戦国時代の終焉、すなわち織田信長と豊臣秀吉による天下統一事業が進行する激動の時代において、日本各地の在地領主(国人)たちは、巨大な権力の奔流に飲み込まれ、生き残りを賭けた苦渋の選択を迫られた。伊勢国鈴鹿郡を本拠とした国府盛種(こう もりたね)もまた、そうした歴史の渦中で翻弄された一人である。彼の名は、織田信長の次男・信雄に仕え、小牧・長久手の戦いに従軍し、その戦役の最中に命を落とした悲劇の武将として、一部の歴史書にその名を留めるに過ぎない。
しかし、彼の生涯を丹念に追うことは、天下統一というマクロな歴史の裏面で、地方の小領主がいかにして生き、そして滅んでいったのかというミクロな実像を明らかにする上で、極めて重要な意味を持つ。ユーザーによって提示された「加賀井城で戦死した」という説と、「尾張に逃れた」という説の異同は、彼の最期をめぐる歴史記述の錯綜を象徴しており、その生涯を研究する上での核心的な問いとなる 1 。
本報告書は、国府盛種という一人の武将の生涯を徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。第一章では、盛種の出自である国府氏と、その本家である関氏の歴史的背景を、鎌倉時代にまで遡って明らかにする。第二章では、織田信長の伊勢侵攻から本能寺の変を経て、国府氏が織田家内部の権力闘争にいかに対応したかを分析する。そして第三章では、彼の運命を決定づけた小牧・長久手の戦いに焦点を当て、伊勢戦線の具体的な戦況と、国府城の落城、そして盛種の最期に至るまでの足跡を詳細に論じる。これらの分析を通じて、戦国末期における地方国人の動向と、その悲劇的な宿命を浮き彫りにする。
国府盛種の生涯を理解するためには、まず彼が属した国府氏、そしてその本家である関氏の歴史的背景を把握することが不可欠である。彼らのルーツは伊勢国の名門に遡り、その血脈と地理的条件が、戦国末期における彼らの運命を大きく規定することになる。
伊勢関氏は、桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏の末裔を称する一族である 2 。『吾妻鏡』や『勢州軍記』などの記録によれば、その祖は平清盛の孫にあたる平資盛の子、関実忠(さねただ)とされる 2 。実忠は鎌倉時代初期の建久3年(1192年)、源頼朝に仕え、その功により伊勢国鈴鹿郡関谷(現在の三重県亀山市関町)の地頭職を与えられ、初めて「関」の姓を名乗った 2 。元久元年(1204年)には鈴鹿郡に入部し、亀山城を築いて本拠とした 2 。この亀山城が、後々まで関一党の中心拠点となる。
関氏が伊勢平氏という名門の系譜に連なることは、彼らが単なる在地の新興勢力ではなく、由緒ある家柄としての自負と権威を持つ武士団であったことを示唆している。鎌倉幕府草創期における源頼朝との主従関係、そして北条氏との密接な繋がりは、伊勢国内における彼らの地位を確立し、その後の発展の礎となった 2 。
時代が下り、南北朝の動乱期に入ると、関氏は伊勢国司である北畠氏と連携し、南朝方として行動した記録が残っている 2 。彼らは北朝方の有力豪族である長野氏などと戦い、中央の政争に深く関与した。この事実は、関氏が伊勢国において、自律的な判断で行動しうる有力な軍事勢力へと成長していたことを物語っている。
南北朝時代から室町時代にかけて、関氏はその勢力を盤石なものとするため、一族を伊勢北部の要地に配置する戦略をとった。関実忠から数えて7世の孫とされる関盛政には五人の男子がおり、彼らを分家の祖として勢力を拡大させた 2 。
これら亀山、神戸、国府、鹿伏兎、峯の五家は「関五家」あるいは「関一党」と総称され、鈴鹿郡・河曲郡一帯に一大同族武士団を形成した 3 。この体制は、本家である亀山城を中核とし、各支城が連携して領域支配を固め、軍事力を増強するという、中世武士団の典型的な発展形態であった。国府氏は、この一党体制の中で、本家・亀山城の東方を守る重要な支城としての役割を担うことになった。
