吉見正頼は石見吉見氏当主。大寧寺の変で陶晴賢に反旗を翻し、三本松城で籠城。毛利元就の厳島勝利に貢献し、毛利家臣となる。津和野に鷺舞を導入。
年号 |
西暦 |
年齢 |
出来事 |
出典 |
永正10年 |
1513年 |
1歳 |
石見国人・吉見頼興の五男として誕生。 |
1 |
天文9年 |
1540年 |
28歳 |
兄・隆頼の急逝により、僧籍から還俗し家督を相続。隆頼の妻・大宮姫(大内義隆の姉)を娶る。 |
1 |
天文10年 |
1541年 |
29歳 |
疫病鎮護のため、津和野に鷺舞を導入する。嫡男・亀王丸(後の広頼)が誕生。 |
3 |
天文11年 |
1542年 |
30歳 |
大内義隆に従い、第一次月山富田城の戦いに参陣。 |
3 |
天文20年 |
1551年 |
39歳 |
大寧寺の変。義兄・大内義隆が陶隆房(晴賢)の謀反により自害。 |
2 |
天文22年 |
1553年 |
41歳 |
陶晴賢打倒を掲げ、石見三本松城にて挙兵。毛利元就に連携を打診。 |
5 |
天文23年 |
1554年 |
42歳 |
三本松城の戦い。陶晴賢率いる大内軍の猛攻を約5ヶ月にわたり耐え抜き、和睦に持ち込む。 |
6 |
弘治元年 |
1555年 |
43歳 |
厳島の戦いで陶晴賢が敗死。毛利元就の防長経略に呼応し、山口へ進撃。 |
2 |
弘治3年 |
1557年 |
45歳 |
大内義長が自害し、大内氏が滅亡。防長経略における功績を賞され、毛利氏の麾下に入る。 |
8 |
永禄12年 |
1569年 |
57歳 |
毛利軍の主力として、立花山城の戦い(対大友氏)などに参陣。 |
2 |
元亀2年 |
1571年 |
59歳 |
毛利元就が死去。吉川元春より、毛利輝元の補佐を依頼される。 |
1 |
天正9年 |
1582年 |
70歳 |
備中高松城攻めへの出陣を最後に、家督を子・広頼に譲り隠居。 |
1 |
天正16年 |
1588年 |
76歳 |
隠居先の長門国指月城にて死去。 |
1 |
戦国時代の日本において、一人の国人領主の決断が、時に地域全体の勢力図を塗り替え、歴史の潮流を大きく変えることがある。石見国(現在の島根県西部)津和野を本拠とした吉見正頼は、まさにそのような人物であった。彼の生涯は、主君への忠義と、数世代にわたる一族の宿怨という、二つの強力な動機によって突き動かされていた。その行動を深く理解するためには、まず彼が背負っていた歴史的背景を解き明かす必要がある。
吉見氏は、清和源氏の流れを汲み、源頼朝の異母弟である蒲冠者・源範頼を祖とするとされる名門武家である 8 。鎌倉時代、範頼の孫とされる為頼が武蔵国吉見庄(現在の埼玉県比企郡吉見町)を領したことから吉見氏を称し、その一族は全国に広がった 9 。石見吉見氏は、鎌倉時代後期に能登国から石見国へ移り、津和野の地に霊亀山城、後の三本松城(現在の津和野城)を築いて根を下ろした 11 。以来、数百年にわたり石見西部の雄として君臨し、在地領主としての地位を固めてきた。
しかし、その支配は平穏なものではなかった。石見国内には、同じく有力な国人である益田氏が存在し、両者は領地の境界を巡って代々対立を繰り返す宿敵関係にあった 14 。この絶え間ない緊張関係は、吉見氏の対外政策に常に影響を与え続けることになる。
