土岐氏は、清和源氏の中でも源頼光を祖とする摂津源氏の流れを汲む、日本史上有数の名門武家です 1 。平安時代末期に美濃国土岐郡に土着し、その地名を姓としたことに始まります 2 。鎌倉時代には源頼朝の御家人となり、南北朝時代には足利尊氏を支えた功績により、美濃国の守護職に任じられました 3 。
室町幕府の重鎮として、土岐氏はその勢力を拡大し、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三国守護を兼任するほどの権勢を誇りました 2 。一族は美濃国内に広く分派し、その家紋である桔梗にちなんで「桔梗一揆」と称される強力な武士団を形成し、幕府内でも重きをなしました 2 。この200年以上にわたる美濃支配の歴史こそが、後に土岐頼元が流転の生涯を生き抜く上での最大の資産となる「家名」の源泉でした。
土岐頼元の父である土岐頼芸は、美濃守護・土岐政房の次男として生まれました 7 。政房は嫡男の頼武よりも次男の頼芸を寵愛したとされ、これが兄弟間の深刻な家督争いの火種となります 8 。この内紛は、守護代であった斎藤氏の衰退と、それに乗じる形で台頭した長井氏の介入を招き、美濃国内を二分する戦乱へと発展しました 8 。
数度の合戦の末、兄・頼武を越前に追放した頼芸は、美濃守護の座に就きます。しかし、その勝利は自らの力だけでなく、彼を擁立した家臣、特に長井氏とその家臣であった西村新左衛門尉、後の斎藤道三の策略に大きく依存するものでした 8 。頼芸は彼らを重用しましたが、それは結果として、自らの足元を掘り崩す「蝮」を懐に入れる行為に他なりませんでした。
守護の座を手にした頼芸でしたが、実権は次第に斎藤道三の手に移っていきます。道三は主家を巧みに操り、ついには天文21年(1552年)頃、主君である頼芸を美濃から追放し、自らが国主となる「国盗り」を完成させました 6 。これにより、2世紀以上にわたり美濃を支配した守護大名・土岐宗家は、事実上滅亡の時を迎えます。
追放された頼芸は、近江の六角氏や常陸国にいた弟の治頼などを頼って諸国を流浪する日々を送りました 7 。晩年は、織田信長による甲州征伐の際に武田氏の庇護下で発見され、旧臣であった稲葉一鉄の計らいで美濃へ帰還します。しかし、その半年後の天正10年(1582年)12月4日、81歳でその波乱の生涯を閉じました 7 。
土岐頼元は、この名門が没落していく渦中に、美濃守護・土岐頼芸の四男として生を受けました 15 。母は近江の戦国大名・六角定頼の娘です 15 。彼の生年は不詳ですが、父・頼芸が道三によって追放された際にはまだ幼少であったと伝えられています 15 。
頼元には頼栄、頼次、頼宗といった兄弟がおり、特に次兄の頼次とは、その後の流転の人生において行動を共にすることが多く、密接な関係にありました 7 。父が守護の座を追われ、一族が離散するという過酷な状況下で、頼元の人生は幕を開けたのです。
父・頼芸が美濃を追われた後、頼元は兄・頼次らと共に美濃に留まることを許されました。これは彼らがまだ幼かったためとされています 15 。旧主の子でありながら、新たな支配者である斎藤道三、そしてその子・義龍、孫・龍興の庇護下で成長することになります。
この時期、頼元は「斎藤頼元」と名乗ったと記録されています 15 。これは単なる便宜上の改姓ではありません。旧守護家の嫡流が、簒奪者である斎藤氏の姓を名乗ることは、斎藤氏への完全な臣従と、その庇護下にある自身の立場を内外に示す、極めて重要な政治的行為でした。頼元は、自らの血筋の価値を理解しつつも、現実の権力構造の中で生き抜くための処世術を、この時から身につけていたと考えられます。
弘治元年(1555年)、斎藤義龍は父・道三に対して反旗を翻し、翌年の長良川の戦いで父を討ち取りました。この父子の骨肉の争いの背景には、義龍が実は道三の子ではなく、土岐頼芸の落胤であるという説が根強く存在します 7 。義龍の母・深芳野はもともと頼芸の愛妾であり、道三に下賜された後に義龍が生まれていること、そして道三と義龍の深刻な不和が、この説の信憑性を高めています 7 。