国府氏の初代とされる関盛門による国府城の築城は、諸書において正平22年(貞治6年、1367年)と伝えられている 8 。この時期は南北朝の動乱が終息に向かう頃であり、関一党が伊勢北部における支配体制を具体的に構築し、安定させていった過程を示すものと考えられる。
国府氏がその本拠として城を構えた鈴鹿市国府町一帯は、その地名が示す通り、古代律令国家における伊勢国の国府(政庁)が置かれた場所であった 10 。近年の発掘調査では、奈良時代中頃から平安時代にかけての政庁や官衙施設群の跡が確認されており、この地が古くから伊勢国の政治・経済・交通の中心地であったことが証明されている 12 。
国府氏の祖・盛門がこの地を城地に選んだのは、単なる偶然ではない。古代以来の政治的中心地という由緒ある土地に城を構えることは、その土地の新たな支配者としての正統性と権威を内外に示す上で、極めて象徴的な意味を持っていた。国府盛種の運命は、彼が「国府」という名の土地の領主であり、「関一党」という血縁集団の一員であったという、この地理的・血縁的要因によって大きく規定されていたと言える。伊勢北部の要衝に位置し、本家に従属する分家という立場は、信長や秀吉といった中央の巨大権力が伊勢に侵攻した際、彼らが否応なくその争いの最前線に立たされることを運命づけていた。
国府氏初代・盛門から、本報告書の主題である国府盛種に至るまでの系譜については、残念ながら完全に一致した記録は存在せず、参照する史料によって代数や当主の名に異同が見られる。これは、国府氏のような地方の小領主に関する記録が、歴史の中で断片的にしか伝わらなかったことを示している。
しかし、複数の史料を比較検討することで、その大凡の姿を浮かび上がらせることは可能である。『勢州軍記』や『伊勢名勝志』、その他近世の地誌や城郭に関する記録を総合すると、盛種は国府氏の8代目、あるいは9代目の当主であり、通称を「次郎四郎」といったことがわかる 1 。以下の表は、主要な史料に見られる国府氏の系譜を比較したものである。
表1:国府氏歴代当主の比較
史料/記録 |
初代 |
2代 |
3代 |
4代 |
5代 |
6代 |
7代 |
8代 |
9代 |
備考 |
『勢州軍記』 |
盛門 |
武蔵守 |
山城守 |
佐渡守 |
佐渡守 |
盛直 |
盛邑 |
盛種 |
- |
8代で滅亡とする 18 。 |
『伊勢名勝志』 |
(盛門) |
(不明) |
(不明) |
(不明) |
(不明) |
盛邑 |
盛信 |
(次郎四郎) |
- |
6代盛邑を8世とし、その子を9代次郎四郎とする記述あり 1 。 |
複合史料1 |
盛門 |
武蔵守 |
勝盛 |
勝清 |
盛重 |
盛邑 |
盛信 |
盛種 |
- |
複数の城郭サイトで採用されている系譜 8 。 |
複合史料2 |
盛門 |
(不明) |
(不明) |
(不明) |
(不明) |
(不明) |
盛邑 |
盛種 |
- |
7代盛邑、8代盛種とする記述が多い 1 。 |
※次郎四郎は盛種の通称 1 。盛邑の子が盛種とされる 17 。
この表から明らかなように、系譜の細部には混乱が見られるものの、7代目を盛邑(もりむら)、そしてその子であり最後の当主となったのが 国府盛種 であるという点では、多くの記録がおおむね一致している。この事実が、彼の生涯を追う上での確かな出発点となる。
16世紀後半、尾張の織田信長が急速に勢力を拡大すると、その影響は隣国の伊勢にも及び、関一党を含む伊勢の国人たちは大きな時代の転換点に立たされた。国府氏もまた、この激動の中で自らの進むべき道を選択せざるを得なかった。
永禄10年(1567年)から翌11年にかけて、織田信長は北伊勢への本格的な侵攻を開始した。その目的は、上洛の経路を確保し、背後の安全を固めることにあった。信長の圧倒的な軍事力の前に、神戸具盛(神戸氏当主)ら関一党の諸将は次々と降伏し、その支配下に入った 4 。
