康俊は「一揆の大将である」という根も葉もない讒言を受けることになる 1 。これは極めて不可解な告発であった。なぜなら、史料によれば、康俊自身はこの一揆の鎮圧に山内方として参加し、手負いの味方を助けるなどの働きを見せていたからである 9 。
この讒言事件の背景には、新旧支配者の交代劇が生んだ根深い対立構造があったと考えられる。新領主の山内家にとって、長宗我部旧臣、とりわけ康俊のように武名と人望を兼ね備えた重臣は、体制が安定しない中では潜在的な脅威であった 24 。山内家は、長宗我部時代からの在地勢力である「一領具足」を郷士という下級武士の身分に押し込め、厳しい差別政策を敷くことで支配を確立しようとしており、旧臣たちの不満は渦巻いていた 24 。康俊が一揆に直接関与していなくとも、彼が不満を持つ旧臣たちの「精神的支柱」と見なされる危険性は十分にあり、山内家にとってはその存在自体が厄介であった。
結果として、この讒言は山内家にとって旧勢力の有力者を排除する格好の口実となった可能性が高い。康俊は弁明の末に死罪こそ免れたものの、もはや土佐に居場所はなく、故郷を追われる形で大和国(現在の奈良県)へと隠棲することを余儀なくされた 1 。この一件は、単なる個人的な中傷ではなく、新政権が旧勢力を排除し、支配を盤石なものにしていく過程で起こった政治的な粛清であり、時代の転換期に生きた有力な旧臣が、その実力と影響力ゆえに新支配者から危険視され、排除されるという悲劇の典型例であった。
大和での隠棲生活は、康俊にとって武士としての人生の終わりを意味するはずだった。しかし、時代の最後の激動が、彼に再び戦場へ立つことを求めた。
慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立が頂点に達し、大坂の陣が勃発する。豊臣秀頼の呼びかけに応じ、全国から浪人が大坂城に集結した。その中には、改易後に京都で蟄居していた康俊の旧主・長宗我部盛親もいた。盛親からの招きを受け、大和で静かに暮らしていた康俊は、迷うことなく立ち上がった。息子たちを伴い、滅びゆく主家への最後の奉公を果たすため、大坂城へと馳せ参じたのである 1 。
この時、康俊は長年用いてきた通称「孫左衛門」を「右近」へと改めている 1 。これは単なる心機一転ではない。土佐での栄光も、山内家から受けた屈辱も、全てを清算し、一人の武士「吉田右近」として、純粋な忠義のために命を懸けるという、決死の覚悟の表れであった。勝ち目の薄い戦であることは百も承知の上で、恩義ある主家と運命を共にし、武士としての死に場所を求める。それこそが、彼が選んだ道であった。
大坂冬の陣において、長宗我部勢は真田信繁(幸村)が守る最強の出城「真田丸」の攻防戦で重要な役割を担った。慶長19年12月4日、徳川方の井伊直孝・松平忠直の軍勢が真田丸に殺到した。これは、城内の火薬庫が事故で爆発したのを、内応を約束していた徳川方の南条元忠が寝返った合図だと誤認したためであった。長宗我部勢は、この予期せぬ敵の突撃に対し、真田勢と連携して猛然と応戦。敵に甚大な損害を与え、見事撃退した 1 。この戦いでは、康俊の従兄弟である吉田政重も大いに奮戦したと記録されている 1 。
和議が破れ、元和元年(1615年)5月、大坂夏の陣が始まる。豊臣方は乾坤一擲の賭けとして、大坂城を出て徳川家康の本陣を奇襲する作戦を立てた。5月6日未明、長宗我部盛親率いる部隊は、木村重成隊と共に河内方面へ出撃。八尾(現在の大阪府八尾市)において、徳川方の先鋒である藤堂高虎の軍勢と激突した 1 。
