堀利重(ほり とししげ)は、天正9年(1581年)に生を受け、寛永15年(1638年)にその生涯を閉じた、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将である 1 。日本の統治体制が織田、豊臣、そして徳川へと劇的に移行する、まさに激動の時代を生きた人物であった。
利重の名を語る上で、彼の兄、堀秀政の存在は欠かせない。秀政は織田信長や豊臣秀吉から「名人久太郎」と称賛されるほどの卓越した軍才と行政能力を兼ね備えた名将であった 3 。この偉大な兄の存在は、弟である利重の生涯に、少なからぬ期待と、同時に重圧として影響を与えたことであろう。
しかし、利重の生涯が歴史研究の対象として特に興味深いのは、その波乱に満ちた経歴そのものにある。彼は一度、幕府の政治闘争に巻き込まれて所領を全て没収される「改易」という、武士にとって死に等しい処分を受けながら、自らの力で戦功を立てて復活し、ついには譜代大名として幕府の要職を歴任するに至った。江戸時代初期において、一度改易された大名が完全に大名として復帰する例は極めて稀であり、彼の経歴は際立っている 5 。
堀利重の生涯は、近世初期の武家社会における生存戦略、すなわち戦場での「武功」、幕府官僚としての「吏僚的実務能力」、そして何よりも時流を見極め、有力者との「政治的人脈」を築き上げる能力の重要性を、見事に体現している。本報告書は、この稀有な武将の生涯を、史料に基づき徹底的に詳述し、その人物像と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
年(西暦/和暦) |
年齢 |
出来事 |
役職・身分 |
石高 |
1581年(天正9年) |
1歳 |
堀秀重の三男として誕生 2 |
- |
- |
1599年(慶長4年) |
19歳 |
甥・秀治により人質として江戸へ。徳川秀忠に仕える 2 |
徳川秀忠近習 |
- |
1600年(慶長5年) |
20歳 |
関ヶ原の戦いで秀忠軍に従い第二次上田合戦に参加 2 |
徳川秀忠配下 |
- |
1601年頃 |
21歳頃 |
戦功により知行を得る。従五位下伊賀守叙任 7 |
旗本 |
8,000石 |
1614年(慶長19年) |
34歳 |
大久保忠隣事件に連座し改易。奥平家昌預かりとなる 2 |
蟄居(罪人) |
0石(改易) |
1615年(慶長20年) |
35歳 |
大坂夏の陣に松平忠明軍として参陣し武功を挙げる 2 |
預かりの身 |
0石 |
1622年(元和8年) |
42歳 |
罪を許され大名に列する。常陸玉取藩を立藩 8 |
常陸玉取藩主 |
10,000石 |
1628年(寛永5年) |
48歳 |
大番頭に就任 2 |
大番頭 |
10,000石 |
1633年(寛永10年) |
53歳 |
幕府要職の功により加増される 2 |
寺社奉行など |
14,000石 |
1638年(寛永15年) |
58歳 |
松江城請取役の帰路、大坂にて死去 2 |
寺社奉行など |
14,000石 |
堀利重のキャリアの始点を探るには、まず彼が属した堀一族の、豊臣政権末期における政治的状況を理解する必要がある。利重は堀秀重の三男として生まれた 2 。彼の家、堀家は、長兄・秀政の目覚ましい活躍によって、織田政権下で急速に台頭した一族である。秀政は信長、秀吉に仕えて数々の戦功を挙げ、その結果、豊臣政権下では越前北ノ庄に18万石を領する大大名へと成長した 4 。
しかし、秀政が小田原征伐の陣中で病没すると、家督は若年の嫡男・秀治が継承した。慶長3年(1598年)、豊臣政権による大名配置転換の一環として、堀秀治は越前北ノ庄から越後春日山45万石へと大幅な加増の上で転封された 10 。この広大な領地は、しかしながら、秀治にとって必ずしも安泰なものではなかった。越後は前領主である上杉景勝の旧臣たちが依然として強い影響力を持ち、秀治の入封直後から一揆が頻発した。さらに、上杉家が領地の年貢を持ち去ったため、堀家の財政は当初から極度に困窮していた 12 。
