日本の戦国史において、問田隆盛(といだ たかもり)という名は、決して誰もが知る著名な武将のものではない。大内氏の家臣であり、石見国の守護代を務め、主家を裏切った陶晴賢(すえ はるかた)に与し、その最期は復讐の刃によって断たれた、という断片的な情報が、彼の生涯を語る上でしばしば引用される全てであろう 1 。しかし、この一見すると脇役に過ぎない人物の生涯を丹念に追うとき、我々は西国に一大王国を築き上げた大内氏が、なぜかくも呆気なく崩壊に至ったのか、その深層に横たわる構造的な問題を垣間見ることができる。
本報告書は、問田隆盛という一人の武将の生涯を軸に、大内氏滅亡の過程を内部から再検証する試みである。彼の出自、石見守護代としての苦闘、そして近年の研究で注目される陶晴賢との血縁関係は、主君・大内義隆に対する謀反、すなわち「大寧寺の変」を、単なる「下剋上」という言葉では片付けられない、より複雑で根深い「一門内部の権力闘争」として描き出す。彼の生と死は、栄華を極めた巨大勢力が内側から崩壊していく過程そのものを象徴しており、その悲劇は毛利元就の台頭を促し、中国地方の勢力図を完全に塗り替える直接的な引き金となった。
本報告書の冒頭に、問田隆盛の生涯と彼を取り巻く情勢の変遷を理解するための一助として、関連年表を提示する。
表1:問田隆盛 関連年表
年号(西暦) |
問田隆盛の動向 |
大内・陶氏の動向 |
石見・尼子氏の動向 |
毛利氏の動向 |
永正16年(1519) |
11月12日、誕生 2 。 |
大内義興、家督を義隆に譲る。 |
- |
- |
天文3年(1534) |
豊後薄野浦の戦いで矢傷を負う 2 。 |
- |
- |
- |
天文6年(1537) |
- |
- |
尼子経久、石見銀山を攻撃、掌握 3 。 |
- |
天文11-12年(1542-43) |
石見守護代として尼子氏の脅威に直面。 |
第一次月山富田城の戦い。大内義隆、大敗を喫し、養嗣子・晴持を失う 5 。 |
大内軍を撃退。勢力を回復する 7 。 |
大内方として従軍。撤退時に壊滅的打撃を受ける 6 。 |
天文14年(1545) |
- |
相良武任、陶隆房(晴賢)らとの対立で失脚 8 。 |
- |
- |
天文19年(1550) |
- |
陶隆房、病と称し若山城に籠る。義隆との対立が決定的になる 8 。 |
- |
- |
天文20年(1551) |
陶隆房の謀反に同調 8 。 |
大寧寺の変 。陶隆房、大内義隆を自害に追い込む。 |
- |
隆房の謀反に同調 8 。 |
天文21年(1552) |
英胤と改名し、文書を発給 2 。 |
大友晴英が大内義長として家督を継承。陶隆房は晴賢と改名し実権を掌握 9 。 |
- |
- |
天文22年(1553) |
- |
陶晴賢、杉重矩を謀殺 10 。 |
- |
- |
弘治元年(1555) |
厳島の戦いに参戦、敗走 2 。 |
厳島の戦い 。陶晴賢、毛利元就に敗れ自害。 |
- |
厳島の戦いで陶晴賢を破る。 |
弘治2年(1556) |
- |
- |
- |
防長経略 を開始 11 。 |
弘治3年(1557) |
杉重輔の襲撃を受け、富田若山城にて陶長房と共に自害(享年39) 1 。 |
杉重輔の乱、内藤隆世との内訌で山口炎上 12 。大内義長、自害し大内氏滅亡 9 。 |
- |
防長二国を平定。 |
問田隆盛の行動原理を理解するためには、まず彼が属した「問田氏」が、大内家中でいかなる地位を占めていたかを知る必要がある。彼は単なる一介の家臣ではなく、主家と血を分けた名門「一門衆」の一員であった。
大内氏は、その出自を百済の聖明王の第三王子・琳聖太子に求め、推古天皇の時代に周防国多々良浜に上陸したことに始まると称する渡来系の氏族である 14 。その姓である「多々良」は、古代の製鉄技術集団との関連を強く示唆しており、彼らが先進技術を背景に力を蓄えた豪族であったことが推察される 15 。