この八尾・若江の戦いは、大坂の陣の中でも屈指の激戦となった。長宗我部隊の先鋒を務めたのは、康俊の一族である吉田重親であった。重親は奮戦するも、兵力に勝る藤堂勢の猛攻を受け、息子の重隆と共に討死を遂げた 1 。先鋒壊滅の報を受けた盛親の本隊は、長瀬川の堤防に兵を伏せる巧みな戦術で藤堂勢を誘い込み、一時は藤堂高刑らを討ち取るなど、敵先鋒を壊滅させるほどの戦果を挙げた 28 。康俊もこの激戦の中で、主君と共に槍を振るった。しかし、北の若江方面で戦っていた友軍の木村重成隊が井伊直孝らの軍に敗れ壊滅したとの報が届く。敵中で孤立することを恐れた盛親は、勝利を目前にしながらも、断腸の思いで大坂城への撤退を決断した 28 。
八尾・若江の戦いで主力を消耗した豊臣方は、翌日の天王寺・岡山での最終決戦に敗れ、ついに大坂城は落城した。盛親は城を脱出して潜伏するも、やがて蜂須賀氏の家臣に捕縛される。そして5月15日、京都の六条河原において斬首された 1 。享年41。ここに、土佐の雄・長宗我部氏は名実ともに滅亡した。康俊の最後の奉公は、主家の再興という形では実を結ばなかった。
表2:吉田康俊 関係人物一覧
人物名 |
康俊との関係 |
人物の概要と康俊の生涯における重要性 |
主な関連史料・逸話 |
長宗我部元親 |
主君 |
土佐を統一し四国を制覇した戦国大名。康俊の武将としてのキャリアは元親の下で形成された。康俊は元親の窮地を幾度も救っている。 |
『土佐物語』、『元親記』など多数。戸次川の敗走を護衛した 1 。 |
長宗我部盛親 |
主君 |
元親の四男で最後の当主。康俊は盛親の家督相続に反対する派閥に近かったが、最終的には盛親に忠誠を尽くし、大坂の陣で共に戦った。 |
関ヶ原敗走と謝罪行に随行 1 。大坂の陣で再会し、共に戦う 1 。 |
吉田重俊 |
曾祖父 |
「大備後」と称された智将。元親の土佐統一に大きく貢献。康俊が受け継いだ「吉田家」の名声を確立した人物。 |
安芸国虎討伐戦での計略が有名 2 。 |
吉田重康 |
祖父 |
武勇に優れた将。康俊に武門の血を伝えた。 |
本山氏攻めや岡豊城防衛で活躍 7 。 |
吉田孝俊 |
父 |
康俊の直接の先代。中富川の戦いで戦死し、康俊が家督を継ぐきっかけとなった。 |
中富川の戦いで討死 1 。 |
吉良親実 |
従兄弟 |
長宗我部氏の重臣。盛親の家督相続に反対し粛清される。康俊は親実と親しかったため、連座して蟄居処分となった。康俊の政治的立場を決定づけた人物。 |
康俊の母と親実の母が姉妹 9 。康俊は親実との関係で処分された 1 。 |
吉田重親 |
一族 |
長宗我部家臣。大坂夏の陣・八尾の戦いで長宗我部隊の先鋒を務め、奮戦の末に戦死した。康俊の一族が最後まで忠義を貫いたことを示す。 |
八尾の戦いで先鋒として戦死 1 。 |
山内一豊 |
新領主 |
長宗我部家改易後の土佐の新領主。康俊は一時仕えるが、讒言により追放される。時代の転換を象徴する人物。 |
康俊を一時召し抱えるが、浦戸一揆の讒言を機に追放 1 。 |
松平忠明 |
最後の大坂落城後の主君 |
徳川家康の外孫で幕府の重鎮。大坂城落城後、敵方であった康俊を家臣として召し抱えた。康俊の武士としての価値が敵方にも認められていたことを示す。 |
大坂落城後、康俊を召し抱え、姫路藩士とした 1 。 |
大坂城の炎と共に、戦国の世は完全に終わりを告げた。主君を失い、豊臣方も滅亡した。多くの将兵が命を落とすか、あるいは厳しい追及を受ける中、吉田康俊は意外な道を歩むことになる。
大坂城落城後、多くの豊臣方武将が処刑、あるいは浪人として潜伏生活を余儀なくされる中、康俊は徳川家康の外孫であり、大坂城主代として戦後処理を任されていた幕府の重鎮、松平忠明に召し抱えられるという異例の待遇を受けた 1 。