この「土岐頼芸落胤説」は、義龍が頼元と頼次兄弟を庇護した動機を解明する鍵となります。義龍が彼らを保護したのは、単なる温情からではなかった可能性が高いです。むしろ、そこには高度な政治的計算が働いていたと見るべきでしょう。
第一に、義龍は父・道三との対立において、自らの挙兵を正当化する必要がありました。道三を「主家を乗っ取った簒奪者」と断罪し、自らを「土岐家の血を引く真の美濃の主」と位置づけることで、国内の国人衆の支持を集めやすくなります 10 。
第二に、この物語を補強するためには、正統な土岐家の後継者である頼元・頼次兄弟を丁重に遇することが不可欠でした。彼らを庇護下に置くことで、義龍は自らが「土岐家を尊重する者」であると内外にアピールできます。頼元兄弟は、その存在自体が義龍の正統性を補強する「生きた証人」としての政治的価値を持っていたのです。事実、義龍は兄の頼次に対して本領を安堵しており 17 、頼元も同様に扶助を受けていました 20 。頼元の生存は、義龍の対道三戦略における重要な駒だったと言えるでしょう。
しかし、義龍の治世は長くは続きませんでした。義龍の死後、家督を継いだ斎藤龍興の代、永禄10年(1567年)に織田信長による美濃侵攻が本格化します。稲葉山城は陥落し、龍興は敗走、ここに美濃斎藤氏は滅亡します。庇護者であった斎藤家を失った土岐頼元は、再び流浪の身となり、新たな主を求めて美濃を去ることになりました 15 。
斎藤家の滅亡後、頼元が次に向かった先は甲斐国でした。ここで彼は、当代きっての戦国大名である武田信玄に仕えたと記録されています 15 。武田家における頼元の具体的な活動や役職に関する史料は乏しいですが、彼の価値が純粋な軍事的能力よりも、その出自、すなわち「土岐」という名跡にあったことは想像に難くありません。
当時の武田信玄は、信濃をほぼ平定し、西の上杉謙信と対峙しつつ、南の徳川家康、そして西の織田信長との関係を模索していました。特に美濃は、信長の勢力圏と接する重要な地域です。この地にかつて君臨した守護家の嫡流である土岐頼元を客将として迎えることは、信玄にとって複数の戦略的価値を持ちました。
一つには、将来の美濃侵攻における大義名分となり得ること。もう一つは、美濃国内に残る旧土岐家臣団や国人衆に対する懐柔策として機能することです。頼元は、武田家において戦場で武功を立てる「武将」としてよりも、その血筋によって信玄の威光を高め、外交・調略の駒となる「象徴」としての役割を期待されたと推察されます。これは、戦国大名が没落した名門貴族や旧守護家の子弟を庇護する際に見られる典型的な戦略であり、頼元の流転の人生における一つのパターンを形成しています。
天正10年(1582年)に武田家が織田・徳川連合軍によって滅ぼされると、頼元は再び主を失います。その後の動向は定かではありませんが、やがて天下統一を目前にした豊臣秀吉に仕えることになります 15 。兄の頼次も、大和の松永久秀に仕えた後、天正15年(1587年)に秀吉に臣従しており 17 、兄弟がほぼ同じ時期に天下人の下に集ったことが分かります。これは、彼らが個人の才覚で召し抱えられたというよりは、「土岐家の兄弟」として一括りで評価され、秀吉の権威を飾るために登用された可能性を示唆しています。
秀吉は頼元に対し、河内国古市郡内に500石の知行を与えました 15 。兄の頼次も同郡内に同じく500石を与えられています 17 。さらに頼次は「馬廻」として仕えたことが明記されており 17 、頼元も同様の役職であったと考えられます。馬廻とは、大将の周囲を固める親衛隊であり、平時には事務連絡などもこなす側近的なエリート部隊です 21 。この待遇は、秀吉が土岐兄弟を単なる流浪の客将としてではなく、自らの政権を構成する信頼できる側近の一員として遇したことを示しています。名門の血を引く者を側に置くことで、農民出身である自らの出自を補い、政権の権威を高めようとする秀吉の意図がうかがえます。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。この時、土岐頼元の動向は、彼の巧みな処世術を再び示すものとなりました。史料によれば、頼元が徳川家康に仕えたのは「関ヶ原の戦いの後」とされています 15 。合戦への具体的な参加記録は見当たらず、これは彼が東西両軍の趨勢を慎重に見極めてから行動したことを強く示唆しています。