国府氏がいつ信長に従属したかについては、史料によって若干の時期のずれが見られる。7代当主・国府盛邑(または盛信)の代に、本家である関氏らと共に永禄11年頃に帰順したとする説 1 と、天正8年(1580年)に8代当主・盛種の代になって信長に攻められ、従ったとする説がある 9 。いずれにせよ、天正10年(1582年)の本能寺の変の時点では、国府氏が織田政権に組み込まれていたことは確実である。この従属により、国府氏は独立した領主としての地位を失い、織田家の巨大な権力構造の一部として、その後の運命を左右されることとなった。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって信長が横死すると、織田家の支配体制は根底から揺らぎ、後継者の座をめぐる激しい権力闘争が始まった。この未曾有の事態に際し、国府盛種のような地方領主にとって最も重要な課題は、誰が次代の覇者となるかを見極め、その陣営に加わることであった。
変後の清洲会議を経て、織田家内部では羽柴秀吉と筆頭家老・柴田勝家の対立が先鋭化する。この対立の中で、国府盛種が最初に与したのは、信長の三男・織田信孝であった 1 。この選択は、当時の状況を考えれば極めて自然なものであった。信孝は、関一党の分家である神戸氏の養子となって神戸城主を務めており、伊勢に深い地盤と縁故を持っていた 20 。地理的にも血縁的にも近しい信孝を支持することは、国府氏にとって合理的な判断であったと言える。
しかし、この選択が国府氏の運命を暗転させる。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍は柴田勝家軍に圧勝。敗れた勝家は北ノ庄城で自害し、その与党であった信孝も秀吉に追い詰められ、尾張国野間で自刃に追い込まれた 20 。この時点で、国府氏は「秀吉の敵対勢力」として明確に位置づけられることになり、政治的に極めて危険な立場に立たされた。
主君を失った国府盛種は、次なる活路を信長の次男・織田信雄に求めた 1 。信雄は父・信長の遺領のうち、尾張・伊賀・南伊勢を継承し、秀吉に対抗しうる織田家中の最大勢力であった 22 。盛種が信雄の配下に入ったことは、単なる主君の乗り換えではなく、結果的に「反秀吉」という立場を継続し、確定させる行為となった。したがって、翌年に小牧・長久手の戦いが勃発した際、秀吉にとって国府氏は、単なる信雄の与力というだけでなく、「かつて信孝に与して自分に敵対し、今また信雄に与して刃向かう宿敵」と見なされた可能性が高い。秀吉による伊勢侵攻が苛烈を極めた背景には、こうした過去の経緯があったと推察される。国府氏の運命は、賤ヶ岳の戦いの時点で、すでに破滅へと向かう軌道に乗っていたのである。
本能寺の変直後の国府家の内情をうかがわせる興味深い逸話が、『勢州軍記』やそれを基にした記録に残されている 1 。それによると、本能寺の変に際して当時の城主であった国府佐渡守(盛種の父か)が死去したため、まだ若輩であった息子の次郎四郎盛種に代わり、家老の国府市左衛門尉(いちざえもんのじょう)が城主名代として家政を取り仕切っていたという。
この市左衛門尉は、信長の死という千載一遇の好機に乗じ、亀山城主の関盛信(関一党の本家当主)に対し、織田家からの独立を画策して挙兵するよう唆した。しかし、この陰謀は後に織田信孝の知るところとなり、市左衛門尉はその責を問われて誅殺された、と伝えられている 1 。
この逸話の史実性を一次史料で確認することは困難であり、後世の軍記物による創作の可能性も否定できない。しかし、仮に事実であったとすれば、信長死後の混乱期において、国府家内部でも様々な思惑が渦巻き、家臣団が独自の動きを見せていたことを示唆している。また、たとえ創作であったとしても、この物語は、主家の混乱に乗じて自勢力の伸張を図ろうとする家臣の存在や、当主が若輩である場合に生じやすい家中の権力闘争など、戦国期の主従関係の流動性と緊張感を象徴的に物語っている。若き当主であった国府盛種が、自身の意思だけでなく、こうした家臣団の動向によっても、危険な政治的選択へと導かれていった可能性を考慮すべきであろう。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間で繰り広げられた小牧・長久手の戦いは、国府盛種と彼の一族の運命を最終的に決定づける戦役となった。伊勢国はその最初の戦場となり、国府氏はその渦中に飲み込まれていく。
