坂田甚八は武田信玄、徳川家康に仕えた甲斐の御用商人。魚・塩の供給を担い、富士川水運を掌握。主家滅亡後も徳川家康に仕え、甲府の町年寄として明治まで繁栄した。
日本の戦国時代史を彩るのは、数多の武将たちの興亡や華々しい合戦の記録である。しかし、その激動の社会を根底で支え、時にはその動向を左右するほどの力を持った商人たちの存在は、しばしば歴史の表舞台から見過ごされがちである。本報告書が光を当てる「坂田甚八」もまた、そうした歴史の狭間に埋もれた実力者の一人である。
ご依頼者が当初把握されていた「武田家の御用商人として魚・塩の供給を担い、主家滅亡後は徳川家に仕えた」という情報は、坂田甚八の経歴の的確な要約である 1 。しかし、この簡潔な記述の裏には、戦国大名の経済戦略、主家滅亡という存亡の危機を乗り越える生存術、そして近世都市の支配層へと至る一族の壮大な物語が秘められている。
本報告書は、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、坂田甚八という一人の商人の生涯を徹底的に掘り下げるとともに、彼が果たした歴史的役割、そしてその一族が甲斐国、後の甲府の地で築き上げた遺産を多角的な視点から解明することを目的とする。武勇や知略で名を馳せた武将とは異なる、経済と物流という武器で乱世を生き抜き、新たな時代の礎を築いた商人の実像に迫ることで、戦国から近世へと移行する日本の社会構造の変容を、より深く理解することを目指すものである。
坂田甚八が歴史の舞台に登場する背景には、彼の祖先が甲斐国に根を下ろし、戦国大名・武田氏との間に強固な関係を築き上げた経緯が存在する。一介の商人であった坂田家が、いかにして甲斐の経済を担う重要な存在へと成長していったのか。その黎明期は、戦国時代特有の社会の流動性と実力主義を色濃く反映している。
坂田一族の歴史は、甲斐国に古くから土着していた勢力とは一線を画す。史料によれば、坂田家の祖先は伊勢国から「浪人」として甲斐国へ来住したと記録されている 3 。この「浪人」という出自は、彼らが特定の主君を持たない武士階級であった可能性、あるいは何らかの理由で故郷を離れざるを得なかった有力者であったことを示唆する。いずれにせよ、彼らは甲斐の地においては地縁や血縁のしがらみを持たない「よそ者」であった。
この「外部性」は、戦国時代においては不利であるどころか、むしろ大きな利点となり得た。当時の戦国大名は、領国経営を効率化し富国強兵を推し進めるため、旧来の在地勢力の既得権益に縛られない、新たな人材を積極的に登用していた。坂田家は、甲斐の旧来の勢力とは無関係であったからこそ、純粋な能力と実利をもって、革新的な領国経営を目指す武田氏の目に留まったと考えられる。特に、海に面した伊勢国出身であることから、海産物の流通や他国との交易に関する知識、あるいは独自のネットワークを有していた可能性は高い。彼らの成功は、出自よりも実力が重視された戦国という時代のダイナミズムを象徴する一例と言えるだろう。
坂田家が武田氏の庇護下でその地位を確立したことを示す、極めて重要な記録が存在する。それは、甚八の祖父・源右衛門の代、天文11年(1542年)に、武田信玄自らが坂田家に対して特権を与えたという事実である 3 。
この時、源右衛門は信玄から二つの大きな特権を認められている。一つは、甲府城下の居屋敷における「諸役免許」、すなわち税制上の優遇措置である。これは、彼らの商業活動を領主が公的に支援し、その拠点となる屋敷の維持にかかる負担を軽減するものであった。もう一つは、「崎割符糸五丸」を毎年下付されるという特権である 3 。この「崎割符糸」とは生糸を指し、当時、明との貿易における主要な輸入品であり、高価な織物の原料として極めて価値の高い商品であった。
