和知直頼は白河結城氏の忠実な奉行。しかし、子孫の美濃守は主家の衰退と天下統一の波の中で、一族存続のため主君を追放。忠誠から離反へと変貌した戦国末期の在地領主の生き残り戦略を象象徴する。
日本の戦国時代史において、後世に名を残すのは、天下統一を成し遂げた英雄や、広大な領国を支配した大名たちに偏りがちである。しかし、その華々しい歴史の陰には、激動の時代を必死に生き抜いた無数の在地領主、すなわち国衆の存在があった。彼らの動向こそが、戦国という時代の複雑性と実相を解き明かす鍵を握っている。本報告書が光を当てるのは、南陸奥の雄・白河結城氏に仕えた家臣、和知直頼(わち なおより)という一人の武将とその一族である。
和知氏に関する歴史的記録は、断片的でありながら、極めて示唆に富む二つの側面を提示する。一つは、天正二年(1574年)、主君・白河結城義綱の陸奥国一宮・近津大明神への寄進に際し、その内容を保証する添状を発給した忠実な奉行としての和知直頼の姿である。これは、主君から絶大な信頼を寄せられ、家中の中枢で権能を振るった重臣の姿を彷彿とさせる。しかし、そのわずか十数年後、天正十八年(1590年)頃、直頼の後裔と目される和知美濃守は、他の重臣らと結託し、主君・白河結城義顕を居城から追放するという、主家を根底から覆す挙に出る。
忠臣から、主家を滅亡に導いた簒奪者へ。この一族の行動に見られる劇的な変転は、単に個人の資質や心変わりの問題として片付けるべきではない。むしろ、この断絶と連続性の中にこそ、戦国時代末期の南陸奥という、大国の思惑が渦巻く辺境の地で、自らの一族と所領を守り抜こうとした在地領主の、宿命的ともいえる生存戦略が凝縮されている。本報告書の目的は、和知直頼とその一族の動向を、第一級史料である『白河結城家文書』をはじめとする諸史料に基づき徹底的に調査・分析することにある。そして、彼らの行動を戦国末期の政治・社会構造の中に位置づけ、その歴史的実像を多角的に再構築することを目指す。
本稿は、まず和知氏の出自と白河結城家臣団における地位を明らかにし(第一章)、次に和知直頼の具体的な事績、特に添状発給の意義を深く考察する(第二章)。続いて、彼らを取り巻く時代の大きなうねり、すなわち主家・白河結城氏の衰退と南陸奥の動乱を概観し(第三章)、最後に後裔・和知美濃守による主家追放という決断の背景と論理を分析する(第四章)。これらの考察を通じて、和知一族の物語が、戦国という時代の過酷な現実を映し出す、普遍的な一典型であることを論証したい。
和知一族の行動原理を理解するためには、まず彼らがどのような出自を持ち、白河結城家中でいかなる地位を占めていたのかを解明する必要がある。彼らの家格やアイデンティティは、後の重大な局面における意思決定の基盤を形成したと考えられるからである。
和知氏の出自を遡ると、その源流は下野国(現在の栃木県)に求められる。諸記録によれば、和知氏は下野の名族・二階堂氏の一族であったと伝えられている。二階堂氏は、鎌倉幕府において政所執事を務めた二階堂行政を祖とする名門であり、その一族は鎌倉時代から室町時代にかけて、幕府の有力な吏僚として、また各地の守護・地頭として広範なネットワークを築いていた。
和知氏がこの二階堂氏の支族であるという事実は、彼らが単なる土着の豪族ではなく、由緒ある家格と、白河庄という一地域に留まらない広域的な一門意識を有していた可能性を示唆する。彼らがいつ、どのような経緯で本拠地の下野国を離れ、陸奥国白河庄に移住し、東白川郡和知(現在の福島県東白川郡塙町和知)の地に根を下ろしたのか、その具体的な時期やプロセスを詳述する史料は現存しない。しかし、鎌倉・室町期を通じて、幕府の御家人が恩賞地や所領支配のために各地へ移住する例は数多く見られることから、和知氏もそうした流れの中で南陸奥に土着したと推測される。
この「二階堂氏支族」という出自は、彼らのアイデンティティを考察する上で極めて重要な意味を持つ。戦国時代の武家社会において、忠誠の対象は必ずしも単一ではなかった。主君への奉公という直接的な主従関係と並行して、自らの一族・一門の存続と繁栄という、より根源的な目標が存在した。和知氏にとって、白河結城氏は仕えるべき主君であったが、同時に彼らは「二階堂一族」という、より大きな血縁共同体の一員でもあった。この二重のアイデンティティは、主家である白河結城氏の権威が絶対的であった時代には問題とならなかったであろう。しかし、主家の統治能力に翳りが見え、その存続すら危ぶまれる状況に陥った時、彼らの行動原理は「白河結城家臣」としての立場よりも、「二階堂一門・和知家」としての存続を優先する方向へと傾く素地を、その出自の中に内包していたのである。
