戦国時代の日本列島は、数多の武将たちが自らの野心と領土拡大のために鎬を削る、まさに群雄割拠の様相を呈していた。しかし、その激動の時代にあって、ひたすらに本家の安寧を願い、遠く離れた九州の地から関東の内乱に介入し続けた特異な人物が存在した。その名を城井長房(きい ながふさ)という。彼は豊前国(現在の福岡県東部)に根を張った名族、城井氏の第15代当主であり、その生涯は、古き時代の「忠節」という価値観と、天下統一という新しい時代の奔流との狭間で翻弄された、悲劇の物語でもあった。本報告書は、城井長房という人物の生涯を、その出自から一族の末路、そして後世に遺された伝承に至るまで、徹底的に調査・分析し、その歴史的実像に迫るものである。
城井氏は、その源流を辿ると、下野国(現在の栃木県)を本貫とする藤原北家道兼流の名門・宇都宮氏に行き着く 1 。宇都宮氏の遠祖は藤原道兼の曾孫とされる宗円であり、その子が八田宗綱、そして宗綱の嫡男・朝綱が初めて「宇都宮」の姓を名乗ったと伝えられる 5 。一方で、宗綱の兄弟である宗房は中原氏を名乗り、豊前国に下向した宇都宮氏はこの中原氏の流れを汲むとされている 2 。この下野国の本家とは異なる出自の系譜は、後に長房が本家に対して示す特異な忠誠心を理解する上で、重要な背景となる。
鎌倉時代初期、一族の宇都宮信房が源頼朝の命を受け、平家方の残党討伐のために九州へ派遣された 6 。信房はこの任務を成功させ、その功績により豊前国仲津郡城井郷(現在の福岡県京都郡みやこ町)の地頭職などを得て、この地に根を下ろした 2 。これが豊前宇都宮氏の始まりであり、彼らは本拠地の名を取って、やがて「城井氏」と称されるようになる 5 。一時は豊前守護職に任じられ、幕府の評定衆として九州の武士を統括するほどの権勢を誇った時期もあったが、南北朝時代の動乱を経てその勢力は次第に衰退していった 2 。
城井長房が生きた戦国時代の豊前国は、地政学的に極めて不安定な地域であった。西に周防国(現在の山口県)を本拠とする大大名・大内氏、東に豊後国(現在の大分県)を本拠とする大大名・大友氏という二大勢力が睨み合う、まさに緩衝地帯に位置していたのである 10 。
城井氏をはじめとする豊前の国人衆は、単独で自立を保つことは困難であり、これら二大勢力のいずれかに従属することで、かろうじてその命脈を保つという選択を迫られていた 10 。城井氏は当初、大内氏の幕下に属していたが、天文20年(1551年)に大内義隆が家臣の陶隆房(後の陶晴賢)の謀反によって滅亡すると(大寧寺の変)、豊前国にまで影響力を伸張してきた大友義鎮(後の宗麟)に服属することとなった 2 。このような状況は、城井氏に常に周囲の力関係を冷静に見極め、巧みに立ち回る政治感覚を要求した。
城井氏は、鎌倉時代から400年以上にわたり豊前の地に土着し、在地領主として完全に現地化していた 5 。彼らは「城井氏」を名乗り、地域の国人衆としてのアイデンティティを確立していた。しかしその一方で、彼らは自らが下野国の名門「宇都宮氏」の分家であるという意識を、極めて強く保持し続けていた。長房の父である城井正房が、室町幕府の将軍・足利義稙に対して、一族に伝わる秘伝の弓術「艾蓬(がいほう)の射法」を披露したという逸話は、その象徴である 1 。これは、彼らが単なる地方豪族に留まらず、常に中央(幕府や本家)との繋がりを意識し、自らの権威の源泉としていたことを示している。
この「在地領主」としての現実的な立場と、「中央の名門」としての矜持という二重のアイデンティティこそが、城井氏、特に城井長房の行動原理を理解する上での鍵となる。彼らの価値観は、後に天下統一を推し進める豊臣秀吉が提示した新しい秩序と致命的なすれ違いを生み、一族を悲劇へと導く遠因となるのである。
表1:城井氏(豊前宇都宮氏)略系図
代 |
氏名 |
官位・通称など |
続柄 |
備考 |
14代 |
城井 正房 (きい まさふさ) |
正四位下、常陸介、豊後守 |
興房の子 |
