吉見広長は石見吉見氏最後の当主。毛利氏の改革に反発し出奔を繰り返す。徳川幕府への接近を図るも、輝元に追討され自害。嫡流は断絶した。
毛利家臣、吉見広長。その人物像は、一般に「処遇に不満を抱き、たびたび出奔、内通する。そのたび許され帰参を果たしたが、父・広頼の死後、謀反のかどで輝元に追討され、ついに自害した」と要約される。この簡潔な評価は、彼の生涯を貫く抵抗と悲劇的な結末を的確に捉えているように見える。
しかし、この評価は、彼の死という結末から遡って形成された、一面的かつ単純化された見方である可能性は否めない。一人の武将の行動を、単にその個人の資質や「不満」といった感情の問題に帰することは、歴史の複雑な綾を見過ごすことにつながる。本報告は、吉見広長の生涯を、彼個人の物語としてだけではなく、より大きな歴史的構造の中で捉え直すことを目的とする。具体的には、以下の三つの軸から彼の行動原理と悲劇の本質に迫る。
第一に、吉見氏が石見国に三百数十年にわたって根を張り、培ってきた特有の「家格」と「矜持」。第二に、関ヶ原の戦いという未曾有の敗戦を経て、存亡の危機に瀕した主家・毛利家が断行せざるを得なかった内部改革の圧力。そして第三に、戦国乱世の価値観が終焉を迎え、主君への絶対服従を求める近世封建体制へと移行していく時代の大きな潮流である。
これらの視座から吉見広長の生涯を丹念に追うことで、「反逆者」というレッテルに隠された、一人の武将の苦悩と葛藤、そして時代の奔流に翻弄された悲劇の実像を明らかにする。
西暦/和暦 |
吉見広長の動向(年齢) |
毛利家の動向 |
天下の動向(中央政権) |
1580年 (天正8年) |
石見国津和野にて、吉見広頼の次男として誕生 1 。 |
|
織田信長が天下統一を進める。 |
1594年 (文禄3年) |
兄・元頼が早逝し、継嗣となる (15歳) 2 。 |
|
豊臣秀吉による文禄の役。 |
1597年 (慶長2年) |
父・広頼の隠居に伴い家督を相続 (18歳)。慶長の役に従軍 2 。 |
毛利秀元が軍を率いて朝鮮へ渡海。 |
豊臣秀吉が慶長の役を開始。 |
1599年 (慶長4年) |
恩賞への不満から最初の出奔。後に帰参 (20歳) 2 。 |
毛利秀元への長門分与計画が浮上。 |
豊臣秀吉死去(前年)。五大老・五奉行体制。 |
1600年 (慶長5年) |
関ヶ原の戦いに毛利軍として参加。 |
輝元が西軍総大将となるも敗北。防長二カ国に減封される 4 。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。 |
1604年 (慶長9年) |
減封への不満から二度目の出奔。江戸で独立大名化を画策 (25歳) 5 。 |
萩城を築城し、藩政の基礎固めを開始。広長の出奔に対し幕府へ弁明 5 。 |
徳川家康が江戸幕府を開く(前年)。 |
1612年 (慶長17年) |
広長不在の中、吉川広家の次男・政春が広長の妹と婚姻し吉見家を相続 (33歳) 5 。 |
輝元の命令により、吉見家の家督を毛利一門で固める。 |
徳川幕府の支配体制が盤石化。 |
1613年 (慶長18年) |
父・広頼が死去 (34歳) 2 。 |
|
大坂の陣へ向けた緊張が高まる。 |
1617年 (元和3年) |
10年以上の流浪の末、長州へ帰参し赦免される (38歳) 6 。 |
輝元は祖父の功績を鑑み、広長の帰参を許可。 |
大坂の陣終結(1615年)。元和偃武。 |
1618年 (元和4年) |
輝元の命により追討され、一族と共に自害 (39歳) 5 。 |
輝元が清水元親らに追討を命令。吉見氏嫡流は断絶 5 。 |
徳川幕府による武家諸法度が徹底される。 |
吉見広長の行動を理解するためには、まず彼が背負っていた「吉見氏」という家の歴史と、それによって育まれた特有の気風を解き明かす必要がある。彼の反骨精神は、一朝一夕に形成されたものではなく、数百年にわたる一族の歩みの中にその源流を見出すことができる。
