向井正綱は今川・武田・徳川に仕えた海将。徳川水軍を確立し、幕府の海事政策を担い、向井将監家として250年の礎を築いた。
日本の歴史が、戦国の動乱から近世の泰平へと大きく舵を切った時代、その転換期を水上で体現した一人の武将がいた。その名を向井正綱(むかい まさつな)という。弘治2年(1556年)あるいは弘治3年(1557年)に生を受け、寛永元年(1624年)にその生涯を閉じるまで、彼は今川、武田、そして徳川という三つの強大な権力に仕え、日本の海事史に不滅の足跡を刻んだ 1 。
彼の生涯は、単なる一武将の立身出世物語に留まらない。それは、中世以来、半ば独立した海上勢力であった「海賊衆」や「水軍」が、いかにして近世の幕藩体制下における「海上官僚」へと変貌を遂げていったか、そのダイナミックな過程を映し出す鏡である。父の代に伊勢の海から駿河へ、そして武田水軍の中核を担い、主家の滅亡後は父の仇である徳川家康に仕えるという劇的な決断を下す。その選択は、戦国乱世を生き抜く武士のリアリズムと、自らが率いる水軍という専門家集団の価値を冷静に見極めた戦略家の眼差しを物語っている。
本報告書は、この向井正綱という類稀なる人物の生涯を、その源流から丹念に追うものである。彼の出自、武田水軍時代に若き将として挙げた武功、徳川家仕官という運命の決断、そして徳川水軍の礎を築き、江戸幕府の海事政策に深く関与した功績を、現存する史料に基づき多角的に検証する。正綱の航跡を辿ることは、徳川家康が描いた国家構想の一端、すなわち「江戸の海」がいかにして創られ、守られていったのかを解き明かす旅となるであろう。
向井氏が、戦国の海を縦横に駆け巡る卓越した水軍として歴史の表舞台に登場するまでには、長い雌伏の時代と、一族の存亡を賭けた幾多の決断があった。そのルーツは名門武家に遡るが、時代の荒波の中で陸を追われ、海に活路を見出す。そして、後の発展に不可欠な基盤となる有力氏族との強固な絆を築き上げていく。
向井氏の出自は、清和源氏足利氏の一門である仁木氏に繋がる 3 。『清和源氏向系図』によれば、その祖は仁木義長の子、仁木四郎長宗とされる 3 。長宗は、室町幕府初期の将軍・足利義持に仕え、その戦功により伊賀国向庄(現在の三重県鈴鹿郡関町加太向井周辺と比定される)を領地として与えられた 1 。この地名に由来して、一族は「向」を名乗るようになった。今日知られる「向井」の姓は、本稿の主題である向井正綱の代から公式に用いられ始めたものであり 1 、これは一族が新たな時代へと踏み出したことを象徴する出来事であったと解釈できる。当初は美濃国にも所領を有していた記録があり 3 、陸の武士であった彼らが、いかにして海の民へとその性質を変えていったのか、その背景には南北朝の争乱が深く関わっている。
室町時代の争乱の中で、向氏はその拠点を失い、伊勢国へと移住を余儀なくされる。彼らは伊勢の国司であった北畠家に仕え、その水軍部隊として次第に頭角を現していった 4 。この伊勢での時代こそ、後の向井水軍の核となる卓越した操船技術や海戦術の基礎が培われた、いわば揺籃期であったと推察される。一部の記録では「伊勢の海賊出身」とも称されており 6 、これは当時の「水軍」と「海賊」が明確に分化されていなかった実態を示している。彼らは単なる戦闘集団ではなく、海上交通の支配や交易にも深く関与する複合的な海上勢力だったのである 7 。
向井氏の歴史における大きな転機は、正綱の父・向井正重の代に訪れる。弘治年間(1555年-1558年)、正重は当時、駿遠三の三国を支配していた今川義元の重臣・朝比奈駿河守の招きに応じ、一族を率いて駿河の海へと渡った 4 。これは、より強大な権力の下で一族の安泰とさらなる発展を図るという、戦国武士団としての極めて合理的な判断であった。
この駿河への移住と前後して、向井氏は大和国出身で同じく駿河に拠点を移していた長谷川氏との間に、極めて強固で重層的な姻戚関係を築き上げる 1 。この結びつきは、向井氏の将来を決定づけるほど重要な意味を持っていた。
