戦国乱世の終焉が近づき、豊臣秀吉による天下統一の槌音が日本全土に響き渡っていた天正年間。その巨大な地殻変動の渦中にあって、自らの拠って立つ土地と一族の誇りを守るために最後まで抗い、そして悲劇的な最期を遂げた一人の武将がいた。その名を城井鎮房(きい しげふさ)、またの名を宇都宮鎮房という。
彼の名は、黒田官兵衛・長政親子との壮絶な戦いと、その非業の死に続く祟りの伝説によって、日本の歴史に深く刻まれている。しかし、鎮房の物語は単なる一地方武将の悲劇に留まるものではない。それは、鎌倉時代から続く中世的な在地支配の論理と、秀吉がもたらした近世的な中央集権体制の論理が激しく衝突した、時代の断層そのものを象徴する事件であった。鎮房の抵抗は、土地と不可分に結びついた武士のアイデンティティの最後の叫びであり、彼の滅亡は、新たな時代の非情な幕開けを告げるものであった。
本報告書は、城井鎮房という人物の生涯を、その出自である豊前宇都宮氏400年の歴史から説き起こし、周辺大名との巧みな外交、豊臣政権への抵抗の真意、そして黒田氏による謀略の構造を、現存する史料や伝承を多角的に分析することで徹底的に解明する。さらに、一族殲滅という悲劇の後に生まれた「祟り」という記憶が、いかにして語り継がれ、為政者の歴史に影響を与え続けたのか、その文化史的な意味にまで踏み込み、城井鎮房という武将の実像に迫ることを目的とする。
城井鎮房の悲劇を理解するためには、まず彼が背負っていた400年に及ぶ一族の歴史と、豊前の地におけるその特異な地位を把握せねばならない。城井氏は、単なる戦国期の国人領主ではなく、鎌倉幕府草創期にまで遡る由緒と、地域社会における文化的・宗教的権威を兼ね備えた名門であった。
豊前宇都宮氏の祖は、藤原北家道兼流に連なる中原宗房の孫、宇都宮信房とされる 1 。信房は源頼朝の幕府創設に参画し、鬼界ヶ島に逃れた平家残党の追討などで功を挙げた 1 。その功績により、建久年間(1190年代)、頼朝から豊前国の地頭職や国衙の在庁職などを与えられ、関東下野国を本拠とする本家とは別に、鎮西(九州)の地に確固たる基盤を築いた 1 。当初、一族は豊前国府に近い木井馬場(現在の福岡県みやこ町)を本拠としたが、南北朝時代の動乱の中で、より要害堅固な城井谷(現在の福岡県築上町)へと拠点を移し、やがてその地名から「城井氏」を名乗るようになった 1 。
城井氏は、豊前各地に一族を配することで勢力を拡大した。野仲氏、山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏といった庶家が各地に根を張り、豊前最大の武士団を形成するに至った 1 。彼らの支配は単なる武力によるものではなかった。城井氏には、神功皇后が三韓征伐で用いたとされる弓の秘儀「艾蓬(がいほう)の射法」が、当主のみに代々受け継がれていた 1 。これは単なる武術ではなく、吉凶を占い、邪気を払い、戦勝を祈願する神聖な儀式であり、城井氏が豊前という地域世界において、軍事力のみならず文化的・宗教的な中心としての権威を担っていたことを示唆している 1 。この「武」の側面と、神聖な儀式を司る「文」の側面を併せ持つという二重性は、城井氏のアイデンティティの核をなし、後の豊臣政権が求める画一的な支配への強い違和感の源泉となった。
戦国時代の豊前国は、西の周防を本拠とする大内氏と、東の豊後を本拠とする大友氏という二大勢力の狭間にあった。城井鎮房は、この厳しい国際環境の中で、巧みな外交手腕を発揮して一族の存続を図った。