吉見氏は、清和源氏の流れを汲み、源頼朝の異母弟である蒲冠者・源範頼を祖とすると伝えられる名門であった 6 。範頼の孫・為頼が武蔵国横見郡吉見庄(現在の埼玉県比企郡吉見町)に住んだことから吉見を姓としたのが、その始まりとされる 6 。
その一族が遠く西国の石見に根を下ろすきっかけとなったのは、鎌倉時代後期の元寇である。弘安5年(1282年)、幕府の異国警固の命により、吉見頼行が能登国から石見国に下向した 4 。頼行は津和野の霊亀山に一本松城(後の三本松城、津和野城)を築き、この地を本拠と定めた 3 。以来、吉見氏は戦国時代に至るまで三百数十年の長きにわたり、石見国鹿足郡一帯を支配する国人領主として、その勢力を維持し続けたのである 4 。この長大な領主としての歴史は、一族の間に、自らの土地と家に対する強い誇りと独立した気概を育んでいった。
戦国時代に入ると、吉見氏は西国随一の大名であった大内氏の勢力圏に組み込まれていく。しかし、その関係は単なる従属ではなかった。広長の祖父にあたる吉見正頼は、大内氏当主・大内義隆の姉を正室に迎えており、両家は極めて緊密な姻戚関係で結ばれていた 6 。これにより、吉見氏は大内家中で特別な地位を占めるに至る。
この関係性が吉見氏の運命を大きく左右したのが、天文20年(1551年)に発生した大寧寺の変である。大内氏の重臣・陶晴賢(当時は隆房)が謀反を起こし、主君・義隆を自害に追い込んだ際、多くの国人が晴賢に与する中で、吉見正頼は義兄弟であった義隆への忠義を貫き、晴賢に対して敢然と反旗を翻した 3 。これは、自らの利害よりも家と家との信義を重んじる、吉見氏の義理堅さと独立不羈の精神を象徴する行動であった。
結果として、正頼は陶晴賢が率いる大軍に本拠・三本松城を包囲されることとなる。100日以上に及ぶ籠城戦の末、正頼は嫡男・広頼(広長の父)を人質として差し出すという苦渋の決断を下し、一時的な和睦を受け入れた 2 。この時の屈辱と抵抗の記憶は、吉見家にとって、自らの矜持を再確認する重要な経験として刻まれたに違いない。
吉見氏の運命が再び転換期を迎えるのは、安芸の毛利元就の台頭による。弘治元年(1555年)、元就が厳島の戦いで陶晴賢を破ると、人質となっていた広頼は解放され、父・正頼は好機至れりとばかりに元就に呼応した 2 。彼は山口へ侵攻し、陶氏が擁立した大内義長を追い詰め、大内氏の滅亡に大きく貢献したのである 6 。
この防長経略における功績を、毛利元就は「第一の功」として最大限に評価した。正頼は、かつて益田氏に奪われた旧領を回復しただけでなく、長門国阿武郡全域や佐波郡、厚東郡の一部などを新たに所領として与えられ、毛利家中で破格の厚遇を受けることになった 6 。
この一連の経緯が、吉見氏の毛利家における特殊な地位を決定づけた。彼らは敗北によって臣従したのではなく、共通の敵を打倒するための「同盟者」に近い立場で毛利氏と結びつき、その功績によって高い地位を得たのである。そのため、吉見氏は毛利家の家臣となりながらも、他の譜代家臣とは一線を画す、半ば独立した国人領主としての性格を色濃く残し続けることになった。この「我々は他の家臣とは違う」という強烈な自負心、すなわち「矜持」こそが、吉見広長の行動原理を理解する上で最も重要な鍵となる。彼の後の反抗的な態度は、単なる個人的な不満ではなく、この一族に代々受け継がれてきた、自立した領主としてのアイデンティティの表出であったと解釈できるのである。
吉見広長の気性を考える上で、対照的な存在として浮かび上がるのが父・広頼である。広頼の生涯は、毛利家への忠誠と協調によって特徴づけられる。しかし、その父の生き様が、皮肉にも息子の反発心を育む土壌となった可能性は否定できない。