この事実は、坂田家が当初から魚や塩といった生活必需品だけでなく、生糸のような高付加価値商品の取引にも深く関与していたことを示している。信玄が自ら、一商人にこのような特権を与えたという点は、武田氏が坂田家の持つ商才や流通能力を高く評価し、領国経営における重要な経済パートナーとして早期から位置付けていたことの何よりの証左である。天文11年という早い段階でのこの関係構築は、後の坂田甚八の活躍の強固な基盤となった。
祖父の代に築かれた基盤の上で、坂田甚八は武田家の御用商人としてその手腕を本格的に発揮する。彼の主たる活動拠点は、甲府城下の商業中心地の一つであった「八日市場」であった 1 。ここで彼は、魚と塩という、甲斐国にとって極めて重要な物資の供給を担った 2 。
特に「塩」の持つ戦略的価値は、甚八の役割を理解する上で欠かせない。四方を山に囲まれた内陸国である甲斐にとって、塩は自給自足が不可能な物資であった。塩は、人々の食生活に不可欠であるだけでなく、味噌や漬物といった保存食の製造、さらには武具の手入れや人馬の健康維持にも必須の戦略物資であった。歴史上、武田氏と敵対した今川氏や北条氏といった隣国は、外交上の圧力として武田領への塩の輸出を停止する、いわゆる「塩止め」を幾度となく敢行したと伝えられている。
このような状況下で、安定した塩の供給ルートを確保し、維持することは、武田氏にとって領国の安定と軍事行動の自由を担保する最重要課題であった。坂田甚八が担った役割は、この国家的ともいえる課題を解決することに他ならなかった。彼の仕事は、単に商品を右から左へ動かす民間商人のそれではなく、武田軍の兵站を支える補給部隊の責任者に近い、極めて公的な性格を帯びていた。彼の商才と彼が管理する物流網は、武田氏の経済、ひいては軍事力の根幹を支える生命線そのものであり、甚八は単なる「商人」という枠を超えた「経済安全保障の担当官」と評価するのが、その実態により近いと言えよう。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻により、甲斐の名門・武田家は滅亡する。主家の崩壊は、その庇護下にあった御用商人にとって、自らの存在基盤を根こそぎ奪われるに等しい最大の危機であった。しかし、坂田甚八はこの激動を乗り越え、新たな支配者の下で更なる飛躍を遂げる。彼のこの見事な転身は、戦国乱世を生き抜くための卓越した生存戦略を示している。
武田家の滅亡後、甲斐国は織田信長の支配下に入るが、同年の本能寺の変により再び混乱に陥る。この機に乗じて甲斐を掌握したのが、徳川家康であった。主家を失った御用商人の多くが没落、あるいは離散していく中で、坂田甚八は驚くほど迅速に新たな支配者である家康に接近し、仕えることに成功する 1 。
この成功の裏には、甚八の持つ卓越した戦略的思考があったと考えられる。彼の真骨頂は、主家滅亡という絶望的な状況下で、パニックに陥ることなく、自らが持つ資産の価値を冷静に分析した点にある。彼の最大の資産は、店舗や商品といった有形資産ではなく、長年の歳月をかけて築き上げた「物流ネットワーク」という無形資産であった。甲斐と駿河を結ぶ富士川水運を核としたこの流通網は、誰が甲斐を支配しようとも、領内の経済を安定させ、戦略物資を供給するために不可欠な社会基盤、すなわち「インフラ」であった。
甚八は、このインフラの価値と、それを管理・運営できる自らの能力の不可欠性を、新たな支配者である家康に対して的確に提示し、売り込むことに成功したのである。家康にとっても、占領地の民心を安定させ、経済を迅速に掌握することは急務であった。そこに現れたのが、現地の物流を隅々まで知り尽くした実務家、坂田甚八であった。両者の利害は完全に一致した。甚八は忠誠を誓うことで家康の御用商人という地位を確保し、家康は甚八を用いることで甲斐の経済を円滑に支配下に置くことができた。これは、危機を好機へと転換する、見事な戦略的転換(ピボット)であり、混乱期における情報収集能力と、自らの価値を客観視し、次代の権力者に的確にアピールする交渉力の高さを物語っている。