この三代にわたる緊密な婚姻関係は、単なる政略結婚の域を超えている。それは、水軍力に秀でた向井氏と、陸上での行政・経済に長けた長谷川氏が、互いの専門性を補完しあい、情報を共有し、リスクを分散させるための運命共同体ともいえる同盟関係であったことを示唆している。この強固なネットワークこそが、後に両家が徳川家中で海事と民政の両面から重用される礎となったのである。
一族の歴史を俯瞰すると、特定の土地に固執せず、自らの専門技能である水軍力を高く評価する主君を求めて伊賀から伊勢、そして駿河へと本拠を移していく姿が浮かび上がる。彼らは土地に根差した領主というよりも、自らの技術を資本とする「プロフェッショナル集団」であった。この文脈において、長谷川氏との強固な同盟は、新たな土地での足場を固め、一族の将来を確かなものにするための重要な生存戦略であった。したがって、向井正綱が後に主君を武田、徳川へと変えていく行動は、この一族に受け継がれた現実的な戦略の延長線上にあり、単なる変節として断じることはできない。
長谷川家 |
関係 |
向井家 |
長谷川長久 |
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向井正重 |
│ |
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│ |
├ 長谷川政勝(向井政勝) |
義兄弟(姉婿・養子) |
向井正綱 |
│ (正綱の姉と婚姻) |
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│(長久の娘と婚姻) |
├ 長谷川長綱 |
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│ |
│ │ |
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│ └ 長綱の娘 |
嫁 |
└ 向井忠勝 |
駿河に拠点を移した向井一族は、今川家の衰退という時代の奔流に乗り、新たな主君として甲斐の虎・武田信玄に仕えることとなる。信玄・勝頼父子の下で、向井正綱は水軍の将としてその才能を開花させ、赫々たる武功を挙げる。しかしその栄光は、父の死という悲劇的な試練の先にあった。この逆境こそが、彼を単なる当主の子から、一族の命運を背負う真の将へと脱皮させるのである。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川家の勢威は急速に衰退する。この機を捉え、甲斐の武田信玄は駿河への侵攻を開始した。この情勢の変化を冷静に見極めた父・正重は、武田家の重臣・山県昌景らの勧誘に応じ、一族を率いて武田家に帰属する 4 。元亀3年(1572年)には、向井氏が武田水軍として活動していたことを示す文書が確認されている 5 。これにより、長年海への出口を渇望していた武田氏は、ついに駿河湾と、それを自在に活用するための専門家集団を手に入れた。正重は持舟城(現在の静岡市用宗城)を拠点とし、武田水軍の中核を担う存在となったのである 9 。
武田家の下で順調にその地位を固めていた向井一族を、突然の悲劇が襲う。天正7年(1579年)9月19日、徳川家康の軍勢が駿河の持舟城に猛攻を仕掛けた。城を守る父・正重は、養子であり正綱の義兄でもある向井政勝と共に奮戦するも、衆寡敵せず、城と運命を共にした 1 。
この時、正綱(当時23歳頃)は清水の袋城に在城していたため、幸運にも難を逃れることができた 4 。父と義兄を一度に失うという絶望的な状況下で、一族の存続は風前の灯火であった。しかし、武田勝頼は向井水軍の価値を高く評価していた。同年10月16日、勝頼は「向井兵庫介(正綱)殿」宛の書状を発し、父・正重の遺領と地位の相続を正式に安堵した 5 。これが史料上で「向井」の姓が使われた初見であり、若き正綱が名実ともに一族の当主として認められた瞬間であった。
父の死という逆境は、若き正綱を奮い立たせた。家督を相続した翌年の天正8年(1580年)、宿敵である北条氏の水軍が再び駿河湾に侵攻してきた。正綱は、同じく武田水軍の将であった小浜氏、間宮氏らと共にこれを迎撃。沼津の千本松原沖で、両軍による激しい海戦の火蓋が切られた 2 。
