西暦(和暦) |
頼芸の年齢 |
土岐頼芸及び美濃国内の動向 |
関連人物・勢力の動向 |
1502年(文亀2年) |
1歳 |
美濃国守護・土岐政房の次男として誕生。幼名は頼曽 1 。 |
父:土岐政房、兄:土岐頼武。 |
1517年(永正14年) |
16歳 |
兄・頼武との間で最初の家督争いが勃発。頼芸派は敗北する 2 。 |
頼武派:守護代・斎藤利良。頼芸派:小守護代・長井利隆。 |
1518年(永正15年) |
17歳 |
再び頼武と争い勝利。兄・頼武を越前国へ追放する 2 。 |
頼芸、一時的に美濃の実権を掌握。 |
1519年(永正16年) |
18歳 |
父・政房が死去。越前から帰国した頼武との三度目の争いに敗北 2 。 |
頼武が正式に美濃守護に就任。頼芸は鷺山城に追いやられる 3 。 |
1525年(大永5年) |
24歳 |
家臣の長井長弘、西村新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、兄・頼武打倒のため挙兵 2 。 |
西村勘九郎(後の斎藤道三)が頼芸方として頭角を現し始める。 |
1527年(大永7年) |
26歳 |
西村勘九郎(道三)の進言を受け、兄・政頼(頼武)の居城・革手城を攻める 4 。 |
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1530年(享禄3年) |
29歳 |
長井氏らの協力により、頼武派の拠点を攻略。兄を再び追放し、美濃守護の座を奪取する 2 。 |
朝廷より従四位下・兵部大輔に叙任される 1 。 |
1535年(天文4年) |
34歳 |
長良川の洪水により、守護所を枝広館から山県郡の大桑城へ移す 2 。 |
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1536年(天文5年) |
35歳 |
室町幕府より正式に美濃国守護に任命される 2 。 |
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1538年(天文7年) |
37歳 |
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守護代・斎藤利良が死去。守護代斎藤氏は断絶 3 。 |
1542年(天文11年) |
41歳 |
斎藤道三(利政)に大桑城を攻められ、尾張へ追放される(第一次追放) 4 。 |
尾張の織田信秀の仲介により道三と和睦し、美濃守護に復帰 2 。 |
1543年(天文12年) |
42歳 |
本願寺に対し、美濃門徒の年貢納入に関する交渉を行う(『天文日記』) 7 。 |
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1547年(天文16年) |
46歳 |
兄・頼武が病死。これを機に道三が再び挙兵し、頼芸を攻撃 2 。 |
道三の娘・帰蝶(濃姫)が織田信長に嫁ぎ、織田・斎藤が同盟 3 。 |
1552年(天文21年) |
51歳 |
道三による三度目の大桑城攻撃を受け、美濃から完全に追放される(最終的追放)。土岐氏の美濃支配が終焉 2 。 |
常陸国の弟・土岐治頼のもとへ身を寄せ、土岐宗家の家宝と系図を譲渡する 2 。 |
1582年(天正10年) |
81歳 |
甲斐国に寄寓中、織田信長の甲州征伐で発見される。旧臣・稲葉一鉄の計らいで美濃に帰国。この間に失明したと伝わる 2 。 |
6月、本能寺の変。12月4日、揖斐郡の東春庵にて病死 4 。 |
日本の戦国時代、その歴史は数多の武将たちの興亡によって彩られている。中でも、美濃国(現在の岐阜県南部)の最後の守護大名、土岐頼芸(とき よりのり)の生涯は、時代の大きな転換点を象徴する特異な軌跡を描いている。一般に彼は、家臣であった斎藤道三の奸計によって国を追われた悲運の君主として知られる 4 。しかし、その人物像は単なる権力闘争の敗者という一面に留まるものではない。
