戦国乱世から江戸初期にかけての激動の時代、数多の武将が歴史の舞台でその名を刻みました。その中で、大名の家臣、すなわち「陪臣」という身分でありながら、主家を動かし、時には天下の趨勢にまで影響を及ぼした人物が存在します。堀直政(ほり なおまさ)はその筆頭に挙げられるべき人物です。彼はなぜ、陪臣でありながら、上杉景勝の家老・直江兼続や毛利輝元の重臣・小早川隆景と並び、「天下の三陪臣」の一人と称されるほどの評価を得たのでしょうか 1 。この問いこそが、本報告書の探求の中心にあります。
直政の生涯は、主君・堀秀政との特異な関係性から始まります。それは単なる主従を超え、血縁と幼少期からの絆に裏打ちされた「盟友」にも近いものでした。秀政の死後、直政は自らが堀家の「支柱」となり、その存亡の危機を幾度となく救います。しかし、彼が心血を注いで育て上げた息子たちの存在が、後に主家そのものを揺るがし、崩壊へと導くという、極めて皮肉な運命を辿ることになります 1 。この成功と悲劇が織りなすパラドックスこそ、堀直政という人物の複雑さと深淵を理解する上で不可欠な鍵です。
本報告書は、堀直政の出自から説き起こし、織田・豊臣の両政権下で積み上げた武功、主君亡き後の後見人として発揮した卓越した政治力、そして天下分け目の関ヶ原における冷静沈着な決断に至るまで、その生涯を時系列に沿って詳述します。さらに、彼の死後、堀家が辿る数奇な運命を分析することで、一人の傑出した「補佐役」が、いかにして主家を凌駕し、歴史に逆説的な足跡を残したのか、その実像に多角的に迫ることを目的とします。
表1:堀直政 生涯年表
年代(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
関連人物 |
天文16年(1547) |
1歳 |
尾張国奥田庄にて、奥田直純の子として生まれる 1 。 |
奥田直純 |
(時期不詳) |
幼少期 |
従兄弟の堀秀政と共に、共通の伯父(一向宗の僧)のもとで育つ 5 。 |
堀秀政 |
永禄11年頃(1568) |
22歳頃 |
堀秀政と共に織田信長に仕官したと推測される 5 。 |
織田信長 |
天正9年(1581) |
35歳 |
天正伊賀の乱「伊賀亀甲城攻め」で先登の功を挙げる 5 。 |
織田信長 |
天正10年(1582) |
36歳 |
本能寺の変後、山崎の戦いに従軍。明智秀満より名宝を託される逸話が残る 5 。 |
豊臣秀吉、明智秀満 |
天正11年(1583) |
37歳 |
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家の金の馬印を奪う武功を立てる 5 。 |
柴田勝家 |
天正12年(1584) |
38歳 |
小牧・長久手の戦いに従軍 5 。 |
徳川家康 |
天正13年(1585) |
39歳 |
豊臣秀吉より堀姓を賜る 1 。 |
豊臣秀吉 |
天正18年(1590) |
44歳 |
小田原征伐に従軍。主君・堀秀政が陣中で病死 11 。秀吉に直談判し、秀政の子・秀治の家督相続を認めさせる 5 。 |
堀秀治、豊臣秀吉 |
慶長3年(1598) |
52歳 |
堀家の越後移封に伴い、三条城主として5万石を領する 1 。 |
堀秀治、上杉景勝 |
慶長5年(1600) |
54歳 |
関ヶ原の戦い。東軍に与し、越後で発生した上杉遺民一揆を鎮圧する 1 。 |
徳川家康、直江兼続 |
慶長6年(1601) |
55歳 |
家康の命により、佐渡の一揆を鎮圧する 1 。 |
徳川家康 |
慶長11年(1606) |
60歳 |
主君・堀秀治が死去。その子・忠俊の後見役となる 14 。 |
堀忠俊 |
慶長13年(1608) |
62歳 |
2月26日、死去 10 。 |
|
慶長15年(1610) |
(死後) |
直政の息子、直清と直寄の対立(越後福嶋騒動)が原因で、主君・堀忠俊が改易される 15 。 |
堀直清、堀直寄 |