和知氏が白河結城家中で占めていた地位は、決して低いものではなかった。そのことを如実に物語るのが、和知直頼が主君の寄進状に添状を発給したという事実である。戦国大名家において、主君が発給した公式な文書(本書)の内容が正しく、その執行を保証するために、奉行職などの中枢を担う重臣が副状として発給する文書が添状である。この添状を発給する権限は、家中の行政・財政を統括する奉行クラスの、限られた有力家臣にしか与えられていなかった。
和知直頼がこの重要な役割を担っていたことは、彼が単なる一武将ではなく、白河結城氏の統治機構において中核的な地位を占める人物であったことの動かぬ証拠である。彼が家政、あるいは財政面で奉行として辣腕を振るい、主君・結城義綱から深い信任を得ていた様子が窺える。和知氏の所領であった和知郷 の経済的規模や、彼らが動員し得た兵力については具体的な史料を欠くものの、こうした家中での枢要な役割から、彼らが家臣団の中でも屈指の有力者であったことは間違いない。
この高い地位は、後に彼らの子孫が主家を追放するというクーデターを敢行する上で、不可欠な要素となった。家中において人望と実権を掌握していなければ、他の重臣たちを糾合し、主君に反旗を翻すといった重大な行動を主導することは不可能である。和知直頼の時代に築かれた家中の枢要な地位と影響力は、皮肉にも、その後の世代が主家を打倒するための政治的資本となったのである。
表1:和知氏関連略系図(推定)
世代 |
人物名 |
備考 |
不明(父祖世代) |
和知直頼 |
天正二年(1574年)に活動。白河結城義綱の奉行として添状を発給。忠臣としての側面を示す。 |
不明(子世代) |
和知美濃守 |
天正十八年(1590年)頃に活動。主君・白河結城義顕を追放し、小峰義親を擁立。一族の生存を賭けた決断を下す。 |
和知直頼という人物の具体的な活動を今に伝える、ほぼ唯一にして最も重要な史料が、天正二年に彼が発給した一通の添状である。この文書は、彼の人物像を浮き彫りにすると同時に、当時の白河結城氏における主従関係の実態を垣間見せる貴重な窓となっている。
史料によれば、天正二年(1574年)十二月二十八日、白河結城氏の当主であった結城義綱は、陸奥国一宮として崇敬を集めていた近津大明神(現在の福島県東白川郡棚倉町にある都々古和氣神社)に対し、社領を寄進した。この寄進に際し、和知直頼は「結城晴綱(義綱の父)以来の先例に任せ、寄進の旨を滞りなく執行すべし」という内容の添状を発給している。
この一連の行為は、単なる宗教的な信仰心の表れに留まるものではない。近津大明神は、陸奥国で最も格式の高い神社の一つであり、この一宮に対する寄進行為は、白河結城氏が南陸奥における正統な支配者であることを内外に誇示する、高度に政治的な意味合いを持つパフォーマンスであった。領内の最高神格を保護する力があることを示すことで、自らの権威を強化し、領民や周辺勢力に対する求心力を高める狙いがあった。
この極めて重要な政治的行為において、和知直頼が添状の発給という形で関与したことの意味は大きい。前章で述べた通り、添状は主君の命令の正当性を保証し、その実務的な執行を担保する役割を持つ。つまり、和知直頼は、主君・義綱の意思決定を最終的に執行する段階で、責任者としての役割を担っていたのである。これは、彼が義綱から絶大な信頼を得ていたこと、そして家中の行政実務を統括する奉行としての確固たる権限を有していたことの何よりの証左と言える。この天正二年の時点においては、白河結城氏の統治機構は正常に機能しており、主君と重臣の間には、寄進という神聖な儀式を共に遂行し得るだけの、強固な信頼関係が存在していたことが明確に読み取れる。
現存する唯一の一次史料である添状から、和知直頼の人物像を再構築するならば、彼は「忠実かつ有能な奉行」として評価することができる。彼の筆跡や文面からは、主家の先例を重んじ、与えられた職務を滞りなく遂行しようとする、実直な官僚としての姿が浮かび上がってくる。
