最終更新日 2025-06-24

城親冬

肥後の国人領主・城親冬 ― 激動の戦国時代を生き抜いた一族の軌跡

序章:戦国期肥後における城氏の位置づけ

日本の戦国時代、九州中央部に位置する肥後国(現在の熊本県)は、絶え間ない動乱の舞台であった。この激動の時代に、一人の国人領主として一族の存亡を賭け、巧みな政治手腕と時勢を読む力でその名を刻んだ人物がいる。それが城親冬(じょう ちかふゆ)である。彼の生涯を理解するためには、まず彼が属した城氏の出自と、当時の肥後国が置かれていた複雑な政治状況を把握する必要がある。

菊池一族としての出自と誇り

城氏は、その起源を肥後国の名門・菊池氏に持つ、由緒正しい一族である 1 。鎌倉時代、菊池氏の祖である藤原則隆の孫、菊池能隆の子・隆経が肥後国山鹿郡城村(現在の山鹿市菊鹿町城)に拠点を構え、その地名を姓としたのが始まりとされる 1 。この出自は、城氏が単なる土着の豪族ではなく、肥後国において長年にわたり確固たる地位を築いてきた菊池一族の一員としての誇りと正統性を持っていたことを示している。

室町時代に入ると、城氏は同じく菊池一族から分かれた赤星氏、そして大和源氏宇野氏の流れを汲む隈部氏と共に、主家である菊池氏を支える「三家老家」の一つに数えられるほどの有力な存在となっていた 1 。これは、城氏が肥後国の政治・軍事の中枢に深く関与し、国政を左右する力を持っていたことを物語っている。

主家・菊池氏の衰退と動乱前夜の肥後

しかし、城親冬が歴史の表舞台に登場する16世紀前半、肥後国の情勢は極めて流動的であった。かつて九州探題を凌ぐほどの勢力を誇った守護・菊池氏の権威は、度重なる内紛や家臣団の離反によって著しく衰退していた 5 。この権力の空白は、周辺の戦国大名にとって絶好の機会となった。東の豊後国(大分県)からは大友氏が、北の肥前国(佐賀県・長崎県)からは龍造寺氏が、そして南の薩摩国(鹿児島県)からは島津氏が、それぞれ肥後への影響力を強めようと虎視眈々と狙っていたのである。

特に、豊後の大友氏は菊池氏の内紛に積極的に介入し、自らの血を引く者を菊池氏の当主として送り込むなど、肥後支配を着々と進めていた 5 。主家の衰退と外部勢力の介入という二重の圧力の中で、肥後の国人領主たちは、旧来の主従関係に固執するのか、あるいは新たな強者に従うのかという、厳しい選択を迫られていた。

城親冬の生涯は、まさにこの時代の縮図であった。三家老という名門の矜持と、もはやその名誉だけでは生き残れないという冷徹な現実認識の狭間で、彼はいかにして一族の活路を見出したのか。本報告書は、城親冬という一人の国人領主の決断と行動を軸に、戦国時代から織豊政権期へと至る肥後国の歴史的変遷を詳細に解き明かすものである。

年表:城親冬と九州戦国史

城親冬とその一族の動向は、常に九州全体の大きな政治・軍事的出来事と密接に連動していた。以下の年表は、彼らの軌跡を当時の情勢と共に概観するものである。

年代(西暦)

城親冬および城一族の動向

関連する九州の主要な出来事

(生年不詳)

城重岑の子として誕生 9

天文19年(1550)

大友義鎮(宗麟)に与し、菊池義武を攻める 9 。戦功により隈本城主となり、飽田・託麻二郡を支配 9

大友家で家督争い「二階崩れの変」が勃発し、大友義鑑が死去 13 。菊池義武、この機に乗じて隈本城に入る 8

天文21年(1552)

人吉の相良晴広へ書状を送る 15

天文23年(1554)

大友義鎮の命により、菊池義武が自害。名門菊池氏の嫡流が途絶える 13

永禄の頃(1558-70)

隠棲し、嫡子・親賢に家督を譲る 9

元亀元年(1570)

(親冬が仲介役か)大友氏と龍造寺氏が和睦する 17

今山の戦いで龍造寺隆信が大友軍に大勝。龍造寺氏が台頭する 19

天正6年(1578)

息子・親賢、大友氏を見限り島津氏に接近する 3

耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗。大友氏の権威が失墜する 3

天正8年(1580)