この戦いにおいて、正綱の将器は遺憾なく発揮される。『甲陽軍鑑』などの軍記物によれば、彼は危険を顧みず敵陣深くへと切り込み、敵の戦船を実に30艘も乗っ取るという、驚異的な大功を立てたと伝えられる 4 。この圧倒的な勝利は、武田水軍の士気を大いに高め、勝頼は感状を与えてその武功を激賞した。一方、手痛い敗北を喫した北条氏政が「莫非(もしや)北条水軍将要滅亡了(北条水軍は滅亡するのではないか)」と嘆息したという逸話は 4 、この海戦が戦局に与えた衝撃の大きさを物語っている。
父の戦死は、正綱にとって計り知れない悲劇であった。しかし、それは同時に、彼を一族の命運を一身に背負うリーダーへと覚醒させるための、避けては通れない試練でもあった。20代前半で突如として当主となった彼は、この千本松原沖での大勝利によって、自らの勇気と将器を内外に証明してみせた。この輝かしい実績と主君からの高い評価は、彼の自信を確固たるものにし、やがて来る武田家滅亡というさらなる試練を乗り越え、徳川家康という新たな時代の覇者に自らを売り込む際の、何物にも代えがたい「実績」となったのである。
天正10年(1582年)、長篠の戦い以降、落日の途を辿っていた武田家は、織田・徳川連合軍の前に脆くも崩れ去った。主家を失った向井正綱は、人生の岐路に立たされる。彼が選んだ道は、父・正重を討った仇敵、徳川家康に仕えるという、一見すると矛盾に満ちた選択であった。しかしこの決断こそ、戦国乱世の武士が持つ現実的な価値観と、家康の卓越した人材戦略が見事に交差した瞬間だったのである。
天正10年(1582年)3月、主君・武田勝頼が天目山で自刃し、名門武田氏は滅亡した。これにより、向井正綱は仕えるべき主を失い、一時的に浪人の身となる 3 。水軍という特殊技能を持つ彼ら一族は、多くの戦国大名にとって垂涎の的であったはずだが、正綱は次の仕官先を慎重に見極めていたと考えられる。
武田家滅亡からわずか3ヶ月後の同年6月、事態は大きく動く。徳川家の重臣であり、「鬼作左」の異名で知られる猛将・本多重次が正綱に接触し、徳川家への仕官を熱心に説得したのである 3 。陸戦では無類の強さを誇る家康であったが、水軍の整備は長年の課題であった 11 。武田水軍のノウハウを熟知し、千本松原沖でその実力を証明した正綱は、駿河の海を完全に掌握し、関東の北条氏との対決に備える上で、まさに喉から手が出るほど欲しい人材であった。これは、敵方の有能な人材であっても、その専門性を高く評価し、自軍の弱点補強のために積極的に登用するという、家康の先見性に満ちた人材戦略の表れであった。
正綱にとって、この申し出を受け入れることには大きな葛藤があったはずである。持舟城で父・正重を討ったのは、紛れもなく徳川軍であり、家康はいわば「父の仇」であった。しかし、彼は最終的にこの説得を受け入れる 3 。
この決断の背景には、個人の情念よりも、一族郎党の存続と将来の発展を最優先する、戦国武将としての冷徹な現実主義(リアリズム)が存在する。「識時務者為俊傑(時務を識る者は俊傑なり)」という言葉が示すように 4 、滅びた主君に殉じることだけが忠義ではない。新たな時代の覇者を見極め、その下で自らの能力を最大限に発揮することこそが、多くの家臣の生活を預かる組織の長としての責務であった。仕官時に提示された禄は二百俵であり、決して破格の待遇ではなかったが 3 、これは徳川水軍における向井氏の輝かしい未来への「出発点」に過ぎなかった。
徳川家に仕官した正綱は、言葉ではなく行動で自らの価値を証明する。仕官の翌月には、早くも伊豆沿岸で北条水軍と交戦。天正10年8月14日、敵将・鈴木団十郎を討ち取るという目覚ましい功績を挙げ、家康から直ちに感状を与えられた 3 。この迅速な戦功は、彼が新主君の下で働く覚悟と能力を示すための意図的な行動であり、これにより家康の信頼を早期に、そして確実に獲得することに成功したのである。
向井正綱の徳川家仕官は、単なる寝返りや変節といった単純な言葉では説明できない。それは、家康の「旧敵の専門家を取り込み、自軍の弱点を補強する」という戦略的人材獲得ポリシーと、正綱の「一族の技能を資本とし、最も将来性のある権力に仕える」という現実的な生存戦略が、完璧に合致した結果であった。主家を失い将来が不透明な正綱にとって、徳川家は「父の仇」という感情的な障壁を乗り越えるに足るだけの「安定した将来」と「自らの専門性を最大限に活かせる場」を提示した。これは、戦国末期の流動的な社会における、極めて合理的な「戦略的提携」であったと分析できる。
