和智誠春は備後の名門国衆。毛利隆元急死で毒殺を疑われ誅殺されたが、これは毛利氏が中央集権化を進めるための政治的粛清だった。怨霊伝説も残る悲劇の武将。
日本の戦国時代史において、和智誠春(わち まさはる)という名は、しばしば毛利元就の嫡男・隆元の死にまつわる悲劇の脇役として、断片的に語られるに過ぎない。毛利家臣でありながら、隆元を饗応した直後に彼が急死したため、毒殺の嫌疑をかけられ、後に主君・元就によって誅殺された、というのが一般的な認識であろう 1 。しかし、この簡潔な概要の裏には、一人の国衆領主の誇り高き生涯と、彼が生きた時代の地殻変動ともいえる権力構造の変化が複雑に絡み合っている。
本報告書は、和智誠春を単なる「暗殺容疑者」という一面的な人物像から解放し、彼の出自からその悲劇的な最期に至るまでを徹底的に掘り下げることを目的とする。彼の誅殺は、真に隆元の死への報復であったのか。それとも、中国地方の新たな覇者として君臨せんとする毛利氏の、冷徹な政治的計算の産物ではなかったのか。この問いを解き明かすことは、和智誠春個人の運命を追うだけでなく、戦国大名がその支配体制を確立していく過程で、古くからの在地領主である「国衆」がいかに淘汰され、組み込まれていったかという、戦国時代の本質的な力学を理解する上で不可欠な作業となる。
和智誠春の悲劇を理解するためには、まず彼が率いた和智氏が、単なる一地方の土豪ではなく、鎌倉時代以来の由緒と独立性の高い気風を持つ名門であったことを認識する必要がある。この一族の誇りこそが、後の毛利氏との関係において、悲劇の伏線となるのである。
和智氏のルーツは、遠く平安時代中期の武将で、平将門の乱を鎮圧したことで名高い藤原秀郷(俵藤太)にまで遡る 3 。秀郷の子孫からは下野国の小山氏などが輩出されたが、その一族で相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)に土着したのが波多野氏である。和智氏は、この波多野氏からさらに分かれた広沢氏の庶流にあたる 3 。
広沢氏は、源平合戦や承久の乱における戦功の恩賞として、備後国三谿郡(現在の広島県三次市東部)の地頭職を獲得し、鎌倉時代に関東からこの地へ移住した 4 。いわゆる関東御家人の家柄であり、その出自は他の国衆とは一線を画す高い家格を誇っていた。ただし、一族の惣領家は鎌倉に留まって幕府に出仕し、備後には庶子家が代官として入部した。その中で、和智荘を継承した広沢実成の系統が、在地名をとって「和智氏」を名乗るようになったのがその始まりである 4 。
在地に根を下ろした和智氏は、南北朝時代の動乱期を通じて、単なる地頭から自立した国衆へと成長していく。その気風を象徴する出来事が、暦応3年(1340年)に起きる。室町幕府を開いた足利尊氏が、和智氏の本領を取り上げて京都の暦応寺に寄進しようとした際、和智氏はこれを実力で拒否し、本領を守り通したのである。そればかりか、幕府への対抗上、南朝方に与して瀬戸内海方面にまで勢力を広げたという記録も残っている 2 。
この逸話は、和智氏が中央権力にも容易に屈しない、強固な独立精神と実力を兼ね備えた一族であったことを如実に物語っている。鎌倉時代以来の地頭という出自は、彼らに「土地との強い結びつき」と「幕府から公的に認められた権威」という二重のアイデンティティを与えた。そして、南北朝の動乱期に中央の命令を実力で退けたこの成功体験は、そのアイデンティティをさらに強固なものとし、「自らの領地は自らの力で守る」という家風を決定づけたのである。
戦国時代に入ると、和智氏は備後国吉舎(現在の三次市吉舎町)に南天山城を築いて本拠とし、この地方における有力国衆としての地位を確固たるものにした 3 。この、過去の成功体験に裏打ちされた独立不羈の気風と国衆としての誇りが、後に毛利氏との関係において、自らを対等な「盟友」と見なす意識を固持させる要因となる。そして、絶対的な主従関係を求める毛利氏の新たな秩序との間に、致命的な軋轢を生む根本原因となっていく。皮肉にも、彼ら一族の栄光の歴史こそが、未来の悲劇の源流となったのである。
戦国中期、中国地方の勢力図は激しく塗り替えられていく。この中で安芸の一国衆であった毛利氏が急速に台頭し、和智氏との関係もまた、「対等な盟友」から「主従」へと不可逆的に変化していく。この力関係の変化こそ、隆元急死事件の背景にある重要な力学であった。