将軍・足利義稙に「艾蓬の射法」を披露 2 。 |
15代 |
城井 長房 (きい ながふさ) |
従四位下、侍従、常陸介、長甫 |
正房の子 |
本報告書の主題。下野宇都宮家の内紛に介入。黒田氏により殺害 9 。 |
16代 |
城井 鎮房 (きい しげふさ) |
従五位下、常陸介、弥三郎 |
長房の長男 |
大友義鎮より偏諱。黒田氏に抵抗し、中津城で謀殺される 9 。 |
17代 |
城井 朝房 (きい ともふさ) |
弥三郎 |
鎮房の嫡男 |
肥後にて黒田孝高により暗殺される 13 。 |
- |
宇都宮 朝末 (うつのみや ともすえ) |
治部左衛門 |
朝房の子 |
母・竜子と共に脱出。御家再興に奔走 12 。 |
- |
宇都宮 信隆 (うつのみや のぶたか) |
高房 |
朝末の孫 |
越前松平家に仕官し、城井氏の血脈を後世に伝える 12 。 |
城井長房は、永正3年(1506年)、豊前宇都宮氏第14代当主・城井正房の子として生を受けた 14 。彼の生涯と思想を特徴づけるのは、戦国武将としては極めて異例とも言える、自領の経営から距離を置き、遠く離れた関東の本家の内情に深く関与し続けた点にある。
長房は、比較的早い段階で家督を嫡男の鎮房(しげふさ、初名は貞房)に譲り、豊前国における領国経営や日常的な政務の一切を委ねていた 12 。これにより、鎮房は若くして城井氏の当主として、周辺勢力との折衝や領内の統治という重責を担うことになった。
しかし、長房自身が完全に権力の座から退いたわけではなかった。彼は実質的な「隠居」の身でありながら、対外的、特に一門の宗家である下野宇都宮氏に関わる重要な政治問題においては、依然として城井家の最高権威者として君臨し続けた。この父子の役割分担は、当主が全権を掌握するのが一般的であった戦国大名家の中では、極めて珍しい統治形態であったと言える。永禄2年(1559年)には、長房が鎮房を伴って上洛し、室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁している事実が記録されている 14 。これは、鎮房が実務を担う一方で、城井家全体の「顔」として、中央との外交を主導していたのが長房であったことを明確に示している。
長房がその心血を注いだ下野宇都宮家は、当時、深刻な内紛に揺れていた。当主の権威は失墜し、譜代の重臣である芳賀(はが)氏が実権を掌握して主家を傀儡化するという、典型的な下剋上状態に陥っていたのである 4 。
芳賀氏は、清原氏を祖とする名門武士団であり、古くから宇都宮氏に仕え、益子氏と共に「紀清両党」と並び称されるほどの武勇を誇っていた 21 。しかし、戦国時代に入るとその権勢は主家を凌ぐようになり、宇都宮家の家督継承にまで介入するようになっていた。天文18年(1549年)、宇都宮家20代当主・宇都宮尚綱が那須氏との戦いで討死すると(五月女坂の戦い)、宿老の壬生綱房がこの機に乗じて宇都宮城を乗っ取り、尚綱の嫡男でまだ幼少であった広綱は、家臣に守られて真岡城へと落ち延びるという、まさに滅亡の危機に瀕していた 25 。
この本家の存亡の危機に際し、城井長房は九州の地から遠く離れた関東の内紛に、分家の当主として介入した。史料によれば、長房は宇都宮家の重臣でありながら反抗的な態度を取っていた芳賀高経の動きを食い止め、幼い宇都宮広綱が正統な後継者として無事に家督を相続できるよう、仲介役として尽力したとされている 2 。
この長房による遠隔地からの支援は、広綱を補佐していた重臣・芳賀高定の奮闘と相まって、大きな成果を上げた。芳賀高定は巧みな謀略で宇都宮氏の敵対勢力を排除し、最終的に広綱は宇都宮城を奪還することに成功した 25 。九州の一分家に過ぎない城井氏の当主が、本家の家督問題にこれほど深く、そして効果的に関与したことは、驚くべき事実である。
城井長房のこの一連の行動は、戦国時代の一般的な価値観からは大きく逸脱している。彼の本家への介入は、豊前国における直接的な領土拡大や経済的利益をもたらすものではなかった。彼の最大の関心事は、あくまでも遠く離れた本家における「家の秩序」と「血筋の正統性」を維持することにあった。