さらに、吉見氏には益田氏との対立以上に根深い、血の宿怨が存在した。その相手は、西国一の大名・大内氏の重臣筆頭であった陶(すえ)氏である。この因縁は、正頼が生まれる30年ほど前の文明14年(1482年)に起きた「山口館事件」に遡る 16 。当時、応仁の乱における対立から陶氏に所領を奪われるなど、不満を募らせていた正頼の祖父の兄・吉見信頼が、主君・大内政弘が催した宴席の場で、陶氏の当主・陶弘護を家宝の短刀で刺殺するという凶行に及んだのである 8 。信頼はその場で内藤弘矩に討ち取られたが、この事件は吉見氏と陶氏の間に、単なる政敵という関係を超えた、決して消えることのない遺恨を刻み込んだ 18 。
後に正頼が対峙することになる陶晴賢は、この殺害された弘護の曾孫にあたる。加えて、晴賢は吉見氏の長年のライバルである益田藤兼の従兄であり、益田氏を支援する立場にあった 1 。これらの事実を鑑みれば、正頼の生涯を決定づけた陶晴賢への反旗は、単に主君への忠義心からのみ発せられたものではないことがわかる。それは、義憤に燃えた忠臣の行動であると同時に、数世代にわたる一族の宿怨を晴らし、積年のライバルを叩くという、複合的な動機に裏打ちされた必然の決起だったのである。
永正10年(1513年)、吉見頼興の五男として生を受けた正頼の人生は、本来であれば歴史の表舞台とは無縁のうちに終わるはずであった 1 。家督を継ぐ可能性の低い彼は、若くして仏門に入り、津和野の興源寺で「周鷹(しゅうおう)」と名乗る一介の僧侶としての日々を送っていた 1 。
しかし、天文9年(1540年)、彼の運命は劇的に転換する。父の跡を継いでいた兄の当主・吉見隆頼が不慮の死を遂げたのである 3 。後継者を失った吉見家臣団は協議の末、その器量を見込んでか、僧籍にあった周鷹を新たな当主に迎えることを決定。主君である大内義隆の裁可を得て、周鷹は還俗し、「吉見正頼」として戦国の世に立つこととなった 3 。
この予期せぬ家督相続は、彼の人生にさらなる決定的な結びつきをもたらした。当主となるにあたり、正頼は亡き兄・隆頼の正室であった大宮姫を自らの妻として迎えたのである 1 。この婚姻は、単なる家督継承に伴う慣習以上の意味を持っていた。大宮姫は、西国に覇を唱える大内氏の前当主・大内義興の娘であり、現当主・大内義隆の実の姉であった 15 。これにより、正頼は大内家の一家臣という立場から、主君・義隆の義理の弟という極めて特殊で強固な姻戚関係を築き、大内家中で特別な地位を確立するに至った。
清廉な人柄であったと伝わる正頼は、義兄となった義隆から絶大な信頼を寄せられた 1 。彼は大内家の有力な一員として、天文11年(1542年)の尼子氏攻め(第一次月山富田城の戦い)をはじめとする大内氏の主要な軍事行動に従軍し、その勢力圏の維持に貢献した 3 。兄の死という偶然から始まった彼の当主としての人生は、大宮姫との婚姻によって、大内家、とりわけ義隆個人との分かちがたい「運命の絆」で結ばれることになった。この個人的で強い結びつきこそが、後に大内家を揺るがす未曾有の危機に際して、彼の行動を決定づける精神的な支柱となるのである。
天文年間、栄華を誇った大内氏の内部では、深刻な亀裂が進行していた。当主・大内義隆が公家文化に傾倒し、文治主義的な政策を推し進める一方、重臣の陶隆房(後の晴賢)を筆頭とする武断派の家臣たちは、その軟弱な姿勢に強い不満を募らせていた 22 。この対立はついに臨界点に達し、天文20年(1551年)9月1日、陶晴賢は謀反の兵を挙げ、主君・義隆を急襲した。山口を追われた義隆は、長門国深川の大寧寺に追い詰められ、自害して果てた(大寧寺の変) 2 。
この時、絶望的な状況に陥った義隆が最後の望みを託そうとしたのが、義弟である吉見正頼であった。記録によれば、義隆は石見の正頼を頼って落ち延びようとしたが、暴風雨に阻まれて叶わなかったとされている 23 。これは、数多いる家臣の中で、義隆が土壇場で最も信頼していたのが正頼であったことを物語っている。