16世紀初頭、備後国の国衆の多くは、山陰の雄・尼子氏の勢力下に置かれていた。和智氏も例外ではなく、当初は尼子方に属していたが、やがて周防の大内氏へ転じ、その時々の情勢を見極めながら巧みに立ち回っていた 2 。
この二大勢力の狭間で頭角を現したのが、毛利元就である。元就は備後地方の国衆を巧みに束ねてその盟主となり、尼子氏の勢力を駆逐していく。この過程で、和智氏も毛利氏との連携を深めていった。天文22年(1553年)には、尼子方に付いた同族の江田隆連の情報を元就に伝えるなど、毛利方として積極的に協力している 1 。
しかし、この協力関係は、あくまで国衆同士の対等な連合という色彩が強かった。その力関係が決定的に変化したことを示す象徴的な出来事が、弘治3年(1557年)12月に交わされた起請文である。これは、毛利元就・隆元父子と、毛利氏に属する備後国の諸領主が連名で、軍規の遵守を誓約したものであった。形式上、署名者が円形に並ぶ「傘連判状」が用いられており、一見すると対等な立場を装っている。だが、その中心に毛利父子の名が据えられている以上、実質的には毛利氏を絶対的な盟主として仰ぐ従属関係へと移行したことを示すものであった。この起請文に、和智誠春は「和智又九郎誠春」として名を連ねている 1 。
永禄6年(1563年)8月、毛利氏は尼子氏を滅ぼすべく、総力を挙げて出雲へ遠征しようとしていた。その出陣直前、毛利家の当主であり、元就の嫡男である毛利隆元は、安芸国高田郡佐々部(現在の安芸高田市高宮町佐々部)に滞在していた。この時、和智誠春が隆元を自身の宿所での饗応に招いたのである 1 。
8月3日夜、誠春は心のこもった豪華な酒食で隆元をもてなした。しかし、その宴の帰途、隆元は激しい腹痛を訴え、翌4日の朝、帰らぬ人となった。享年41歳であった 1 。
この突然の死は、毛利家に激震を走らせた。父・元就は、状況から隆元の死を自然死とは到底考えられず、饗応の主であった和智誠春による毒殺を強く疑った 1 。この「毒殺説」が、後の誠春誅殺の直接的な口実となる。
しかし、隆元の死因については、現代に至るまで複数の説が存在する。
隆元の死の真相が、これら三つのいずれであったか、あるいはその複合であったかを今となっては断定できない。しかし、元就にとって重要だったのは、科学的な死因の究明ではなかった。後継者の突然の死という毛利家最大の危機を、いかにして権力基盤を強化する好機へと転換するか、という冷徹な政治的判断であった。
その観点から見れば、「毒殺」という筋書きは極めて有効であった。家中の動揺を「内部の裏切り者」という明確な敵へと向けさせ、悲しみと怒りを共有させることで結束を促す効果がある。そして、その「敵」役として、鎌倉以来の家格を誇り独立心の強い国衆の代表格である和智誠春は、まさに理想的な標的であった。彼を粛清することは、他の国衆に対するこれ以上ない強力な見せしめとなるからである 2 。したがって、たとえ隆元の死が食中毒や病死であった可能性が高いとしても、元就は意図的に「毒殺説」を採用し、時間をかけてその筋書きを盤石なものにしていったと考えられる。この事件は、真相究明のプロセスというよりも、当初から政治的プロパガンダとしての側面が色濃かったのである。
隆元の急死から和智誠春の誅殺まで、永禄6年(1563年)から永禄12年(1569年)に至るまで、約6年という長い歳月が流れている。もしこれが単純な報復であるならば、この遅延は不可解である。この空白期間の出来事を丹念に追うことで、誠春の誅殺が衝動的な感情の発露ではなく、周到に準備された政治的粛清であったことが明らかになる。
元就は、隆元の死の直後には和智誠春を罰しなかった。まず疑惑の矛先が向けられたのは、隆元に随行していた側近の赤川元保であった。元就は、元保が誠春と共謀して隆元を毒殺したと断定し、事件から4年後の永禄10年(1567年)、元保とその一族を誅殺した 1 。
ところがその後、元保は生前、隆元に対して「和智誠春からの饗応は受けるべきではない」と諫言していたことが判明する。元就はこれを大いに悔やみ、元保の名誉を回復させたとされる 1 。この一連の劇的な展開により、疑惑は赤川氏から完全に離れ、和智誠春ただ一人に集約されることになった。