実力主義が支配し、下剋上が横行する時代にあって、多くの武将が自らの領国の安定と勢力拡大に腐心していた。その中で長房は、「宇都宮一門」という広域にわたる血縁的秩序の維持に、多大な政治的エネルギーを注いだのである。この行動は、彼が自らを単なる豊前の在地領主としてではなく、下野に発する名門・宇都宮氏の血を引く者としての強い矜持と責任感を抱いていたことの何よりの証左である。
このある意味で「古風」とも言える価値観は、長房の誇りの源泉であった。しかし同時に、この価値観こそが、後に豊臣秀吉という新たな天下人が提示した「国替え」という近世的な秩序を受け入れることを拒絶させ、結果として一族全体を悲劇へと導く根本的な要因となった。長房の生き様は、戦国乱世における「家」という概念の多様性と、時代が大きく転換する中で生きた武士の矜持と苦悩を、我々に強く示唆しているのである。
父・長房が本家の問題に心血を注ぐ間、嫡男の城井鎮房は、激動する九州の政治情勢の荒波の中で、在地領主として極めて現実的な舵取りを迫られていた。彼の巧みな処世術は、一時は城井氏の勢力を保つことに成功したが、やがて豊臣秀吉という巨大な統一権力の前に、その限界を露呈することになる。
父から領国経営の実権を委ねられていた鎮房は、大内氏の滅亡後、豊前国に支配権を確立した豊後の大友義鎮(宗麟)に服属した 12 。その臣従の証として、鎮房は大友義鎮の妹(一説には父・義鑑の娘)を正室に迎え、さらに義鎮から「鎮」の一字を拝領して、名を「貞房」から「鎮房」へと改めた 12 。これは、婚姻と同名の授与(偏諱)を通じて主従関係を強固にする、当時の武家社会における典型的な外交戦略であった。
しかし、天正6年(1578年)、大友氏が日向国(現在の宮崎県)の耳川の戦いで薩摩国(現在の鹿児島県)の島津氏に歴史的な大敗を喫すると、九州における勢力図は一変する。大友氏の権威が大きく揺らぐ中、鎮房は機を見るに敏であった。彼は衰退する大友氏を見限り、破竹の勢いで北上する島津義久に接近し、その幕下に入るという巧みな鞍替えを行ったのである 1 。この行動は、二大勢力の狭間で生き残りを図る、したたかな在地領主としての鎮房の姿を浮き彫りにしている。
天正14年(1586年)、大友宗麟の救援要請に応える形で、天下人・豊臣秀吉による大規模な九州平定が開始された 26 。島津方についていた鎮房も、秀吉が動員した圧倒的な軍事力の前に、抗う術はなかった。彼は他の九州の国人衆と同様に、秀吉に恭順の意を示すことを余儀なくされた 28 。
しかし、この時の鎮房の対応は、秀吉に深い不信感を抱かせるものであった。彼は自らが病に罹っていると称して、秀吉への謁見には直接赴かず、嫡男の城井朝房に僅かな手勢を預けて豊臣軍に参陣させるに留めたのである 12 。この消極的かつ非協力的に映る態度は、主従関係の絶対性を重んじる秀吉の逆鱗に触れる、致命的な失策であった。
天正15年(1587年)、九州を平定した秀吉は、戦後処理として「九州国分」と呼ばれる大規模な領地再編を行った。この結果、城井氏が治めてきた豊前国の中津を中心とする六郡は、秀吉の腹心であり、当代随一の軍師であった黒田孝高(官兵衛、後の如水)に与えられることになった 11 。
そして城井氏に対しては、伊予国今治(現在の愛媛県今治市)への加増転封、すなわち領地替えが命じられた 1 。石高の上では従来よりも有利な条件であったともされるが、城井長房・鎮房父子にとって、この命令は到底受け入れられるものではなかった。彼らにとって城井谷は、鎌倉時代に祖先・宇都宮信房が源頼朝から拝領して以来、400年以上にわたって一族が血と汗で守り抜いてきた「父祖伝来の地」であった。この土地を離れることは、一族の歴史そのものを否定されるに等しい屈辱であった。
