長宗我部元親の甥にして婿、そして一門の重鎮でありながら、非業の最期を遂げた武将、吉良親実(きら ちかざね) 1 。彼の生涯は、長宗我部氏の栄光と衰退を象徴する悲劇として、土佐の地に深く刻まれている。主君の過ちを正そうとした忠義の諫言が、逆に自らの命を絶つ刃となった物語は、多くの人々の心を捉えてきた。
本報告書は、親実を単なるお家騒動の犠牲者として描くにとどめず、戦国大名家の権力構造が変質する過渡期に生きた一人の武士の苦悩と、その死が後世に与えた文化的・宗教的インパクトを多角的に解明することを目的とする。広く知られる親実の物語は、主に江戸時代に成立した軍記物『土佐物語』に依拠しているが、近年の研究では一次史料との比較から、その記述には作者の意図や文学的脚色が含まれていることが指摘されている 3 。本報告では、これらの史実と伝説を丹念に峻別し、吉良親実という人物の多面的な実像に迫るものである。
吉良親実という人物を理解するためには、まず彼が背負った「吉良」という名跡の歴史的背景を掘り下げる必要がある。それは、土佐における名門の誉れと、長宗我部氏の戦略が交差する点に位置づけられる。
土佐吉良氏は、源頼朝の異母弟である源希義(みなもとのまれよし)を祖とすると伝えられる、由緒ある家系であった 2 。戦国時代には土佐国吾川郡(あがわぐん)を拠点とし、本山氏や安芸氏などと並び「土佐七雄」の一角を占める有力な国人領主としてその名を馳せた 6 。
吉良氏が特筆されるのは、その武威のみならず、文化的功績にもある。時の当主・吉良宣経(きらのぶつね)は、周防国から儒学者の南村梅軒(みなみむらばいけん)を招聘し、これが土佐における朱子学の一派「南学(なんがく)」の礎を築いたとされる 6 。この事実は、吉良氏が単なる武辺一辺倒の豪族ではなく、京の文化にも通じた高い見識を持つ一族であったことを物語っている。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。天文9年(1540年)、北から勢力を伸ばしてきた本山茂辰(もとやましげたつ)の奇襲を受け、当主・吉良宣直(きらのぶなお)は仁淀川のほとりで討死。これにより、土佐の名門吉良氏は一度、歴史の表舞台から姿を消すこととなる 6 。
その本山氏を破り、土佐中央部を平定したのが長宗我部元親であった。元親は永禄6年(1563年)、実弟の長宗我部親貞(ちょうそかべちかさだ)に、滅亡した吉良氏の名跡を継がせた 6 。親貞は、討死した吉良宣直の娘を正室に迎え、婿養子という形で吉良城主となったのである 11 。
これは、単なる領土支配の安定化策にとどまるものではない。元親にとって、この名跡継承は高度な政治的意図を含んだ戦略であった。文化的権威(南学の祖)と歴史的正統性(源氏の名門)を併せ持つ「吉良」という名を長宗我部一門に組み込むことで、新興勢力である長宗我部氏の支配を権威づけ、正当化する狙いがあった。武力による制圧だけでなく、現地の権威と伝統を巧みに取り込む「養子外交」の一環であり、長宗我部氏の支配体制を盤石にするための布石であった 12 。
吉良親実は、永禄6年(1563年)、この吉良親貞の嫡男として生を受けた 1 。彼は、長宗我部一門の血と、土佐の名門たる吉良氏の歴史的権威という二重のアイデンティティを一身に背負う存在となった。この出自こそが、後の彼の強い使命感や、筋を通そうとする剛直な行動原理を形成したと考えられる。
父・親貞は元親の片腕として一条氏討伐などで目覚ましい軍功を挙げたが、天正4年(1576年)に病死し、親実は若くして家督を継承した 11 。さらに親実は、伯父である元親の娘を妻に迎えており、元親から見れば「甥」であると同時に「婿」という、極めて近しい関係にあった 2 。これにより、親実は長宗我部一門衆の中でも突出した発言力と影響力を持つ重鎮として、その地位を確立していったのである。
四国統一へと突き進む長宗我部家において、吉良親実は一門の筆頭として重きをなした。しかし、その急激な勢力拡大は、家臣団の内部構造に静かな、しかし深刻な変化をもたらしつつあった。
後世の軍記物において、親実は高く評価されている。『土佐物語』は彼を「文武共に精しく才力世に高し」と称賛し 15 、戦略に長けた将であったと記す 1 。また、僧・如淵(じょえん)に師事して儒学にも通じていたとされ、これは土佐吉良氏が育んだ南学の伝統を継承していたことを示唆している 1 。