土岐氏は清和源氏の流れを汲む名門であり、室町幕府のもとで二百年以上にわたり美濃を支配してきた 1 。頼芸は、その嫡流として生まれながら、自らの手で守護の座を掴み取り、そして自らを支えたはずの家臣によってその座を追われるという、まさに下剋上の時代の激流を一身に体現した人物であった。彼の81年に及ぶ長い生涯は、追放と復帰、そして終わりのない流浪の連続であり、戦国という時代の非情さとダイナミズムを映し出す鏡と言える 1 。
一方で、頼芸は武将としての側面とは対照的に、優れた文化人としての一面も併せ持っていた。特に彼が描いた鷹の絵は「土岐の鷹」と称され、後世にまでその名が伝わるほどの高い芸術性を持っていた 10 。政治的権力を失い、流浪の日々を送る中で、彼が筆に込めた思いとは何だったのか。その芸術活動は、失われた権威と名門の矜持を保つための、もう一つの戦いであったのかもしれない。
本報告書は、土岐頼芸という人物について、広く知られた概要に留まらず、その出自から骨肉の家督争い、斎藤道三との複雑な関係、そして美濃追放後の流浪の半生と文化人としての活動、さらには彼の子孫が辿った意外な運命までを、現存する史料に基づき徹底的に掘り下げ、その多面的な実像に迫ることを目的とする。彼の生涯を追うことは、守護領国制という中世的な秩序が崩壊し、実力主義の新たな時代が到来する過程を、一人の人間の視点から克明に追体験することに他ならない。
土岐頼芸の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた「土岐氏」という名の重みと、その権威が変質していく歴史的背景を把握する必要がある。土岐氏は、摂津源氏の祖・源頼光を遠祖とし、鎌倉時代に美濃国土岐郡に土着したことに始まる、由緒ある武家であった 15 。
室町幕府が成立すると、土岐氏はその創設に貢献した功績により、美濃国守護職に任じられた 1 。以来、二百年以上にわたりその地位を世襲し、美濃における支配を盤石なものとした。最盛期には、二代守護・土岐頼遠や三代守護・土岐頼康の時代に、本領である美濃に加えて尾張(現在の愛知県西部)、伊勢(現在の三重県)の守護職をも兼任する「三国守護」として、東海地方に絶大な権勢を誇った 6 。幕府内においても評定衆や侍所所司といった要職を歴任し、中央政権においても重きをなす存在であった 6 。土岐氏は、まさに室町幕府を支える名門守護大名の筆頭格だったのである。
しかし、その栄光は永続しなかった。三代将軍・足利義満は、強大化しすぎた有力守護大名の力を削ぐ政策を推進した。土岐氏もその標的となり、一族内の不和を利用されて内紛(土岐康行の乱)を誘発させられ、三国守護の地位を失うなど、その勢力は大きく減退した 6 。この事件は、土岐一族の団結に深刻な亀裂を生じさせ、後の権威失墜の遠因となる。
応仁の乱(1467年-1477年)を経て戦国時代に突入すると、美濃国内の権力構造はさらに流動化する。守護の権威が低下する一方で、守護代の斎藤氏や、その家臣である小守護代の長井氏といった国人領主たちが、守護の統制から離れて独自に力を蓄え始めた 6 。特に、「美濃錯乱」と呼ばれる守護代の地位を巡る内紛などを経て、斎藤氏の権力は守護を凌駕するほどに増大していく 18 。
頼芸の父である土岐政房(九代守護)の時代には、もはや守護家自身が家臣団の勢力争いの駒として利用される状況に陥っていた。政房自身も、父・成頼と叔父・元頼との家督争い(船田合戦)の末に守護の座を得ており、その権力基盤は決して安定したものではなかった 6 。頼芸が生まれた時点で、美濃守護・土岐氏の権威は名目的なものとなりつつあり、その実権は家臣団へと移り変わる寸前の、極めて不安定な状態にあったのである。頼芸が直面した危機は、彼個人の代に突如として発生したものではなく、数世代にわたる構造的な権力基盤の侵食の、必然的な帰結であったと言えよう。
土岐氏の権威が揺らぐ中、文亀2年(1502年)、土岐頼芸は守護・土岐政房の次男として生を受けた 2 。本来であれば、嫡男である兄・土岐頼武(よりたけ、政頼とも 4 )が家督を継ぐのが当然の順序であった。しかし、父・政房が次男である頼芸を偏愛したことから、土岐家の家督相続は泥沼の内乱へと発展する 3 。