堀直政の人物像を理解する上で、その出自と、彼の生涯を決定づけた従兄弟・堀秀政との関係性の成立過程を深く掘り下げることは不可欠です。彼は「堀」一族の興隆に生涯を捧げましたが、その血筋は本来「奥田」にありました。
堀直政は、天文16年(1547年)、尾張国中島郡奥田庄の土豪であった奥田直純(おくだ なおずみ)の子として生を受けました 5 。当初の名は奥田三右衛門政次(または直政)といい、堀姓を名乗るのは後のことです 17 。
父である直純は、単なる地方の小領主ではありませんでした。「身の丈七尺(約210センチメートル)」と伝えられるほどの巨躯を誇る伝説的な猛将であり、その武勇は広く知られていました 17 。当初は美濃の斎藤義龍に仕え、弘治2年(1556年)の長良川の戦いでは、義龍の父・道三方の勇将として知られた道家孫次郎を討ち取るという大功を立て、その勇猛さから「悪七郎五郎」という異名を奉られたとされます 17 。義龍の死後は、時代の流れを読み、尾張から天下に覇を唱えつつあった織田信長に仕えました 17 。
直政の母は、堀利房の娘であり、後に直政の主君となる堀秀政の父・秀重の姉にあたります 1 。この血縁関係により、直政と秀政は従兄弟同士という極めて近しい間柄にありました。父から受け継いだ武勇の血と、母方を通じて結ばれた堀家との縁。この二つが、後の直政の運命を大きく左右することになります。
直政は、従兄弟である堀秀政よりも6歳年長でした 6 。しかし、二人の関係は年齢の上下によってではなく、幼少期に交わされたとされる一つの約束によって決定づけられました。伝承によれば、二人は幼い頃、共通の伯父であり一向宗の僧であった人物のもとで共に過ごしたといいます 5 。
この伯父が、戦国の世を生き抜く二人の少年に向かって、次のように諭したと伝えられています。「これより先に手柄を立てた方が主となり、もう一方はその家臣となって、共に力を合わせ堀の家名を興すように」 1 。その後、秀政が先に織田信長の小姓として取り立てられ、めきめきと頭角を現したため、直政は約束に従い、年下の従兄弟である秀政の家臣となった、という逸話です 5 。
この種の逸話は、加藤清正と福島正則の関係など、他の戦国武将にも見られる類型的な美談であり、後世の創作である可能性も指摘されています 5 。しかし、この逸話の史実性を問うこと以上に重要なのは、二人の間に、単なる主従関係を超えた極めて強い信頼と、家名を興すという共通の目的が存在したことを象徴している点です。年功序列が重んじられる武家社会において、年長者である直政が年下の秀政に仕えるという異例の関係を受け入れた背景には、個人の名誉よりも一族全体の発展を最優先する、極めて合理的で戦略的な判断があったと推察されます。それは、封建的な主従関係というよりも、現代の事業における共同創業者同士のパートナーシップに近い、運命共同体としての出発でした。
表2:堀氏・奥田氏 関係系図
Mermaidによる関係図
注: 上記の系図は、史料 4 に基づき、本報告書の理解を助けるために主要人物の関係性を簡略化して示しています。直政の子には他にも男子がいますが、本報告書の議論に深く関わる人物を中心に記載しています。
堀秀政は13歳という若さで信長の小姓となり、その才能を認められて側近として活躍しました 4 。直政もほぼ同時期に信長の配下となり、秀政の補佐役として、また一人の武将としてキャリアをスタートさせたと見られています 5 。
この時期の直政個人の動向を記した史料は乏しいですが、江戸時代に編纂された幕府の公式系図集である『寛永諸家系図伝』には、彼の初期の武功が記録されています。それによれば、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において、直政は「伊賀亀甲城攻め」で精鋭を率いて先駆け(先登)の功を立て、信長自らから賞賛を受けたとされます 5 。また、それ以前の伊勢峰城攻めでも功を挙げていたと記されており、彼が早くから秀政の麾下にあって、危険な攻撃の先頭に立つ勇猛な武将として頭角を現していたことが窺えます 5 。これらの記録は、彼が単なる秀政の縁者ではなく、実力によってその地位を築き上げていたことを示唆しています。