問田氏は、この大内氏の輝かしい歴史の中でも、特に本家と近い関係にあった。その祖は、大内氏第16代当主・大内盛房の次男であり、17代弘盛の弟にあたる長房に遡る 16 。長房が本家から分かれて一家を興し、所領とした周防国吉敷郡大内村の地名「問田」が、そのまま名字となったのである 16 。これは、問田氏が数ある大内氏の庶流の中でも、極めて格式の高い、直系に近い血筋であったことを意味している。
問田氏の家格の高さは、その果たしてきた役割にも明確に表れている。彼らは代々、大内氏の氏寺であり、政治的・宗教的中心地でもあった興隆寺の奉行職を務めた 16 。さらに、興隆寺で毎年行われる二月会の歩射(ぶしゃ、弓の儀式)において、「弓太郎」という名誉ある役を担う家柄でもあった 16 。これは、問田氏が武芸と祭祀の両面で、大内家の根幹を支える重要な存在として認識されていた証左である。
隆盛の祖父・問田弘胤、そして父とされる問田興之は、大内政弘・義興といった歴代当主の側近として奉行衆に名を連ね、大内氏の政権運営の中枢に関与していた 2 。隆盛自身も、大蔵少輔や備中守といった受領名を名乗っており 18 、彼がエリート官僚としての家柄に生まれ、その道を歩むことを期待されていたことが窺える。
問田隆盛は、永正16年(1519年)11月12日に生を受けた 2 。彼が多感な青年期を過ごした大内義興・義隆の時代は、大内氏がその栄華を極めた絶頂期であった。日明貿易を独占して得た莫大な富を背景に、本拠地・山口には京から多くの公家や文化人が避難・来訪し、町は「西の京」と称されるほどの文化的繁栄を謳歌していた 5 。
隆盛は、この日本で最も輝いていた都市の一つで、その支配者一門の一員として育った。彼の自己認識の根幹には、この「強大で栄華を極めた大内氏」の一員であるという強烈な誇りが刻み込まれていたはずである。だからこそ、後年、主君・大内義隆が月山富田城の戦いで歴史的な大敗を喫し、政務を顧みず文弱な趣味に没頭していく姿は、単なる政策上の対立を超えて、彼が理想とする「あるべき大内氏の姿」からの許しがたい逸脱であり、耐え難い堕落と映ったに違いない。この理想と現実の著しい乖離こそが、彼が旧来の主君を見限り、現状打破を掲げる弟(とされる)陶晴賢のクーデターに与する、強力な心理的土壌を形成したと考えられる。彼の行動は、単なる権力欲や野心からではなく、失われた「強い大内氏」を取り戻そうとする、屈折した、しかし彼自身の論理においては純粋な忠誠心の発露であった可能性が高い。
問田隆盛のキャリアにおいて、石見守護代という役職は極めて重要な意味を持つ。それは大内家中のエリートとしての栄誉であると同時に、中央の論理が通用しない国境地帯の厳しい現実を彼に突きつける経験でもあった。
16世紀前半の石見国(現在の島根県西部)は、地政学的に極めて重要な地域であった。その最大の理由は、世界史的にも価値を持つ石見銀山の存在である 3 。この銀山から産出される良質な銀は、大内氏が独占していた日明貿易における主要な決済手段であり、その経済的繁栄を支える生命線であった 21 。
当然、この富の源泉を巡って、熾烈な争奪戦が繰り広げられた。周防の大内氏、出雲の尼子氏、そして石見の在地国人領主である吉見氏や益田氏といった勢力が、互いに牽制し、時には激しく衝突する、まさに係争の地であった 4 。大内氏は石見守護として、奉行を派遣し、山吹城などの拠点を築いて銀山の支配を確立しようと試みたが 3 、東から絶えず圧力をかける尼子氏の度重なる侵攻により、その支配は常に不安定な状態に置かれていた 3 。