坂田甚八の歴史的立ち位置をより明確にするため、同じく徳川家康に仕え、その天下統一を支えた他の著名な御用商人と比較することは有益である。特に、京都の茶屋四郎次郎と角倉了以は、その好対照として挙げられる。
茶屋四郎次郎(初代・清延)は、京都の呉服商を本業としながらも、その活動は単なる商売の域を遥かに超えていた 5 。彼は家康の側近として、三方ヶ原の戦いや長篠の戦いなど数々の合戦に従軍し、兵糧や武具の調達を担った 6 。さらに、本能寺の変の際には、堺にいた家康にいち早く凶報を伝え、有名な「伊賀越え」では、その財力と人脈を駆使して家康の命を救ったとされる 5 。彼の役割は、情報収集、諜報活動、さらには豊臣秀吉との外交交渉の仲介にまで及び、まさに家康の腹心として政治・軍事の最前線で暗躍した「政商」であった 7 。
一方、角倉了以は、薬種商や土倉(金融業)を営む京都の豪商であったが、その名を不朽のものとしたのは、大規模な開発事業であった 9 。彼は徳川家康の許可と支援の下、朱印船を安南(ベトナム)などに派遣して海外貿易で巨万の富を築く一方、その私財を投じて国内の河川開削事業に乗り出した 9 。京都の高瀬川や大堰川(保津川)の開削は、京都の経済を飛躍的に発展させた 11 。さらに家康の命を受け、坂田甚八の事業基盤でもあった富士川の舟運路の開削にも成功している 12 。彼は、国家レベルのインフラ整備を請け負う「開発事業家」「総合建設業者」としての性格が強い。
これら二者と比較することで、坂田甚八の専門性が際立ってくる。彼は茶屋四郎次郎のように全国区の政治・軍事の舞台で活躍したわけでも、角倉了以のように国家的な巨大プロジェクトを手掛けたわけでもない。彼の強みは、「甲斐国」という特定の地域に深く根差し、その生命線である物流網を完璧に掌握・運営する「地域特化型のスペシャリスト」であった点にある。家康は、これら能力の異なる商人たちを巧みに使い分けることで、自らの支配体制を盤石なものとしていったのである。
項目 |
坂田甚八 |
茶屋四郎次郎(初代・清延) |
角倉了以 |
本業 |
魚・塩の卸売(甲斐) |
呉服商(京都) |
薬種商・土倉(京都) |
主な活動領域 |
甲斐国内の物流網掌握 |
全国規模の物資調達・諜報・外交 |
国際貿易・国内河川開発 |
家康との関係性 |
領国経営のパートナー |
腹心・情報源・政治顧問 |
大規模事業の請負人 |
専門性 |
地域経済の安定化 |
政治・軍事支援 |
インフラ開発・国際交易 |
後世への影響 |
甲府の世襲町年寄 |
幕府御用達の豪商 |
京都の文化・経済の発展 |
徳川家康の御用商人となった坂田甚八は、単に武田時代からの事業を継続しただけではなかった。彼は新たな支配者から絶大な権益を与えられ、甲斐国の経済に対する影響力を不動のものとしていく。その力の源泉となったのが、「魚商統制権」という特権と、それを物理的に支える「富士川水運」という物流の大動脈であった。
天正13年(1585年)、坂田甚八は徳川家康から「領内の魚商統制権」を与えられる 1 。この一文が持つ意味は極めて大きい。これは単なる営業許可ではなく、甲斐国内における魚介類の流通、価格設定、さらには同業者の営業活動に対する監督・許認可権までをも含んだ、事実上の独占権であったと解釈できる。