父・正頼が築いた毛利家との良好な関係を、広頼はさらに強固なものにした。彼は、毛利元就の嫡男・毛利隆元の娘である津和野局を正室として迎えた 2 。津和野局は、当時の毛利家当主・輝元の実の姉妹にあたる 13 。これにより、吉見広頼は輝元の義理の兄弟となり、吉見家は単なる有力家臣という立場を超え、毛利一門に準ずる極めて高い家格を手に入れた。
広頼自身も、父・正頼の方針を忠実に継承し、毛利家の重臣として誠実に務めを果たした。天正14年(1586年)の豊臣秀吉による九州平定では、吉川元春や小早川隆景ら毛利軍の中核と共に九州へ従軍し、豊前国香春岳城攻めなどで武功を挙げ、秀吉本人から直接感状を授与される栄誉にも浴している 2 。また、天正18年(1590年)の小田原征伐においても、毛利水軍の一翼を担い、伊豆国下田城の攻略に貢献した 2 。これらの功績は、広頼の代において、吉見家が毛利家の家臣団の中で安定した地位を築き、その一員として円滑に機能していたことを示している。
順風満帆に見えた広頼の治世であったが、その裏では家の将来に影を落とす不幸が相次いでいた。広頼の嫡男であり、広長の兄にあたる吉見元頼は、毛利家との結びつきをさらに深める存在として大きな期待をかけられていた。彼は毛利家の重鎮・吉川元春の娘を妻に迎えており、毛利本家と吉川家という、毛利の両輪との二重の血縁で結ばれた、まさに次代を担う嗣子であった 14 。
しかし、その元頼は、文禄の役(1592年〜)に病弱な父・広頼に代わって出陣したものの、朝鮮半島で病を得て帰国。文禄3年(1594年)、わずか20歳でこの世を去ってしまう 2 。この期待された兄の早逝により、それまで次男坊であった広長が、予期せぬ形で吉見家の家督継承者という重責を担うことになったのである。この突然の継承は、広長が当主としての自覚や帝王学を十分に身につける前に、彼を歴史の表舞台へと押し出すことになり、その後の彼の行動に少なからぬ影響を与えたと考えられる。
慶長2年(1597年)、父・広頼は病を理由に隠居し、家督を広長に譲った 2 。この時、広頼には1100石余りの隠居領が与えられており、隠居後も吉見家に対して一定の影響力を保持し続けていた 2 。
広頼の生き方は、毛利家との協調を最優先し、その中で家の安泰を図るという、現実的かつ穏健なものであった。輝元の義兄という高い立場にありながら、それを笠に着ることなく、忠実な臣下として振る舞い続けた。この姿勢は、主家である毛利家から見れば理想的な家臣の姿であったろう。しかし、三百数十年にわたり独立を保ってきた吉見家の伝統と矜持を重んじる立場から見れば、父のその姿は毛利家への「迎合」であり、一族が持つべき「自立性の放棄」と映ったかもしれない。兄の死によって図らずも当主となった広長が、父とは異なる形で吉見家の「矜持」を示そうと焦り、それが主家との軋轢を生む一因となった。父の「融和路線」が、結果として息子の「対決路線」を誘発したという、逆説的な親子関係の構図がここに見出せるのである。
父・広頼から家督を継いだ若き当主・吉見広長は、父とは対照的に、その矜持を前面に押し出した行動を開始する。しかし、彼の挑戦は時代の大きな変化の前に、早くも最初の挫折を経験することになる。
慶長2年(1597年)、家督を相続した広長は、直ちに慶長の役に従軍し、朝鮮半島へと渡海した 2 。彼は毛利秀元(輝元の養子)が率いる軍に属し、蔚山城の戦いなどに参加した。この戦役において、彼は敵の大軍に単身で包囲されるという絶体絶命の危機に陥るが、家臣の下瀬頼直らの奮戦によって九死に一生を得、自らも体勢を立て直して敵将の首級を挙げるという武功を立てている 15 。この戦功は、彼が単なる名家の当主ではなく、一人の武将としても優れた資質を持っていたことを示している。
しかし、この武功が彼の不満の火種となる。慶長4年(1599年)、広長はこの戦功に対する恩賞に不満を抱き、突如として出奔するという挙に出た 2 。この行動の背景には、単なる恩賞の多寡だけでなく、より根深い問題があった。当時、豊臣秀吉の遺言に基づき、毛利秀元に長門国一国を分与するという計画が毛利家中で進められており、その分与される所領の中に、吉見氏が先祖代々領してきた土地が含まれる可能性が浮上していたのである 3 。広長にとって、これは金銭的な問題ではなく、家の根幹である所領を脅かす、断じて容認できない事態であった。
