最終更新日 2025-07-24

堀忠俊

堀忠俊は越後福嶋45万石の藩主。家老間の対立「越後福嶋騒動」で改易され、26歳で配流先で死去。徳川幕府による外様大名淘汰の象徴。

堀忠俊と越後福嶋騒動の全貌 ― 徳川幕府確立期における外様大名の悲劇

はじめに

本報告書は、江戸時代初期の大名、堀忠俊(ほり ただとし)の生涯と、彼が藩主であった越後福嶋藩45万石の改易事件、通称「越後福嶋騒動」の全貌を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。慶長元年(1596年)に生まれ、元和7年(1622年)に26歳の若さでその生涯を閉じた堀忠俊 1 。彼の悲劇は、単なる一個人の運命や一家の内紛に留まるものではない。それは、豊臣政権から徳川幕府へと時代が大きく転換する中で、徳川家による全国支配体制の確立と、それに伴う豊臣恩顧の外様大名の淘汰という、時代の大きな政治的潮流を象徴する事件であった。

報告書は、まず堀氏の越後統治の背景、すなわち父・堀秀治の時代から説き起こし、その統治が内包していた構造的な課題を明らかにする。次いで、若き忠俊の家督相続と、彼を取り巻く政治状況、そして悲劇の直接的な引き金となった重臣間の対立について詳述する。さらに、騒動が徳川家康による裁定に至る経緯と、その背景にある幕府の政治的意図を深く分析し、最終的に改易処分を受けた忠俊および関係者たちのその後の運命を追う。この一連の分析を通じて、堀忠俊という一人の大名の悲劇を、徳川幕府確立期という大きな歴史的文脈の中に位置づけ、その歴史的意義を考察する。

第一章:堀氏の越後入封と統治の基盤

第一節:父・堀秀治の時代 ― 豊臣政権下での栄達と越後統治の挑戦

堀忠俊の父、堀秀治は、織田信長、豊臣秀吉に仕え「名人久太郎」と称された名将・堀秀政の嫡男である 3 。秀政が天正18年(1590年)の小田原征伐の陣中で急死すると、秀治はわずか12歳で家督を継いだ 4 。その後、秀吉の庇護のもとで成長し、慶長3年(1598年)、豊臣政権による全国大名配置の一環として、上杉景勝が会津120万石へ移封されたことに伴い、その後釜として越後春日山に入り、45万石(資料により約30万石とも)を領する大名となった 4 。これは、秀吉が北国の要衝を信頼する大名に委ねたことを示しており、堀家は豊臣政権下で確固たる地位を築いていた。

越後に入部した秀治は、中世以来の名城である春日山城の改修を行うとともに、慶長5年(1600年)には平野部の福島(現在の新潟県上越市直江津地区)に新たな城を築き、政治と経済の拠点とする計画に着手するなど、近世大名としての領国経営に意欲を見せた 4

しかし、その統治は初めから多くの困難に直面した。最大の課題は、前領主である上杉氏が残した「負の遺産」であった。上杉景勝は会津へ移る際、越後国内の年貢米をことごとく持ち去ったとされる 7 。さらに深刻だったのは、人的資源の流出である。当時の越後では兵農分離が完全には進んでおらず、上杉氏は武士身分とされた多くの在地領主や下級武士層を会津へ連れて行った。彼らは同時に耕作者でもあったため、彼らの退去は越後における耕作者人口の激減を意味し、領内には未耕作地が激増した 8 。これにより、堀家の財政は入封初年度から深刻な苦境に陥り、領国経営は極めて不安定なスタートを切らざるを得なかったのである。

第二節:名家老・堀直政の役割 ― 幼君を支えた「天下の三陪臣」

こうした困難な状況下で、若き藩主・秀治を支え、実質的に堀家の政務を取り仕切ったのが、家老の堀直政であった。直政は秀政の従兄弟にあたり、奥田氏の出身だが、秀政に仕えて堀姓を与えられた人物である 9 。その卓越した政治手腕と忠誠心は豊臣秀吉にも高く評価され、直江兼続、小早川隆景と並んで「天下の三陪臣」の一人に数えられるほどであった 2

彼の政治手腕が遺憾なく発揮されたのは、秀政の死後、秀治の家督相続が危ぶまれた時である。秀吉が秀治の幼少を理由に跡目相続を渋った際、直政は当時13歳の次男・直寄を使者として送り、「亡き主君の功績に報い、嫡子に家督を継がせるべきである。もしそれが叶わぬなら、それは使者である私の罪である」と堂々と訴えさせ、見事に相続を認めさせた 10 。越後入封後も、彼は執政として領国経営の全般を指揮し、不安定な堀家の統治を支える最大の柱として機能した 11