徳川家康の家臣となった向井正綱は、その卓越した海事の知識と経験を武器に、天下統一へと向かう徳川軍の中で不可欠な存在となっていく。特に家康の関東入府後は、新首都・江戸の海上防衛体制を構築する上で中心的な役割を担い、名実ともに「江戸湾の守護神」としての地位を確立した。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終結し、家康が旧北条領の関東へ移封されると、正綱もこれに従った。彼は家康から相模国と上総国に合わせて二千石の知行を与えられ、相模国の三浦半島先端、三崎を本拠地とすることを命じられた 1 。三崎は、かつて後北条氏の水軍拠点であった三崎城が置かれた要衝である 5 。この配置は、江戸城の喉元にあたる江戸湾の入り口を、最も信頼する水軍の将に固めさせるという、家康の極めて高度な戦略的意図を明確に反映していた。
関東に入った正綱は、間宮高則、小浜景隆、千賀某といった、同じく武田や北条の水軍出身者たちと共に「徳川御船手四人衆」の一人として、徳川水軍を統括する御船手奉行(御船奉行とも)に正式に任命された 3 。中でも正綱はその筆頭格と目され 12 、徳川水軍の組織化と運用において中核を担う存在となった。江戸の日本橋兜町周辺には、向井氏をはじめとする船手衆の屋敷が集中して配置され、江戸湊から江戸城へと至る水路の最終防衛ラインを形成した 13 。これにより、徳川の新たな本拠地は、陸のみならず海からの脅威にも備えた、強固な防衛体制を整えるに至ったのである。
徳川家が天下の覇権を確立するまでの一連の戦役において、向井正綱率いる水軍は重要な役割を果たした。
家康による向井正綱の三崎配置と、正綱の義兄であり息子の舅でもある長谷川長綱の関東代官頭への登用は、それぞれが独立した人事ではなかった。これは、新首都・江戸の「海上防衛(軍事)」と「海上交通・兵站(経済・民政)」という、車の両輪ともいえる重要な機能を、信頼できる一つの専門家ネットワークに統合して委ねるという、家康の壮大な首都圏経営のグランドデザインの一環であった。軍事の向井氏と民政の長谷川氏という、緊密な姻戚関係で結ばれた両家を江戸の海事の中枢に据えることで、家康は効率的かつ強固な指揮系統を確立し、首都圏の安全保障と経済基盤を盤石なものにしようとした。これは、個々の武将の武勇に依存するのではなく、組織とシステムによって国家を統治しようとする、家康の近世の為政者としての一面を如実に示している。
関ヶ原の戦いを経て徳川の天下が定まり、大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、日本は長い戦乱の時代に終止符を打った。泰平の世の到来は、水軍の役割にも大きな変化をもたらした。向井正綱とその一族は、単なる軍事組織の長から、幕府の権威の象徴、最先端技術の開発、そして国際対応といった、より多角的で高度な海事政策の担い手へと、その姿を変貌させていく。
慶長5年(1600年)、オランダ船リーフデ号が豊後国に漂着し、その乗組員であったイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)は、徳川家康と運命的な出会いを果たす 18 。家康はアダムスの持つ西洋の進んだ数学、地理学、航海術、そして造船術に強い関心を示し、彼を外交顧問として重用した。
やがて家康は、アダムスに日本で西洋式の帆船を建造するよう命じる。この国家的なプロジェクトにおいて、監督・支援役という重責を担ったのが、御船手奉行であった向井正綱と、その嫡子・忠勝であった 7 。伊豆国の伊東、松川河口を造船地に選び 19 、日本の伝統的な職人技術とアダムスの西洋知識を融合させるという、前代未聞の試みが始まった。この事業への深い関与は、向井家が単なる在来船の運用者ではなく、幕府の最先端技術開発を担うテクノクラートとしての一面をも有していたことを示している。
