堀田盛重は豊臣秀吉の黄母衣衆。関ヶ原で家康に密告後西軍に参加し、戦後所領安堵。大坂の陣では豊臣方に殉じた。その複雑な行動は忠誠と処世の狭間での苦悩を示し、一族は徳川家で存続した。
豊臣秀頼に殉じ、燃え盛る大坂城でその生涯を閉じた忠臣、堀田盛重。彼の最期は、豊臣家譜代の武将としての忠義を全うした壮絶なものであった 1 。しかし、その生涯を紐解くと、単純な忠義の物語では片付けられない、深い謎と複雑な人間像が浮かび上がってくる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前、彼は石田三成の挙兵計画を徳川家康に密告するという、驚くべき行動に出ていたのである 1 。
「家康への密告」と「秀頼への殉死」。この一見して矛盾する二つの行動は、堀田盛重という人物を理解する上での最大の鍵となる。彼は単なる忠臣だったのか、それとも時勢を読んだ現実主義者だったのか。その行動の背後には、どのような思惑と葛藤が隠されていたのだろうか。
本報告書は、散逸した史料を丹念に繋ぎ合わせ、堀田盛重の出自から、豊臣政権下での役割、関ヶ原の動乱における不可解な行動の背景、そして大坂の陣での最期に至るまでの全貌を網羅的に解明することを目的とする。彼が下した一連の決断の背後にある論理と心情を再構築することで、「豊臣譜代の忠臣」という一面的な評価では捉えきれない、激動の時代を生きた一人の武将の実像に迫るものである。
堀田盛重の人物像を探る上で、まず彼が属した堀田一族の背景を理解する必要がある。堀田氏は、尾張国愛知郡津島(現在の愛知県津島市)を本拠地とした豪族であった 3 。津島は、広範な信仰圏を持つ津島牛頭天王社(現在の津島神社)の門前町として、また木曽川河口の港町として栄えた経済的要衝であった 4 。
堀田一族は、この津島神社と深い関わりを持ち、神官や商家として発展した歴史を持つ 5 。戦国時代に入り、織田信長が尾張で台頭すると、一族の一部は武士として歴史の表舞台に登場し、信長、そして豊臣秀吉の全国制覇と共にその地位を確立していった 5 。堀田氏の多くが用いた家紋「堀田木瓜」は、この一族の象徴として知られている 5 。この尾張津島という地理的・経済的背景は、後の盛重が織田・豊臣政権下で重用される土台となった可能性が高い。
一族の背景は明確である一方、堀田盛重個人の直接的な出自、すなわち系譜については、驚くほど不明瞭である 1 。これは、彼の生涯が持つ複雑さを象徴する最初の謎と言える。史料には複数の説が存在し、その関係性は錯綜している。
主要な説として、堀田正貞の子とするものがある 1 。しかし、江戸幕府が編纂した公式系図集である『寛政重修諸家譜』において、正貞の子として「正高(正宣)」という名は見られるものの、通称が「孫右衛門」とされており、通称「図書」として知られる盛重と同一人物と断定するには至らない 1 。
また、堀田正高の子とする説も存在する 1 。この場合、父とされる正高が『信長公記』に登場する堀田道空と同一人物である可能性が示唆されるが、この説に立つと、盛重自身は『寛政重修諸家譜』に記載がないことになってしまう 1 。さらに、『明智氏一族宮城家相伝系図書』では堀田道空(正元)が明智光秀の縁者として記されるなど、その系譜は混乱を極めている 1 。
なぜ、一万石の大名にまでなった盛重の出自はこれほどまでに曖昧なのか。これは単なる史料の散逸とは考えにくい。その背景には、彼の死後の堀田一族が置かれた政治的状況が大きく影響している。盛重が豊臣家に殉じた後、彼の一族、特に甥にあたるとされる堀田正吉やその子・正盛らは徳川家に仕え、旗本から老中を輩出するまでに栄達した 3 。徳川の世において、豊臣家に殉じた「逆臣」とも見なされかねない近親者の存在は、家の安泰と栄達にとって障害となりうる。そのため、幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』などにおいて、盛重の存在が意図的に曖昧にされたか、あるいは一族の系図から整理・改変された可能性が極めて高い。盛重の系譜の謎は、彼個人の問題ではなく、徳川の世を生き抜くための堀田家全体の処世術の結果と見るべきであろう。