第三節:新領国における課題 ― 上杉遺民一揆と検地の断行

堀氏の統治に対する領内の不満は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際して爆発する。西軍に与した上杉景勝が、旧領回復を狙って越後の旧臣や在地勢力を扇動し、大規模な反乱、すなわち「上杉遺民一揆」を引き起こしたのである 2 。この一揆は、会津からの上杉軍の侵攻と連動し、越後国内の堀氏の諸城を次々と攻撃、下倉城では城主の小倉政熙が討死するなど、堀家の支配を根底から揺るがす事態となった 12

この危機に際し、目覚ましい武功を挙げたのが、堀直政の次男・堀直寄であった。彼は巧みな戦術で一揆勢を撃破し、陥落した下倉城を奪還するなど、鎮圧の立役者となった 12 。この功績により、直寄は徳川家康・秀忠父子から直接感状を与えられ、その武名と政治的評価を大いに高めた 2

一方で、堀氏は財政基盤の再建と領内支配の強化を目指し、従来の上杉氏による検地方式を否定し、より厳格な太閤検地方式による総検地を断行した 5 。これは近世的な支配体制(幕藩体制)の基礎を確立する上で不可欠な政策であったが、兵農未分離の状態にあった在地勢力の既得権益を脅かすものであり、彼らの不満をさらに増大させる要因ともなった 8

このように、堀氏の越後統治は、発足当初から構造的な脆弱性をいくつも抱えていた。上杉氏が残した経済的・人的な打撃、旧領主を慕う領民の心理的な抵抗、そして大規模な一揆の勃発は、堀氏の支配基盤が盤石ではなかったことを物語っている。さらに、一揆鎮圧の過程で、藩主である秀治を介さず、家臣の直寄が徳川家康から直接恩賞を受けるという事態が生じた。これは、堀家内部の権力バランスを複雑化させ、主家の権威を相対的に低下させる遠因となった。これらの要因が複合的に絡み合い、後の御家騒動で幕府が容易に介入できる土壌が形成されていったのである。

第二章:若き藩主・堀忠俊の治世と徳川政権

第一節:家督相続と幕府への接近 ― 松平姓下賜と国姫との婚姻

慶長11年(1606年)5月、父・堀秀治が31歳という若さで急死する 4 。これを受け、慶長元年(1596年)生まれの嫡男・忠俊が、わずか11歳(満10歳)で45万石の家督を相続した 1

幼い藩主を後見したのは、引き続き名家老の堀直政であった。関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握した徳川家に対し、豊臣恩顧の大名であった堀家が生き残りを図るためには、新政権への恭順と関係強化が急務であった。直政の老練な政治手腕により、堀家は徳川家への接近策を次々と実行に移す。まず、忠俊は二代将軍・徳川秀忠から偏諱(名前の一字)である「忠」の字と、松平の姓を賜ることを許され、「松平忠俊」と名乗った 1 。これは、徳川一門に準ずる待遇を受けることを意味し、堀家が徳川の治世下で忠誠を誓うことを内外に明確に示す、極めて重要な政治的ジェスチャーであった。

さらに、徳川家との結びつきをより強固なものにするため、婚姻政策が推進された。姫路藩主・本多忠政の娘であった国姫を、大御所・徳川家康の養女という形で迎え、忠俊の正室としたのである 9 。これにより、堀家は将軍家(秀忠からの偏諱)と大御所家(家康の養女)という、徳川家との二重の縁戚関係を築き、藩の安泰を盤石にしようと図った。

第二節:新時代の城・福島城への移転とその意義

家督相続の翌年、慶長12年(1607年)、忠俊は父・秀治の計画を引き継ぎ、本拠を移転する。戦国時代の要塞であり、上杉謙信以来の拠点であった春日山城は、防御には優れるものの、山城であるため政治や経済の中心としては不便であった 4 。そこで、春日山城を廃し、日本海に面した港町・直江津の地に新たに築かれた平城である福島城へと居城を移した 5 。これにより、堀家の治める藩は「越後福嶋藩」と呼ばれることになる。