鎮房は天文5年(1536年)、城井長房の子として生まれた 6 。当初は父祖以来、大内義隆に属していたが、天文20年(1551年)に義隆が家臣の陶隆房(晴賢)の謀反によって横死すると、豊前に急速に支配権を確立した大友義鎮(後の宗麟)に服属した 6 。この主君の乗り換えは、単なる日和見主義ではなく、激変する情勢の中で家を保つための現実的な判断であった。
大友氏への服属を確かなものとするため、鎮房は大友義鎮の妹(一説に父・義鑑の娘)を正室に迎えた 4 。この婚姻は、城井氏が大友氏の支配体制の中で重要なパートナーとして認められたことを意味する。その証として、鎮房は義鎮から偏諱(名前の一字を賜ること)を受け、初名の「貞房」から「鎮房」へと改名した 6 。この「鎮」の一字は、大友氏を中心とする九州の政治秩序に、鎮房が正式に組み込まれたことを示す象徴であった。しかし、この関係は絶対的な主従関係というよりは、相互の利害に基づく同盟関係に近く、この認識が後の豊臣政権との間に生じる致命的な齟齬の遠因となる。
天正6年(1578年)、大友氏は日向の耳川の戦いで島津氏に大敗し、その勢力は急速に衰退する。この情勢の変化を鋭敏に察知した鎮房は、今度は薩摩の島津義久に接近し、その傘下に入るという巧みな処世術を見せた 6 。一方で、鎮房は早くから領国経営の実権を握っていた。父・長房が本家である下野宇都宮氏の内紛に介入することに熱心で、領国を留守にしがちであったため、若き鎮房が実質的な統治を担っていたのである 4 。この経験は、彼に卓越した統治能力をもたらすと同時に、自らが治める土地と民への深い愛着を育んだ。この愛着こそが、後に彼を天下人への抵抗へと駆り立てる最大の動機となるのであった。
天正14年(1586年)、豊臣秀吉による九州平定の軍勢が豊前の地に及んだ時、城井鎮房の運命は大きな転換点を迎える。彼がこれまで培ってきた巧みな外交術と、在地領主としての誇りは、秀吉が構築しようとする新たな天下の秩序と真正面から衝突することになる。
秀吉の九州征伐が始まると、当時島津方に与していた鎮房は、秀吉の圧倒的な軍事力を前にしてこれに従う道を選んだ。しかし、その対応は慎重かつ老獪なものであった。鎮房自身は病と称して出陣せず、嫡男の朝房に僅かな手勢を率いさせて秀吉軍に参陣させたのである 1 。これは、戦の趨勢を見極めつつ、万一の場合の保険をかけた行動であったが、全てを見通す秀吉の不信を招くには十分であった 7 。
天正15年(1587年)、九州を平定した秀吉は、戦後処理として「国分け」を実施する。その結果、鎮房が400年にわたり治めてきた豊前国のうち6郡は、軍監として功のあった黒田官兵衛孝高に与えられ、鎮房には四国の伊予国今治(現在の愛媛県今治市)への加増転封が命じられた 1 。石高の上では12万石余の黒田領に対し、今治は3万5千石程度であったが 12 、鎮房の旧領と比較して加増であったともされ、一見すると悪い条件ではなかった 9 。
しかし、この命令の裏には秀吉の多角的な意図が隠されていた。第一に、大友・島津という二大勢力の間を渡り歩いた鎮房の政治力と、豊前の国人衆に及ぼす影響力を危険視し、父祖伝来の地から引き剥がすことでその力を削ごうとした。第二に、秀吉自身の絶対的な権威を天下に示し、旧来の勢力図を刷新する狙いがあった。そして第三に、鎮房が所蔵する藤原定家筆の至宝「小倉色紙」を手に入れたいという、秀吉個人の文化的な欲望も、この厳しい処置の背景にあったと指摘されている 6 。
鎮房にとって、この命令は到底受け入れられるものではなかった。それは単なる領地替えではなく、一族の歴史とアイデンティティそのものを否定されるに等しい行為であった。彼は「父祖伝来の地」への強い固執と 1 、文化的至宝である「小倉色紙」を守りたいというプライドから 7 、秀吉からの朱印状の受け取りを断固として拒否した。