一方で、その性格は「気性が激しい」 16 、「剛気かつ粗野」 17 とも評される。これは、自らの信じる正義や道理に対して一切の妥協を許さない、剛直な人物であったことを窺わせる。この性格が、後に彼を悲劇へと導く一因となる。
親実の生涯を語る上で欠かせないのが、元親の側近・久武親直との深刻な対立である 14 。親直は元親の深い信頼を得た謀将であり、吏僚として高い政治手腕を発揮した人物であった 17 。
両者の対立が表面化したのは、天正14年(1586年)頃、豊臣秀吉が命じた方広寺大仏殿(京の大仏)建立のための木材を仁淀川で伐採・搬出した際の出来事であったと伝えられる 14 。この対立の根源は、単なる個人的な感情のもつれではなかった。それは、長宗我部家の権力構造そのものの変質を象徴する、根深い構造的対立であった。
すなわち、親実は血縁と武功を基盤とする伝統的な武士団の代表格である「一門衆(武断派)」であり、一方の親直は、中央集権的な領国経営を実務で支える「吏僚(文治派)」の筆頭であった 17 。長宗我部氏が土佐の一地方豪族から四国を窺う大大名へと急成長し、さらに豊臣政権下に組み込まれる過程で、統一的な支配を効率的に行うための吏僚の重要性は増大していった。この新たな権力の中枢を担う吏僚派の台頭は、旧来の権力基盤であった一門衆との間に深刻な摩擦を生み出す。親実と親直の確執は、この権力構造のシフトが生んだ必然的な軋轢であり、親実の悲劇は、この構造的対立の最も先鋭的な表出であったと分析できる。
天正14年(1586年)、長宗我部家の運命を揺るがす事件が起こる。この事件を契機として発生した後継者問題は、一門の結束を乱し、吉良親実を破滅へと追い込む引き金となった。
この年、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した元親最愛の嫡男・長宗我部信親が、豊後戸次川(へつぎがわ)の戦いで島津軍に討ち取られた 14 。文武に優れ、織田信長からもその器量を高く評価されていた信親は、元親の野望そのものであった。その死は元親に計り知れない衝撃を与え、自害しようとするほど取り乱したと伝えられる 12 。
この日を境に元親は「人が変わってしまった」とされ、かつての英明さを失い、その政治判断は猜疑心と頑迷さに満ちたものへと変質していく 20 。長宗我部家の悲劇は、ここから本格的に始まったのである。
信親亡き後、元親は家臣団を集め、驚くべき後継者指名を行う。次男の香川親和(かがわちかかず)、三男の津野親忠(つのちかただ)を飛び越え、四男でまだ元服前の千熊丸(ちくままる、後の長宗我部盛親)を後継者とし、さらに亡き信親の娘を娶わせるというものであった 22 。
これに対し、真っ向から異を唱えたのが吉良親実であった。親実は、武家の慣習である「長幼の序」を重んじ、次男の親和を立てるべきだと強く諫言した 15 。また、叔父と姪の結婚は儒教的な倫理観に照らして人倫に悖る行為であるとも主張した 17 。親実の主張は、武家の伝統と儒教倫理に根差した、非の打ちどころのない正論であった。
一方で、元親の選択にも彼なりの論理があった。親和と親忠はすでに他家(香川氏、津野氏)へ養子に出ており、彼らを後継者に指名すれば、それぞれの養子先の家臣団との間で無用な混乱が生じる可能性があった 26 。しかし、それ以上に元親を動かしたのは、溺愛した信親の血筋を何としてでも後継者に繋ぎたいという、父親としての強い情念であった。信親の娘を娶るのに年齢的に釣り合うのは、当時11歳の盛親しかいなかったのである 22 。
この後継者問題は、合理的な政治判断と、非合理的な感情論の衝突であった。信親を失い、精神的に追い詰められた元親は、政治的合理性よりも「信親の血を後継者に繋ぐ」という個人的な情念を優先した。親実の正論は、この元親の心の聖域を侵すものであり、論理で反論できないが故に、元親は諫言者自身を憎むようになった。この心理的状況が、政敵である久武親直の讒言を受け入れる素地を形成した。親直の讒言は対立の根本原因ではなく、元親が親実という「不都合な真実を語る者」を排除するための、格好の「引き金」として機能したのである。