このような複雑な情勢下に、問田隆盛は石見守護代として赴任した 2 。守護代とは、本来、守護の権限を代行し、任国を統治する役職である 25 。しかし、戦国時代の現実は、その肩書が必ずしも実効的な支配力を保証するものではないことを示している。特に石見国では、吉見氏や益田氏といった国人領主が古くから深く根を張っており、彼らは大内氏の支配に服しつつも、独自の勢力を保持する独立性の高い存在であった 24 。
その結果、隆盛の守護代としての権力は、国人たちの利害と思惑に大きく左右され、多分に名目的なものに留まったとされる 2 。大内氏の権威を背負って乗り込んだにもかかわらず、現地の国人衆は容易に従わず、尼子氏の脅威は目前に迫る。この状況は、戦国期における「守護代」という職務の脆弱性を如実に物語る事例と言えよう。
辺境の地で直面したこの無力感は、隆盛の思考に深刻な影響を与えたはずである。彼は、大内氏の権威を代表する守護代として赴任しながら、その権威が現地で全く通用しないという屈辱的な現実に日々苛まれた。この経験は、彼に「中央(山口)の義隆政権が弱体化しているからこそ、辺境である石見の統治もままならないのだ」という強固な問題意識を植え付けた可能性が極めて高い。辺境における統治の失敗という「結果」が、中央政権の弱体化への不満という「原因」に転嫁され、現状を根底から覆すためには中央政権の刷新、すなわち主君・大内義隆の排除が必要であるという、陶晴賢の過激な思想に同調する強い動機となっていった。彼の石見守護代としての苦い経験は、後の大寧寺の変への参加と分かちがたく結びついていたのである。
隆盛は、単なる行政官僚ではなかった。天文3年(1534年)、彼は九州において大内氏と対立していた大友氏との合戦に参加し、豊後国薄野浦で矢傷を負ったという記録が残っている 2 。これは、彼が実際に戦場の第一線に立つ武将としての側面も持ち合わせていたことを示す貴重な記録である。この武勇の経験は、後に彼が文弱に傾いた主君・義隆を見限り、武断派の筆頭である陶晴賢に与する素地を形成した一因とも考えられる。
天文20年(1551年)、大内氏の歴史を根底から覆す大事件が勃発する。重臣・陶隆房(後の晴賢)による主君・大内義隆への謀反、世に言う「大寧寺の変」である。問田隆盛はこのクーデターに、中心人物の一人として深く関与した。
事件の遠因は、天文12年(1543年)の第一次月山富田城の戦いにおける大内軍の惨敗に遡る 6 。この戦いで寵愛する養嗣子・大内晴持を失った義隆は、心身ともに深く傷つき、以後、政治や軍事への意欲を急速に失っていった 5 。彼は政務の一切を、文治派官僚の相良武任に委ね、自身は学芸や茶会に没頭するようになる 19 。
この義隆の変貌は、これまで大内氏の武威を支えてきた陶隆房ら武断派の重臣たちにとって、到底容認できるものではなかった。彼らの目には、相良武任は主君を惑わす奸臣と映り、両派の対立は単なる政策論争から、互いの排除を目的とする個人的な憎悪へと先鋭化していった 31 。武任の暗殺未遂や、隆房が謀反を企てているという噂が流れるなど、大内家中枢は一触即発の緊張状態に陥っていた 8 。
この緊迫した状況下で、陶隆房はついに武力蜂起を決意する。そして、問田隆盛はこの謀反に明確に同調し、協力した 2 。天文20年(1551年)8月、隆房の軍勢は山口に殺到し、主君・大内義隆は長門国の大寧寺へと追いつめられ、自害した 5 。
クーデター成功後、隆房らは豊後の大友宗麟の弟・晴英を新たな当主として迎え、大内義長と名乗らせた 9 。この新体制において、問田隆盛は「英胤(ひでたね)」と改名し、引き続き重臣として文書を発給するなど、その地位を保持している 2 。この事実は、彼が単なる同調者ではなく、クーデター計画の中核を担う主要メンバーの一人であったことを強く裏付けている。
なぜ隆盛は、主君を裏切るという大罪に加担したのか。その謎を解く鍵は、彼と陶晴賢との極めて近しい血縁関係にある。