天正12年3月6日、織田信雄は、秀吉に内通したとして自らの家老であった津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三人を長島城で誅殺した 23 。この事件をきっかけに両者の対立は決定的となり、秀吉は信雄討伐の兵を挙げた。戦いの火蓋は、秀吉軍の伊勢侵攻によって切られた 24 。
秀吉の戦略は、信雄の本拠地である伊勢・尾張を直接攻撃し、徳川家康の援軍が本格的に展開する前に短期決戦で勝敗を決することにあった。そのため、秀吉は畿内から大軍を動員し、伊勢国へと進軍させた。これにより、国府氏をはじめとする伊勢の国人領主たちは、この大戦役の最初の標的となったのである。
伊勢戦線における緒戦の動向は、以下の年表にまとめられる。
表2:小牧・長久手の戦い 伊勢戦線主要動向年表(天正12年)
月日 |
場所(城名) |
出来事 |
羽柴方武将 |
織田方武将 |
結果 |
典拠 |
3月上旬 |
伊勢各地 |
秀吉軍、伊勢へ侵攻開始。 |
蒲生氏郷、滝川一益ら |
織田信雄方諸将 |
- |
24 |
3月中旬 |
峯城 |
蒲生氏郷、堀秀政らが峯城を攻撃。 |
蒲生氏郷、堀秀政ら |
峯氏 |
峯城落城。 |
23 |
3月中旬 |
国府城 |
蒲生氏郷軍が国府城を攻撃。 |
蒲生氏郷 |
国府盛種 |
国府城落城 。 |
1 |
3月中旬 |
亀山城 |
滝川一益が亀山城を攻撃。 |
滝川一益 |
関盛信 |
亀山城は持ちこたえるも、周辺の支城は陥落。 |
27 |
4月 |
松ヶ島城、戸木城 |
羽柴秀長らが南伊勢に侵攻。松ヶ島城を占領し、戸木城を包囲。 |
羽柴秀長、筒井順慶ら |
木造具政 |
戸木城は10月の和睦まで籠城。 |
24 |
5月4日 |
加賀井城(美濃) |
秀吉軍が加賀井城を包囲。 |
豊臣秀吉 |
加賀井重望、 国府盛種 ら |
- |
24 |
5月6-7日 |
加賀井城(美濃) |
秀吉軍の総攻撃により加賀井城落城。 |
豊臣秀吉 |
加賀井重望、 国府盛種 ら |
盛種ら討死 。 |
1 |
11月11日 |
- |
信雄、秀吉と単独で和睦。 |
豊臣秀吉 |
織田信雄 |
小牧・長久手の戦い終結。 |
24 |
この年表が示すように、伊勢における戦いは緒戦で大勢が決した。秀吉軍の電撃的な侵攻の前に、信雄方の防衛線は瞬く間に崩壊したのである。
伊勢侵攻軍の主力を率いたのは、蒲生氏郷であった 25 。彼は信長配下時代から伊勢の事情に明るく、また関一党の本家当主・関盛信の妻は氏郷の叔母(蒲生定秀の娘)にあたるなど、関氏とは姻戚関係にもあった 19 。秀吉が氏郷を司令官に起用したのは、その軍事的能力に加え、伊勢国人衆への調略をも視野に入れた、巧みな人事戦略であったと考えられる。
氏郷率いる大軍は、まず信雄方の峯城を攻略し、続いて国府城へと殺到した 1 。国府城は関一党の防衛網の最前線に位置していたが、羽柴軍の圧倒的な物量の前に抗する術はなく、天正12年3月中旬、ついに落城の時を迎えた 1 。
国府城の落城は、単なる一城の敗北に留まらなかった。それは、織田信雄・徳川家康連合軍が想定していた伊勢における防衛線が、緒戦でいとも簡単に突破されたことを象徴する出来事であった。国府城をはじめとする伊勢北部の諸城は、連合軍全体の戦略の中で、いわば秀吉軍の進攻を遅らせるための「捨て石」としての役割を期待されていたのかもしれない。しかし、秀吉軍の進攻速度はそれを遥かに上回り、防衛線は早々に崩壊。この緒戦の敗北が、信雄に伊勢の大部分を失わせる直接的な原因となり、戦いの主戦場を尾張へと移す大きな要因となった 31 。国府盛種の敗走と彼の城の喪失は、この大きな戦略的敗北の一コマだったのである。