このプロセスは、誠春を社会的に孤立させ、その誅殺を正当化するための巧妙な布石であったと見ることができる。事件直後に国衆である誠春を罰すれば、他の国衆の反発を招くリスクがあった。そこでまず、毛利家譜代の重臣である赤川氏を「裏切り者」として処断することで、家中を引き締め、元就の断固たる意志を示す。その上で赤川氏の「無実」を明らかにし、自らの温情と公正さを(表向き)アピールすると同時に、疑惑の矛先を外部の国衆である和智氏に一点集中させる。この周到な手順を踏むことで、誠春への断罪は「譜代の忠臣を誤って罰してしまったほどの悲しみと怒りに基づく、正当な裁き」という大義名分を得ることになる。これは、約4年という歳月をかけた、冷徹な世論操作であり政治劇であった。
父に疑惑の目が集中する中、絶望的な状況に追い込まれたのが、誠春の嫡男・和智元郷であった。永禄11年(1568年)2月、元郷は元就に対し、血判の起請文を提出する。その内容は、元就とその後継者・輝元への絶対的な忠誠を誓い、「もし父・誠春が自分と同様の忠臣でなければ、親子の縁を切ることも辞さない」とまで言い切る、悲痛なものであった。さらに、和智一族が崇敬してきた吉舎両社明神を、毛利氏が崇敬する厳島神社の下位に位置づけると誓約し、名門としてのプライドを完全に捨てて毛利家への完全な服従を表明したのである 14 。
西暦(和暦) |
和智誠春・和智氏の動向 |
毛利氏の動向 |
関連する歴史的出来事 |
1563年(永禄6年) |
安芸国佐々部にて毛利隆元を饗応。 |
8月、毛利隆元が急死。元就、毒殺を疑う。 |
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1565年(永禄8年) |
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毛利輝元が元服。 |
将軍足利義輝が暗殺される(永禄の変)。 |
1566年(永禄9年) |
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尼子義久が降伏し、月山富田城を開城。尼子氏が滅亡。 |
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1567年(永禄10年) |
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3月、赤川元保とその一族を隆元暗殺の嫌疑で誅殺。 |
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1568年(永禄11年) |
2月、嫡男・元郷が元就に血判起請文を提出。 |
伊予出兵に従軍。5月、伊予からの帰路、厳島に監禁される。 |
織田信長が足利義昭を奉じて上洛。 |
1569年(永禄12年) |
1月、厳島神社にて弟・柚谷元家と共に誅殺される。 |
熊谷就政、児玉元村らを派遣し、誠春らを誅殺。 |
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この年表は、隆元の死から誠春誅殺までの間に、毛利氏が報復を忘れていたのではなく、最大の敵であった尼子氏の滅亡という最優先課題を完遂し、家中の引き締め(赤川氏誅殺)を行った上で、満を持して和智氏の粛清に着手したという戦略的な流れを明確に示している。これは、誅殺が政治的意図に基づいていたことを裏付ける強力な状況証拠となる。
嫡男・元郷による悲痛な嘆願も、元就の決意を覆すには至らなかった。誠春自身が嫌疑を晴らすための積極的な行動を取らなかったことを理由に、元就は誅殺の意思を固める 1 。永禄11年(1568年)、毛利氏は伊予国への出兵を決定。元就は誠春と、その弟で萩原城主の柚谷元家にも従軍を命じた。これは、彼らを本拠地である備後から引き離すための策であった。
伊予遠征が一段落した同年5月、凱旋の途上、誠春と元家は厳島の摂受坊(せつじゅぼう)という宿坊に監禁された 1 。毛利氏にとって、厳島は厳島の戦いでの勝利以来、一族の守護神を祀る神聖な場所であり、その権威の象徴でもあった。その地を処刑の舞台に選んだこと自体に、元就の強い政治的意図が込められていた。
監禁から半年ほどが経過した同年12月、誠春と元家は家臣の手引きで摂受坊を脱走。しかし、島から逃れることはせず、厳島神社の本社本殿に立て籠もった 1 。そして、「もし攻め寄せるならば、この神殿に火を放って自害する」と脅し、最後まで国衆としての意地と誇りを見せたのである 2 。
この行動は、無実の罪で監禁されたことへの最後の抗議であり、神の権威に助けを求める行為であったのかもしれない。しかし、毛利氏の視点から見れば、これは聖域を穢す許しがたい冒涜行為に他ならなかった。これにより元就は、誠春を単なる「主君の嫡男殺しの容疑者」から、「毛利家の守護神を蔑ろにする神敵」へと仕立て上げる絶好の口実を得た。