織田信長の死後、天下の覇権は豊臣秀吉へと移ります。この激動の時代において、堀直政は主君・秀政と共に秀吉に従い、その天下統一事業の主要な戦役で数々の武功を立てました。秀政が「名人久太郎」と称される知将であったのに対し、直政はその戦術を戦場で具現化する、勇猛果敢な「実行部隊の長」として、堀家の軍事力を支える核心的な役割を担いました。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、秀政と直政は迅速に羽柴(後の豊臣)秀吉の陣営に馳せ参じ、主君の仇を討つための山崎の戦いに従軍しました 5 。
この戦いの後、直政の器量の大きさを物語る有名な逸話が残されています。山崎で敗れた明智光秀の居城・坂本城を堀勢が包囲した際、城に籠っていた光秀の重臣・明智秀満は、もはやこれまでと自刃を決意します。しかし、光秀が収集した「国行」の刀や「吉光」の脇差といった天下の名宝が戦火で失われることを惜しみ、目録を添えて、包囲軍の一将であった堀直政のもとへ送り届けたのです 5 。
直政はこれを丁重に受け取り、目録通りに確かめた旨を返答しました。しかし、彼はそこで終わりませんでした。目録に見当たらない、光秀が秘蔵していたという「郷義弘(ごうのよしひろ)」の脇差の行方を秀満に問い質したのです。これに対し、秀満は「この脇差は光秀公がことのほか秘蔵されていたもの。死出の山で私が直接公にお渡しするため、自ら腰に差しております」と答えたと伝えられています 5 。敵将の最期を前にして、名物への深い造詣と冷静な対応を見せた直政の態度は、彼が単なる猛将ではなく、武人としての高い教養と器量を兼ね備えていたことを示しています。
天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家が織田家の後継者の座を巡って激突した賤ヶ岳の戦いにおいて、直政は彼の武名を一躍高める、目覚ましい功績を挙げます。
この戦いで、直政は十文字槍を片手に敵陣に深く切り込み、敵の総大将である柴田勝家の権威の象徴、「金の馬印(うまじるし)」を見事奪い取るという離れ業を演じました 5 。馬印は軍の士気に関わる極めて重要なものであり、これを奪われることは大将にとって最大の屈辱です。勝家の家臣・小塚藤右衛門がこの馬印を奪い返そうと必死に追いすがってきましたが、直政はこれをものともせず、組み伏せて討ち取ったと『寛政重修諸家譜』に記されています 5 。この功績は、彼の個人的な武勇と、戦場の機微を捉えて大胆に行動する将才を天下に示すものであり、堀家の武威を大いに高めました。
賤ヶ岳の戦いの後も、直政は秀吉の天下統一への道を、主君・秀政と共に歩み続けます。
秀政の輝かしい軍功の数々は、彼自身の卓越した知略と指揮能力によるものですが、その作戦の最も困難で危険な部分を、直政がその武勇と統率力で実行していたからこそ成り立っていたと言えます。秀政が「頭脳」ならば、直政は「槍」であり、二人はまさに一心同体、堀家を躍進させた両輪でした。その片翼を、天下統一の目前で失った直政の悲嘆は、計り知れないものがあったでしょう。
小田原征伐の陣中における主君・堀秀政の突然の死は、堀家を存亡の危機へと突き落としました。この絶体絶命の局面において、一介の家老に過ぎなかったはずの堀直政が、その類稀なる胆力と政治力で事態を打開します。この出来事は、彼の役割が単なる補佐役から、事実上の「堀家当主代理」へと変貌する決定的な転機となりました。
天正18年(1590年)5月、天下統一の総仕上げとなる小田原征伐の最中、堀秀政は疫病を患い、陣中にて38歳という若さで急逝しました 11 。輝かしい未来が約束されていたはずの「名人久太郎」のあまりにも早すぎる死でした。嫡男の秀治はまだ15歳(資料によっては12歳とも 26 )と若く、巨大な家臣団と所領を統率するにはあまりにも経験不足でした。主を失った堀家には、改易(領地没収)の危機が現実のものとして迫っていました。