鎮房の心情を察した小倉城主・毛利勝信の仲介により、一度は城井谷城を明け渡し、穏便な解決を探る道も模索された 1 。しかし、度重なる服従と反逆に業を煮やした秀吉は、鎮房の本領安堵を頑として認めなかった 7 。ここに交渉は完全に決裂。同年10月、鎮房はついに武力抵抗を決意し、城井谷城を急襲して奪回、籠城して天下人の軍勢を迎え撃つという、絶望的な戦いへと身を投じたのである 1 。
鎮房の蜂起は、豊前全土に眠っていた不満の火種に油を注ぐ結果となった。黒田氏による新たな支配と、それに伴う検地の実施に反発する国人領主たちが、鎮房に呼応して一斉に立ち上がったのである。これが「豊前国人一揆」である 10 。
この一揆は、鎮房を盟主としながらも、統一された指揮系統を持つものではなかった。緒方氏、如法寺氏、野仲氏、佐々木氏といった国人たちがそれぞれの拠点で蜂起したが 3 、宇都宮一族内ですら佐田氏のように黒田方に与する者もおり、その様相は複雑であった 3 。
新領主となった黒田官兵衛の嫡男・長政は、当時20歳。父・官兵衛が肥後国人一揆の鎮圧のために不在であったこともあり、血気にはやって鎮房の籠る城井谷城へと攻め込んだ 10 。しかし、城井谷は巨岩や渓谷を巧みに利用した天然の要害であり 19 、特に「三丁弓の岩」と呼ばれる隘路は、わずか3人の弓兵で大軍を食い止められるとまで言われた 19 。長政は、地の利を最大限に活かした鎮房の巧みなゲリラ戦術の前に、歴史的な大敗を喫してしまう 10 。この「岩丸山の戦い」での屈辱的な敗北は、若き長政の心に鎮房への深い遺恨を刻み込み、後の非情な謀略への伏線となった。
豊前国人一揆の鎮圧に手こずったことは、黒田氏にとって大きな失態であった。同時期に肥後国人一揆の鎮圧に失敗した佐々成政が、秀吉からその責任を問われて切腹させられていたからである 10 。成政の二の舞を避けるため、官兵衛は戦略を転換する。力攻めを避け、城井谷の周囲に付け城を築いて兵糧攻めを行う持久戦に持ち込むと同時に 3 、毛利・吉川・小早川といった中国勢の援軍を得て 1 、一揆に参加した他の国人衆を一人、また一人と各個撃破していった 27 。以下の表は、この一揆の主要な参加勢力と、彼らが辿った末路をまとめたものである。
勢力名(城主) |
拠点 |
動向・結末 |
城井(宇都宮)鎮房 |
城井谷城 |
一揆の盟主。岩丸山の戦いで黒田長政を撃退するも、孤立し和睦。後に謀殺される。 |
野仲鎮兼 |
長岩城・雁股城 |
城井氏の同族。黒田軍に攻められ、栗山利安らによって滅ぼされる。 |
緒方氏・如法寺氏 |
姫熊山城 |
鎮房に呼応して蜂起。黒田長政に攻略される。如法寺氏の被官・円藤源兵衛は討死。 |
佐々木氏 |
岩石城 |
蜂起し籠城するが、毛利勝信の領地であったため、吉川広家の加勢を得た毛利軍に攻略される。 |
犬丸氏・賀来氏・福島氏 |
犬丸城・賀来城・福島城 |
宇佐・下毛郡で蜂起し籠城するが、黒田軍の攻撃により相次いで陥落。首は京都に送られた。 |
鬼木掃部・山田氏・八屋氏 |
(上毛郡各地) |
黒田長政軍との戦いで討ち取られる、あるいは滅ぼされた。 |
この表が示すように、連携を欠いた一揆勢は黒田方の巧みな分断策の前に次々と鎮圧されていった。やがて城井谷で孤立した鎮房は、もはや抵抗を続ける術を失い、毛利氏らの仲介による和睦を受け入れざるを得ない状況に追い込まれていったのである。