本拠地である国府城を失った国府盛種のその後の足取りについては、いくつかの説が存在する。尾張へ逃れたという漠然とした伝承もあるが [ユーザー提示情報]、より多くの史料が示すのは、彼が同じ織田信雄方に属していた美濃国加賀井(加賀野井)城へと向かったという道筋である 1 。
加賀井城は木曽川右岸に位置する要害であり、城主の加賀井重望(しげもち)は信雄の重臣であった 32 。本拠を失った盛種が、友軍の防衛拠点へ合流し、再起を図ろうとしたのは極めて自然な行動であった。彼は、伊勢での敗戦を共にしたであろう峯城の残党、峯与八郎らと共に加賀井城へ入ったと伝えられている 1 。
しかし、彼らに安息の地はなかった。天正12年4月9日の長久手の戦いで、秀吉は池田恒興・森長可といった有力武将を失う戦術的敗北を喫した。この雪辱を果たすべく、秀吉は自ら大軍を率いて尾張・美濃方面の信雄方拠点の掃討作戦を開始する。その標的の一つが、加賀井城であった。
同年5月4日、秀吉軍は加賀井城を完全に包囲した 24 。城内には城主・加賀井重望のほか、国府盛種、小坂雄吉ら約2,000の兵が籠城し、必死の抵抗を試みた 29 。しかし、秀吉軍の猛攻の前に城は持ち堪えられず、5月6日(一説に7日)、ついに落城した 1 。この凄惨な戦いの中で、国府次郎四郎盛種は、峯与八郎らと共に討死を遂げたと、『伊勢名勝志』や『勢州軍記』は一致して伝えている 1 。
国府盛種の最期は、彼の個人的な武勇や判断以上に、小牧・長久手の戦いという巨大な戦役の戦局推移に完全に飲み込まれた結果であった。伊勢での敗北、美濃への転戦、そして籠城戦での死という一連の軌跡は、秀吉の圧倒的な物量の前に、信雄・家康連合軍の防衛拠点が次々と粉砕されていく過程そのものを体現している。彼が故郷の伊勢から遠く離れた美濃の地でその生涯を終えたという事実は、この戦いが局地的な衝突ではなく、広域にわたる総力戦であったことを物語る何よりの証左と言えよう。
伊勢国人・国府盛種の生涯は、戦国末期の地方領主が直面した典型的な悲劇を凝縮している。伊勢の名門・関氏の一族として生まれ、伝統的な在地勢力の一角を占めていた彼は、織田信長の支配、本能寺の変後の混乱、そして豊臣秀吉による天下統一事業という、時代の巨大なうねりから逃れることはできなかった。彼の選択は、常に本家や周辺勢力との関係、そして中央の巨大権力との力関係の中で規定された。最終的に、織田信孝、そして織田信雄という反秀吉陣営に与する道を選んだことで、彼は自らの一族と共に滅びる運命を辿ったのである。彼の人生は、個人の意思だけでは抗うことのできない、歴史の非情な力学を我々に示している。
天正12年(1584年)の加賀井城における国府盛種の戦死をもって、鎌倉時代から続いた伊勢国府氏は事実上滅亡した。その後の子孫に関する明確な歴史的記録は見当たらず、一族が再興された形跡もない 35 。また、盛種の墓所や、その死を悼む特定の伝承が今日まで伝えられているという情報も確認できなかった 38 。彼の存在は、今は農地と化した鈴鹿市国府町の城跡と、諸国の軍記や地誌に記された断片的な記録の中に、その痕跡を留めるのみである。これは、戦国時代に滅亡した無数の小領主の多くが、歴史の表舞台から完全にその姿を消していったという、厳しい現実を反映している。
国府盛種という一人の無名に近い武将の生涯を徹底的に調査することは、単なる個人の伝記研究に留まるものではない。それは、小牧・長久手の戦いを、従来の中央中心の視点だけでなく、伊勢という地域的視点から再評価する一助となる。そして何よりも、天下統一というマクロな歴史の潮流の陰で、地方の国人たちが如何に生き、如何に悩み、そして如何に滅んでいったのかという、生々しいミクロな実像を明らかにする上で、重要な意義を持つ。国府盛種の短い生涯とその悲劇は、400年以上を経た今もなお、戦国という時代の厳しさと、その中で必死に生きようとした人々の姿を我々に力強く伝えている。