忠明が康俊を召し抱えた理由は、史料に明記されてはいない。しかし、その背景を考察することは可能である。第一に、康俊が安芸郡惣軍代や城主を歴任し、数多の合戦を経験した歴戦の将として、その軍事・統治に関する実務能力が高く評価された可能性が挙げられる。江戸時代初期は、まだ統治体制を固める上で、実戦経験豊富な武士の知見は価値が高かった。第二に、彼の忠誠心そのものが評価された可能性もある。敵方であったとはいえ、滅びゆく旧主のために命を懸けて最後まで戦い抜いた康俊の姿は、同じ武士である忠明にとって、敬意を払うべき徳目と映ったのかもしれない。忠臣を厚遇することは、自らの家臣団に対する範を示す意味でも有効であった。
いずれにせよ、康俊の仕官は、彼の武士としての能力と人格が、敵であった徳川方にも認められていたことの証左と言える。その後、康俊は忠明の転封に伴って姫路(現在の兵庫県姫路市)へ移り住み、姫路藩士として静かな余生を送った 1 。そして寛永11年(1634年)3月29日、波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。享年69であった 1 。
康俊には六男三女がいたと伝わっており、息子たちも大坂の陣に参加したとされるが、その後の詳細な足跡は不明な点が多い 1 。
長宗我部家の滅亡後、土佐の名門であった吉田一族もまた、離散の道を歩んだ。康俊のように姫路藩に仕えた者、土佐に残り新領主・山内家に仕官した者、あるいは武士を捨てて医師になった者など、それぞれが新たな時代を生き抜くための道を選んだ 19 。
特筆すべきは、康俊の同族で、山内家に仕えた吉田正義の系統から、幕末の土佐藩で参政として藩政改革を主導した傑物・吉田東洋が出ていることである 19 。これは、吉田一族が戦国時代の終焉後もその血脈を保ち、日本の歴史が大きく動く幕末期に至るまで、土佐の地で重要な役割を果たし続けたことを示している。康俊の生きた時代は終わっても、吉田家の歴史は続いていったのである。
吉田康俊の生涯は、一人の武士の物語であると同時に、戦国という時代が終焉し、江戸という新たな秩序が形成されていく過渡期の縮図でもある。彼は、長宗我部家の栄光を支えた名臣であり、その滅亡に殉じようとした忠臣であり、そして戦乱の世を生き抜き新時代に適応した現実的な武士でもあった。
彼の行動原理の根底には、常に主家への「忠誠」があった。しかしその忠誠は、決して盲従ではなかった。後嗣問題で見せた是々非々の態度は、主家の将来を真に案ずるが故の行動であった。関ヶ原の戦い後、多くの家臣が離散する中で最後まで主君に付き従い、大坂の陣では勝ち目のない戦と知りながらも旧恩に報いるために馳せ参じた姿は、武士としての美学と純粋な忠義の発露であった。
一方で、土佐を追われた後の彼の選択は、武士としての矜持と、現実を生き抜くためのしたたかさを示している。大坂城落城後、彼は潔く死を選ぶのではなく、新たな主君に仕える道を選んだ。そして、その能力と人格が敵方であった松平忠明に認められたという事実は、彼の生涯が単なる「敗者の物語」で終わらなかったことを示している。いかなる状況下でも、彼は武士としての価値を失わなかったのである。
吉田康俊の生涯は、地方の有力戦国大名に仕えた重臣が、中央集権化の巨大な波と主家の没落という抗いがたい激動の中で、いかに生き、いかに武士としての誇りを保とうとしたかを示す、極めて貴重な事例である。彼の生き様は、戦国から江戸へと移行する時代における武士の価値観、忠誠のあり方、そして生き残りのための選択を、後世に鮮やかに伝えている。