この居城移転は、単なる引っ越し以上の意味を持っていた。それは、戦国の防衛思想に基づく山城から、領国経済の発展と統治の効率化を重視した近世的な平城への転換を象eggi、堀家が新たな時代の支配者として国づくりを進める意志の表れであった 4 。港に近い立地は、日本海水運を活用した商業の振興を念頭に置いたものであり、まさに近世大名としての新たな一歩を踏み出す象徴的な事業であった。

しかし、この福島城は関川と保倉川の河口近くに位置したため、たびたび水害に悩まされたと伝えられている 23 。皮肉にも、堀氏の治世は、この新時代の城がその構想通りの機能を十分に発揮する前に、突如として終焉を迎えることになるのである。

これら一連の徳川政権への巧みな接近策は、すべて家老・堀直政という経験豊富な政治家の主導によるものであった 2 。彼の存在こそが、幼い忠俊を戴く堀家の安定を支える最後の砦であった。しかし、その最大の功労者である直政が慶長13年(1608年)に死去すると、堀家を支えていた重しは完全に外れてしまう 2 。この権力の空白は、それまで水面下で燻っていた対立を一気に表面化させ、堀家を破滅へと導く悲劇の序曲となったのである。

第三章:越後福嶋騒動 ― 悲劇への序曲

第一節:権力の空白と対立の萌芽 ― 堀直政の死

慶長13年(1608年)2月、堀家を実質的に支えてきた大黒柱、堀直政がこの世を去った 2 。彼の死後、藩政の実権は、直政の嫡男で三条城主であった堀直清が継承した 25 。しかし、この家老職の世襲に対し、直政の次男(異母弟)で坂戸藩主であった堀直寄が強く反発し、両者の間に深刻な対立が生じた 27

対立の直接的な原因は、藩の主導権争いであったが、その根はより深いところにあった。一説には、父・直政の遺産相続を巡る不満が兄弟間の確執を生んだとも言われている 27 。また、両者の経歴と立場、そして性格の違いが、対立を抜き差しならないものにした。

第二節:堀直清と堀直寄 ― 骨肉の争いの深層

対立した両者は、同じ堀一門でありながら、その経歴と気質において対照的であった。

堀直清 は、直政の長男として生まれ、父の名代として三条城を守り、家老職を継ぐことを当然視していた人物である 26 。彼はあくまで堀本家の家臣という立場にあり、幼い藩主・忠俊の後見役として、父から受け継いだ権力を維持し、藩政を主導しようとした。しかし、その手法は強引であり、弟・直寄や周囲への政治的配慮を欠いていた面がうかがえる。

一方の 堀直寄 は、単なる家老の子ではなかった。彼は若くして豊臣秀吉に見出され、その小姓として仕えた経験を持つ 11 。秀吉から直接、越後坂戸に2万石を与えられ、独立した大名としての地位を確立していた 12 。さらに、関ヶ原の戦いにおける上杉遺民一揆の鎮圧では、抜群の武功を挙げて家康からも高く評価されていた 12 。彼は中央政権との直接的なパイプを持ち、高い自負心と優れた政治的嗅覚を兼ね備えた、野心的な人物であった。関ヶ原の合戦前、堀家の一族会議において、豊臣家への恩義を理由に西軍への参加を主張したという逸話も伝わっており 12 、彼の複雑な政治的立ち位置を物語っている。

このような実績と自負を持つ直寄にとって、兄・直清が藩政を専横することは到底容認できるものではなかった。両者の争いは、単なる兄弟喧嘩ではなく、堀家における二つの異なる権力基盤の衝突であった。

第三節:騒動の激化と幕府への訴え ― 内紛から政治問題へ

慶長15年(1610年)2月、対立はついに臨界点に達する。兄・直清は、藩主・忠俊に讒言し、直寄を藩から追放するという強硬手段に打って出た 9

これに対し、追放された直寄は驚くべき行動に出る。彼は藩内の論理で争うことを放棄し、同月24日、駿府に隠居していた天下の大御所・徳川家康に直接、事の次第を訴え出たのである 9 。訴えの内容は、直清による権力の私物化と専横、そしてそれを制止できない藩主・忠俊の統治能力の欠如を告発するものであった。

この直訴という行為は、堀家の内紛を、徳川幕府の公式な裁定を仰ぐ政治問題へと発展させた。それは、堀家が自らの運命を決する能力を放棄し、そのすべてを幕府の権威に委ねることを意味した。