この制度は、後に江戸幕府が特定の商人団体に生糸の輸入・販売を独占させた「糸割符制度」の、いわば地域版・魚介類版と見なすことができる 14 。この特権により、坂田家は甲斐の食料経済、特にタンパク源の供給に対して絶大な影響力を持つに至った。競合他社を統制下に置き、市場価格を左右する力を持つことは、安定した莫大な利益を生み出す源泉となった。家康がこのような強大な権限を甚八一人に与えた背景には、武田氏滅亡後の混乱した甲斐経済を迅速に安定させるため、信頼できる実務家に権限を集中させるという、合理的かつ現実的な判断があったと考えられる。この特権こそが、坂田家が単なる一商人から、地域の経済を支配する豪商へと飛躍する決定的な契機となったのである。
坂田甚八の事業、そして彼に与えられた魚商統制権を物理的に支えたのが、富士川を利用した水運システムであった。この舟運は、甲信地方と東海道、そして江戸を結ぶ、まさに物流の大動脈であった 15 。
その流れは具体的であった。まず、駿河湾で水揚げされた豊富な魚介類や、瀬戸内などから回送されてきた塩は、清水湊などの港に集積される 16 。そこから富士川の河口にある岩淵の河岸(船着場)まで運ばれ、高瀬舟と呼ばれる川船に積み替えられる 15 。船頭たちによって巧みに操られた高瀬舟は、富士川の急流を遡り、甲斐南部の鰍沢(かじかざわ)などの河岸へと荷物を運んだ 12 。鰍沢に荷揚げされた塩や海産物は、そこで「鰍澤塩」などとして荷造りされ、今度は馬の背に乗せられて(中馬)、甲州街道を通り甲府の市場や、さらに先の信州諏訪地方にまで運ばれていった 19 。
逆に、甲斐からは年貢米などが川を下って駿河へ運ばれた。このことから、富士川舟運は「下げ米、上げ塩」という言葉で象徴される、甲斐の米と駿河の塩を基軸とした一大交換経済システムを形成していた 15 。坂田家は、この「上げ塩」と海産物の流れを牛耳ることで、甲斐の経済を根底から支配していたのである。この水運は、前述の通り角倉了以も家康の命で開削に関わるほど、当時の支配者にとって重要なインフラであった 13 。甚八は、この最先端の物流システムを駆使する実務家として、その地位を盤石なものとしたのであった。
坂田甚八が築き上げた経済的基盤は、彼一代で終わることはなかった。それは一族の永続的な繁栄の礎となり、子孫を単なる富裕な商家から、近世都市・甲府の行政を担う支配層の一員へと押し上げる原動力となった。戦国時代の御用商人が、江戸時代の世襲役人へと転身を遂げるこの過程は、日本の社会が武力から法と秩序の時代へと移行していく様を象実に示している。
坂田甚八の子孫は、徳川の世が安定すると、甲府城下の柳町に住んだ山木金左衛門家と共に、甲府の「町年寄」という要職を代々世襲するようになる 1 。この町年寄という役職は、江戸時代の都市行政において極めて重要な役割を担っていた。
彼らは武士ではなく町人身分でありながら、幕府から派遣された町奉行(享保9年(1724年)以降は甲府勤番)の指揮下で、城下町の行政実務を取り仕切る最高責任者であった 21 。その職務は、幕府からの法令(町触)を各町に伝達することから、町人同士の紛争の調停、税の徴収補助、道路や橋の維持管理、防火・防犯体制の整備まで、多岐にわたった 23 。彼らは、武家支配の末端に位置しながら、町人社会の自治を体現する存在でもあった。坂田家は、戦国時代に培った経済的実力と、支配者との強固な信頼関係を背景に、この特権的な地位を確保し、江戸時代を通じて甲府の町政に深く関与し続けたのである。
坂田家が二百数十年もの長きにわたり町年寄という地位を維持できた理由は、単に経済力があったからだけではない。彼らが巧みであったのは、自らの「由緒」を戦略的に構築し、それを支配者層に対して効果的にアピールすることで、その地位の正統性を盤石なものとした点にある。彼らにとって最大の資産は、魚や塩、あるいは金銭ではなく、巧みに編纂され、大切に保管された「一族の物語」そのものであった。