頼元の知行地であった河内国は、石田三成ら西軍の支配が強い地域でした 22 。そのような状況下で早期に東軍への合流を表明することは、身の危険を伴う大きな賭けであったはずです。頼元は、合戦の勝敗が完全に決してのち、新たな天下人となることが確実となった家康の下に馳せ参じることで、最も安全かつ確実に家名を存続させる道を選んだのです。
家康は、帰順した頼元を咎めることなく、彼が秀吉から与えられていた河内国古市郡内の500石の所領を安堵しました 15 。一説には、さらに故地である美濃国内にも知行を与えられたといいます 15 。これにより、頼元は徳川幕府の直臣、すなわち旗本として新たな地位を確立し、その家は安泰となりました。
家康が頼元・頼次兄弟を厚遇した背景には、単なる温情や人材確保以上の、高度な政治的計算がありました。その象徴的な出来事が、兄・頼次に下賜された名刀「獅子王」の逸話です 17 。
この刀は、関ヶ原で西軍に属し敗死した丹後田辺城主・斎村政広(赤松氏の庶流)から没収されたものでした。家康はこれを頼次に与えるにあたり、「土岐氏は(平安時代の武将)源頼政の子孫であるから」とその理由を明確に述べています 17 。『平家物語』に登場する源頼政は、天皇の命で妖怪「鵺(ぬえ)」を退治し、その恩賞として天皇から「獅子王」という名の刀を賜ったという伝説で知られています。
家康のこの行為は、単なる恩賞を超えた巧みな政治的演出でした。まず、源頼政の伝説と土岐氏の系譜を結びつけ、その象徴である名刀を頼次に与えることで、家康は旧来の武家の伝統と権威を深く尊重する姿勢を天下に示しました。次に、その伝統の裁定者として振る舞うことで、自らが新たな武家の棟梁、すなわち征夷大将軍にふさわしい正統な支配者であることを宣言したのです。そして最後に、美濃の名門・土岐家が完全に徳川体制下に組み込まれたことを、他の大名や国人衆に対して視覚的にアピールしました。
頼元が所領を安堵されたのも、この一連の政治的文脈の中で理解すべきです。頼元・頼次兄弟は、一個人の武将としてではなく、徳川政権の正統性を補強する「生きた文化財」とも言うべき価値を認められ、その血筋の故に安泰を得たのです。
徳川の世で旗本としての地位を確立した頼元は、やがて隠居し「道庵」と号しました 15 。その後の平穏な晩年を経て、慶長13年(1608年)10月19日、その生涯を閉じました。生年が不詳であるため、享年も不明とされています 15 。
父・頼芸の墓は岐阜県揖斐川町の法雲寺に 13 、また一族の頼貞や成頼の墓も岐阜県内に現存しています 24 。しかし、土岐頼元自身の墓所の所在を明確に示す史料は、現在のところ確認されていません。これは、彼の生涯が特定の拠点に根差すことなく、美濃、甲斐、河内、そして江戸と、主君や時代の変転と共に居場所を変え続けた流転の人生であったことを象徴しているのかもしれません。
頼元の家督は、子の土岐持益(もちます)が継承しました 15 。持益の代には、父・頼元が斎藤氏の庇護下で用いていた「斎藤」姓から、本来の「土岐」姓へと復しています 15 。これは、徳川の治世が安定し、もはや旧主である斎藤家に遠慮する必要がなくなったことの証左であり、土岐家が名実ともにその権威を回復したことを示す出来事でした。
持益は、旗本として徳川家への忠誠を具体的な行動で示します。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣に徳川方として従軍し、武功を挙げました 27 。これにより、父・頼元が辛うじて繋いだ土岐家の血脈は、徳川幕藩体制下で確固たる地位を築くに至ったのです。