この最初の出奔は、広長の姉が嫁いでいた毛利元康(末次元康)らの懸命な仲介によって、ほどなくして赦免され、彼は主家への帰参を果たした 3 。しかし、この一件は当主・輝元との間に深刻な亀裂を生んだ。帰参後、広長は蟄居を命じられるなど、事実上の監視下に置かれることになり、彼の主家に対する不信感は一層募ることとなった 15 。
広長の不満が燻り続ける中、天下の情勢は大きく動く。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。毛利輝元は西軍の総大将として擁立されたが、戦いはわずか一日で東軍の圧倒的な勝利に終わり、毛利家は敗軍の将となった。
この敗戦の代償はあまりにも大きかった。戦後、輝元は徳川家康から、中国地方8カ国112万石という広大な領地を没収され、周防・長門の二カ国、わずか37万石(実質石高はさらに高いが)にまで大減封されるという、毛利家史上最大の危機に直面した 2 。この処分に伴い、吉見氏もまた、三百数十年にわたって本拠としてきた石見国津和野の地を離れ、長門国萩への移住を余儀なくされたのである 4 。
先祖伝来の地を失った喪失感に加え、広長をさらに追い詰めたのが、減封に伴う知行の再編問題であった。萩藩は、大幅に削減された領地を、抱える膨大な数の家臣たちに再配分する必要に迫られた。当然、すべての家臣の知行は大幅に削減され、その減封割合を巡って家中は深刻な対立と不満に揺れた。広長もこの減封割合に強い憤りを覚え、主家への不信感を決定的なものにしたとされる 15 。
広長の行動は、関ヶ原後の萩藩が直面した「リストラ」と「中央集権化」という二重の圧力に対する、旧来の有力国人領主層の反発を象徴するものであった。輝元ら藩首脳部にとって、この未曾有の危機を乗り切るためには、藩主の権限を強化し、強力な中央集権体制を構築することが不可欠であった。それは必然的に、吉見氏のような半独立的な有力国人の特権を削ぎ、その自立性を奪うことを意味した。広長の不満と、それに続く二度目の出奔は、近世大名への脱皮を図る毛利家が、その改革の過程で払わねばならなかった「コスト」であり、避けることのできない軋轢だったのである。
関ヶ原の敗戦と減封によって主家への不満を決定的にした吉見広長は、ついに破滅へと至る危険な道を選択する。それは、毛利家という枠組みを飛び越え、新たな支配者である徳川政権に直接活路を見出そうとする、極めて重大な挑戦であった。
慶長9年(1604年)12月頃、広長は再び萩の地を出奔する 5 。しかし、今度の行き先は、前回のような当てもない放浪ではなかった。彼の目的地は、天下の政治の中心地・江戸であった。
彼の目的は、徳川家康や幕府首脳に直接接触し、自らの言い分を訴えることであった。そして、その最終目標は、毛利家から完全に離反し、幕府から所領を安堵される独立した大名としての地位を確立することにあったと考えられている 5 。これは、一度目の恩賞への不満による出奔とは全く質の異なる、毛利家の支配体制そのものを根底から覆そうとする、紛れもない「謀反」行為であった。彼は、吉見氏が持つ源氏の名門という家格と、祖父・正頼の忠義の物語を武器に、徳川政権に自らを売り込もうとしたのである。
自家の有力家臣が江戸へ赴き、主君を飛び越えて幕府に直訴するという事態は、減封されたばかりで立場が脆弱であった毛利輝元にとって、藩の存亡を揺るがしかねない一大事であった。もし広長の行動が幕府によって「家中騒動」と認定されれば、統治能力なしと見なされ、さらなる処罰や改易(領地没収)の口実を与えかねないからである 5 。