出自の謎とは裏腹に、堀田盛重の豊臣政権下での経歴は輝かしいものであった。彼は早くから豊臣秀吉に仕え、その親衛隊とも言うべき馬廻衆の組頭を務めるなど、秀吉の側近として頭角を現した 1 。
特に注目すべきは、彼が秀吉子飼いの精鋭部隊「黄母衣衆(きほろしゅう)」の一員に選ばれていたことである 1 。母衣(ほろ)とは、武者が背中に背負う武具の一種で、流れ矢を防ぐ機能を持つが、戦場では極めて目立つため、これを着用することは武勇と名誉の証とされた 8 。黄母衣衆は、秀吉が自身の馬廻の中から特に信頼する者を選りすぐって編成したエリート部隊であり、盛重が秀吉からいかに厚い信任を得ていたかが窺える。この黄母衣衆には、後に関ヶ原や大坂の陣で盛重と運命を共にすることになる伊東長実(長次)や野々村雅春といった武将たちも名を連ねており、彼らの間には早くから強固な同僚意識が形成されていたと考えられる 10 。
盛重の信頼は、数々の戦役における武功によって裏付けられている。天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉本陣の馬廻600騎を率いて従軍した 1 。文禄元年(1593年)に始まった文禄の役では、渡海はしなかったものの、肥前名護屋城に三ノ丸御番衆として在陣し、兵站と防衛の重責を担った 1 。さらに文禄4年(1595年)、秀吉が草津へ湯治に赴いた際には、信濃松本の警護を任されるなど、軍事行動のみならず、平時における主君の警護という重要な任務も託されていた 1 。
これらの功績により、盛重は着実に知行を増やし、最終的には一万石を与えられ、大名としての地位を確立した 1 。これは、彼が単なる側近ではなく、豊臣政権を支える有力な軍事貴族の一員であったことを示している。
慶長3年(1598年)、太閤秀吉がこの世を去ると、豊臣政権は幼い秀頼を頂点とする新たな体制へと移行する。この重大な局面において、盛重は豊臣家の将来を託される中核的な役割を担うことになった。彼は、大坂城の常備兵力の中核として新設された「大坂七手組」の組頭の一人に任命されたのである 1 。
大坂七手組は、豊臣家の直参旗本の中でも特に武勇に優れ、忠誠心の厚い武将たちで構成された、いわば豊臣家の最後の守護者とも言うべき軍事組織であった。盛重がその一員、しかも筆頭格の一人と見なされていたことは、秀吉死後の豊臣家においても彼への信頼が揺るぎないものであったことを物語っている。この七手組頭という立場が、彼のその後の運命を大きく左右することになる。
秀吉の死は、彼一人のカリスマによって辛うじて抑えられていた豊臣政権内部の対立を一気に表面化させた。その最も深刻なものが、加藤清正や福島正則に代表される「武断派」と、石田三成を中心とする「文治派」の亀裂である 14 。この対立は、単なる個人的な感情のもつれではなく、朝鮮出兵における戦功評価や知行配分といった政策を巡る根深いものであった 14 。
武断派は、戦場で命を懸けて武功を立てることを第一とする武将たちであり、政務や兵站を担う文治派の吏僚たちを軽んじる傾向があった。一方、文治派は、豊臣政権の安定的な統治のためには、武功一辺倒ではなく、法と秩序に基づく行政が不可欠だと考えていた。堀田盛重は、その経歴(馬廻、黄母衣衆)から明らかに武断派に近い立場であり、石田三成ら文治派のやり方に強い反感を抱いていた可能性は高い。この対立構造こそが、関ヶ原における彼の不可解な行動を読み解くための前提となる。
慶長5年(1600年)6月16日、事態は大きく動く。会津の上杉景勝討伐のため大坂城を出陣する徳川家康に対し、堀田盛重は同僚の伊東長次と共に密かに接触し、石田三成らが家康不在の隙を突いて挙兵を計画していることを密告したのである 1 。これは、豊臣家臣による、豊臣家を二分する計画の漏洩であり、極めて重大な行動であった。