直寄のこの行動は、単なる窮余の策ではなかった。それは、堀家という枠組みを見限り、自らの生き残りを賭けた極めて戦略的な一手であったと考えられる。彼は秀吉や家康といった中央権力者との直接交渉の経験から、徳川政権の本質を深く理解していた 12 。もはや幼君を戴く堀家の中では自らの野心と安全は保障されないと判断し、この内紛を幕府という公の場に持ち込むことで、正当性を認められた自分が生き残る道を選んだのである。藩主を飛び越えて最高権力者に直訴することは、主家に対する半ば裏切りとも言える行為だが、彼はあえてその道を選んだ。結果的に、彼のこの決断は主家を破滅に導く引き金となったが、同時に彼自身の新たなキャリアの輝かしい出発点ともなったのである。

第四章:「大国を支配する器量無し」― 改易の裁定とその背景

第一節:駿府での対決 ― 家康の面前での論戦とその結末

堀直寄からの直訴を受け、大御所・徳川家康は迅速に動いた。慶長15年(1610年)閏2月2日、堀忠俊、堀直清、堀直寄ら堀一族は駿府城に召喚された。そこは将軍・徳川秀忠をはじめ、本多正信ら幕府の首脳陣が陪席する、極めて公式な裁きの場であった 9

家康は当事者たちに論戦を行わせ、双方の言い分を吟味した。この過程で、直清の藩政における重大な越権行為が白日の下に晒される。それは、彼が幕府の許可を得ることなく、領内の浄土宗と日蓮宗の僧侶を集めて宗論(宗教討論会)を主催し、あろうことか敗れた浄土宗の僧侶十名を死罪に処していたという事件であった 13 。これを知った家康は、「その宗論は誰が免許したのか。誰が勝敗を評決したのか。汝(直清)ごときの愚かな考えで宗論を裁き、僧侶を私的に罰するとは、驕りも甚だしい。この一事をもって、その他の邪な行いも知るべし」と厳しく叱責した 25 。宗教勢力の統制は、天下人の専権事項であり、一介の家老によるこの行いは、幕府の権威に対する明白な挑戦と見なされた。この一件で、直清の政治的立場は決定的に不利となった。

第二節:忠俊の弁明と家康の怒り ― 裁定の決定的要因

論戦が直清に不利に進む中、15歳の若き藩主・堀忠俊は、致命的な過ちを犯す。彼は家老である直清を庇い、その行いを弁護する内容の弁明書を家康に提出してしまったのである 25

この行動が、家康の逆鱗に触れた。家康は「忠俊はまだ幼い身であり、どうしてこのようなことを弁えることができようか。これは全て監物(直清)が私利私欲のために書かせたものに違いない」と断じ 25 、さらにこう続けた。「忠俊は幼弱にして、讒言を弄する家臣に惑わされ、物事の善悪(邪正)を判断することもできずに、悪しき者を助けようとしている。このような者に大国を治めさせる器量はない」 9

忠俊の行動は、家康の目には、家臣の不正を正すこともできず、幕府に対して誰が正しく誰が邪かという判断さえ示せない、未熟で頼りない君主と映った。独立した大名として家臣団を統率し、幕府に対して絶対的な忠誠を示すという、近世大名に求められる最も重要な資質が欠けていると判断された瞬間であった。

この一言で、堀家の運命は決した。同日、家康は裁定を下す。

  • 堀忠俊 :越後福嶋藩45万石を 改易 (所領全没収) 9
  • 堀直清 :同様に 改易 9
  • 堀直寄 :勝訴したとはいえ、主家を騒動に陥れた責任を問われ、1万石を 減封 の上、信濃飯山4万石へ 転封 9

第三節:改易の政治的意図 ― 豊臣恩顧大名淘汰策と松平忠輝の入封

この厳しい裁定の裏には、家康の冷徹な政治計算があった。堀家の内紛は、幕府にとって、豊臣恩顧の有力外様大名を合法的に排除し、徳川の支配体制を磐石にするための、またとない好機だったのである 9

その証拠に、幕府の対応は驚くほど迅速であった。堀家の改易が決定したわずか翌日の閏2月3日、家康は自らの六男である松平忠輝を、信濃川中島から越後へと移封。堀家の旧領にさらに所領を加え、実に75万石という破格の石高を与えて、福島城に入封させた 24