案の定、天下人・豊臣秀吉は、秀治が幼少であることを理由に家督相続を認めず、堀家の所領であった越前北ノ庄18万石を召し上げる意向を示しました 5 。これは、かつて織田家で同僚であった大名たちの力を削ぎ、豊臣政権の基盤をより強固にしようとする秀吉の政治的意図があった可能性も指摘されています 14 。
この知らせに、直政は激怒しました。彼は、主君の死を悼む悲しみに浸る間もなく、堀家を守るために行動を起こします。彼は自らの次男である直寄(当時14歳)を秀吉のもとへ使者として派遣し、一通の書状を届けさせました。その書状の内容は、直政の覚悟のほどを示す、凄まじいものでした。
「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁(おんえん)を汚さん」 5
これは、「亡き秀政には長年の功績があります。それにもかかわらず、もし跡継ぎが認められないのであれば、私が秀吉様の御前に参上し、その縁側を自害した血で汚すことになりましょう」という、自らの命を賭した強烈な抗議でした。一陪臣が天下人に対し、死を以て家督相続を迫るという、前代未聞の直談判です。
この直政の鬼気迫る執念と、秀政への揺るぎない忠義に心を動かされたのか、あるいはその気迫に押されたのか、秀吉はついに態度を軟化させ、秀治の家督相続を正式に許可しました 5 。直政は、絶望的な状況を、自らの覚悟一つで覆したのです。
この危機を乗り越えた後、直政はさらなる一手として、交渉の使者を務めた次男の直寄を、そのまま秀吉の小姓として出仕させました 14 。これは極めて高度な政治判断でした。表向きは秀吉への感謝と忠誠を示すものですが、実質的には、堀家の安泰を保証させるための「人質」としての意味合いがあったと考えられます 14 。同時に、聡明であった直寄を天下人の中枢に送り込むことで、彼自身の将来への布石とすると共に、堀家の情報を中央に届け、幕府内の動向を把握するためのパイプを確保する狙いもあったでしょう。
秀政の死という最大の危機は、結果として、直政の存在感を天下に示す絶好の機会となりました。彼はもはや、堀秀政の有能な家臣という枠には収まらない、堀家そのものを背負って立つ政治家として、自他共に認められる存在となったのです。この事件を通じて、直政は陪臣の身分でありながら、実質的に大名と同等の政治的権能を発揮しました。後の「天下の三陪臣」という評価に繋がる、彼の器量の大きさを世に知らしめた最初の瞬間でした。
主君・堀秀治の後見人として堀家の実権を握った直政は、豊臣政権末期の混乱と、それに続く関ヶ原の動乱という、時代の大きな転換点に直面します。この時期の彼の動向は、卓越した統治能力と、天下の趨勢を見抜く冷静な戦略眼を如実に示しています。それは、豊臣恩顧の大名であった堀家を、新たな支配者である徳川の世で生き残らせるための、意識的な「体制転換」の試みでした。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は大規模な大名の国替えを断行します。これにより、越後の上杉景勝は会津120万石へ、そして堀秀治は上杉の旧領であった越後春日山へ45万石(資料により30万石、43万石とも 26 )で移封されることになりました 5 。
この新たな領国において、直政は若き主君・秀治を補佐する家老でありながら、自身も独立した領主として、蒲原平野の中心地である三条に5万石を与えられ、三条城主となりました 1 。この5万石という石高は、小大名に匹敵する規模であり、直政が単なる家臣ではなく、堀家の共同統治者ともいえる重要な立場にあったことを示しています。
越後45万石の統治は、堀一族と与力大名による分担体制が採られました。これは、広大な領地を効率的に支配し、潜在的な敵対勢力である会津の上杉家を牽制するための戦略的な配置でした。
表3:越後国における堀一族の配置
城 |
所在地(現在の市町村) |
城主 |
石高 |
備考 |
春日山城 |
新潟県上越市 |
堀秀治 |
(本拠地) |
堀家宗家当主 5 |
三条城 |
新潟県三条市 |
堀直政 |
5万石 |