永禄12年(1569年)1月24日、元就の命を受けた近臣の熊谷就政が、厳島神社の回廊に潜入。隙を突いて誠春を組み伏せ、応援に駆けつけた児玉元村と協力して討ち果たした。誠春が討たれたことを知った弟の元家と家臣らも観念し、社頭にて誅殺された 1 。誠春の近習であった下部与三郎は、主君の念持仏を吉舎の常和寺に持ち帰り、その死を伝えた。知らせを受けた家老の高羽又十郎は、常和寺の境内で与三郎と共に殉死したと伝えられる 1 。
和智誠春の誅殺は、単なる一個人の死に留まらず、毛利氏の権力構造、そして中国地方の国衆のあり方に決定的な影響を与えた。その歴史的意味を多角的に分析し、事件が後世に残したものを考察する。
隆元の死から誅殺まで約6年という時間的乖離は、この事件が単純な激情による報復ではないことを雄弁に物語っている 2 。毛利氏が尼子氏との最終決戦という国家の存亡をかけた大事業を終え、権力基盤が盤石になったタイミングを見計らって実行されたことからも、その計画性は明らかである。
この誅殺の真の目的は、毛利氏が国衆の連合体から、当主を頂点とする中央集権的な戦国大名へと脱皮する過程で、旧来の独立性の高い国衆の力を削ぎ、絶対的な主従関係を確立するための「見せしめ」であったと考えられる 1 。
その標的として、なぜ和智氏が選ばれたのか。それは、和智氏が鎌倉以来の由緒ある家柄を誇り、幕府の命令さえ実力で退けた独立不羈の気風を持つ、備後国衆の象徴的存在であったからに他ならない。そのような名門の当主を、主君の嫡男殺しという大罪人の汚名を着せて、聖域である厳島で誅殺するという衝撃的な結末は、他の国衆に絶大な恐怖と畏怖を植え付けた。和智誠春の死は、毛利家中の権力序列を再定義し、「盟友」の時代が終わり、「主君」による絶対支配の時代が始まったことを内外に宣言する、血塗られた儀式だったのである。
和智誠春の死後、和智氏が完全に滅亡したわけではなかった。父に代わって完全な服従を誓った嫡男・元郷は、元就から家督の相続を許され、和智氏は存続した 14 。その後、和智氏は毛利氏の家臣として仕え続け、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長二カ国に減封されると、それに従って先祖伝来の地である備後国吉舎を離れ、長州藩士として新たな道を歩むことになった 14 。
一方で、誅殺された誠春の弟・柚谷元家の子である柚谷実義は、元就の方針に抵抗したため、一族もろとも滅ぼされている 14 。服従を選んだ本家は存続し、抵抗を示した分家は滅びるという対照的な結末は、元就の冷徹な方針を改めて示している。
この事件が当時の人々に与えた衝撃の大きさは、後世に語り継がれた伝説からも窺い知ることができる。江戸時代の軍記物である『陰徳記』によれば、誅殺された誠春と元家の兄弟は怨霊となり、厳島の島民を大いに悩ませたという。そのため、島民たちは彼らの祟りを鎮めるために社を建て、神として祀ったと伝えられている 1 。
この怨霊伝説の流布は、単なる迷信として片付けることはできない。怨霊とは、非業の死を遂げた者の強い無念から生まれるとされる。誠春の怨霊伝説が語り継がれた背景には、為政者である毛利氏の公式見解(正当な誅殺)とは別に、民衆のレベルで「誠春は無実の罪で殺されたのではないか」「毛利氏のやり方はあまりに苛烈ではないか」という、事件の正当性に対する潜在的な疑念や同情が存在したことを示唆している。この伝説は、公式記録からは見えてこない、事件に対する人々の複雑な心性や道徳的評価を後世に伝える、「もう一つの歴史」としての価値を持つ貴重な史料と見なすことができるだろう。
和智誠春の生涯は、一人の武将の悲劇に留まらない。彼は、国衆としての自立と誇りという、中世から続く古い時代の価値観を体現した人物であった。彼の運命は、より強大で中央集権的な権力体である戦国大名・毛利氏が、旧来の国衆連合という秩序を飲み込み、新たな支配体制を構築していくという、戦国時代という激動の時代における歴史の必然が生んだ悲劇であった。
彼が本当に隆元を毒殺したのか、その真相は永遠に闇の中である。しかし、彼が時代の大きな転換点において、その変化に適応できずに淘汰されていった数多の勢力や個人の運命を象徴する存在であることは間違いない。和智誠春の物語は、華々しい英雄譚の影で、歴史の渦に静かに消えていった者たちの無念と誇りを、現代に伝え続けている。