彼が活動した天正二年(1574年)頃の南陸奥は、決して平穏な時代ではなかった。南からは常陸国の佐竹義重が、北からは会津の蘆名盛氏が、それぞれ勢力拡大の機会を窺い、白河庄周辺では両者の草刈り場として絶えず緊張が続いていた。このような厳しい外部環境の中にあって、領国を維持するためには、家中の結束が不可欠であった。和知直頼のような有能な奉行が、家中の行政を堅実に運営し、主君の権威を支えることで、白河結城氏はかろうじてその独立を保っていたのである。直頼の忠実な職務遂行は、まさに主家の屋台骨を支える重要な役割を果たしていたと評価できよう。
しかし、この和知直頼の「忠臣」としての姿は、別の視点から見れば、より深い歴史的意味合いを帯びてくる。後の白河結城氏の急激な衰退と滅亡という結末を知る我々からすれば、この天正二年の出来事は、同家が領国支配者としての権威を保ち得た、いわば「最後の輝き」であった可能性が高い。主君が権威ある行動(一宮への寄進)を示し、重臣がそれを忠実に補佐・保証するという理想的な主従関係が機能していたこの瞬間は、まさに崩壊前夜の秩序を象徴する光景であった。したがって、和知直頼の忠勤は、単なる一個人の美談としてではなく、その後の劇的な崩壊を際立たせるための重要な「前史」として捉えることができる。彼の存在は、白河結城氏がまだ求心力を維持していた時代の、最後の証人であったのかもしれない。
和知直頼が忠勤に励んだ時代から、その子孫である和知美濃守が主家を追放するまでのわずか十数年の間に、南陸奥の政治情勢は激変した。この変化を理解することなくして、和知一族の行動の変転を正しく評価することはできない。白河結城氏の権威は、内部からの崩壊と外部からの圧力という二つの要因によって、急速に失われていった。
表2:16世紀後半の南陸奥主要勢力と白河結城氏関連年表
西暦 |
元号 |
白河結城氏・和知氏の動向 |
周辺勢力の動向 |
1573 |
天正元 |
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織田信長、室町幕府を滅ぼす。 |
1574 |
天正二 |
和知直頼 、主君・結城義綱の近津大明神への寄進に添状を発給。 |
|
1575 |
天正三 |
結城義顕、家督を継承か。 |
伊達輝宗、蘆名盛氏と同盟(天正三年奥州の和平)。 |
1582 |
天正十 |
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本能寺の変。織田信長死去。 |
1585 |
天正十三 |
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伊達政宗、人取橋の戦いで佐竹・蘆名連合軍に辛勝。 |
1587 |
天正十五 |
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豊臣秀吉、九州を平定。惣無事令を発布。 |
1589 |
天正十七 |
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伊達政宗、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇権を握る。 |
1590 |
天正十八 |
和知美濃守 ら、主君・結城義顕を追放。小峰義親を擁立。直後に白河結城氏は改易(滅亡)。 |
豊臣秀吉、小田原征伐。奥州仕置を実施。 |
白河結城氏の弱体化を招いた最大の内部要因は、本家と庶流である小峰氏との間に長年にわたって存在した根深い対立であった。小峰氏は、白河結城氏初代・結城宗広の子、朝常を祖とする一族で、白河庄南方の小峰城(現在の福島県白河市)を拠点とし、本家を凌ぐほどの勢力を持つこともあった。
戦国時代を通じて、この両者の関係は、協力と対立を繰り返す不安定なものであった。本家の家督継承問題に小峰氏が介入することもあれば、外部勢力と結んで本家に反旗を翻すこともあった。このような内部抗争は、家臣団の分裂を招き、白河結城氏全体の求心力と軍事力を著しく低下させた。家臣たちは、本家と小峰氏のいずれに与することが自家の利益になるか、常に天秤にかけることを強いられた。和知氏のような有力な国衆にとって、この内部対立は、自らの政治的立場を決定する上で、常に考慮しなければならない重要な変数であった。最終的に和知美濃守らが、追放した主君・結城義顕に代わって白河城主として迎え入れたのが、この庶流の小峰義親であったという事実は、この内部対立がクーデターの直接的な構造的要因であったことを示している。