ところが、その直後に三成らが実際に挙兵し、関ヶ原の戦いの火蓋が切られると、盛重は西軍に属し、家康方の鳥居元忠が守る伏見城の攻撃に参加するという、先の行動とは全く矛盾する挙に出た 1 。密告者でありながら、西軍の武将として戦う。この「二重行動」こそが、堀田盛重の生涯における最大の謎である。
この一見矛盾した行動は、彼の忠誠の対象が誰であったかを慎重に分析することで、その内実が見えてくる。彼の行動は「豊臣家への裏切り」ではなく、あくまで「石田三成派への敵対行動」と解釈すべきである。
第一に、盛重は豊臣家の譜代家臣であり、その忠誠の根幹は主君である豊臣秀頼とその母・淀殿にあったと考えられる 1 。第二に、武断派に近い彼にとって、三成の主導する挙兵は、豊臣家の安泰のためではなく、三成自身の権力掌握のための私戦であり、むしろ豊臣家を危うくするものと映った可能性がある。
この二つの前提に立てば、彼の行動は一つの論理で貫かれていることがわかる。家康への密告は、三成の計画を事前に頓挫させ、豊臣政権の主導権を(家康を含む)五大老による合議制に戻そうとするための、極めて高度な政治的判断であった。しかし、三成の挙兵が現実のものとなると、西軍は名目上「豊臣軍」として組織された。豊臣家の譜代家臣であり、大坂七手組頭という公的な立場にある盛重にとって、この「豊臣軍」に参加することは、自らの身分と立場に課せられた義務であった。
つまり、彼の二重行動は、忠誠の対象を「豊臣家そのもの」と「石田三成派」とで明確に区別し、それぞれの局面で最善と信じる行動を取った結果なのである。それは、豊臣家の存続という大義と、反三成という個人的信条、そして譜代家臣としての公的立場との狭間で揺れ動いた、苦悩に満ちた選択であったと言えよう。
この分析を裏付ける強力な証拠が、関ヶ原の戦い後の盛重の処遇である。西軍の敗北後、多くの西軍参加大名は改易(領地没収)や減封(領地削減)という厳しい処分を受けた。しかし、盛重は西軍の武将として戦ったにもかかわらず、一万石の所領を安堵されるという、極めて異例の処遇を受けている 1 。これは、家康への密告が事実であり、その功が家康に高く評価されていたことの何よりの証明である。
共に密告した伊東長次も同様に所領を安堵され、大坂の陣の後には徳川家臣として召し出され、備中岡田藩主として家名を存続させている 10 。さらに決定的とも言えるのが、両家の間に結ばれた姻戚関係である。盛重の子である堀田盛正は、伊東長次の娘を妻に迎えている 1 。この密接な婚姻関係は、両家が関ヶ原の動乱において運命を共にする協力者であり、彼らの行動が単独のものではなく、一族の存続をかけた共同戦略であった可能性を強く示唆している。
関ヶ原の戦いで巧みな処世術を見せた堀田盛重であったが、彼の心は依然として豊臣家にあった。戦後も彼は徳川方に与することなく、豊臣家臣として大坂に留まり、大坂七手組頭としての務めを続けた 1 。その忠誠心を示す象徴的な出来事が、慶長14年(1609年)頃に行われた京都の豊国神社への石灯籠の寄進である 1 。豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社であり、徳川の世に移りゆく中で、盛重が公然と豊臣家への変わらぬ忠誠を示した行為であった。
そして慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が決定的に決裂し、大坂の陣が勃発すると、盛重は一切の迷いなく豊臣方として参陣した 1 。大坂冬の陣では、木村重成の指揮下に入り、鴫野・今福の戦いで徳川方と激しく戦った記録が残っている 22 。関ヶ原で見せた処世の顔は消え、そこには豊臣家の譜代家臣として、主家のために命を懸ける武将の姿があった。
慶長20年(1615年)5月7日、豊臣家の命運を懸けた最後の大規模な野戦、天王寺・岡山の戦いが繰り広げられた。堀田盛重も七手組を率いてこの決戦に参加したが、戦況は豊臣方にとって絶望的であった 2 。真田信繁(幸村)らの獅子奮迅の活躍も空しく、豊臣軍は総崩れとなり、将兵は敗走して大坂城内へと退却した。