土岐頼元の子・持益は、父の遺領500石に加増を受け、1000石を知行する旗本となりました 27 。そして、その子である頼長の代、寛永17年(1640年)に、土岐家は幕府の役職の中でも特に格式の高い「高家(こうけ)」に列せられました 20 。
高家とは、江戸幕府において朝廷への使者や勅使の接待、幕府の重要な儀式・典礼などを司る役職です 28 。武田、今川、吉良といった、室町時代からの名門守護大名の家系が多くこの役に任じられました。彼らは万石以下の中小旗本でありながら、官位は大名に準じる待遇を受け、幕府の権威と格式を象徴する存在でした 29 。
頼元の生涯は、武力や知謀ではなく、ひたすらに自らの「血筋の権威」を拠り所として戦国の乱世を生き抜き、その血脈を江戸幕府の儀礼的権威の一部として結実させた、という点で総括できます。斎藤氏、武田氏、豊臣氏、そして徳川氏と、時の権力者は皆、頼元の武将としての能力以上に、「美濃源氏・土岐氏」という名跡が持つ無形の価値を求めて彼を庇護しました。
江戸幕府が成立し、武力よりも家格や儀礼、伝統が重視される時代が到来すると、頼元が繋いだ「血筋」の価値は相対的にさらに高まりました。彼の子孫が高家に列せられたのは、その価値が幕府によって公的に認められ、新たな統治体制の中に制度として組み込まれたことを意味します。頼元の流転の生涯は、戦国的な価値観(武功)から江戸的な価値観(家格)への移行期を体現しており、その最終的な成功は、時代の大きな変化に見事に対応した結果であると言えるでしょう。
土岐頼元について調査する際、しばしば混同されるのが、江戸時代に上野国沼田藩主を務めた土岐家です。しかし、この両家は同じ土岐一族ではあるものの、その系譜と歴史は全く異なります。この違いを明確に理解することは、頼元の生涯を正確に捉える上で不可欠です。
沼田藩主となった土岐家の祖は、土岐定政という人物です 2 。彼は美濃土岐氏の庶流である明智氏の出身で、父の戦死により母方の実家である三河の菅沼氏に養われました 30 。当初は「菅沼定政」として徳川家康に仕え、姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどで数々の武功を挙げた猛将でした 30 。その功績により、家康の関東入封時に下総守谷に1万石を与えられて大名となり、後に土岐姓に復しました 30 。
以下の表は、この二つの土岐家の系統を比較したものです。
表1:江戸時代における主要な土岐氏二系統の比較
項目 |
土岐頼元流(高家旗本) |
土岐定政流(沼田藩主) |
祖 |
土岐頼元(美濃守護・土岐頼芸の四男) |
土岐定政(美濃土岐氏庶流・明智氏出身) |
徳川家への仕官経緯 |
関ヶ原の戦い後、家康に帰順。血筋と家格を評価される 15 。 |
少年期から家康に近侍し、「菅沼定政」として数々の戦で武功を挙げる 30 。 |
江戸時代の家格 |
旗本。子の持益の代に1000石。孫の頼長の代に 高家 に列する 28 。 |
譜代大名 。下総守谷1万石から始まり、転封を重ね最終的に上野沼田3万5000石となる 2 。 |
幕府内での主な役割 |
朝廷との儀礼、典礼の管掌 28 。 |
大坂城代、京都所司代、老中などの幕府要職 34 。 |
存続の根拠 |
血統の権威 (旧守護家の嫡流) |
個人的な武功と忠誠 |
このように、土岐頼元の家系が「血統の権威」によって存続し儀礼を司る高家となったのに対し、土岐定政の家系は「個人的な武功」によって大名となり幕政の中枢を担いました。この対照的な二つの家系の存在は、徳川幕府が家臣団を評価し、統治体制を構築する上で、武功と家格という二つの異なる基準を巧みに用いていたことを象徴しています。土岐頼元の生涯は、まさに後者の「家格」によって激動の時代を乗り切り、家の血脈を未来へと繋いだ、稀有な実例として歴史にその名を留めているのです。