和睦は成立した。しかしそれは、城井一族にとって安寧の始まりではなく、周到に仕組まれた殲滅作戦の序曲に過ぎなかった。黒田官兵衛・長政親子は、豊前の完全掌握と岩丸山での復仇を果たすため、戦国史上最も非情な謀略の一つを実行に移す。
天正15年(1587年)末、孤立無援となった鎮房は、小早川隆景や安国寺恵瓊らの仲介を受け入れ、黒田氏との和睦に応じた 29 。その条件として、13歳になる娘・鶴姫を人質として差し出すことが定められた 3 。一説には、この鶴姫を長政の嫁に迎えるという約束があったともされる 11 。
そして天正16年(1588年)4月20日、運命の日が訪れる。鎮房は、黒田長政からの招きに応じて、居城の城井谷から中津城へと赴いた。この訪問の理由については、勝者である黒田側の記録と、敗者である城井側の伝承とで、その記述が大きく食い違う。黒田家の公式記録である『黒田家譜』は、鎮房が事前の連絡もなく200名もの大軍を率いて中津城に押しかけてきたため、謀反の兆候ありと見てやむなく誅殺した、と記し、その行動の正当性を主張する 18 。しかしこれは、明らかに暗殺を正当化するための潤色であろう。一方、『城井軍記』などの城井側の伝承は、和睦の約束を履行し、人質となっている娘に会うため、正式な招待に応じて軽装で訪れたとしている 18 。後者のほうが、当時の状況としてはるかに信憑性が高い。
中津城内での暗殺の具体的な状況についても、複数の説が伝えられている。
最も有名なのは、『黒田家譜』などが伝える「酒宴説」である。鎮房は長政が催した酒宴の席に招かれた。宴が酣になった頃、長政の家臣がわざと酒をこぼしたのを合図に、伏兵が一斉に鎮房に襲いかかった。身長六尺(約180cm)を超え、怪力無双の強弓の使い手として知られた鎮房も 4 、丸腰の宴席ではなすすべもなかった。長政自らも太刀を振るい、鎮房を惨殺したと伝わる。この時、長政が用いた刀は、その逸話から名物「城井兼光」として知られることとなる 32 。
一方、宇都宮家臣の記録に由来する異説として「入浴説」も存在する。これは、長政が鎮房に入浴を勧め、無防備になったところを湯殿に潜ませていた伏兵が槍で四方から突き殺したという、さらに卑劣な騙し討ちであったと伝えるものである 18 。
いずれの説が真実であれ、鎮房が黒田氏の周到な謀略によって命を落としたことは疑いようのない事実であった。
鎮房の暗殺は、一族殲滅作戦の始まりに過ぎなかった。黒田氏の刃は、時を同じくして、城井一族のすべてに向けられた。
氏名 |
続柄 |
最期の場所 |
年月日 |
経緯(殺害方法) |
城井 鎮房 |
当主(16代) |
中津城内 |
天正16年4月20日 |
黒田長政による騙し討ち(酒宴または入浴中に惨殺) |
渡辺右京進ら家臣団 |
家臣 |
合元寺(中津) |
天正16年4月20日 |
鎮房暗殺と同時に黒田勢に襲撃され、全員討死 |
松田 小吉 |
小姓 |
中津城下京町筋 |
天正16年4月20日 |
鎮房に同行。主君の危機に奮戦するも討死 |
城井 長房(長甫) |
父(15代) |
城井谷城 |
天正16年4月22日頃 |
鎮房暗殺後、攻め寄せた黒田勢との戦いで討死 |
城井 朝房 |
嫡男(17代) |
肥後国 |
天正16年4月24日頃 |
肥後一揆鎮圧のため黒田孝高と同行中、孝高の命により暗殺 |
鶴姫 |
娘(13歳) |
山国川千本松河原 |
天正16年4月下旬 |
人質となっていたが、一族殲滅のため侍女らと共に磔刑に処される |