輝元はこの危機に迅速かつ冷静に対応した。彼は、徳川家康の側近中の側近である本多正信・正純父子や、家康の側室で大きな影響力を持っていた阿茶局のルートを使い、直ちに幕府への政治工作を開始した 5 。その内容は、広長の出奔が彼の身勝手で一方的なものであり、輝元や毛利家には何ら非がないことを懸命に弁明するものであった。これは、この問題を幕府が介入する「藩と幕府の問題」ではなく、あくまで「毛利藩内部の懲罰案件」として処理するための、周到かつ高度な政治的駆け引きであった。
さらに輝元は、広長の社会的な生命線を断つための決定的な一手を打つ。全国の大名に対し、吉見広長を家臣として召し抱えることを禁じる「奉公構(ほうこうかまえ)」を発令したのである 16 。これにより、広長が他の大名家に再仕官する道は完全に閉ざされ、彼は江戸で孤立し、路頭に迷うことになった。
広長の独立画策が輝元の巧妙な政治工作によって頓挫する中、輝元は問題の根源である吉見家の存在そのものに、決定的なメスを入れる。それは、吉見氏の独立性を完全に解体し、毛利家の支配下に組み込むための、冷徹な「外科手術」であった。
慶長17年(1612年)、輝元は自らの命令をもって、毛利一門の重鎮であり、関ヶ原の戦後処理で大きな功績のあった吉川広家の次男・政春を、出奔中の広長の妹と婚姻させ、吉見家の家督を相続させた 2 。広長が当主として健在であるにもかかわらず、その家督を事実上剥奪し、毛利一門の血を引く者を新たな当主として据えるという、極めて強引な措置であった。
翌慶長18年(1613年)、父・広頼が失意のうちにこの世を去ると、この新たな家督体制は既成事実として確定する 2 。こうして吉見家の家督を継いだ政春は、後に輝元から「毛利」の姓と輝元の偏諱「就」の字を与えられて「毛利就頼」と名乗り、長州藩の一門家老筆頭となる大野毛利家の祖となった 5 。
この一連の措置により、清和源氏以来の名門であり、石見国に三百数十年の歴史を誇った吉見氏の家督と家名は、事実上毛利一門に乗っ取られる形でその実態を失った。輝元は、広長という「病巣」を切り離すだけでなく、その温床となった吉見家の「独立性」そのものを解体し、完全に自らのコントロール下に置くことに成功したのである。これは、他の有力国人領主層に対し、「主家への反逆は、家の断絶ではなく、乗っ取りに繋がる」という強烈な見せしめとなり、萩藩の中央集権体制を確立する上で決定的な役割を果たした。
全ての策が尽き、帰るべき家すら事実上失った吉見広長。彼の人生は、壮絶な悲劇をもってその幕を閉じることになる。その最期は、近世初期の萩藩が抱える不安定さと、藩主・輝元の冷徹な政治判断を浮き彫りにするものであった。
江戸での独立画策に失敗し、奉公構によって再仕官の道も絶たれた広長は、10年以上にわたって諸国を流浪する生活を余儀なくされた 3 。かつての名門の当主は、今や仕えるべき主君も、住まうべき土地も持たない一介の浪人となり果てていた。
困窮の果て、元和3年(1617年)、広長は恥をしのんで長州へ帰参する 6 。輝元は、広長を許すことにした。その理由として、祖父・正頼が毛利家に対して立てた多大な功績、そして広長自身が輝元の甥であるという血縁関係が考慮されたとされる 6 。輝元は広長に200人扶持を与え、萩城下の平安古に屋敷を構えさせた 5 。長きにわたる放浪の末、広長はようやく安住の地を得たかに見えた。
しかし、その平穏はわずか1年で破られる。帰参の翌年である元和4年(1618年)8月、広長は突如として輝元から追討の命を下されるのである。この不可解な討伐の直接的な理由については、史料によって見解が分かれており、真相は今なお謎に包まれている。
一つは「讒言説」である。これは、広長が輝元の毒殺を企てている、という事実無根の中傷(讒言)が輝元の耳に入り、それを信じた輝元が討伐を決意したとする説である 6 。もしこれが事実であれば、藩内で広長の存在を快く思わない勢力が、彼を永久に排除するために仕掛けた陰謀であった可能性が考えられる。