主君の非業の死という衝撃的な報に接し、正頼は義憤に燃えた。陶晴賢は義隆の養子であった大友晴英(大内義長)を新たな当主として擁立し、大内氏の実権を完全に掌握 20 。多くの大内旧臣がその威勢の前に屈し、あるいは沈黙を守る中、正頼はただ一人、公然と「主君の仇討ち」を宣言し、反旗を翻したのである 3 。
この決起は、単なる感情的な反発ではなかった。正頼は挙兵に先立ち、家臣の下瀬頼金を使者として安芸国(現在の広島県西部)の毛利元就のもとへ派遣し、反陶の旗印のもとに連携して決起することを促していた 1 。これは、自らが置かれた圧倒的に不利な状況を冷静に分析し、勝機を見出すための周到な戦略的行動であった。
正頼の挙兵は、大寧寺の変以降、陶晴賢の支配下で膠着していた西国の政治状況を打ち破る「最初のドミノ」であった。当時、毛利元就もまた、表向きは晴賢に従わざるを得ない立場にあった。しかし、正頼が公然と反旗を翻したことで、晴賢はその討伐のために大軍を石見という遠隔地に派遣せざるを得なくなった。これにより、晴賢の軍事力は分散され、その本拠地である周防・長門の守りに戦略的な脆弱性が生まれることになったのである。正頼は、自らが「捨て石」となる危険を冒してでも戦端を開くことで、元就のような潜在的な反陶勢力に、行動を起こすための「時間」と「大義名分」を与えた。彼の反骨の狼煙は、元就が晴賢と決別し、中国地方の覇権を握るための、まさに絶好の機会を創出したと言えるだろう 24 。
吉見正頼の決起に対し、陶晴賢の反応は迅速かつ大規模なものであった。天文23年(1554年)3月、晴賢は傀儡の主君・大内義長を奉じ、さらに吉見氏の宿敵である益田藤兼の軍勢も加えて、正頼の居城・三本松城へと侵攻を開始した 6 。世に言う「三本松城の戦い」の始まりである。
正頼は、標高約360メートル、比高約200メートルの峻険な山に築かれた典型的な山城である三本松城の地の利を最大限に活かし、徹底した籠城戦でこれを迎え撃った 12 。陶軍は津和野川を挟んで城の南に位置する山(現在の陶ヶ岳)に本陣を構え、数万と号する大軍で城を包囲 6 。数ヶ月にわたり、実に十数回にも及ぶ猛攻を仕掛けたが、吉見軍は城兵や城下の村人までもが一体となり、これをことごとく撃退した 6 。この凄絶な攻防戦は約5ヶ月にも及び、陶軍の主力を津和野の地に完全に釘付けにした 27 。
正頼がまさに死闘を繰り広げ、時間を稼いでいる間、安芸では毛利元就が着々と布石を打っていた。元就は晴賢からの出兵要請を明確に拒絶すると、好機至れりと見て安芸国内の親陶勢力を一掃(折敷畑の戦いなど)。公然と陶氏との対決姿勢を鮮明にしたのである 24 。
背後で勢力を拡大する毛利の動きは、津和野で足止めを食らっている陶晴賢にとって最大の脅威となった。一方、吉見方も長期間の籠城により兵糧の欠乏が深刻化していた 6 。ここに、戦いの早期終結を図りたい陶方と、これ以上の籠城が困難な吉見方の思惑が一致する。同年9月、正頼が嫡男・亀王丸(後の吉見広頼)を人質として山口に送ることを条件に、和睦が成立した 6 。城は最後まで落ちず、正頼は屈辱的な条件を飲みながらも、自軍の壊滅を防ぎ、陶軍の進撃を食い止めるという最大の目的を果たした。これは、正頼にとって事実上の戦略的勝利であった。