息子・親賢、島津勢と共に阿蘇氏を攻めるも甲斐宗運に敗退する 21

龍造寺隆信、勢力を拡大し筑後・肥後へ侵攻する 24

天正9年(1581)

息子・親賢、龍造寺氏の侵攻に屈し、これに従属する 3

天正9年12月29日(1582.1.23)

息子・親賢が死去 3 。孫の久基(幼名:長千代)が跡を継ぐ 26

天正12年(1584)

沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死。龍造寺氏の勢力が後退する 28

天正15年(1587)

孫・久基(当時14歳)、豊臣秀吉に隈本城を明け渡し降伏 26 。城氏は所領を筑後に移され、久基は大坂住みを命じられる 1

豊臣秀吉による九州平定。佐々成政が肥後国主となる 30

天正16年(1588)

城氏は大坂にいるため、肥後国人一揆には不参加 1

肥後国人一揆が勃発。佐々成政は責任を問われ切腹する 31

(没年不詳)

出家し行西と号す。徳栄寺を開基したと伝わる 9

文禄元年(1593)

孫・久基が筑後にて死去。城氏本家が断絶する 1

第一章:隈本城主への道 ― 大友氏への帰属という決断

城親冬の生涯における最初の、そして最大の転機は、天文19年(1550年)に訪れた。この年、彼は旧主である菊池氏の血を引く菊池義武を見限り、肥後へ侵攻してきた豊後の大友氏に与するという重大な決断を下す。この行動は、単なる裏切りとして片付けられるものではなく、戦国国人領主としての冷徹な情勢分析に基づいた、一族の生存を賭けた戦略的選択であった。

大友氏の肥後侵攻と菊池義武の抵抗

豊後の大大名であった大友義鑑は、衰退した肥後の名門・菊池氏を自らの影響下に置くため、実弟の重治(後の菊池義武)を養子として送り込み、菊池家の家督を継がせた 13 。しかし、義武は次第に自立を志向するようになり、周防の大内氏と結んで兄・義鑑と公然と対立。一時は肥後を追われ、肥前の島原へ亡命するなど、その立場は常に不安定であった 6

転機となったのは、天文19年(1550年)に大友家で発生した家督相続を巡る内紛、いわゆる「二階崩れの変」である。この事件で当主・義鑑が家臣に殺害されると 13 、義武はこの政治的混乱を千載一遇の好機と捉え、肥後へ帰還。相良氏などの支援を得て、肥後の中心地である隈本城(当時は鹿子木氏が城主)に入り、菊池家再興の兵を挙げた 6 。菊池家の旧臣たちにとって、これは主家再興の最後の希望に見えたかもしれない。

親冬の決断 ― 旧主か、新興勢力か

この菊池義武の挙兵に対し、菊池三家老の一角を占める城親冬は、意外な行動に出る。彼は義武に味方せず、二階崩れの変を速やかに収拾して大友家の新当主となった義鑑の嫡男・義鎮(後の宗麟)の側につくことを決断したのである 6

この決断の背景には、親冬の極めて冷静な情勢分析があったと考えられる。第一に、菊池義武の政治的・軍事的基盤はあまりにも脆弱であった。彼の挙兵は大友家の内紛という偶発的な出来事に便乗したものであり、肥後国人たちの全面的な支持を得ているわけではなかった。第二に、対する大友宗麟は、家中の混乱を瞬く間に収拾し、父の代を上回る強大な軍事力を動員することが可能であった 14 。第三に、地政学的な観点から見れば、城氏の本拠地は豊後から肥後への侵攻ルート上にあり、義武に味方して抵抗すれば、真っ先に大友軍の攻撃に晒され、滅亡する危険性が極めて高かった。

そして最後に、この決定的な局面でいち早く宗麟に味方し、旧主・義武の討伐に協力すれば、その功績に対する見返りは計り知れないものになる。親冬は、旧主への忠義という情緒的な価値観よりも、現実的なパワーバランスと一族の将来性という実利を優先した。これは、戦国時代を生きる国人領主として、極めて合理的かつ高度な政治判断であったと言える。

隈本城主就任と領国支配の始まり

親冬の予測通り、大友宗麟はただちに大軍を肥後に派遣した。義武軍はたちまち劣勢となり、隈本城を追われて再び島原へ逃亡。その後、宗麟の執拗な追討の末、天文23年(1554年)に豊後で自害に追い込まれ、ここに肥後の名門・菊池氏の嫡流は完全に歴史から姿を消した 7