しかし、彼らが戻った城は、既に裏切り者によって放火され、猛火と黒煙に包まれていた。『大坂御陣覚書』によれば、敗走してきた盛重は、同じく七手組頭の野々村雅春と共に本丸を目指したが、業火に阻まれてたどり着くことができなかった 1 。万策尽きた二人は、二の丸と本丸を隔てる石垣の上で、潔く自害して果てたという。時に慶長20年5月8日(西暦1615年6月4日)、豊臣家譜代の忠臣は、主君・秀頼に先立ち、その生涯に幕を下ろした 1 。
堀田盛重が選んだ「殉死」という道の意味は、同じく豊臣家の命運を左右する立場にあった他の大坂七手組頭たちの末路と比較することで、より鮮明になる。彼らは皆、「忠誠か、存続か」という究極の選択を迫られたが、その決断は一人ひとり異なっていた。
武将名 |
関ヶ原での行動 |
関ヶ原後の処遇 |
大坂の陣での行動 |
最終的な処遇 |
典拠 |
堀田盛重 |
家康へ密告後、西軍として伏見城攻撃に参加 |
所領安堵(1万石) |
豊臣方として参戦。天王寺・岡山の戦いで敗走後、自害。 |
殉死 |
1 |
伊東長次 |
盛重と共に家康へ密告後、西軍に参加 |
所領安堵(1万石) |
豊臣方として参戦するも、徳川方に内通。落城前に脱出。 |
徳川家臣となり岡田藩主として存続 |
10 |
速水守久 |
(西軍参加の記録不明確だが豊臣方) |
加増(1万→1万5千石) |
豊臣方として奮戦。秀頼の介錯を務めた後、殉死。 |
殉死 |
24 |
青木一重 |
(西軍参加の記録不明確だが豊臣方) |
所領安堵 |
和睦交渉に関与。徳川方に拘留され、参戦せず。 |
徳川家臣となり麻田藩主として存続 |
26 |
野々村雅春 |
(西軍参加の記録不明確だが豊臣方) |
所領安堵(3千石) |
豊臣方として参戦。盛重と共に自害。 |
殉死 |
12 |
この表が示すように、盛重の同僚たちの道は大きく分かれた。伊東長次や青木一重は、家康との繋がりを活かして徳川の世で家名を存続させた。一方で、速水守久や野々村雅春は、盛重と同様に豊臣家と運命を共にした。その中で、関ヶ原で「処世術」を見せながら、大坂では「殉死」を選んだ堀田盛重の生き様は、際立った複雑さと人間的な深みを持っている。彼は生き残る道を知りながら、最終的には武士としての忠義を選んだのである。
堀田盛重の生涯は、関ヶ原の戦いにおける巧みな「処世」と、大坂の陣における純粋な「忠誠」という、二つの異なる側面から成り立っている。彼は豊臣家の存続を第一に願い、そのための手段として反三成・親家康という政治的判断を下した。しかし、その豊臣家が滅亡の淵に立たされた時、彼は全ての処世術を捨て、主家と運命を共にする武士としての本分を選んだ。これは裏切りや矛盾ではなく、激動の時代を生きた豊臣譜代家臣としての、苦悩に満ちた一貫した論理に基づく行動であったと結論付けられる。
彼の死は無駄ではなかったのかもしれない。盛重の子・盛正は、関ヶ原の盟友であった伊東長次の娘を娶り、二人の間に生まれた子は長次の養子となってその血脈を後世に伝えた 1 。これは、滅びゆく豊臣家臣団の中で、姻戚関係という絆を通じて一族を生き残らせようとした、最後の処世術の証左と見ることができる。
しかし、その複雑な立ち位置と、徳川の世で栄達した同族の存在が、皮肉にも堀田盛重を歴史の表舞台から遠ざける結果となった。彼は単純な「忠臣」としても、分かりやすい「逆臣」としても語られにくく、その名は次第に歴史の記憶から薄れていった。
本報告書は、そうした政治的文脈によって埋もれていた一人の武将の生涯に、改めて光を当てる試みである。彼の選択が示した複雑さこそが、時代の転換期を生きた人間のリアルな姿であり、そこにこそ我々が学ぶべき歴史的価値が存在する。彼がどこに眠っているのか、その墓所の場所は定かではない。しかし、彼が若き日に忠誠を誓った主君・秀吉を祀る京都の豊国神社には、彼が寄進した石灯籠が今なお静かに佇んでいる 1 。その灯籠は、時代の波に翻弄されながらも、最後まで己の信義を貫いた一人の武将の存在を、四百年の時を超えて静かに我々に伝えている。