この三本松城の戦いは、単なる一地方の籠城戦ではない。それは、後に毛利元就が日本三大奇襲の一つに数えられる「厳島の戦い」を成功させるための、不可欠な戦略的陽動であった。兵力で圧倒的に優る陶軍を、狭隘な厳島におびき寄せるという元就の奇策は、相手の冷静な判断力を奪うことが前提であった 28 。正頼との戦いで心身ともに疲弊し、多大な時間と労力を浪費させられた晴賢は、焦りを募らせていた。この焦りが、元就の挑発に乗り、厳島へ渡るという無謀な決断を下させる一因となった可能性は極めて高い。三本松城で流された吉見方の血と汗が、厳島における毛利方の奇跡的な勝利を呼び込むための「時間」と「状況」を創り出したのであり、正頼の奮戦は、厳島の戦いの勝敗を左右した隠れた最重要因子であったと言っても過言ではない 29 。
弘治元年(1555年)10月、毛利元就は厳島にて陶晴賢の本隊を奇襲し、歴史的な大勝利を収めた 2 。晴賢は自害し、大内軍の中枢は一日にして崩壊。中国地方の勢力図は、この一戦を境に完全に塗り替えられた。
この好機を、吉見正頼が見逃すはずはなかった。元就が直ちに周防・長門への侵攻作戦(防長経略)を開始すると、正頼は即座にこれに呼応した。まず、和睦の証として山口に送られていた愛息・亀王丸を奪還 6 。次いで、長年の宿敵である益田氏の動きを牽制しつつ、自ら軍を率いて大内氏の本拠地・山口へと進撃した 8 。正頼軍の侵攻は、毛利本隊の進軍を側面から強力に支援し、大内義長を山口から敗走させ、弘治3年(1557年)に自害へと追い込む上で、決定的な役割を果たした。
大内氏が名実ともに滅亡し、防長経略が完了すると、正頼は元就に謁見し、正式に毛利氏の麾下に加わった 8 。この時、元就は正頼の功績を「防長経略第一の功」と最大級の賛辞で称え、その働きに報いるため、長門国阿武郡などを加増した。これにより、かつて益田氏に奪われていた旧領もほぼ回復することができたのである 8 。
この一連の経緯は、正頼と毛利氏の関係が、単なる主従服属ではなかったことを示している。正頼は元就に窮地を救われたが、同時に元就の覇業達成に不可欠な貢献をした「同盟者」であった。元就が正頼の功を第一としたのは、彼の決起と奮戦がなければ、陶晴賢打倒も防長経略も遥かに困難であったことを、元就自身が深く認識していた証左に他ならない。この功績により、正頼は毛利家臣団の中で、単なる一武将としてではなく、一門に準ずる特別な地位を確保した。それは、対等に近いパートナーシップから始まった臣従関係であり、後の時代、毛利家の重鎮である吉川元春が、当主・輝元の補佐を正頼に依頼している事実からも、彼がいかに重く見られていたかが窺える 1 。
毛利氏の家臣となった後も、吉見正頼の武将としての存在感は揺るがなかった。本拠である津和野三本松城にあって石見方面の抑えという重責を担い続け、毛利氏が豊後の大友氏や出雲の尼子氏残党と繰り広げた九州・山陰での戦いにも、主力の一人として参陣している 2 。
元亀2年(1571年)に偉大な当主・毛利元就がこの世を去ると、その後を継いだ孫の輝元の治世を支える宿老の一人として、家中における彼の重要性はさらに増した。特に、毛利の両輪と称された吉川元春からは、若き輝元の後見役を託されるなど、その人格と経験は毛利家中枢から深く信頼されていた 1 。
長きにわたる戦いの人生にも、やがて終わりが訪れる。天正9年(1582年)、織田信長との決戦となった備中高松城攻めへの出陣を最後に、正頼は家督を嫡男の広頼に譲り、長門国指月(現在の萩市)に隠居した 1 。そして天正16年(1588年)、大内氏の滅亡と毛利氏の台頭という、西国の激動を自らの手で動かした驍将は、76歳で波乱の生涯に幕を閉じた 1 。