鎮房は、この地への固執を理由に国替えを拒絶し、秀吉から下された朱印状を返上するという、前代未聞の挙に出た 12 。さらにこの時、秀吉は安国寺恵瓊を通じて、城井家が家宝として所蔵していた藤原定家筆の『小倉色紙』の引き渡しをも命じており、これは土地だけでなく、一族の文化的な誇りまでもが踏みにじられたことを意味した 12 。度重なる反抗的な態度に、秀吉は激怒した。
鎮房の国替え拒否は、単なる感情的な反発ではなかった。それは、序章で論じた城井氏の「在地領主」としてのアイデンティティと、第一章で見た長房に代表される「名門」としての矜持が、分かちがたく結びついた結果であった。彼らにとって土地とは、単なる経済的基盤ではなく、先祖から受け継いできた「家」の歴史と存在意義そのものであった。
しかし、秀吉が構築しようとしていた新しい天下の秩序において、大名の配置は中央政権の戦略的判断によって決定される「公儀」の命令であり、個々の大名の「私情」や「家の事情」が入り込む余地はなかった。ここに、中世的な在地領主の価値観と、近世的な中央集権体制の論理との間に、決して埋めることのできない深刻な溝が生じていた。
九州平定時の消極的な態度、そしてその後の国替え命令の拒絶は、秀吉から見れば許しがたい反逆であり、新領主となった黒田氏から見れば、自らの支配を根底から脅かす危険な抵抗勢力であった。この時点で、城井氏の運命は、もはや破滅へと向かう一本道に乗ってしまったと言っても過言ではなかったのである。
表2:城井長房・鎮房父子と周辺勢力の関係変遷年表
年代 |
城井氏の動向 |
主要な出来事 |
関連勢力 |
~天文20年 (1551) |
大内氏に臣従 |
城井長房、当主として活動。 |
大内義隆 |
天文20年 (1551) |
大友氏に臣従 |
大内義隆、陶隆房の謀反により自刃(大寧寺の変)。 |
大友義鎮(宗麟) |
天文年間 |
大友氏との関係強化 |
鎮房、大友義鎮の妹を娶り、「鎮」の字を拝領 12 。 |
大友氏 |
永禄2年 (1559) |
中央との関係維持 |
長房、鎮房を伴い上洛し、将軍・足利義輝に拝謁 14 。 |
室町幕府 |
天正6年 (1578) |
島津氏に接近 |
大友氏、耳川の戦いで島津氏に大敗。 |
大友氏、 島津義久 |
天正14年 (1586) |
豊臣政権への恭順(消極的) |
豊臣秀吉による九州平定開始。鎮房は病と称し、嫡男・朝房が僅かな兵で参陣 12 。 |
豊臣秀吉 |
天正15年 (1587) |
豊臣政権との対立決定 |
九州国分。豊前六郡が黒田孝高に与えられる。城井氏には伊予国への転封命令 12 。 |
豊臣秀吉、 黒田孝高 |
天正15年 (1587) 10月 |
黒田氏との武力衝突 |
鎮房、国替えを拒否し、城井谷城を奪回して蜂起(豊前国人一揆) 12 。 |
黒田孝高・長政 |
天正16年 (1588) 4月 |
城井氏滅亡 |
鎮房、中津城で謀殺。父・長房、子・朝房も殺害され、一族は根絶やしにされる 2 。 |
黒田孝高・長政 |
父祖伝来の地を守るため、天下人の命令に背いた城井氏と、新領主として豊前の支配を確立せんとする黒田氏との衝突は、もはや避けられないものとなった。この章では、在地の名門としての最後の意地をかけた城井氏の抵抗と、黒田孝高・長政父子の冷徹な謀略によって一族が殲滅されるまでの悲劇的な過程を、諸記録を基に詳細に追う。
天正15年(1587年)、黒田氏が新領主として豊前に入国し、検地などの新政策を推し進めると、これに反発する在地勢力の不満が噴出した。時を同じくして、隣国の肥後では佐々成政の強引な統治に対して大規模な国人一揆が発生しており、豊前の情勢もまた緊迫の度を増していた 32 。
この混乱を好機と見た城井鎮房は、ついに決起する。彼は毛利勝信の説得に応じて一度は明け渡していた本拠・城井谷城を急襲して奪回し、黒田氏に対して公然と反旗を翻したのである 5 。鎮房の蜂起は、豊前各地でくすぶっていた他の国人衆の反乱に火をつけ、豊前国人一揆へと発展していった。