このような不安定な支配基盤の上に立たされた秀治は、来るべき新時代の覇者と目される徳川家康との関係を強化する必要に迫られた。そして慶長4年(1599年)、秀治は徳川家への恭順の証として、叔父である利重を人質として江戸へ送るという決断を下す。これにより利重は江戸へ赴き、家康の嫡男である徳川秀忠に仕えることとなった 2 。
この人質提出は、単なる服従の表明に留まらない、高度な政治的計算に基づいた戦略であったと考えられる。越後の支配に苦慮する秀治にとって、一族の重鎮である叔父・利重を家康・秀忠父子の下に送ることには、二重の目的があった。第一に、徳川方への明確な忠誠を示すことで、自らの越後支配の正当性を幕府から担保してもらうこと。第二に、万が一、越後の本家が不測の事態、例えば改易などに陥った場合でも、江戸にいる利重を通じて堀家の血脈を徳川家中で存続させるという、一族存続のための保険である。
結果として、この秀治の判断は利重自身の運命を大きく左右することになる。後に越後の堀本家は、秀治の死後に発生した家督争い(越後福嶋騒動)が原因で、慶長15年(1610年)に改易されてしまう 11 。もし利重が越後に留まっていれば、彼もこの騒動に巻き込まれ、一族と共に没落していた可能性が高い。しかし、彼は「人質」として江戸にいたがゆえに本家の没落から切り離され、新たな主君である秀忠との直接的な主従関係を深めるという、類稀な機会を得たのである。利重にとって、この江戸への出仕は、まさに「災い転じて福と為す」キャリアの幕開けであった。
徳川家臣としての堀利重が最初に直面した大きな試練は、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いであった。天下分け目のこの戦いにおいて、利重は主君・徳川秀忠が率いる約3万8千の中山道軍に属し、西進した 2 。秀忠軍の目的は、中山道沿いの西軍方勢力を制圧しつつ、美濃で父・家康の率いる東海道本隊と合流することにあった。
しかし、秀忠軍の行く手には、西軍に与した知将・真田昌幸と、その子・信繁(幸村)が籠る信濃上田城が立ちはだかっていた。秀忠は上田城に開城を勧告するが、昌幸はこれを巧みに欺き、徳川軍を城攻めへと誘い込む。これが第二次上田合戦である 17 。利重も参加したこの戦いで、秀忠軍はわずか3千ほどの真田勢の巧みな戦術の前に大苦戦を強いられ、多大な時間を浪費した。この足止めが原因で、秀忠軍は9月15日の関ヶ原本戦に間に合わないという、徳川家後継者としてあるまじき大失態を演じることとなった 19 。この軍には、榊原康政、大久保忠隣、本多正信といった、後の幕府を支える重臣たちが揃って従軍しており、彼らと共に利重もまた、主君の苦杯を間近で味わうことになったのである 20 。
軍事的には完全な失敗であったこの上田攻めだが、不思議なことに、戦後、利重は「戦功あり」として評価されている。彼はこの功により、8,000石の知行地を与えられて旗本となり、従五位下伊賀守に叙任された 7 。現存する史料には、利重がこの戦いで敵将の首級を挙げるような、特筆すべき武功を立てたという具体的な逸話は残されていない。
このことから、利重に認められた「戦功」とは、物理的な戦果ではなく、より本質的な意味合いを持つものであったと推察される。それは第一に、主君・秀忠が人生最大の軍事的困難と屈辱に直面した際に、その側にあり続け、共に苦難を分かち合ったという「忠誠心」の証明であった。第二に、敗戦の混乱の中にあっても持ち場を離れず、軍の規律を維持し、武士としての本分を全うしたという「実直さ」が評価されたのであろう。
特に、この苦い経験は、将来将軍となる秀忠にとって、生涯忘れ得ぬものであったはずだ。そして、その失敗を共有した家臣団は、単なる主従関係を超えた、特別な連帯感で結ばれた側近グループを形成した可能性がある。堀利重にとって、上田での経験は、主君・秀忠との個人的な信頼関係を強固にする上で、いかなる勝利にも勝る価値を持つ「戦功」となったのである。