この戦いにおける最大の功労者の一人として、城親冬は宗麟から絶大な恩賞を与えられた。それは、肥後の政治・経済・交通の要衝である隈本城の城主の座と、その周辺に広がる最も肥沃な土地である飽田(あきた)・託麻(たくま)の両郡の支配権であった 1 。これにより、城氏は山鹿地方の一国人から、肥後国の中枢部を支配する「大国人領主」へと、一躍その地位を高めることに成功した。隈本城は、それまで城主であった鹿子木氏に代わって城氏の居城となり、以後、親冬、親賢、久基の三代にわたる城氏支配の拠点となったのである 12

第二章:大友氏の尖兵として ― 九州三大勢力の狭間で

隈本城主となった城親冬は、単に領地を拡大しただけではなかった。彼は事実上、大友宗麟の肥後支配における代理人、あるいは最前線の司令官としての重責を担うことになった。しかし、その道のりは平坦ではなく、肥後国内の複雑な力学と、九州全体を巻き込む大国間の争いの狭間で、巧みな舵取りを要求される日々であった。

肥後国衆間の力学と大友氏の代理人

親冬が隈本城主として肥後中枢に座ったとはいえ、国内には依然として独立性の強い国人領主が多数割拠していた。特に、同じく菊池旧臣である隈部氏や赤星氏などは、表向きは大友氏に従いつつも、互いに勢力拡大の機会を窺っており、肥後国内は常に一触即発の緊張状態にあった 25 。親冬の役割は、これらの国衆との微妙なバランスを保ちながら、大友氏の意向を肥後国内に浸透させるという、極めて繊細なものであった。彼は、大友氏という後ろ盾を背景に、時には協調し、時には牽制し合いながら、肥後における大友方の主導権を維持することに努めた。

外交官としての一面 ― 龍造寺氏との和睦仲介

親冬が単なる武将ではなかったことを示す最も顕著な事例が、肥前の龍造寺氏との外交交渉である。元亀元年(1570年)、肥前の龍造寺隆信が「今山の戦い」において、数で圧倒的に優る大友軍を奇襲で破るという劇的な勝利を収めた 19 。この敗戦により、大友氏の権威は大きく揺らぎ、龍造寺氏は九州の新たな強豪として一気に台頭した。

この戦いの後、大友宗麟と龍造寺隆信の間で和睦交渉が行われた際、その仲介役という大任を任されたのが城親冬であったという記録が残っている 17 。大友方の使者として龍造寺氏の本拠である佐嘉城に赴き、交渉をまとめたとされる。

なぜ、この重要な役目に親冬が選ばれたのか。その理由は複数考えられる。第一に、彼の所領は、大友氏の支配域と、北へ勢力を伸ばそうとする龍造寺氏の最前線が接触する、まさに緩衝地帯に位置していた。大友と龍造寺の全面戦争は、自領が戦場となることを意味し、和睦の成立は親冬自身の死活問題でもあった。第二に、彼は大友氏の家臣ではあるが、元々は肥後の独立した国人領主である。この立場が、純粋な大友譜代の家臣よりも、同じく国人から成り上がった龍造寺氏にとって、心理的に受け入れやすい交渉相手と映った可能性がある。親冬は、単に主君の命令に従っただけでなく、自らの利害に基づき、この困難な交渉を成功させる強い動機を持っていた。この大役を果たしたことは、彼が九州の複雑な国際情勢の中で重要な役割を担うことができる、高度な政治感覚と外交手腕を兼ね備えた人物であったことを証明している。

古文書から読み解く親冬の活動

城親冬の活発な活動は、現存する古文書によっても裏付けられている。特に、慶應義塾大学が所蔵する『相良家文書』の中には、天文21年(1552年)2月20日付で、城親冬が肥後南部の領主である人吉の相良晴広に宛てた書状が残されている 15 。また、『新熊本市史』には、年不詳ながら複数の城親冬・親賢父子の書状写が収録されており、彼らが地域の寺社に寄進を行っていたことなども確認できる 38