親実は、主君の過ちを正すことこそが忠臣の務めであるという武士の倫理観に基づき、元親に対して繰り返し親和の擁立を進言した 14 。戦国時代の武士道において「諫言」は、命を懸けて主君と家を守るための、極めて重要な忠義の発露であった 27 。
しかし、失意と偏愛に囚われた元親にとって、親実の正論は自らの最後の望みを打ち砕く非情な言葉にしか聞こえなかった。繰り返される諫言は、ついに元親の逆鱗に触れることになる 14 。ここに、吉良親実の悲劇は決定的なものとなった。
主君への忠義を尽くさんとした親実の行動は、最悪の結果を招いた。彼の死は、長宗我部家中に癒えぬ傷を残し、土佐の地に恐るべき怨霊伝説を刻み込むことになる。
久武親直は、元親の寵愛を背景に「親実らに謀反の疑いあり」と讒言したとされる 2 。これを受け、元親はついに親実と、彼に同調した比江山親興(ひえやま ちかおき)に切腹を命じた。
『土佐物語』は、親実の最期を劇的に描く。碁を打っている最中に切腹の命を受けた親実は、動じることなく屋敷に戻ると、「君、過ち有る時は厳顔を犯し、道を以て諌めは良臣の節なり。…唯恨むらくは、今より後忠臣諫者弥身を退け、諂諛奸佞益々国にはびこり、当家の衰弊近きに有るべく候」と言い放ち、見事に腹を掻き切り、腸を掴み出して絶命したという 2 。
しかし、この壮絶な最期の時期については、一次史料との間に矛盾が見られる。軍記物語が記す天正16年(1588年)10月という説に対し、親実自身が署名した天正17年(1589年)9月10日付の棟札が現存しているのである 14 。さらに、『長宗我部地検帳』には、天正19年(1591年)1月時点で親実の妻が「蓮池上様」として未亡人の立場で所領を与えられている記録が確認できる 14 。
表1:吉良親実の没年に関する諸説と根拠史料の比較
説 |
根拠史料 |
史料の性質 |
信頼性評価 |
天正16年(1588年)10月説 |
『土佐物語』 2 , 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 1 など |
江戸時代成立の軍記物語(二次史料) |
低。物語的脚色や、比江山親興の切腹との混同の可能性が高い。 |
天正17年(1589年)9月以降、天正19年(1591年)1月以前説 |
西諸木若一王子の棟札(天正17年9月10日付) 14 , 『長宗我部地検帳』(高岡郡鎌田村) 14 |
一次史料(金石文、検地帳) |
高。親実本人の活動や、その死後の所領安堵を示す直接的な証拠。 |
これらの一次史料から判断する限り、親実の自害は、共に諫言した比江山親興の処刑(天正16年)とは同時ではなく、少なくとも1年近く後であった可能性が極めて高い。
元親の怒りは親実一人に留まらなかった。親実の死に連座し、彼の庶兄である僧・宗安寺真西堂(如淵)や、蓮池城の城代であった勝賀野次郎兵衛をはじめ、一族郎党や近しい家臣たちが次々と誅殺された 2 。この徹底的な粛清は、親実の支持基盤を根絶やしにすると同時に、長宗我部家中に深刻な恐怖と動揺を植え付けた。
やがて、親実らの無念の死が怨霊(御霊)となり、祟りをなすという伝説が生まれる。これが、四国地方で広く知られる「七人みさき」伝説の起源の一つとされる 2 。
表2:「七人みさき」構成員とされる主な人物
人物名 |
読み |
身分・関係性 |
出典 |
宗安寺真西堂(如淵) |
そうあんじしんせいどう(じょえん) |
僧侶、親実の庶兄、『吉良物語』著者 |
2 |
永吉飛騨守宗明 |
ながよしひだのかみむねあき |
神職、親実の姻族 |
2 |
勝賀野次郎兵衛 |
しょうがのじろべえ |
重臣、蓮池城の城代 |
2 |
城ノ内太守坊 |
しろのうちたいしゅぼう |
(詳細不明) |
2 |
吉良彦太夫 |
きらひこだゆう |
(詳細不明、吉良一族か) |
2 |
小島甚四郎 |
おじまじんしろう |
(詳細不明) |
2 |
日和田与三右衛門 |
ひわだよざえもん |
(詳細不明) |
2 |
この「七人みさき」は、7人組の亡霊の集団で、これに遭遇した者は命を落とし、殺された者が代わりに集団に加わるため、その数は常に7人であると信じられている 29 。親実主従の悲劇は、この土着の信仰と結びつき、より恐ろしい物語として土佐の地に定着していった。