鎮房討伐の任を命じられたのは、黒田孝高の嫡男であり、若き武将として将来を嘱望されていた黒田長政であった。しかし、この最初の戦いは、長政にとって生涯忘れ得ぬ屈辱となる。
城井谷は、四方を険しい山々に囲まれた天然の要害であった。鎮房はこの地の利を最大限に活かし、巧みなゲリラ戦術を展開して黒田軍を翻弄した 2 。後に「岩丸山の戦い」あるいは「峰合戦」と呼ばれるこの戦闘で、黒田軍は数百人もの死者を出すという壊滅的な敗北を喫し、総大将の長政自身もかろうじて命を拾い、馬ヶ岳城へと敗走した 2 。この惨敗は、新領主としての黒田氏の権威を大きく傷つけ、長政の心に城井氏への深い遺恨を刻み込んだ。
力攻めによる城井谷の攻略は困難であると悟った父・孝高は、戦術を転換する。城井谷の周囲に付け城を築いて兵站線を断ち、長期的な兵糧攻めによって城井氏を孤立させる作戦に切り替えた 1 。
他の国人一揆が鎮圧され、孤立無援となった鎮房は、ついに和睦の道を探らざるを得なくなる。毛利氏の重臣・安国寺恵瓊らの仲介を経て、黒田氏との和議が成立した。その条件は、城井氏の本領安堵と、鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質として差し出すことであったとされる 1 。
しかし、黒田父子に城井氏を赦す気は毛頭なかった。岩丸山での復仇、そして将来にわたる禍根を完全に断ち切るため、彼らは城井一族の殲滅という非情な決断を下していた 1 。天正16年(1588年)4月20日、和睦を祝うという名目で、鎮房は黒田長政の居城である中津城へと招かれた。これが、一族を根絶やしにするための、周到に仕組まれた謀略の始まりであった 6 。
孝高が練り上げた策謀に従い、鎮房に同行してきた家臣団は、城下にある合元寺に待機させられ、鎮房はわずかな供回りだけを連れて中津城内へと案内された 13 。
城内で催された酒宴の席で、油断した鎮房は黒田家の家臣たちによって襲撃され、謀殺された 2 。『黒田家譜』によれば、この時、鎮房は武勇を誇るも酒で前後不覚に陥っていたとされ、勝者側の正当性を強調する記述が見られる。鎮房を斬った刀は、後に「城井兼光」と呼ばれ、黒田家に伝えられた 40 。
時を同じくして、合元寺で主君の帰りを待っていた城井家の家臣団にも、黒田勢の討手が差し向けられた。不意を突かれた家臣たちは、寺内で壮絶な斬り合いを繰り広げた末、一人残らず討ち死にした 13 。この時の凄惨な戦いで、寺の白壁はおびただしい血潮で赤く染まったという。そして後世、「何度塗り替えても血の跡が滲み出てくるため、ついに壁を赤く塗るようになった」という「合元寺の赤壁」伝説が生まれ、今日まで語り継がれている 12 。
鎮房の謀殺に成功した黒田軍は、その勢いのまま城井谷へと進軍し、残党の掃討を開始した。
鎮房の父、 城井長房 の最期については、記録によって若干の差異がある。黒田家の公式記録である『黒田家譜』によれば、長房は豊後国を目指して落ち延びようとしたところを追手に捕縛され、殺害されたと記されている 42 。一方、居城に攻め寄せた黒田軍によって一族郎党と共に討ち死にしたという説もある 14 。いずれにせよ、息子の非業の死から間もなく、83歳の生涯を閉じたことは間違いない 14 。
悲劇はこれで終わらなかった。鎮房の嫡男であり、城井家の未来を担うはずであった城井朝房は、当時、肥後国人一揆の鎮圧のため、黒田孝高と共に出陣中であった。父が中津城で謀殺されたのとほぼ同時期に、朝房もまた肥後の陣中にて孝高が放った刺客によって暗殺された 13 。
そして、和睦の人質として黒田家に預けられていた13歳の娘・鶴姫もまた、容赦なく処刑された。彼女は13人の侍女と共に、中津城下を流れる山国川の河原で磔にされるという、あまりにも惨たらしい最期を遂げたと伝えられている 2 。こうして、黒田氏による徹底した根絶やし作戦により、豊前の名族・城井氏は、大名として完全に滅亡したのである。