向井家の役割は、国内の海事にとどまらなかった。慶長14年(1609年)、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴを乗せたスペイン船サン・フランシスコ号が上総国岩和田村(現在の御宿町)沖で座礁するという事件が起こる。この際、幕府を代表して漂着者たちの対応にあたり、彼らの保護と処遇に尽力したのが、正綱・忠勝親子であった 7 。彼らは、三浦按針が建造したばかりの西洋式帆船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を提供し、ロドリゴ一行を無事に本国(ノビスパン、現在のメキシコ)へ送り届けるまでの全てを取り仕切った。この一連の対応は、向井家が単なる軍人ではなく、幕府の威信を背負い、異国との折衝を行う渉外担当官、すなわち外交官としての一面も担っていたことを物語っている。
正綱が築いた徳川水軍の礎は、英才の誉れ高かった嫡子・忠勝によって、さらに強固なものへと発展した。忠勝は父の跡を継ぐだけでなく、2代将軍・徳川秀忠の側近として仕え、その厚い信任を得て独自の地位を確立する 7 。
忠勝は、その功績により「左近衛将監(さこんえのしょうげん)」の官位を授けられた。これが向井家にとって画期的なことであったのは、以後、向井家の当主は幕末に至るまで代々「向井将監」を世襲するようになったからである 1 。これは、数ある船手頭の中でも向井家が唯一、世襲を許された筆頭格の家柄として、幕府から特別な地位を公認されたことを意味する 12 。
忠勝の時代、向井家の技術力の粋を集めて建造されたのが、幕府史上最大にして最も豪華な御座船「安宅丸(あたけまる)」であった 20 。この巨大船の建造は、向井家の卓越した造船技術を天下に示すとともに、その役割が純粋な戦闘任務から、将軍の権威を内外に表象する儀礼的なものへとシフトしたことを象徴する出来事であった。
泰平の世の礎を築き、一族の繁栄への道筋をつけた向井正綱は、寛永元年(1624年)3月26日、その波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。享年は68歳または69歳であった 1 。
その亡骸は、自らが開基となって創建した相模国三浦の紫陽山見桃寺に葬られた 1 。この寺の墓所には、今なお正綱と忠勝父子をはじめとする向井一族代々の墓塔群が静かに佇んでいる 22 。それは、伊勢の海から始まり、駿河、そして江戸へと至った海の将の一族が、三浦の地に深く根を下ろし、徳川の海を守り続けた歴史を雄弁に物語っている。
江戸初期の向井家の活動は、徳川幕府が「水軍」という戦国の軍事力を、いかにして「船手頭」という幕府の統治機構の一部、すなわち権力装置へと再編・統合していったかの縮図である。幕府は「大船建造の禁」などで諸大名の水軍力を削ぎ、海上の軍事力を独占する一方 23 、直轄の向井家には西洋技術の導入や巨大船の建造を許し、技術的優位性と権威を集中させた。さらに「将監」という官位と世襲を認めることで、向井家を単なる譜代の家臣から、幕府の海事部門を永続的に担う特別な家柄へと制度化したのである。これにより、かつての荒々しい「海賊衆」は、幕府の法と秩序を体現する「海上官僚」へと完全に変貌を遂げた。向井正綱は、まさしくその偉大な変革の創始者であった。
向井正綱の生涯は、戦国乱世の終焉と徳川泰平の始まりという、日本の歴史における最も劇的な転換期と重なる。彼はその激動の時代を、卓越した海の専門家として、そして冷静な組織の指導者として生き抜いた。彼が遺したものは、単なる武功や逸話に留まらず、二百五十年にわたる江戸幕府の安定を海から支えた、永続的なシステムと伝統であった。
向井正綱という人物は、複数の側面から評価することができる。
正綱が歴史に残した遺産は、具体的かつ多岐にわたる。
向井正綱は、織田信長や豊臣秀吉に仕えた水軍の将・九鬼嘉隆としばしば比較される。鉄甲船の建造など派手な武功で知られる九鬼に対し、正綱の功績は、徳川幕府という巨大な官僚機構の礎を、海から地道に築き上げた組織構築者としての側面が強い。