古くから軍記物である『陰徳太平記』などでは、晴賢は陶興房の実子ではなく、問田氏から来た養子であるという説が記されてきた 35 。そして近年、この説を強力に補強する一次史料が注目されている。大内氏と親交のあった神道家・吉田兼右が記した日記『防州下向記』の中に、「晴賢は問田隆盛の弟と考えられる」という趣旨の記述が見出されたのである 37 。
この記述に基づけば、晴賢(隆房)の実父は問田興之、母は陶氏の血を引く女性(陶弘護の娘)であり、隆盛とは実の兄弟ということになる。そして、実子に恵まれなかった(あるいは早くに亡くした)叔父の陶興房の養子として、重臣筆頭である陶家の家督を継いだと考えられる 38 。この関係性を以下の図に示す。
表2:問田・陶・内藤氏 相関図
Mermaidによる関係図
この兄弟説は、大寧寺の変の歴史的意味を根本から問い直すものである。従来の通説では、この事件は家臣(陶)が主君(大内)を討つ「下剋上」の典型例として語られてきた 39 。しかし、首謀者である晴賢が、大内氏一門の血を引く問田氏の出身であったならば、その構図は大きく変わる。このクーデターは、単なる家臣の反乱ではなく、大内一門の血を引く者が、堕落した本家を「改革」し、一族の主導権を掌握しようと試みた「一門内部の権力闘争」と再定義できるのである。
この視点に立てば、問田隆盛の参加も、主君への裏切りという側面以上に、自らの血族である弟を支え、問田・陶両家の、ひいては大内一門全体の浮沈をかけた一族ぐるみの行動であったと解釈できる。この「一門による内部改革」という大義名分こそが、彼ら自身の論理の中で行動を正当化し、謀反という大罪に踏み切らせた、極めて重要な要因であったと考えられる。
大寧寺の変によって権力を掌握した陶晴賢と問田隆盛であったが、その体制は盤石ではなかった。彼らの行動は新たな憎悪を生み、復讐の連鎖となって、やがて隆盛自身を飲み込んでいく。
晴賢の最大の誤算は、安芸の小領主に過ぎなかった毛利元就の力を侮ったことであった。弘治元年(1555年)、晴賢は元就を討つべく大軍を率いて安芸厳島に渡る。問田隆盛もこの戦いに従軍したが、結果は元就の奇襲戦法の前に歴史的な大敗を喫し、晴賢は自害に追い込まれた 2 。隆盛は、この絶望的な戦場から奇跡的に脱出し、周防へと帰還したとされている 2 。
主君を失った陶派の動揺は激しかった。そして、この好機を逃さなかったのが、杉重輔であった。彼の父・杉重矩は、かつて大寧寺の変に協力したにもかかわらず、後に晴賢によって謀殺されていた 10 。父の無念を晴らすべく復讐の機会を窺っていた重輔は、晴賢の死を知るや、手勢を率いて陶氏の居城であった富田若山城(現在の山口県周南市)を急襲した 10 。
弘治3年(1557年)、この若山城には、晴賢の嫡男で陶家の家督を継いだ陶長房と、その後見役として城に滞在していた問田隆盛がいた 1 。
隆盛がなぜ若山城にいたのか。それは彼が晴賢の兄であり、長房の叔父という血縁者であったからに他ならない。晴賢亡き後、若き当主となった甥の後見人としてその側に控え、陶家を守り立てることは、彼に課せられた当然の責務であった。
杉重輔の攻撃目標は、明確に晴賢の血を引く長房であった。隆盛は、この甥を守るために奮戦したが、衆寡敵せず、最期は長房と共に自害して果てた 1 。享年39。この最期は、単に戦に敗れて死んだという事実以上の意味を持つ。それは、自らが属する派閥の長とその正統な跡継ぎである甥に殉じ、運命を共にするという、戦国武士の価値観における「殉死(追腹)」の精神に通じる行為であった 43 。大寧寺の変で主君を裏切ったという汚名を、自らの派閥の嫡流に命を捧げるという壮絶な形で雪ぎ、その生涯を自己完結させた最期であったと解釈することも可能であろう。