正頼が築いた栄光は、息子の広頼の代にさらに確固たるものとなる。広頼は、毛利元就の嫡男・隆元の娘である津和野局を正室に迎え、吉見家は毛利家と二重の姻戚関係で結ばれた 31 。これにより、吉見家は毛利一門に次ぐ、別格の家格を誇るに至った。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れ、防長二国に減封されるという苦境の中、吉見家は悲劇的な末路を辿る。広頼の子、すなわち正頼の孫にあたる吉見広長は素行不良でたびたび出奔を繰り返すなど問題が多く、慶長の末、藩主・毛利輝元から謀反の疑いをかけられ、誅殺されてしまったのである 31 。これにより、源範頼以来の名門・石見吉見氏の男系嫡流は、無残にも断絶した。家名は、広頼が生前に養子として迎えていた吉川広家(元就の孫)の次男・就頼が継承したものの、就頼は後に毛利姓に復して大野毛利家を興したため、吉見氏の家名は事実上、歴史の表舞台から姿を消すこととなった 8 。
この吉見家の悲劇的な結末は、戦国を生き抜いた武家の栄光と、泰平の世へと移行する中で新たな秩序に適応できなかった者の悲哀を象徴している。正頼が築き上げた毛利家との強固な絆と高い家格は、孫の代には、逆に仇となった可能性がある。減封後の厳しい藩財政と家中統制の中、一門に準ずる高い地位を持つ広長の不始末は、藩主・輝元にとって看過できぬ体制へのリスクと映ったであろう。もし吉見家が単なる外様の家臣であれば、改易や減封で済んだかもしれない。しかし、近しい関係であったがゆえに、その不行跡はより深刻な裏切りと見なされ、「誅殺」という最も厳しい処分に繋がったのではないか。正頼が命懸けで勝ち取った栄光が、皮肉にも孫の代には大きな枷となったという、歴史の非情さがそこには示されている。
吉見正頼の生涯は、主君への義理と一族の宿怨という二つの情念を胸に、自らの信念を貫き通した戦国武将の典型であった。彼の決断と行動は、毛利元就の覇業を決定的な形で助け、中国地方の歴史を大きく動かした。その生き様は、戦国という激動の時代において、一介の国人領主がいかにして自らの存亡を賭け、巨大な勢力と渡り合ったかを示す、象徴的な事例として評価されるべきである。
彼の死後、血筋としての吉見家は途絶えた。しかし、彼が津和anoの地に残した遺産は、武力や領地とは異なる形で、今なお生き続けている。それが、国の重要無形民俗文化財に指定されている「鷺舞(さぎまい)」である 4 。
この優雅な舞は、正頼が当主であった天文11年(1542年)、領内に流行した疫病の鎮護を祈願して、京都の祇園会で舞われていたものを津和野の弥栄神社に奉納したのが始まりと伝えられている 4 。特筆すべきは、その伝播ルートである。鷺舞は、京都から直接津和野にもたらされたのではなく、当時、西の京として栄えていた山口の大内氏を経由して伝えられた 36 。これは、正頼が大内義隆の姉・大宮姫を娶ったことで強化された、吉見氏の大内文化圏への帰属意識を象徴する出来事であった。
鷺舞の導入は、単なる文化的な催しではなく、領民の安寧を願う領主としての統治行為の一環であった。戦いに明け暮れた正頼の生涯において、この逸話は、彼が単なる猛将ではなく、自らの領地と民を慈しむ文化的な側面も持ち合わせていたことを雄弁に物語っている。武力によって築かれた家は、時代の変化の中で脆くも崩れ去ることがある。しかし、彼がもたらした文化は、数世紀の時を超えて受け継がれ、津和野の夏の風物詩として人々に親しまれている 4 。一人の武将の記憶が、文化という形で現代に息づいているこの事実は、吉見正頼という人物の多面的な魅力を伝え、その波乱に満ちた生涯を締めくくるにふさわしい、静かで、しかし確かな遺産と言えるだろう。