この戦略的な歴史構築の痕跡は、複数の史料から読み取ることができる。まず、坂田家自身が、自らの家系を「中世以来の『町検断役』(町の警察・司法権を担った役職)に続く、近世の『町年寄』であるという意識を創り出し、家の存続を図った」と分析されている 21 。これは、彼らが自らの役職を、徳川時代に始まった新しいものではなく、武田時代、さらにはそれ以前から続く伝統と権威あるものとして位置づけようとしたことを示している。
そのための具体的な証拠として作成されたのが、天明8年(1788年)の年紀を持つ「坂田家先祖御目見先例書上」といった文書である 25 。これは、先祖が将軍に謁見(御目見)した先例などを詳細に書き上げ、幕府に提出することで、自家の格式の高さを公式に認めさせようとする試みであった。さらに、坂田家は、天文11年(1542年)に武田信玄から与えられた朱印状をはじめとする武田時代の古文書を、家宝として大切に保管していた 26 。これらの物理的な証拠は、坂田家の由緒が単なる口伝や自称ではなく、歴史的事実に基づいていることを何よりも雄弁に物語るものであった。必要に応じてこれらの古文書を提示することで、彼らは自らの正統性を疑う者に対して、反論の余地のない証拠を突きつけることができたのである。この一連の行為は、坂田家が単なる金儲けに長けた商家ではなく、自らの歴史的価値を深く理解し、それを政治的資産として活用する高度な知性を備えた一族であったことを証明している。
坂田家が世襲した甲府町年寄の役職は、江戸幕府が終焉を迎えるまで続いた。記録によれば、坂田家は明治5年(1872年)まで町年寄の職にあり、その後、近代的な地方制度が導入されると、引き続き町政の一端を担う戸長、翌年には区長といった役職も務めている 20 。
これは、坂田家が長年にわたり培ってきた行政実務能力と地域社会からの信頼が、新しい時代においても高く評価されていたことを示している。戦国時代に一人の商人、坂田甚八が築き上げた経済的・社会的な基盤が、江戸時代という長期の安定期を通じて一族を支え、さらには近代日本の黎明期に至るまで、その影響力を及ぼし続けたのである。一商家の歴史は、ここに甲府という都市の歴史そのものと分かちがたく結びついていた。
本報告書を通じて明らかになった坂田甚八の実像は、単なる「武田家の御用商人」という言葉だけでは到底捉えきれない、多角的で深遠なものである。彼の生涯と一族の軌跡を再検証することで、我々は以下の結論に至る。
第一に、坂田甚八は単なる魚や塩の商人ではなかった。彼は、内陸国・甲斐の経済的弱点を補い、その存立を支える戦略的物流の担い手であり、その役割は武家の兵站を預かる経済官僚に匹敵するものであった。
第二に、彼は時代の激変を乗り越える、鋭い政治感覚と交渉力を備えた戦略家であった。主家滅亡という最大の危機に際し、自らの持つ無形資産の価値を的確に見抜き、それを次代の覇者である徳川家康に売り込むことで、一族の存続と発展を勝ち取った。
第三に、彼は一族を経済的成功者から地域の支配層へと押し上げる礎を築いた、稀有な創業者であった。彼が築いた経済基盤と支配者との信頼関係は、子孫を江戸時代の甲府における世襲の町年寄という特権的地位へと導き、その影響力は明治の世にまで及んだ。その過程で、一族の歴史そのものを「資産」として構築・活用する高度な戦略も見て取れる。
坂田甚八の生涯は、戦国から近世へと至る日本の大きな社会変革期において、武力や知略だけでなく、経済、物流、そして情報の管理がいかに決定的な重要性を持っていたかを物語る、優れた歴史事例である。彼の名は、勇猛な武将たちのように歴史の教科書で大きく扱われることはないかもしれない。しかし、その確かな実務能力と先見の明は、甲府という都市の形成と発展に不可欠なものであり、歴史の表舞台を陰で支えた「縁の下の力持ち」として、今こそ再評価されるべき存在であると結論づける。