この一連の事件に関する記録は、勝者である黒田家の視点で編纂された『黒田家譜』と、敗者である城井氏側の視点を色濃く反映した『城井軍記実録』や『城井闘諍記』といった軍記物とでは、その記述のニュアンスが大きく異なる 18 。
『黒田家譜』は、鎮房が手勢を率いて中津城に来たことを「不穏な動き」であったかのように描き、謀殺を正当化しようとする意図が随所に見受けられる 28 。一方で、鶴姫と長政の婚約話といった、黒田家に都合の良い美談を「虚説である」と明確に否定するなど、公式記録としての体裁を保とうとする側面も持つ 43 。
対照的に、城井氏側の視点に立つ軍記物は、鎮房の武勇や一族の悲劇性をドラマチックに強調し、黒田氏の謀略の非道さを際立たせる傾向が強い 44 。これらの史料を比較検討することは、単なる事件の事実関係を追認するに留まらない。それは、この悲劇が後世にどのように語り継がれ、それぞれの立場からどう解釈されてきたかという、「歴史の記憶」そのものを分析することを可能にする。黒田氏の取った行動は、新領主が在地勢力を完全に掌握するための、戦国の論理としては合理的で冷徹な政治的判断であった。しかし、その手段の非情さは、後世に長く語り継がれるほどの強烈な衝撃を人々に与えたのである。
大名としての城井氏は、黒田氏の謀略によって天正16年(1588年)に滅びた。しかし、その血脈と記憶は、人々の間で密やかに、そして力強く生き続けた。この章では、奇跡的に生き延びた子孫たちのその後の足跡と、敗者の無念が生み出した数々の伝承を追跡する。
城井一族が根絶やしにされるという絶望的な状況の中、一つの希望が残されていた。鎮房の嫡男・朝房の正室であった竜子(筑前の大名・秋月種実の娘)が、当時懐妊しており、城井谷の混乱を逃れて落ち延びることに成功したのである 12 。
竜子は英彦山麓の宝珠山村(現在の福岡県朝倉郡東峰村)に身を隠し、そこで無事に男子を出産した。この子が、後に宇都宮朝末(ともすえ)と名乗ることになる 17 。朝末は母方の実家である秋月氏に引き取られて成長し、長じて後は、父祖の無念を晴らすべく、城井谷に残る旧臣たちと共に御家の再興運動に奔走した 16 。
朝末の子・春房もその遺志を継ぎ、再興への道を模索し続けた。そして、その悲願は孫の代になってついに結実する。元禄3年(1690年)、朝末の孫にあたる宇都宮信隆(高房)が、越前松平家(福井藩)に召し抱えられたのである。当初の禄高は500石から700石程度と、かつての大名の面影はなかったが、これにより城井氏の嫡流は武士としての家名を回復し、明治維新に至るまでその血脈を保つことができた 1 。
城井氏の血筋は、もう一つの流れでも残されていた。鎮房の弟にあたる弥次郎という人物が、兄たちが滅ぼされた後、かつて鎮房が頼った薩摩の島津家に仕官し、その地で子孫を残したという記録が存在する 1 。実際に、後の薩摩藩士の系譜資料の中には「城井」の姓が見られ、嫡流とは別に、九州の地でも一族の血が受け継がれていたことが確認できる 46 。
関ヶ原の戦いが勃発した慶長5年(1600年)、かつて秀吉によって改易されていた旧豊後国主・大友義統が、毛利輝元ら西軍の支援を受けて豊後での再起を図った。この時、主家を失い浪々の身となっていた城井氏の旧臣たちが、この大友軍に合流した 2 。彼らの目的は、大友氏の再興に力を貸すことで、共通の敵である黒田氏(東軍に所属)に一矢報いることにあった。
同年9月、豊後国の石垣原(現在の大分県別府市)において、大友義統軍と、黒田孝高(如水)が率いる黒田軍が激突した(石垣原の戦い)。城井旧臣たちは、吉弘統幸ら大友家の忠臣たちと共に奮戦したが、衆寡敵せず大友軍は敗北。城井旧臣たちの最後の戦いは、再起の夢と共に潰えた 47 。
城井氏の悲劇は、単なる歴史上の事件として風化することはなかった。むしろ、それは「祟り」や「怨霊」という形で、勝者である黒田家の歴史に長く暗い影を落とし続けることになる。