内部に深刻な対立を抱える白河結城氏に対して、外部からの圧力は容赦なく襲いかかった。南陸奥の白河庄は、北の会津を本拠とする蘆名氏、南の常陸を本拠とする佐竹氏、そして西の須賀川を本拠とする二階堂氏(和知氏の本家筋にあたる)といった諸勢力の緩衝地帯に位置していた。白河結城氏は、これらの勢力と離合集散を繰り返しながら、かろうじて独立を維持する綱渡りの外交を強いられていた。
天正年間に入ると、このパワーバランスは劇的に変化する。特に、天正十三年(1585年)に家督を継いだ伊達政宗の急激な勢力拡大は、南陸奥の政治地図を一変させた。政宗は、人取橋の戦いを経て、天正十七年(1589年)には摺上原の戦いで宿敵・蘆名氏を滅亡に追い込み、会津を掌中に収めた。これにより、伊達氏は白河結城氏にとって、抗うことのできない巨大な隣人として出現したのである。
もはや自力での独立を維持する力を失った白河結城氏のような中小国衆にとって、選択肢は限られていた。強大な外部勢力のいずれかに従属し、その庇護下で家名を保つか、あるいは抵抗して滅ぼされるかである。このような状況下では、主家の権威は必然的に失墜する。家臣たちは、もはや頼りにならない主君の判断よりも、伊達氏や、天下統一を進める豊臣秀吉といった、より大きな権力の意向を直接窺うようになる。これが、在地領主(国衆)が旧来の主家を見限り、新たな覇者に乗り換えるという、戦国末期に頻発した現象の構造的背景である。和知氏の決断もまた、この南陸奥全体の地政学的変動と完全に連動したものであった。
和知直頼が示した主家への忠誠からわずか十六年後、南陸奥の政治情勢は、もはや一地方勢力の内部努力では抗いようのない、天下規模の地殻変動に飲み込まれようとしていた。この激動の中で、直頼の後裔・和知美濃守は、一族の存亡を賭けた重大な決断を下す。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を討伐するため、小田原征伐の軍を発した。これに先立ち、秀吉は関東・奥羽の諸大名に対し、自身への服属と小田原への参陣を命じる「惣無事令」を発していた。この命令に従うか否かは、各大名家にとって、その後の存亡を左右する究極の選択であった。
この天下の激動期に、事件は起きた。和知美濃守は、他の重臣たちと謀り、主君であった第十八代当主・白河結城義顕を居城の白河城から追放したのである。このクーデターの正確な日付を記す史料は乏しいが、秀吉による奥州仕置(諸大名の領地確定)が実施された天正十八年の夏頃までに行われたと推測される。
このクーデターのタイミングは、その動機を解明する上で極めて重要である。当時の当主・結城義顕は、小田原への参陣を巡って、家中をまとめることができなかった、あるいは情勢判断を誤った可能性が高い。秀吉への対応を誤れば、惣無事令違反を問われ、領地没収、すなわち一族の滅亡は免れない。この国家的危機に際し、主君の指導力に絶望した和知美濃守ら重臣たちが、自らの手で家中の舵を取り、新たな支配者である豊臣秀吉の体制に順応しようとした。これが、クーデターの直接的な引き金であったと考えられる。彼らは、機能不全に陥った主君を排除し、長年対立してきた庶流の小峰義親を新たな城主として迎え入れた。これは、家中を刷新し、秀吉に対して新たな「白河勢」としての恭順の意を示すための、ぎりぎりの選択であった。
和知美濃守の行動は、旧来の武士道徳に照らせば、紛れもなく主君への「裏切り」であり、許されざる「下剋上」である。しかし、この行動を道徳的な善悪の二元論で断罪することは、戦国乱世の過酷な現実を見誤らせる。彼らの行動原理は、より現実的かつ切実な、「生き残り」の論理に基づいていた。
この点を理解するためには、父祖・和知直頼の「忠誠」が何に向けられたものであったかを再考する必要がある。直頼の忠誠は、結城義綱という個人に対してのみならず、領国を安定的に統治する「白河結城家」という統治機構そのものに向けられていた。そして、その統治機構に忠実に仕えることこそが、自らの一族(和知家)の所領と地位を安泰にするための、最も合理的な手段であった。つまり、直頼の行動の究極的な目的もまた、「和知一族の存続」にあったのである。