もう一つは「醜聞発覚説」である。これは、広長の私生活における不行跡が原因であったとする説だ。具体的には、広長が家臣の娘であった美しい姉妹を同時に側室として寵愛した結果、姉妹間で激しい嫉妬による争いが勃発。嫉妬に狂った姉が、実の妹を毒殺しようと薬屋に毒を注文したという、常軌を逸した醜聞が輝元の知るところとなった 3 。この「毒薬」の一件が、輝元に「毒薬を用意するからには、その狙いは自分(輝元)に違いない」という深刻な疑念を抱かせ、討伐を決意させたというのである 15 。
真相が何であれ、輝元の決断は下された。元和4年(1618年)8月24日、輝元の命を受けた重臣の清水元親、榎本元吉らが率いる追討軍が、萩の平安古にある広長の居館を包囲、襲撃した 5 。
もはや逃れる術はないと悟った広長は、壮絶な最期を遂げる。翌8月25日、彼は側室であった利室妙貞と、その間に生まれた3人の幼い子を自らの手で殺害した後、追討軍がなだれ込む中で自刃して果てた 5 。享年38、あるいは39であった 1 。
この事件により、源範頼から連なる石見吉見氏の嫡流は、名実ともに完全に断絶した 2 。彼の墓所は、かつて吉見家の屋敷があった指月山の麓から移転された臨済宗の寺院、善福寺(山口県萩市)に、合葬墓としてひっそりと現存している 10 。
広長追討の引き金が讒言であったか、醜聞であったか、その真実を確定することは史料の制約上困難である 19 。しかし、より重要なのは、なぜ輝元がそれを「追討の口実」として受け入れたかという点にある。一度は赦免したにもかかわらず、わずか1年で抹殺へと方針を転換した背景には、当時の萩藩が置かれた厳しい状況があった。大坂の陣も終わり、徳川の治世が盤石となったこの時期、輝元にとっての最優先課題は、藩内のあらゆる不安要素を取り除き、幕府に一切の疑念を抱かせない安定した統治体制を確立することであった 17 。二度も出奔し、幕府への直訴という大罪を犯した広長は、たとえ赦免されたとはいえ、いつまた問題を起こすか分からない「時限爆弾」のような存在であった。輝元にとって、讒言や醜聞は、この長年の懸案事項であった広長という存在を、藩内に大きな波風を立てずに「処理」するための、格好の口実となったのである。彼の追討は、特定の罪に対する罰というよりも、将来のリスクを予防的に除去するための、冷徹な政治的判断であった可能性が極めて高い。
吉見広長の生涯を振り返るとき、彼を単に個人の性格や不満に起因する「反逆者」として片付けることは、歴史の深層を見誤ることになる。彼の物語は、より大きな歴史的文脈の中に位置づけることで、その悲劇の本質が明らかになる。
広長は、中世以来の独立した国人領主としての「矜持」を、最後まで捨てきれなかった人物であった。源氏の名門としての誇り、三百数十年にわたり一所を支配してきた領主としての自負、そして主家・毛利氏とは対等に近い同盟者として結ばれたという歴史的経緯。これらが形成した彼の価値観は、主君への絶対的な服従と奉公を求める近世的な封建秩序とは、根本的に相容れないものであった。
彼の二度にわたる出奔と、最終的な悲劇的結末は、関ヶ原の戦いを経て、毛利家が存亡をかけて「戦国大名」から「近世大名」へと自己改革を遂げる過程で必然的に生じた、痛みを伴う軋轢の象徴であった。減封という危機に際し、輝元ら藩首脳部が目指した中央集権化と家臣団の再編は、広長のような有力国人の既得権益と自立性を奪うものであり、彼の抵抗は、失われゆく旧時代の秩序を守ろうとする最後の足掻きであったとも言える。
したがって、吉見広長は、新しい時代の秩序に適応できなかった「反逆者」であると同時に、自らの一族が培ってきた歴史と矜持に殉じた、時代の「犠牲者」でもあった。彼の生涯は、戦国乱世の終焉期において、多くの武士が直面したであろうアイデンティティの危機と苦悩を体現している。この反逆と悲劇の二面性こそが、吉見広長という一人の武将の人間的深みと、その生涯が持つ歴史的意義を物語っているのである。