鎮房の死後、彼が謀殺された中津城、そして黒田氏が後に筑前国に移って築いた福岡城では、鎮房の亡霊が出没するという噂が絶えなかった 12 。謀殺を主導した黒田長政は恐怖に苛まれ、父の孝高も、戦国の世とはいえ勇将を謀略で手にかけたことを悔いたと伝えられる。彼らは鎮房の強大な怨霊を鎮めるため、中津城内、そして福岡城内にも「城井神社」(または紀府大明神)を建立し、その霊を祀った 12 。
この慰撫の試みも虚しく、後年、黒田家では藩主の跡継ぎとなるべき男子が次々と夭折し、ついに孝高・長政以来の直系が断絶するという事態に見舞われた。さらに、江戸時代前期に起こったお家騒動(黒田騒動)や、幕末の藩主の不祥事など、黒田家に降りかかった数々の不幸は、ことごとく「城井一族の祟り」であると、人々は噂し合った 12 。
城井氏の物語は、公式の歴史記録からこぼれ落ちた、民衆の記憶によっても語り継がれていった。合元寺の「赤壁」伝説や、磔にされた鶴姫の霊を祀るために創建された「宇賀貴船神社」 12 、そして城井谷の住民が鎮房の命日に野ばらの棘を地に刺して黒田家を呪い続けたという伝承 12 などは、その代表例である。
これらの伝承や祭祀は、単なる迷信として片付けることはできない。黒田家による城井神社の建立が、非業の死を遂げた旧領主の強大な霊威を、新たな領地の「守護神」として取り込むことで支配を安定させようとする、高度な政治的行為であったと解釈できるように、民衆の間に伝わる物語もまた、重要な意味を持っていた。それらは、歴史の敗者の無念を語り継ぎ、勝者の支配の正当性に対して、静かに、しかし根強く異議を申し立てる、もう一つの「歴史」として機能したのである。城井氏の物語は、武士の興亡史であると同時に、地域に深く根差した記憶と文化の歴史でもあるのだ。
本報告書を通じて、城井長房とその一族の生涯を多角的に検証してきた。彼は従来、単に「黒田氏に滅ぼされた悲劇の武将・城井鎮房の父」として、やや影の薄い存在として語られることが多かった。しかし、彼の行動と思想を深く掘り下げることで、より複雑で、時代の転換点を象徴する人物像が浮かび上がってくる。
城井長房の行動の根幹には、戦国乱世の現実の中にあってなお、血縁に基づく「本家」の権威と「一門」の秩序を絶対視する、中世的な価値観が一貫して存在した。彼が自領の経営を息子に任せ、遠く離れた下野宇都宮家の内紛に心血を注いだのは、彼が自らを豊前の在地領主である以前に、名門・宇都宮氏の一員であると強く自認していたからに他ならない。彼の生涯は、この古風とも言える価値観と、実力主義や中央集権化という新しい時代の論理との、壮絶な相克の物語であった。
長房と、その薫陶を受けたであろう息子・鎮房が共有していた「父祖伝来の地」への強い固執は、何百年にもわたってその土地に根を張り、生きてきた在地武士としての誇りの究極的な表れであった。彼らにとって、土地は代替可能な経済基盤ではなく、一族の歴史とアイデンティティそのものであった。しかし、その誇りこそが、豊臣秀吉という巨大な統一権力の前では、命取りとなった。彼ら一族の悲劇は、戦国時代から近世へと社会が大きく移行する過程で、旧来の価値観に生きた多くの在地領主が経験した運命の、極めて象徴的な事例であったと言える。
長房が「本家への忠節」という理念を追求し、鎮房が「在地での現実的対応」という実務を担うという父子の役割分担は、一見すると、激動の時代を生き抜くための巧みな生存戦略のようにも見える。しかし、結果として二人を同じ悲劇へと導いたのは、彼らの価値観の根底にあった「城井谷」という土地への、そして「宇都宮」という家名への、分かちがたい執着であった。
結論として、城井長房は、歴史の渦の中で受動的に運命を受け入れた人物ではない。彼は、自らの確固たる信念に基づき、九州から関東にまで影響を及ぼした稀有な政治的主体であった。そして、その古風なまでの忠節心と名門としての矜持こそが、彼とその一族の歴史を、かくも劇的で悲劇的なものにした根源であったと評価できる。彼の生き様は、戦国という時代の価値観の多様性と、時代の大きな転換期に生きた武士の栄光と苦悩を、現代の我々に強く示唆している。