関ヶ原の戦いを経て、徳川秀忠の側近として順調にキャリアを重ねていたかに見えた堀利重であったが、慶長19年(1614年)、彼の運命を暗転させる一大政変が起こる。徳川幕府の老中として絶大な権勢を誇っていた大久保忠隣が、突如として改易されたのである 1 。
この「大久保忠隣事件」は、単なる一個人の失脚ではなかった。その背景には、江戸幕府草創期における深刻な権力闘争が存在した。すなわち、大御所として駿府に隠居していた徳川家康の側近である本多正信・正純親子を中心とする「駿府派」と、二代将軍秀忠の側近筆頭であった大久保忠隣を中心とする「江戸派」との間の、幕政の主導権を巡る激しい対立である 22 。本多親子は、秀忠政権下で権勢を増す忠隣を危険視し、様々な策謀を巡らせてその失脚を画策していた 24 。
この政変の嵐は、堀利重にも容赦なく吹き付けた。彼は、忠隣の改易に「縁者である」という理由で連座させられ、8,000石の所領を全て没収(改易)される。そして、罪人として下野宇都宮藩主・奥平家昌のもとへ預けられる身となった 2 。
利重が連座の理由とされた具体的な縁戚関係は、『寛政重修諸家譜』などの史料によって明らかになっている。それは、「利重の正室(本多康重の娘)の母親と、大久保忠隣の正室が姉妹同士であった」というものであった 2 。これは妻の母の姉妹の夫という、極めて遠い姻戚関係に過ぎない。
この事実から、利重の改易が、彼自身の個人的な落ち度によるものではないことは明白である。むしろ、この遠い縁戚関係は、彼を粛清するための単なる口実に過ぎなかった。本多派にとって、政敵である忠隣本人だけでなく、その影響下にある、あるいは将来的に忠隣を擁護しかねない人物まで一掃することは、自らの権力基盤を盤石にする上で不可欠であった。秀忠の近臣であった利重は、本多派から「大久保派」の一員と見なされても何ら不思議はなかった。
堀利重の失脚は、江戸幕府初期の武家社会の厳しさを如実に物語っている。個人の能力や主君への忠誠心がいかに高くとも、一度、巨大な政治的権力闘争の渦に巻き込まれれば、いとも簡単にその地位と所領を失ってしまう。彼の運命は、武士が常に政治の力学という名の激流の中にあり、その立場がいかに脆弱であったかを示す悲劇的な実例であった。
改易という絶望的な状況に追い込まれた堀利重であったが、彼は不屈の精神で再起の機会を窺っていた。慶長19年(1614年)10月、預かり先であった宇都宮藩主・奥平家昌が病死するが、利重は引き続き奥平家に身柄を留め置かれた 7 。その直後、豊臣家と徳川家の対立は決定的となり、大坂冬の陣が勃発する。
そして翌慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣に際し、利重は復活をかけた最後の賭けに出る。彼は預かりの罪人という身分でありながら、「密かに」戦陣に加わることを決意したのである 8 。これは幕府からの公式な許可を得た行動ではなく、彼の独断によるものであった可能性が高い。もしこの行動が咎められれば、彼の命運は尽きていたであろう。
利重が身を投じたのは、亡き奥平家昌の弟であり、徳川家康の外孫でもある松平忠明の軍であった 2 。この選択は、極めて計算された戦略的なものであった。松平忠明は、家康の信頼も厚い幕府軍の有力武将であり、彼の部隊は夏の陣における最終決戦、天王寺・岡山の戦いなどで中心的な役割を果たし、多大な戦功を挙げることが期待されていた 27 。
利重の狙いは的中する。彼は松平忠明の軍中で奮戦し、武功を挙げた。そして、その目覚ましい働きは、部隊の総大将である忠明自身によって、将軍・秀忠の元へと直接言上されたのである 7 。