鎮房が中津城で命を落としたのとほぼ同時に、城下の合元寺で待機していた鎮房の家臣団も黒田勢の襲撃を受けた。家臣たちは主君の仇を討たんと壮絶な抵抗を見せたが、衆寡敵せず全員が討ち取られた 6 。この時の凄惨な戦いで、寺の白壁は返り血で真っ赤に染まり、後に何度塗り替えても血の跡が滲み出てくるため、ついに壁を赤く塗ってしまったという「合元寺の赤壁」伝説が生まれた 7 。
黒田勢の攻撃は、直ちに本拠地の城井谷にも向けられた。留守を守っていた鎮房の老父・長房(長甫とも)も、奮戦の末に殺害された 6 。さらに、肥後国人一揆の鎮圧のために黒田孝高と共に出陣していた嫡男の朝房も、父の暗殺を知らぬまま、孝高の命によって肥後の陣中で暗殺された 1 。一説には、加藤清正の手が下したとも言われる 1 。
そして、和睦の証として人質となっていた13歳の娘・鶴姫の命運も尽きた。黒田氏は将来の禍根を断つため、非情にもこの幼い姫の処刑を断行する。鶴姫は侍女13名と共に、中津城を望む山国川の千本松河原へと引き出され、磔の刑に処せられた 4 。この一連の出来事により、鎌倉時代から400年続いた豊前宇都宮氏=城井氏は、大名としては完全に滅亡した。この徹底的な殲滅は、敵対勢力との共存の余地があった戦国的な価値観が終焉を迎え、領内の支配を揺るがす要素を根絶やしにする、より冷徹な近世の支配論理が到来したことを象徴していた。
武力によって城井一族は滅ぼされた。しかし、鎮房の物語はそこで終わりではなかった。彼の無念の死は、人々の記憶の中で「祟り」として生き続け、勝者である黒田家を長く苛むことになる。一方で、絶たれたかに見えた血脈は、奇跡的に未来へと繋がっていた。
鎮房の死後、間もなく中津城内では不可解な出来事が頻発したという。夜な夜な鎮房の亡霊が出没し、謀殺の当事者である黒田長政を大いに恐れおののかせた 1 。これが、後々まで語り継がれる「城井氏の祟り」の始まりであった。
この祟りの伝承は、単なる迷信として片付けることはできない。それは、公式の歴史記録には現れない、被支配者側からの為政者に対する厳しい評価であり、一種の「記憶の闘争」であった。力によって抹殺された者の無念は、人々の語りによって権力者の正当性を内側から揺るがし続ける。
やがて、黒田家で起こる数々の不幸が、ことごとく城井氏の祟りと結びつけて噂されるようになった。
さらに、城井谷の旧領民たちは鎮房を深く慕い、毎年その命日になると城跡に集まり、黒田家への呪いを込めて野ばらの枝を地面に突き刺し続けたという。この逸話は、中津出身の福澤諭吉が聞いた話として、福本日南の著書『黒田如水』で紹介されている 6 。
祟りを恐れた黒田孝高・長政親子は、鎮房の怨霊を鎮めるために行動を起こす。これは、恐怖心からだけでなく、領民の心を掌握するための高度な政治的パフォーマンスでもあった。
黒田氏による徹底的な殲滅作戦にもかかわらず、城井氏の血脈は奇跡的に生き延びていた。この事実は、悲劇的な滅亡譚に一条の光を差し込み、物語に救いと象徴性を与えている。
惨劇の最中、懐妊していた鎮房の嫡男・朝房の妻・竜子が、忠義な侍女が身代わりとなることで城井谷を脱出することに成功した 4 。山中を逃れた竜子は無事に男子を出産。この子は後に「宇都宮朝末」と名乗り、生き残った旧臣たちと共に御家再興を悲願とした 6 。その夢はすぐには叶わなかったが、朝末の孫にあたる宇都宮信隆(高房)の代になって、ついに越前松平家に150石の藩士として召し抱えられることとなった 3 。大名としての復帰はならずとも、武家の「家」としてその血脈を明治維新まで繋ぐことに成功したのである。
また、鎮房の弟・弥次郎は難を逃れて薩摩の島津家に仕官し、その地で子孫を残したとされている 3 。これにより、城井氏の血は複数の系統で現代にまで伝えられている。