これらの一次史料の存在は、城氏が主君である大友氏の意向を受けつつも、肥後国内の他の有力者、特に南部の相良氏とも独自の外交チャンネルを維持し、密接な関係を築いていたことを示している。彼は、大友氏という大きな権威を背景としながらも、自らの人脈と交渉力を駆使して周辺勢力との関係を巧みに調整し、肥後における自らの立場を強化しようと絶えず努力していたのである。

第三章:親冬の隠棲と城氏のその後

城親冬が築き上げた栄光は、しかし、永続するものではなかった。彼が隠居し、家督を息子に譲った頃から、九州の勢力図は再び激変し始める。大友氏の衰退、龍造寺・島津両氏の台頭、そして中央からの天下人・豊臣秀吉の到来という巨大な波は、城氏の運命を根底から揺るがしていくことになる。

家督継承と嫡子・親賢の苦難

親冬は永禄年間(1558年~1570年)に隠棲し、嫡男の親賢(ちかまさ)に家督を譲った 9 。親賢が城主となった時代は、父・親冬の時代とは比較にならないほど過酷なものであった。天正6年(1578年)、日向国で起こった「耳川の戦い」で、主君である大友宗麟が薩摩の島津義久に歴史的な大敗を喫したのである 3 。この一戦で大友氏の軍事力と権威は完全に失墜し、九州のパワーバランスは劇的に変化した。

この情勢の激変を受け、城親賢は父の代からの大友氏従属路線を維持することが不可能であると判断する。彼は一族の生き残りをかけて、南から勢力を急拡大させる島津氏に接近するという、苦渋の決断を下した 3 。これは、かつて父・親冬が菊池氏を見限って大友氏を選んだのと同じく、時勢を読んだ現実的な判断であった。しかし、親賢の苦難はこれで終わりではなかった。北からは龍造寺隆信の圧力が日増しに強まり、天正9年(1581年)、ついに親賢は龍造寺氏の肥後侵攻に屈し、その軍門に降ることを余儀なくされた 3

親冬の時代は、大友氏という一つの強者に従うことで安定を得られた。しかし、親賢の時代は、大友・龍造寺・島津という三大勢力が互いに覇を競う、より複雑で危険な時代であった。親賢は、これら大勢力の間を揺れ動き、巧みな綱渡り外交で活路を見出そうとしたが、それは常に滅亡の危険と隣り合わせの道であった。心労が重なったのか、龍造寺氏に屈した同年の12月29日、親賢は病によりこの世を去った 3

孫・久基の時代と「天下人」の出現

親賢の死後、家督はまだ幼い息子の久基(ひさもと、幼名:長千代)が継いだ 26 。しかし、もはや城氏の運命は、九州内の勢力争いによって決まるものではなくなっていた。中央で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、その視線を九州へと向けたからである。

天正15年(1587年)、秀吉が20万ともいわれる大軍を率いて九州平定に乗り出すと、当時島津氏の傘下にあった城久基は、抵抗することなく秀吉軍の先鋒・黒田如水(官兵衛)らに降伏し、隈本城を明け渡した 26 。この時、久基はわずか14歳であった 27

九州を平定した秀吉は、肥後の新たな国主として、子飼いの武将である佐々成政を任命した。そして、城氏に対しては、所領は安堵するものの、本拠地である肥後から引き離し、当主の久基を大坂に住まわせるという、巧妙かつ厳しい処置をとった 1 。これは、国人領主が持つ在地性、すなわち土地との強い結びつきを断ち切ることでその影響力を削ぎ、豊臣政権の中央集権体制に組み込むという、秀吉の典型的な国人対策であった。

この処置が、皮肉にも城氏を救うことになる。翌天正16年(1588年)、佐々成政の強引な検地に反発した隈部氏ら肥後の国人衆が一斉に蜂起する「肥後国人一揆」が勃発した 31 。この一揆で多くの国衆が鎮圧され、滅ぼされたが、城氏は当主・久基が大坂にいたために参加することができず、結果として改易を免れたのである 1 。しかし、この「生き残り」は、在地基盤という根を失った城氏の、領主としての終焉を意味していた。

城氏本家の断絶と親冬の晩年

肥後との繋がりを完全に断たれた城氏の嫡流は、もはやかつての勢いを取り戻すことはなかった。当主・久基は、文禄元年(1593年)、移封先の筑後の地で若くして死去 1 。これにより、菊池三家老家として肥後に栄えた城氏の本家は、歴史の表舞台から静かに姿を消した。ただし、一族の傍流はその後、肥後に入国した細川氏に仕え、肥後藩士として家名を後世に伝えたという 1