彼の生涯は、戦国時代の「個の武勇」が全てを決定した時代から、泰平の世の「組織とシステム」が支配する時代への、大きな移行期そのものを象徴している。彼は、荒ぶる海を力で制する「海賊大将」から、法と秩序で海を治める「御船手奉行」へと、自らを見事に変革させた人物であった。徳川二百五十年の泰平の海は、まさに向井正綱という一人の男が拓いた、揺るぎない航路の上にあったと言っても過言ではないだろう。
西暦/和暦 |
正綱の年齢 |
向井正綱・向井家の動向 |
日本の主な出来事 |
1556/弘治2 |
1歳 |
駿河国にて生誕(弘治3年説もあり) 1 。父・正重は今川氏に仕官。 |
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1560/永禄3 |
5歳 |
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桶狭間の戦い。今川義元が戦死。 |
1568/永禄11 |
13歳 |
父・正重が武田信玄に仕官 4 。 |
武田信玄の駿河侵攻。 |
1572/元亀3 |
17歳 |
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三方ヶ原の戦い。 |
1575/天正3 |
20歳 |
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長篠の戦い。武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗。 |
1579/天正7 |
24歳 |
9月、徳川軍の攻撃により持舟城が落城。父・正重と養兄・政勝が戦死。10月、勝頼から家督相続を安堵される 4 。 |
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1580/天正8 |
25歳 |
沼津千本松原沖の海戦で北条水軍に大勝。勝頼から感状を与えられる 4 。 |
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1582/天正10 |
27歳 |
3月、武田家が滅亡し浪人となる。6月、本多重次の説得で徳川家康に仕官 3 。嫡子・忠勝が誕生 20 。 |
本能寺の変。織田信長が死去。 |
1590/天正18 |
35歳 |
小田原征伐に徳川水軍として参陣 1 。家康の関東入府に伴い、相模国三崎に入り、御船手奉行となる 1 。 |
豊臣秀吉が天下を統一。 |
1592/天正20 |
37歳 |
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文禄の役が始まる。 |
1600/慶長5 |
45歳 |
関ヶ原の戦いに際し、海路で西上しようとするが暴風雨で遅参 1 。三浦按針の漂着に対応。 |
関ヶ原の戦い。 |
1603/慶長8 |
48歳 |
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徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 |
1604/慶長9 |
49歳 |
三浦按針による西洋式帆船の建造を監督・支援 7 。 |
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1614/慶長19 |
59歳 |
大坂冬の陣。江戸湾の警固にあたる。嫡子・忠勝は前線で活躍 7 。 |
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1615/元和元 |
60歳 |
大坂夏の陣。豊臣家が滅亡。 |
武家諸法度が制定される。 |
1616/元和2 |
61歳 |
三浦三崎に見桃寺を開基 7 。 |
徳川家康が死去。 |
1624/寛永元 |
69歳 |
3月26日、死去。見桃寺に葬られる 1 。 |
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