これは、日本海側の戦略的要衝である越後国を、豊臣恩顧の大名の手から徳川一門の親藩の支配下へと移管し、北国に対する幕府の支配権を完全に確立するための、極めて計画的な措置であった。家康は、直清の越権行為と忠俊の統治能力の欠如を罪状として公に掲げることで、改易の法的な正当性を確保した。同時に、訴え出た直寄をも減封処分とすることで、お家騒動は当事者双方に責任があるという公平性を示し、他の大名への強力な見せしめとした。そして最終的に、あたかも騒動の事後処理であるかのように装いながら、「越後の徳川親藩化」という最大の戦略目標を、迅速かつ円滑に達成したのである。堀忠俊の悲劇は、まさに徳川による天下平定の総仕上げという、巨大な政治的歯車の一環に組み込まれていた。

第五章:改易後の堀忠俊とその一族

第一節:配流先での短い生涯 ― 磐城平藩主・鳥居忠政への預かり

45万石の大名の座を追われ、改易の身となった堀忠俊は、陸奥磐城平藩(現在の福島県いわき市)の藩主・鳥居忠政のもとへ預けられることとなった 1 。預かり先となった鳥居忠政は、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで、家康のために壮絶な討死を遂げた忠臣・鳥居元忠の嫡男である 33 。徳川家への忠誠心が極めて高い譜代の重臣に預けられたことは、忠俊が厳重な監視下に置かれたことを意味していた。

配流先での忠俊の生活は、一切の政治活動を禁じられ、ただ静かに時を過ごすだけの毎日であったと伝えられる。その無聊を慰めたのは、茶の湯のみであったという 9 。かつて越後45万石を領した大名の面影はなく、失意の日々を送っていたことがうかがえる。

そして、元和7年12月22日(西暦1622年。元和7年2月2日没とする資料もある 2 )、忠俊は配流先の磐城平でその短い生涯を閉じた。享年26 1 。死因についての具体的な記録はないが、若くして大名の座を追われた失意と無念の中での病死であったと推測される。

彼の墓所は、福島県いわき市平字胡摩沢にある曹洞宗の寺院、淵室山長源寺に現存しており、現在では市の史跡として指定され、その悲劇的な生涯を静かに今に伝えている 2

第二節:一族のその後 ― 忠俊の子孫、そして騒動関係者たちの道

越後福嶋騒動は、堀家嫡流の断絶という悲劇的な結末を迎えたが、関わった人物たちはそれぞれ異なる道を歩むことになった。その対照的な運命は、徳川の世を生き抜くための処世術のあり方を浮き彫りにしている。

表1:越後福嶋騒動の主要人物とその後の動向

人物

騒動における立場

幕府による処遇

その後の経歴・末路

典拠

堀 忠俊

越後福嶋藩主

改易(所領没収)

陸奥磐城平藩・鳥居忠政預かりとなり、26歳で死去。

2

堀 直清

筆頭家老(忠俊派)

改易(所領没収)

出羽山形藩・最上義光預かりとなり、配流先で死去。

2

堀 直寄

坂戸藩主(反直清派)

減転封 (1万石減封の上、信濃飯山藩へ)

のち越後長岡藩、村上藩主として成功。子孫は明治まで存続。

9

国姫

忠俊正室

離縁

のち日向延岡藩主・有馬直純に再嫁。

21

堀 秀俊

忠俊嫡男

-

加賀藩前田家に仕官し、家名を存続させる。

20

松平 忠輝

徳川家康六男

堀氏旧領へ 加増入封

越後福嶋(高田)藩75万石の藩主となる。

25

  • 国姫(正室) :忠俊の改易に伴って離縁させられた彼女は、その後、日向延岡藩主の有馬直純に再嫁した 21 。彼女の人生は、自らの意思とは無関係に、有力大名間の政略の駒として翻弄された、戦国から江戸初期にかけての大名家の姫君の典型例であった。
  • 堀秀俊(嫡男) :父・忠俊の改易後、その嫡男である秀俊は、加賀百万石の前田家に仕官することが許され、武士として家名を後世に伝えた 20 。大大名の家臣として再仕官の道が開かれた背景には、彼の母方の祖父が徳川家康の養女(国姫)の父であったという縁故に基づき、幕府から温情措置が図られた可能性が考えられる。
  • 堀直清(家老) :忠俊と共に改易され、出羽山形藩主・最上義光預かりの身となった。寛永18年(1641年)、配流先でその生涯を終えている 2 。しかし、彼の子孫たちは、叔父にあたる直寄や、縁戚関係にあった新発田藩の溝口家に仕えるなどして、武士としての家を存続させた 26
  • 堀直寄(騒動の勝者) :主家を破滅に導く引き金を引いた直寄であったが、彼自身のその後の人生は栄光に満ちていた。信濃飯山4万石への減転封からスタートし、大坂の陣での軍功などが認められて加増を重ね、最終的には越後長岡藩8万石、そして村上藩10万石の大名へと出世を遂げた 12 。彼は長岡や村上の城下町整備、新潟港の発展の基礎を築くなど、優れた行政手腕を発揮した名君として評価されている。彼の家系(次男・直時の村松藩)と、弟・直之の家系(椎谷藩)は、大名として明治維新まで存続し、一族の血脈を後世に伝えた 20