親実らの死後、その墓所から怪火が出たり、首のない武者行列が現れたりといった怪異が相次いだと伝わる 2 。特に、讒言した久武親直の一族には不幸が続き、人々はこれを親実の祟りだと噂した 2 。
これらの祟りを恐れた元親は、家臣の進言を容れ、親実の墓があった木塚山にその霊を祀る「木塚明神」を建立した 1 。これは、為政者が非業の死を遂げた者の強大な怨念を神として祀り上げることで鎮め、逆に守護神へと転換させようとする、菅原道真の例にも見られる典型的な御霊信仰(ごりょうしんこう)の現れである 15 。
時代は下り、関ヶ原の戦いの後に長宗我部氏が改易されると、土佐の新領主となった山内家もこの怨霊の存在を無視できなかった。寛文6年(1666年)、土佐藩は親実の墳墓を改葬し、社殿を新たに建立した。これが現在の吉良神社である 2 。
山内家によるこの手厚い鎮魂は、単なる宗教的行為にとどまらない。長宗我部旧臣(一領具足)による抵抗に直面していた山内家にとって、元親の「失政の犠牲者」である親実を丁重に祀ることは、旧臣や領民に対し「我々は、理不尽な粛清を行った長宗我部氏とは違う、仁政を敷く支配者である」というメッセージを発信する高度な政治的パフォーマンスであった。武力による支配を補完する、巧みな心性支配・鎮魂政策の一環と解釈することができるのである。
吉良親実の人物像を今日に伝える上で、決定的な役割を果たしたのが軍記物『土佐物語』である。しかし、この書物を歴史資料として扱う際には、その成立背景と作者の意図を慎重に吟味する必要がある。
『土佐物語』は、江戸時代中期の宝永5年(1708年)、土佐藩の馬廻記録方であった吉田孝世によって成立した 3 。作者の吉田孝世は山内家に仕える武士であり、その著作は当然、藩の公式見解や価値観から完全に自由ではあり得なかった。
本書は、長宗我部氏の興亡を描きながら、その滅亡の要因を「元親の晩年の暗愚化」と「久武親直という奸臣の存在」という、特定の個人の資質の問題に集約させる傾向が強い。これにより、長宗我部氏の滅亡は体制そのものの構造的欠陥ではなく、あくまで個人の過ちによるもの、という物語が構築される。これは結果として、長宗我部氏に取って代わった山内支配の正当性を間接的に補強する効果を持つ。
史料としての信頼性については、大蛇や大鬼といった怪異譚を含むなど文学的脚色が多く見られる上 3 、親実の没年や元親の官位など、一次史料と照合すると明らかな誤りも散見される 3 。このため、歴史学研究において一次史料と同等の価値を持つとは言い難い。
しかし、『土佐物語』は、江戸時代の土佐藩において、長宗我部氏の歴史がどのように記憶され、語り継がれていたかを知る上で、また、吉良親実の「悲劇の忠臣」という英雄像がどのように形成・定着したかを探る上で、他に代えがたい価値を持つ貴重な「文化史料」であると言える。
吉良親実は、長宗我部一門の重鎮としてその発展に貢献したが、主君・元親の四国統一の夢が破れ、豊臣政権下の一大名へと転落していく過程で生じた権力構造の変化と、嫡男・信親の死という個人的悲劇が交錯する中で、その犠牲となった人物である。彼の諫言は、主君と家を思う武士の忠義の発露であったが、それはもはや絶対君主化し、心の傷に苛まれる元親には受け入れられなかった。
彼の悲劇は、戦国大名が中央集権的な近世大名へと変質する時代の大きな流れを象徴している。血縁に基づく一門衆の合議制的な権力が、当主直属の側近(吏僚)によるトップダウン型の権力へと移行していく過渡期において、彼は旧来の価値観を貫こうとして散った。その意味で、吉良親実は時代の徒花であったとも言えるだろう。
しかし、彼の存在が歴史に遺したものは決して小さくない。その無念の死は「七人みさき」という強烈な怨霊伝説を生み、土佐の民俗・信仰の世界に深い刻印を残した 15 。また、『土佐物語』によって悲劇の忠臣として描かれたことで、後世の創作物においてもその人物像が再生産され続けている。
そして、彼の血脈は途絶えなかった。子の吉良貞実は「町源右衛門」と改姓し、土佐を離れて肥後熊本藩の細川氏に仕えることで家名を保った。その子孫は明治に至り、再び「長宗我部」の姓を称したとされ、熊本市には「長曽我部町家之墓」が現存している 14 。非業の死を遂げた忠臣の血は、形を変えながらも歴史の奔流を生き抜き、現代にまで繋がっているのである。