この兄弟間の対立は、単なる家族内の問題では収まらなかった。当時、美濃国内で大きな影響力を持っていた守護代・斎藤利良は嫡男の頼武を支持し、一方でそれに反発する小守護代の長井長弘らは次男の頼芸を擁立した 3 。土岐家の家督争いは、事実上、斎藤氏と長井氏という二大重臣による代理戦争の様相を呈したのである。これは、守護家の権威が失墜し、家臣団が主家の後継者問題に介入して自らの勢力拡大を図るという、戦国時代初期に典型的な状況であった。
永正14年(1517年)、16歳の頼芸は長井氏に担がれて挙兵するも、初戦は頼武派に大敗を喫する 2 。しかし翌永正15年(1518年)、頼芸派は勢力を盛り返して勝利し、兄・頼武を越前国(現在の福井県)へと追放することに成功した 2 。頼武の室は越前守護・朝倉氏の出身であり、頼武は縁戚を頼って落ち延びたのである 6 。
だが、争乱はこれで終わらなかった。永正16年(1519年)、父・政房が死去すると、これを好機と見た頼武が朝倉氏の支援を受けて美濃に侵攻。三度目の戦いで頼芸は敗れ、今度は頼武が美濃守護の座に就いた 2 。敗れた頼芸は、頼武の居城・稲葉山城の麓に位置する鷺山城に押し込められ、不遇の時を過ごすこととなった 3 。
雌伏の時を経て大永5年(1525年)、頼芸に再び機会が訪れる。長井長弘や、その家臣で油売りから武士へと成り上がった西村新左衛門尉(斎藤道三の父)、そしてその子・勘九郎(後の道三)らが、改めて頼芸を擁立して挙兵したのである 3 。この戦いは数年に及び、享禄3年(1530年)、頼芸派はついに頼武派の拠点を陥落させ、兄を美濃から完全に追放した 2 。こうして頼芸は、10年以上にわたる骨肉の争いの末、実力で守護の座を奪取した。そして天文5年(1536年)、室町幕府からも正式に美濃守護として承認され、名実ともに美濃の国主となったのである 2 。
しかし、この勝利が彼の未来に暗い影を落とすことになる。頼芸の守護就任は、正統な血筋による継承というよりは、長井氏や斎藤道三といった家臣の軍事力に全面的に依存した、いわば「下剋上」の一形態であった。主君が家臣を選ぶのではなく、家臣が自らの利害のために主君を「擁立」するという権力構造の逆転を、彼は自ら実践してしまった。この成功体験こそが、皮肉にも、彼自身が同じ論理によって家臣に裏切られる未来を準備するものであった。自らを玉座に押し上げた力が、やがて自らを奈落の底に突き落とす力へと変貌していくのである。
兄・頼武との長い内乱を制し、美濃守護の座を手にした土岐頼芸。その最大の功労者こそ、後に「美濃の蝮」と恐れられることになる斎藤道三(当初は西村勘九郎、後に長井規秀、斎藤利政と改名)であった 3 。頼芸は、その非凡な才覚と忠誠を高く評価し、破格の待遇で重用した。しかし、この蜜月関係こそが、土岐氏の支配を内側から蝕んでいく序章に過ぎなかった。
頼芸は、自らの権力基盤を固めるため、道三を重用し続けた。守護代であった斎藤利良が天文7年(1538年)に死去し、名門・守護代斎藤氏が断絶すると 3 、頼芸は道三にこの斎藤氏の名跡を継がせ、守護代に任命した。これは、功臣への最大の恩賞であると同時に、自らの支配を安定させるための戦略であった。
しかし、この一手が決定的な主客転倒を招く。守護代の地位と斎藤氏の名跡を得た道三は、美濃国内の統治権を合法的に掌握し、国政の実権を完全にその手に収めていった。頼芸は依然として「美濃守護」という最高の権威を持つ存在であったが、その実態は道三の意のままに動く操り人形(傀儡)へと急速に変質していった 4 。頼芸は、自らの権威を保証してもらうために道三を必要とし、道三は自らの支配を正統化するために頼芸の権威を必要とする、という奇妙な共存関係が成立したのである。
とはいえ、頼芸が完全に無力な存在であったわけではない。彼は、失われゆく権威の最後の行使者として、限定的ながらも守護としての統治行為を続けていた。例えば、天文12年(1543年)の『天文日記』には、頼芸が斎藤氏と連名で本願寺の証如に対し、美濃国内の門徒衆が年貢を未納にしている問題について、本願寺から納入を命じるよう要請する交渉記録が残っている 7 。これは、守護としての対外的な交渉権が、依然として頼芸に帰属していたことを示している。