この騒動の結末は、近世初期という新しい時代において、大名の存亡を分ける要因が何であったかを明確に示している。藩主・忠俊は「統治能力なし」と断じられて没落し、彼を支えた直清も政治的配慮の欠如から共に改易された。一方で、政治的嗅覚に優れ、時代の流れを読んで幕府中央に直結した直寄は、主家を犠牲にしながらも自らは時代の成功者となった。この対照的な結末は、戦国時代の武勇伝が過去のものとなり、徳川の秩序の中でいかに巧みに立ち回り、統治者としての能力を示すかが問われる時代になったことを物語っている。直寄の成功は、まさに新時代の「処世術」の勝利であった。

結論

堀忠俊の短い生涯と、彼が率いた越後福嶋藩の改易は、単に若き藩主の未熟さや家臣団の内紛のみに起因するものではない。それは、父祖の代から受け継いだ豊臣恩顧という出自、上杉氏退去後の不安定な領国経営という構造的課題、そして家臣団の致命的な内紛という複数の脆弱性が重なったところに、徳川幕府による全国支配体制確立という強大な政治的意図が働き、必然的にもたらされた悲劇であった。

この「越後福嶋騒動」は、歴史的に重要な意味を持つ。それは、徳川家康がいかにして豊臣恩顧の有力大名を巧みに淘汰し、自らの親藩を戦略的要衝に配置していったかを示す、典型的な事例である。「家中取締不十分」や「藩主の器量なし」という理由を掲げた改易は、もはや戦場での武勇ではなく、領国を安定させる統治能力と幕府への絶対的な忠誠こそが大名に求められる資質であるという、新たな時代の価値基準を天下に示した。

「大国を支配する器量無し」と家康に断じられた堀忠俊。しかし、11歳で家督を継ぎ、複雑な領国の課題と家臣団の対立に直面し、わずか15歳で老練な天下人・家康の前に引き出された彼の立場を鑑みれば、その評価はあまりにも酷であると言わざるを得ない。彼は、自らの力ではどうすることもできない、時代の大きな転換点における巨大な政治力学に飲み込まれた犠牲者であった。その悲運の生涯は、近世初期における大名のあり方の厳しさと、歴史の非情さを、後世の我々に静かに伝えている。

引用文献

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  29. 堀直寄(ほり なおより)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84-1108505
  30. 幕府の大名統制「改易と転封」(1) - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/239585698/
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  33. 鳥居元忠は何をした人?「関ヶ原前夜、三河武士の意地を抱いて伏見城に散った」ハナシ https://busho.fun/person/mototada-torii
  34. これぞ武士道!鳥居元忠を討った雑賀重次と元忠遺児・鳥居忠政の感動的な交流【どうする家康 外伝】 https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/ieyasu/77822/
  35. 直勝と直孝、別離|井伊直虎を彩る強い女人達。(12) - 幻冬舎ルネッサンス運営 読むCafe http://www.yomucafe.gentosha-book.com/naotora-and-woman12/
  36. 堀忠俊とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A0%80%E5%BF%A0%E4%BF%8A
  37. 堀忠俊墓所|いわきデジタルミュージアム https://iwaki-museum.com/point/detail/199/
  38. 堀忠俊墓所 - いわきデジタルミュージアム https://iwaki-museum.com/gallery/detail/253/
  39. 栄寿院 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E5%AF%BF%E9%99%A2
  40. 堀秀政 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
  41. F526 本多忠勝 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/f526.html
  42. 堀直寄の紹介 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/hori/b-hori-yori.html
  43. 【新潟】長岡の原点はここ!『蔵王堂城跡』は堀直寄が作った拠点! https://traveler-cipher.hatenablog.com/entry/2024/08/20/114149
  44. ③堀直竒「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」 - 城下町・村上 | 村上市観光協会 -鮭・酒・人情 むらかみ- https://www.sake3.com/jyoukamachi/134
  45. 堀直次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E6%AC%A1