一方、一族の栄枯盛衰をどのような思いで見つめていたのか、隠居後の親冬の動向は多くを伝えていない。ただ、彼は出家して「行西」と号し、徳栄寺という寺院を開基したと伝えられている 9 。激動の時代を乗り切り、一族を肥後の中心勢力へと飛躍させた彼は、その後の子孫が辿る悲運を知ることなく、仏道に帰依し、静かな晩年を送ったのかもしれない。

終章:城親冬とその一族が残したもの

城親冬とその一族が肥後の歴史に残した足跡は、決して小さなものではない。彼らは戦国時代の動乱の中で、単に生き残るだけでなく、地域の政治、経済、そして文化にまで、後世に繋がる確かな影響を与えた。

隈本城下町の原型形成

親冬が隈本城主となり、息子の親賢がその跡を継いだ時代、隈本城は肥後中部の政治・経済の中心地として、その重要性を増した。隈本城の周辺には、古くから祇園社(現在の北岡神社)や藤崎社(現在の藤崎台球場)の門前町として栄えた「古町」や「新町」が存在していた 23 。城氏の統治下で、これらの町は城下町としての性格を強め、物流の拠点として発展していった。後に加藤清正が、近世城郭としての熊本城と壮大な城下町を建設するが、その事業は、この城氏時代に形成された都市的基盤の上に成り立っている側面があり、その歴史的意義は大きい 23 。城氏の時代は、近世熊本の繁栄の礎を築いた重要な時代であったと言える。

菩提寺・岳林寺と地域の伝承

城氏の記憶は、地域の寺院や伝承の中にも生き続けている。熊本市西区島崎に現存する曹洞宗の寺院・岳林寺は、天正9年(1581年)に城親賢によって再興されたと伝えられている 40 。境内には親賢の墓があり、400年以上を経た今日でも、地域の人々によって大切に守られている 40

さらに、熊本の春の風物詩として知られる「くまもと春の植木市」は、一説には城親賢が領民の慰撫のために始めさせたとされ、その始祖として語り継がれている 3 。現在でも、植木市の関係者は開催に先立ち、岳林寺にある親賢の墓前で祭事を行い、市の成功を祈願するという 23 。これは、城氏が単なる支配者ではなく、地域の文化や産業の発展に寄与した領主として、今なお人々の心に記憶されていることの証左である。

歴史的評価:典型的なるが故の重要性

城親冬は、織田信長や豊臣秀吉のような、歴史を大きく動かした天下人ではない。しかし、彼の生涯は、戦国乱世という未曾有の変革期を生きた、大多数の「国人領主」たちが直面した現実を凝縮している。

彼は、旧来の主従関係という価値観に縛られることなく、冷徹な情勢分析に基づいて主家を乗り換え、一族を飛躍させた。また、単なる武力だけでなく、大国間の争いを調停するほどの外交手腕によっても、その存在感を示した。彼の行動は、戦国時代という社会の極端な流動性と、そこに生きた人々の現実的な生存戦略を理解するための、極めて重要な事例である。

城氏三代の軌跡は、地方の自立した領主であった国人が、より強力な戦国大名の支配下に組み込まれ、最終的には豊臣政権による中央集権化という巨大な波に呑まれていくという、戦国時代から近世への移行プロセスそのものを体現している。城親冬という一人の武将の生涯を徹底的に調査することは、日本の歴史の大きな転換点を、一人の人間の視点から深く、そして多角的に理解することに繋がるのである。彼の物語は、華々しい英雄譚ではないかもしれないが、時代の変革期を生きた人間の知恵と苦悩、そして栄光と悲運を、我々に静かに語りかけている。

引用文献

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  39. 戦国大名龍造寺氏と国衆の関係について : 起請文の分析を中心に https://omu.repo.nii.ac.jp/record/2000999/files/2024000400.pdf
  40. 岳林寺 - 熊本市観光ガイド https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/111
  41. 岳林寺 | 観光スポット | 【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。 https://kumamoto.guide/spots/detail/12279
  42. 城親賢の墓(熊本市・未指定) https://ameblo.jp/com2-2-2/entry-12797479806.html
  43. 上熊本駅起点コース https://www.kmt-cci.or.jp/wp/wp-content/themes/kmt/assets/media/authorization/culture/kamikumamotostation.pdf