また、岐阜県に現存する「土岐頼芸判物」は、彼が家臣の河合弥太郎(谷弥太郎とも)に対し、所領の支配を保証する旨を伝えた公的文書である 20 。この判物の存在は、頼芸が国内の所領安堵という、守護の根源的な権能を依然として行使していたことを物語る。これらの史料から浮かび上がるのは、道三が頼芸を単に飾り物として放置したのではなく、彼の持つ「守護」という伝統的な権威を、自らの実力支配を補強し、正統化するための道具として積極的に利用していたという実態である。頼芸もまた、道三という実力者の庇護の下で、守護としての体面と最低限の権威を保とうと努めていた。両者は、互いの利害が一致する範囲において、緊張をはらんだ共犯関係にあったと言えるだろう。
この時期の頼芸と道三の関係を語る上で、しばしば引き合いに出されるのが、道三の嫡男・斎藤義龍の出生に関する逸話である。義龍の母・深芳野は、もともと頼芸の寵愛を受けた側室であったが、懐妊したまま道三に下賜されたという説が、江戸時代の軍記物などに記されている 10 。このため、義龍は道三の子ではなく頼芸の実子であり、これが後の義龍と道三の骨肉の争い(長良川の戦い)の遠因になった、という物語が広く知られている 22 。しかし、この説は同時代の史料には見られず、後世の創作である可能性が高いと指摘されている 10 。真偽はともかく、このような逸話が生まれること自体が、頼芸と道三の密接かつ複雑な関係性を象徴していると言えるかもしれない。
斎藤道三との奇妙な共存関係は、長くは続かなかった。道三が美濃国内の支配を盤石にするにつれて、頼芸の持つ「守護」という権威は、利用価値のある道具から、自らの野望の邪魔となる存在へと変わっていった。そしてついに、道三は頼芸の追放という最終手段に打って出る。
最初の追放は、天文11年(1542年)に起こる。道三は突如として頼芸の居城・大桑城に兵を向けた 4 。不意を突かれた頼芸は抗戦できず、尾張の織田信秀を頼って落ち延びた 6 。この時、信秀は美濃への影響力拡大を狙い、頼芸を支援。信秀の仲介によって頼芸と道三は和睦し、頼芸は一旦、美濃守護として大桑城に復帰することができた 2 。
しかし、この和睦は一時的な延命措置に過ぎなかった。天文16年(1547年)、頼芸の兄・頼武が亡くなると、道三はこれを好機と見て再び頼芸への圧力を強める 2 。さらに、道三の娘・帰蝶(濃姫)が織田信秀の嫡男・信長に嫁いだことで、織田家と斎藤家は強固な同盟関係を結んだ 3 。かつての庇護者であった織田家を後ろ盾とした道三にとって、もはや頼芸に遠慮する必要はなかった。
そして天文21年(1552年)、道三は三度目の大桑城攻めを敢行する 2 。この時、頼芸に味方する美濃国人は誰もおらず、完全に孤立無援となった頼芸は、ついに美濃からの永久追放を余儀なくされた 8 。これにより、鎌倉時代から約200年にわたって美濃を支配してきた名門・土岐氏の統治は、名実ともに終焉を迎えたのである 4 。
美濃を追われた頼芸の、長く苦難に満ちた流浪の生活が始まった。彼はまず、近江の六角氏や、かつて兄・頼武が身を寄せた越前の朝倉氏など、周辺の有力大名を頼ったとされる 9 。彼が依然として「元・美濃守護」という政治的価値を失っていなかったことの証左である。各大名にとって、彼を庇護することは、将来の美濃介入の大義名分となり得たからだ。
最終的に頼芸がたどり着いたのは、常陸国(現在の茨城県)の江戸崎城であった。ここには、彼の実弟である土岐治頼が、土岐原氏の養子に入り、独立した勢力を築いていた(江戸崎土岐氏) 2 。
ここで頼芸は、極めて重要な決断を下す。自力での美濃復帰が不可能であることを悟った彼は、土岐宗家に伝わる家宝と系図を、弟の治頼に譲渡したのである 2 。これは、単に身の安全を託すという意味に留まらない。物理的な領国である美濃ではなく、血統と家宝に象徴される「土岐宗家」という無形の権威そのものを、関東で確固たる基盤を持つ弟の家系に託し、一族の永続を図るという、極めて戦略的な判断であった。これを受けて治頼は、それまで名乗っていた「原」の姓を、本姓である「土岐」に復している 25 。頼芸のこの決断は、個人の復権という野心を超え、名門の当主として「家」の存続を最優先する、当時の武家の価値観を体現したものであった。彼の流浪は単なる逃避行ではなく、失われた権威を背景に、一族の未来を模索する政治的行為でもあったのだ。