この一連の行動は、単なる名誉挽回のための猪突猛進ではない。それは、自らの置かれた絶望的な状況を打破するための、冷静な計算に基づいた自己救済の戦略であった。罪人の身である彼が、無名の部隊でいくら手柄を立てても、その功績が将軍の耳に届く保証はない。彼は、自らの武勇を最も効果的に幕府中枢へアピールできる舞台として、家康の孫であり、戦功第一と目される松平忠明の軍を選んだ。そして、その指揮官本人から赦免への強力な口添えを得ることに成功したのである。堀利重は、武士としての「武功」を、自らの運命を切り開くための「政治的資産」へと見事に転換させてみせたのであった。
大坂の陣における決死の戦功は、堀利重の運命を劇的に好転させた。総大将・松平忠明からの言上もあって彼の忠節と武勇は幕府に認められ、元和8年(1622年)、ついに正式な恩赦が下された 8 。改易から8年、利重は罪人の身分から解放されたのである。
赦免に留まらず、幕府は利重を高く評価した。彼は新たに常陸国新治郡(現在の茨城県つくば市周辺)内に1万石の所領を与えられ、大名に列することが許された 1 。これにより、居館を玉取村に置く常陸玉取藩が成立し、堀利重は初代藩主となった 21 。一度は全てを失った武将が、再び一万石の大名として返り咲くという、前例の少ない復活劇であった。
さらに、大名復帰と同時に、利重には重要な任務が与えられた。それは、かつて自らが預けられた奥平家の家督を継いだ、幼少の宇都宮藩主・奥平忠昌の補佐役(後見人)を拝命することであった 2 。利重は宇都宮城下に住み、この重要な職務を遂行したという 7 。
この人事は、徳川幕府による巧みな統治術の現れと見ることができる。かつての「囚人」に、その「看守」であった一族の後見を任せるという異例の措置は、第一に、利重に対する幕府の完全な信頼回復を内外に示す象徴的な意味を持っていた。第二に、大久保忠隣事件で対立した旧大久保派と旧本多派の遺恨を清算し、幕府の下での融和を図るという政治的な意図も含まれていたであろう。そして何よりも、この人事は、利重が単なる武勇だけの武士ではなく、藩経営や政務を的確にこなせる有能な官僚として、幕府から高く評価されていたことを示している。この時点をもって、彼のキャリアは「戦働き」で功を立てる武人から、幕府の統治機構を支える「行政官」へと、その軸足を大きく移したのである。
代 |
藩主 |
在任期間 |
石高 |
備考 |
初代 |
堀 利重 |
1622年 - 1638年 |
10,000石 → 14,000石 |
大坂の陣の功で立藩。幕府要職を歴任し加増 2 。 |
二代 |
堀 利長 |
1638年 - 1658年 |
12,000石 |
家督相続時に弟・利直へ2,000石を分与 7 。 |
三代 |
堀 通周 |
1658年 - 1679年 |
12,000石 |
利長の婿養子。家臣殺害により改易、廃藩 7 。 |
常陸玉取藩主として大名に復帰した堀利重は、その行政手腕と実直な人柄を将軍・秀忠に高く評価され、幕府の中枢で重要な役職を次々と歴任していく。
寛永3年(1626年)、利重は将軍の親衛隊長の一つである書院番頭に再任される 7 。さらに寛永5年(1628年)には、江戸城の警備を担う大番の長である大番頭に就任した 2 。そしてその後、寺社奉行の職も務めている 1 。これらの役職は、いずれも将軍への忠誠心が篤く、信頼の置ける譜代大名や上級旗本が任命される幕府の要職であり、利重が幕政において確固たる地位を築いたことを示している。
こうした幕府への忠実な奉公は、着実な評価となって利重に返ってきた。寛永10年(1633年)、彼はこれまでの功績を認められ、近江国浅井郡、安房国長狭郡、上総国望陀郡の三国内において、新たに4,000石を加増された 2 。これにより、玉取藩の総石高は1万4,000石となり、藩の基盤はより強固なものとなった。