時代が下り、和知美濃守の代になると、この前提が根底から覆る。主家である白河結城本家は、内部対立と外部からの圧力によって統治能力を完全に喪失した。それどころか、秀吉への対応を誤ることで、家臣である和知一族をも巻き込んで共倒れになる危険性をはらむ、存続を脅かす存在へと変質してしまった。この状況において、「一族の存続」という究極目的を達成するためには、もはや「白河結城本家への忠誠」という手段は有効ではない。むしろ、有害でさえあった。
したがって、和知美濃守は、父祖・直頼と同じ「一族の存続」という目的を達成するために、父祖とは全く逆の「主家の排除」という手段を選択したのである。これは、状況の変化に即応した、冷徹かつ合理的な戦略転換であったと解釈できる。一見すると矛盾に満ちた父祖と子孫の行動は、「一族の存続」という一点において、論理的な連続性を持っていた。この視点こそが、忠臣・直頼と叛臣・美濃守という二つの顔を繋ぐ鍵となる。彼らの行動は、在地領主(国衆)が自らの所領と血脈を守るために、時代状況に応じて忠誠の対象を乗り換えていく、戦国末期の典型的な行動パターンだったのである。
クーデターによって小峰義親を新たな主に迎えたものの、彼らの目論見は完全には成功しなかった。小田原参陣に遅れた白河勢は、豊臣秀吉による奥州仕置において、独立した大名としての地位を認められず、所領は没収された。これにより、鎌倉時代から続いた名門・白河結城氏は、事実上滅亡した。
しかし、主家は滅びても、和知一族が滅びたわけではない。白河の地は、その後、会津に入封した蒲生氏郷の支配下に置かれた。和知美濃守らクーデターを主導した旧臣たちは、新たな支配者である蒲生氏に仕えることで、武士としての身分を維持し、一族の存続を図ったと考えられる。彼らの決断は、白河結城氏の滅亡という犠牲と引き換えに、和知氏が新たな支配体制下に組み込まれ、近世大名家臣として生き残る道を拓いたのである。その意味では、彼らの「生き残り」の戦略は、結果として目的を達成したと言えるのかもしれない。
本報告書は、白河結城氏の家臣・和知直頼とその一族の動向を追うことを通じて、戦国時代末期の南陸奥における在地領主の生存戦略の実態を解明してきた。その分析から、いくつかの重要な結論が導き出される。
第一に、和知直頼が天正二年に示した「忠誠」は、主家である白河結城氏が、領国支配者としての統治能力と権威を、かろうじて保持していた時代の家臣の姿を象徴するものであった。彼の忠実な奉行としての職務遂行は、不安定ながらも機能していた主従関係と統治秩序の現れであり、それはまた、崩壊前夜の最後の安定期を映し出すものでもあった。
第二に、そのわずか十数年後に後裔・和知美濃守が下した「離反」という決断は、主家が内外の要因によってその統治能力を完全に喪失し、さらに豊臣秀吉による天下統一という、より大きな権力構造の再編に直面した際に、在地領主が取りうる最も現実的な生存戦略であった。この行動は、単なる道徳的な裏切りではなく、自らの一族と所領の存続という究極目的を達成するための、状況の変化に対応した合理的な選択だったのである。
第三に、直頼の「忠誠」と美濃守の「離反」は、一見すると正反対の行動でありながら、その根底には「和知一族の存続」という一貫した目的が存在した。忠誠の対象であった主家が、一族存続の保障から、むしろ存続の障害へと変質したとき、彼らは忠誠の対象を乗り換えることを決断した。この変転は、一個人の資質の変化や世代間の断絶ではなく、彼らを取り巻く「時代」そのものの構造的変化がもたらした、必然的な帰結であったと結論づけることができる。
和知一族の物語は、戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、中央の動向から遠く離れた辺境の地の小領主が、いかにして激動の時代を読み、生き残りを図ったかを示す、極めて貴重な歴史的ケーススタディである。「忠」や「義」といった固定的な道徳観念の枠組みだけでは到底測ることのできない、戦国乱世の過酷な現実と、そこに生きた人々のしたたかな生命力を、和知一族の歴史は我々に鮮烈に突きつけている。
今後の展望として、クーデター後の和知氏の動向をさらに詳細に追跡する研究が期待される。彼らが新たな支配者である蒲生氏、あるいはその後の上杉氏や徳川幕藩体制下で、どのような処遇を受け、いかにして家名を繋いでいったのか。その「その後」を解明することは、戦国を生き抜いた数多の国衆たちの近世における姿を明らかにする上で、重要な研究課題となるであろう。