土岐頼芸の生涯は、権力闘争と流浪の歴史として語られることが多い。しかし、彼にはもう一つの、極めて重要な顔があった。それは、戦国武将としては異例とも言える、一流の文化人としての一面である。特に、彼が描いた鷹の絵は、彼の名を不朽のものとした。
頼芸は幼い頃から武芸よりも文芸を好み、中でも絵画に非凡な才能を示したと伝わる 1 。彼の父・政房もその才を認めていたという。彼が特に得意としたのが、鷹の絵であった。鷹は、その勇猛さと高貴さから武士社会で古くから尊ばれ、鷹狩りは武家の重要な儀礼でありステータスシンボルでもあった 14 。頼芸の描く鷹は、気迫に満ち、生命力にあふれていたとされ、やがて「土岐の鷹」として珍重されるようになる 9 。
「土岐の鷹」は、頼芸一人のものではなかった。土岐氏には、五代守護・頼忠や、頼芸の孫にあたる頼高など、鷹の絵を得意とする武人画家が複数存在し、これらは一つの流派として認識されていた 29 。その画風は、後の時代の装飾的なものとは一線を画す、気品と迫力を備えた古様なものであったと評価されている 30 。
また、史料によっては、頼芸は「土岐洞文(とき どうぶん)」あるいは「土岐富景(とき とみかげ)」という画号も用いたとされ、これらの画家と頼芸は同一人物であるという説が有力視されている 3 。これが事実であれば、彼の芸術活動が専門的な画家の域に達していたことを示唆する。
作者とされる人物 |
作品名(例) |
所蔵場所(例) |
特徴・備考 |
土岐頼芸 |
「鷹の図」 |
東京・品川 春雨寺 |
伝・頼芸作として複数の作品が各地に現存する。 |
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「鷹の図」 |
岐阜・山県市 南泉寺 |
頼芸の菩提寺の一つとされる寺院に伝わる 29 。 |
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「鷹の図」(伝) |
岐阜・瑞浪市 開元院 |
伝承として頼芸作とされる 29 。 |
土岐頼忠 |
「蒼鷹之図」 |
岐阜・池田町 禅蔵寺 |
房の中に「衲正筆」という隠し落款があることで知られる 29 。 |
土岐富景 |
「鷹の図」 |
東京国立博物館 |
「美濃守富景」の款記があり、時代的に頼芸と同一人物とする説が有力 29 。 |
土岐頼高 |
「鷹の図」 |
岐阜市 崇福寺 |
頼芸の孫。他の作品とは画風が異なり、穏やかな表情で描かれる 29 。 |
頼芸にとって、鷹の絵を描くことは単なる趣味や慰みではなかった。それは、失われた武威と権威を、文化的な形で表現し、維持するための重要な手段であったと考えられる。政治的・軍事的な実権を道三に奪われ、もはや実際の武力で威光を示すことができなくなった頼芸は、「鷹」という武家の精神性の象徴を、絵画という文化的な媒体を通じて完璧に表現することで、自らが依然として「武家の棟梁」たるにふさわしい精神性と教養を持つ人物であることを、内外に示し続けた。
「土岐の鷹」というブランドは、彼の政治的地位が低下する一方で、彼の文化的権威の象徴として機能した。それは、実力主義が全てを支配するかに見えた戦国時代にあって、伝統的な名門が自らの存在価値を懸命に維持しようとした、したたかな精神的抵抗の証だったのである。
美濃を追われ、諸国を流浪した土岐頼芸の長い旅路は、意外な形で故郷の土を踏むことで終わりを迎える。そして彼の血脈は、戦国の世を生き抜き、歴史の思わぬ場面にその名を刻むことになる。
天正10年(1582年)、天下統一を目前にした織田信長が甲斐の武田氏を滅ぼした(甲州征伐)。その際、武田領内に寄寓していた老人が発見される。それが、81歳になった土岐頼芸であった 2 。長年の流浪生活のためか、この時すでに彼は視力を失っていたと伝えられる 9 。
この報に接したのが、信長の重臣となっていた稲葉一鉄であった。一鉄はかつて頼芸に仕えた旧臣であり、西美濃三人衆の一人として知られる猛将である 34 。彼は旧主の窮状を憐れみ、信長に働きかけて頼芸の美濃への帰還を実現させた 2 。
故郷に戻った頼芸は、一鉄が用意した揖斐郡の東春庵(現在の法雲寺)で、ようやく安息の日々を得た 3 。しかし、その穏やかな時間は長くは続かなかった。帰郷からわずか半年後、奇しくも信長が本能寺で斃れたその年の12月4日、頼芸は波乱に満ちた81年(一説に82年)の生涯を閉じた 1 。その墓は現在も法雲寺に残り、岐阜県の史跡として大切に守られている 4 。