以下の年表は、城井鎮房の生涯と、彼が生きた時代の大きな歴史の動きを対比させたものである。
西暦(和暦) |
鎮房の年齢 |
城井鎮房の動向 |
日本史・世界史の動向 |
1536(天文5) |
1歳 |
豊前国にて城井長房の子として誕生。初名は貞房。 |
足利義晴が将軍。ポルトガル人が種子島に漂着(1543年)。 |
1551(天文20) |
16歳 |
主君・大内義隆が陶隆房の謀反で自刃。 |
大内氏が事実上滅亡。 |
1550年代 |
20代 |
大友義鎮(宗麟)に服属。義鎮の妹を娶り、偏諱を受け「鎮房」と改名。 |
織田信長が台頭を開始。川中島の戦い(1553-1564年)。 |
1578(天正6) |
43歳 |
大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗。これを機に島津義久に服属。 |
上杉謙信が死去。信長、毛利氏との戦いを本格化。 |
1582(天正10) |
47歳 |
|
本能寺の変。織田信長が死去。豊臣秀吉が実権を掌握。 |
1586(天正14) |
51歳 |
秀吉の九州征伐が始まる。自らは病と称し、子・朝房を参陣させる。 |
秀吉、太政大臣に就任。 |
1587(天正15) |
52歳 |
九州平定後、伊予今治への転封を命じられるも拒否。豊前国人一揆を主導し、黒田長政軍を岩丸山で破る。 |
秀吉、バテレン追放令を発布。肥後国人一揆が勃発。 |
1588(天正16) |
53歳 |
和睦後、中津城に招かれ黒田長政に謀殺される。父・長房、子・朝房、娘・鶴姫ら一族も皆殺しにされ、城井氏滅亡。 |
秀吉、刀狩令を発布。 |
この年表は、鎮房の選択が、信長の死から秀吉の天下統一へと至る、日本史上最も激動した時代の中でなされたことを示している。彼の悲劇は、個人の運命であると同時に、時代の必然でもあったのかもしれない。
城井鎮房の生涯は、戦国乱世の終焉という巨大な奔流に飲み込まれた、一人の地方領主の誇りと悲哀の物語である。彼の抵抗は、単なる領地への固執や、頑迷な反骨精神から生じたものではない。それは、鎌倉時代から400年にわたって受け継がれてきた、土地と不可分に結びついた中世武士のアイデンティティ、一族の文化的・宗教的伝統、そして何よりも領民の生活を守ろうとする領主としての責務感に根差した、最後の戦いであった。
秀吉が提示した「天下統一」という新たな秩序は、鎮房のような在地領主にとっては、自らの存在基盤そのものを揺るがすものであった。彼が伊予への転封を拒んだのは、石高の多寡の問題ではなく、自らが豊前の地で担ってきた歴史的・文化的役割を放棄することへの根源的な抵抗であった。
黒田官兵衛・長政親子による謀略と一族殲滅という結末は、あまりにも非情である。しかし、これもまた、旧来の秩序を破壊し、新たな支配体制を確立しようとする近世的権力の冷徹な論理の表れであった。勝者である黒田氏の歴史は『黒田家譜』として公式に編纂されたが、敗者である鎮房の記憶は「祟り」という形で民衆の間に語り継がれ、為政者の歴史に異議を申し立て続けた。
このことは、我々に歴史の二面性を強く認識させる。力によって刻まれた公式の歴史と、人々の心に刻まれた記憶の歴史。城井鎮房の悲劇は、中央集権化の過程で失われた地方の独自性と、力によって抹殺された者の声がいかにして語り継がれ、後世に影響を与え続けるかという、普遍的な問いを投げかけている。彼の生き様と死に様は、戦国という時代の終焉を象徴する、忘れがたい刻印として、今なお我々の胸に迫るのである。