特に、彼が務めた寺社奉行は、寛永12年(1635年)に老中から独立した職制として確立されたばかりの重要な役職であった。利重はその初期の奉行の一人として、幕府による全国の寺社統制政策の一翼を担ったと考えられる。彼の在任期間は、幕府が紫衣事件などを通じて朝廷や寺社勢力への統制を強化し、寺院法度を制定して宗教界を幕藩体制下に組み込んでいく重要な時期と重なる。利重がこの政策にどのように関与したかを示す具体的な記録は乏しいが 2 、彼が創設した玉取藩の領内にある一ノ矢八坂神社が、後の二代目藩主・利長や三代目・通周の代に手厚く保護され、社殿の造営が行われていることから 7 、利重自身も領内の寺社に対しては適切な管理を行っていたことが窺える。
彼のキャリアは、戦場での武功によって身を立てる戦国武将の姿から、法と秩序に基づいて国家の安定に貢献する近世官僚の姿へと、見事な昇華を遂げたのである。
幕府の要職を歴任し、将軍家からの厚い信任を得ていた堀利重は、その晩年、大名としての重責を象徴するような最後の公務を命じられる。
寛永15年(1638年)、出雲松江藩主であった京極家が跡継ぎの問題で改易されると、利重は幕府の上使として、松江城を接収し管理する「城請取役」に任命された 2 。これは、幕府の権威を代行して大大名の城を受け取るという極めて重要な任務であり、利重がいかに幕府から信頼されていたかを示すものであった。
利重はこの大役を滞りなく果たし、松江から江戸への帰路についた。しかし、その道中の同年4月24日、大坂の地で病に倒れ、客死した 1 。享年58。一度は改易の憂き目に遭いながらも、不屈の精神で大名へと返り咲き、幕府の重臣として生涯を全うした、波乱に満ちた人生の幕引きであった。
彼の亡骸は、紀伊国(和歌山県)の高野山に葬られた 2 。高野山は弘法大師空海の聖地であり、戦国時代から江戸時代にかけて多くの武将が菩提を弔うために墓所や供養塔を建立した場所である 33 。利重もまた、数多の武将たちと共に、この聖地で永遠の眠りについた。その戒名は「立芳院殿桂峯貞山大居士」あるいは「桂峯貞山立芳院」と伝えられている 2 。
堀利重の生涯を俯瞰するとき、我々は一人の武士の数奇な運命の中に、徳川幕藩体制という新たな時代を生き抜くための要諦を見出すことができる。
彼は、兄・秀政のような天才的な「名人」ではなかったかもしれない。しかし、主君への揺るぎない忠誠心、逆境に屈しない不屈の精神力、そして好機を的確に捉えて行動に移す戦略的思考を兼ね備えた、極めて有能で実直な武士であった。彼の人生は、派手な武勇伝によってではなく、むしろ地道で堅実な奉公と、絶体絶命の危機を乗り越える胆力によって道を切り開いていく、近世武士の一つの理想像を提示している。
利重の生涯は、徳川幕府初期において大名や旗本がその家を存続させるために何が必要であったかを雄弁に物語っている。それは、第一に主君、特に将軍個人との固い信頼関係の構築。第二に、大久保忠隣との縁戚関係が失脚の原因となった一方で、奥平・松平家との関係が再起の足掛かりとなったように、時流に応じた政治的人脈の形成。第三に、大坂の陣で見せたような、決定的な場面で結果を出す武功。そして第四に、大名復帰後に発揮された、幕府官僚として政務をこなす実務能力。これら複数の要素を、状況に応じて的確に使い分ける総合的な能力こそが、近世武家社会における生存の鍵であった。
しかし、利重が一代で築き上げた栄光は、盤石な未来を約束するものではなかった。彼の跡を継いだ長男・利長は、家督相続の際に弟の利直へ2,000石を分与したため、玉取藩は1万2,000石となった 7 。そして、三代目の藩主となった婿養子の通周が、延宝7年(1679年)に「狂気」して家臣を殺害するという事件を起こし、玉取藩は幕命により改易、廃藩となったのである 7 。
堀利重が不屈の精神で再興した大名家は、わずか三代、約57年で潰えることとなった。この結末は、一度は危機を乗り越え盤石に見えた大名家でさえ、当主一個人の資質や行動一つで容易に取り潰されるという、江戸時代の武家社会の非情な現実をも示している。堀利重の劇的な成功と、その孫のあっけない失敗は、近世武家社会の光と影を映し出す、好対照な歴史の断章として、我々に多くのことを示唆している。