頼芸個人の物語はここで終わるが、土岐氏の血脈は途絶えなかった。嫡男(次男であったが兄の廃嫡により嫡子となる)の土岐頼次は、父の追放後、京都で暮らし、一時は斎藤義龍や松永久秀に仕えるなど、父同様に流転の人生を送った 37 。しかし、彼は父が築いた人脈や「土岐」という名跡の価値を巧みに利用し、新たな天下人である豊臣秀吉、そして徳川家康に仕えることに成功する。関ヶ原の戦いの後、家康から旗本として500石の所領を安堵され、見事に土岐家の家名を再興したのである 37 。家康が頼次に源氏重代の宝刀「獅子王」を与えたという逸話は、徳川政権が土岐氏を名門として厚遇したことを示している 37 。
頼次の子孫は、江戸幕府において儀礼などを司る高家旗本として存続した 15 。しかし、歴史の皮肉はここで終わらない。頼芸のひ孫にあたる人物が、日本史上最も有名な事件の一つに、思いがけない形で関与することになる。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城本丸御殿の松之大廊下で、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高家肝煎・吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が発生した。この時、背後から浅野内匠頭を取り押さえ、「殿中でござる、殿中でござる」と叫んだとされる人物こそ、頼芸のひ孫、旗本の梶川与惣兵衛頼照(かじかわ よそべえ よりてる)だったのである 32 。美濃の国主の座を巡る戦国の争乱から約150年後、その血を引く者が、太平の世を揺るがす「忠臣蔵」の発端となる事件の、まさにその中心に居合わせたのだ。土岐頼芸の物語は、彼自身の死を超え、その血脈を通じて、江戸時代の泰平の世にまで、奇妙な残響を響かせていたのである。
土岐頼芸の81年の生涯は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる壮大な叙事詩であった。彼の人生を振り返る時、我々はその多層的な意味を読み取ることができる。
第一に、彼は「守護領国制崩壊の体現者」であった。清和源氏の嫡流という、中世的な価値観における最高の権威を背負いながら、彼は実力主義という戦国の新たな潮流に適応することができなかった。兄との家督争いに勝利するために家臣の力を借りたこと、そしてその家臣に国を追われたことは、伝統的権威が実力に屈していく時代の必然を、彼の人生そのものが証明している。彼の敗北は、単に個人の資質や能力の問題に帰するものではなく、抗いがたい歴史の構造転換の中に位置づけられるべきものである。
第二に、彼は「文化の継承者」として再評価されるべきである。政治闘争の敗者という側面が強調されがちだが、「土岐の鷹」に代表される彼の芸術活動は、単なる慰みや逃避ではなかった。それは、武家の精神性を象徴する鷹を描くことを通じて、失われた権威と名門としての矜持を文化的な次元で守り抜こうとする、彼のしたたかな戦いであった。彼が遺した気品あふれる鷹の絵は、政治的権力とは別の次元で、彼が守ろうとした価値観が確かに存在したことを、今に伝えている。
最後に、彼の生涯は「戦国を生き抜いた人間の軌跡」そのものである。兄との争いに勝ち、家臣に裏切られ、諸国を流浪し、盲目となりながらも、彼は天寿を全うした 1 。権力者が目まぐるしく入れ替わる激動の時代にあって、名門の誇りを胸に81年間を生き抜いたという事実そのものが、彼の非凡さの一つの証左と言えるだろう。そしてその血脈が、江戸時代を通じて存続し、歴史の意外な場面に顔を出すという事実は、歴史の連続性と、一つの人生が持つ予期せぬ影響の広がりを我々に教えてくれる。
土岐頼芸は、戦国史の主役ではないかもしれない。しかし、彼の流転の生涯は、時代の変化の奔流に翻弄されながらも、人間としての尊厳と自らの拠り所を最後まで手放さなかった一人の武将の姿を、鮮やかに描き出している。彼の物語は、勝者のみが歴史を創るのではないという、普遍的な真理を我々に語りかけているのである。