しかし、隆盛と長房の死は、事態を収束させるどころか、復讐の連鎖をさらに加速させた。陶晴賢の妻の弟、すなわち義弟にあたる内藤隆世が、この凶行に激怒。杉重輔を「主君(義長)の許可なく重臣を討った逆賊」として、その討伐に乗り出したのである 13 。
名目上の主君である大内義長が仲裁を試みるも、両者の憎悪は深く、ついに山口の市街地で大規模な私闘が勃発した。この戦闘の過程で放たれた火は、折からの強風に煽られ、「西の京」と謳われた壮麗な街並みをことごとく焼き尽くした 12 。大内氏の権威の象徴であった本拠地は灰燼に帰し、その統治能力が完全に麻痺したことを天下に露呈したのである。
問田隆盛の死と、それに続く内藤・杉両氏の抗争は、大内氏の滅亡を決定づける最後の引き金となった。それは、この巨大な戦国大名がもはや自浄能力を失い、内部から崩壊していく過程を象徴する出来事であった。
家臣団が主君の制止も聞かずに首都で殺し合い、街を焼き払うという異常事態は、大内氏の支配体制が末期症状にあることを誰の目にも明らかにした 5 。そして、この千載一遇の好機を、隣国安芸の毛利元就が見逃すはずはなかった。
元就は、この大内氏の内紛を「周防・長門両国の秩序を回復する」という大義名分として掲げ、防長二国への全面的な侵攻、すなわち「防長経略」を開始する 8 。元就の戦略は巧みであった。彼は武力による侵攻と並行して、内紛に疲弊し、大内氏の将来を見限った旧臣たちに対し、所領安堵などを条件とした調略を執拗に仕掛けた 49 。大内氏の重臣たちは、次々と元就に寝返り、かつての主家を滅ぼす先兵となっていったのである。
問田隆盛の生涯は、西国最大の戦国大名と謳われた大内氏が、内部の人間関係の亀裂、とりわけ主家と一門衆との権力闘争によって、いかに脆く崩れ去っていったかを物語っている。
彼が弟・陶晴賢と共に起こした大寧寺の変は、彼らの論理においては「堕落した主君を排除し、一門が主導して大内家を再興する」という試みであったのかもしれない。しかし、その行動は結果として主家を滅亡に導く遠因となり、そして皮肉にも、彼自身の死が、その崩壊を決定的に加速させる直接的な引き金となった。彼が目指したものが何であれ、その行動が招いた現実は、血で血を洗う復讐の連鎖と、敵である毛利元就に利するだけの内部崩壊であった。
問田隆盛は、大内氏一門という恵まれた出自を持ちながら、戦国という時代の大きなうねりの中で、自らの信念、あるいは一族の利害に従って激動の生涯を送り、最後は復讐の連鎖の中で非業の死を遂げた悲劇の武将である。彼は歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、彼の存在と行動なくして、西国最大の戦国大名・大内氏の滅亡劇を正確に語ることはできない。その意味において、彼は紛れもなく、時代の転換点に立った重要なキーパーソンであった。
歴史研究の観点から見れば、問田隆盛と陶晴賢の兄弟説は、大寧寺の変を「下剋上」という画一的な枠組みから解き放ち、戦国大名家の内部における「一門」の役割や権力闘争の複雑さを再検討させる、極めて重要な視座を提供する。今後の課題としては、一次史料のさらなる発掘と分析を通じて、彼の石見守護代としての具体的な統治内容や、大内義長政権下での詳細な政治的動向を解明することが期待される。
問田隆盛自身の墓所は、今日特定されていない。しかし、彼の名字の地である山口市大内問田の「問田氏館跡」 17 、彼が甥・陶長房と共に散った周南市の「富田若山城跡」 42 、そして彼らが守ろうとした陶氏一族の菩提寺「龍文寺」 53 は、今もその地に残り、大内王国が崩壊に至る激動の歴史を静かに伝えている。また、彼の一族は後に毛利氏に仕え、「問田益田氏」として萩にその名跡を留めている 55 。一人の武将の生涯を追う旅は、一つの時代の終焉と、新たな時代の幕開けを我々に示してくれるのである。