家老。嫡男・直清が城代 5 。 |
坂戸城 |
新潟県南魚沼市 |
堀直寄 |
2万石 |
直政の次男 5 。 |
蔵王堂城 |
新潟県長岡市 |
堀親良 |
(不明) |
秀治の弟 5 。 |
新発田城 |
新潟県新発田市 |
溝口秀勝 |
6万石 |
与力大名 5 。 |
本庄城 |
新潟県村上市 |
村上義明 |
9万石 |
与力大名 5 。 |
注: 各人の石高や配置は史料 5 に基づきます。合計石高は与力大名の分も含まれます。
しかし、越後への入封は多難な船出となりました。当時の慣例では、領主が交代する際、その年の年貢米は新旧領主で折半することになっていました。ところが、上杉家の家老・直江兼続は、この慣例を無視して越後国内の年貢米をすべて会津へと持ち去ってしまったのです 8 。
これにより、堀家は入封早々、深刻な財政難に陥り、佐渡の上杉家代官であった河村彦右衛門から2千俵の米を借り入れて急場を凌ぐという事態になりました 8 。この一件は、堀・上杉両家の間に深刻な確執を生み、後に直政が徳川家康に上杉家の非を訴え、会津征伐の口実の一つとなる伏線となりました 33 。
この財政危機を打開し、新たな領国を完全に掌握するため、秀治と直政は慶長3年(1598年)の秋から領内の総検地を断行します。これは「堀検地」と呼ばれ、それまでの上杉氏による検地を否定し、より厳格な太閤検地方式を導入するものでした 35 。この検地は、在地勢力の抵抗を招きながらも、越後における近世的な支配体制の基礎を確立し、後の諸藩の統治に大きな影響を与えたと評価されています 35 。
慶長5年(1600年)、天下の形勢は徳川家康方の東軍と、石田三成方の西軍に分かれ、関ヶ原の戦いへと突き進みます。豊臣恩顧の大名である堀家にとって、どちらに与するかは家の存亡を賭けた重大な決断でした。
この時、一族の会議において、直政の次男である直寄は、豊臣秀吉から受けた恩義に報いるため、上杉景勝や石田三成と連携して西軍に付くべきだと強く主張しました 7 。しかし、直政はこの若々しい正論を一蹴します。「我々が受けた恩は、太閤から始まったものではない。そもそもは信長公から賜ったものだ」と述べ、秀吉亡き後の天下の趨勢はもはや家康にあること、そして秀頼のためにもならないと冷静に分析し、東軍への参加を断固として決定しました 5 。
この決断の裏では、複雑な情報戦が繰り広げられていました。石田三成からは、共に上杉を助け、秀頼公に忠節を尽くそうという誘いの書状が届きますが、直政はその策謀を見抜き、巧みに返答をはぐらかしました 5 。一方で、直江兼続は「堀秀治もこちら側(西軍)に付く」という偽の情報を流して揺さぶりをかけるなど、堀家は両陣営から厳しい圧力を受けていました 5 。しかし、直政の意思は揺らぐことなく、彼は堀家を東軍の重要な一角として位置づけることに成功します。
堀家が東軍に付いたことで、越後は徳川方と上杉方の最前線となりました。家康が会津征伐の軍を起こすと、直江兼続はこれに対抗し、越後国内に残留していた上杉家の旧臣や堀家の統治に不満を持つ在地勢力を扇動し、大規模な一揆を蜂起させました。これが「上杉遺民一揆」です 1 。
この一揆に対し、直政は総司令官として的確な采配を振るいます。自らは柏崎方面に出陣して一揆勢を鎮圧し、嫡男の直清には本拠地である三条城の守りを固めさせ、次男の直寄には一揆軍に陥落させられた下倉城を奪還させるなど、見事な連携で越後国内の反乱を平定しました 13 。この功績は家康に高く評価され、戦後、家康と秀忠の父子から直々に感状(感謝状)を与えられています 39 。
さらに、関ヶ原の戦いが東軍の勝利で終わった翌年の慶長6年(1601年)には、家康は堀秀治を介して、直政に徳川家の直轄領である佐渡国で発生した一揆の鎮圧を名指しで命じています 1 。これは、幕府が直政個人の軍事・統治能力に絶大な信頼を寄せていたことの何よりの証拠と言えるでしょう。直政は、関ヶ原の動乱という絶好の機会を捉え、堀家を単なる豊臣恩顧の大名から、「徳川政権樹立の功労者」へと巧みに変身させることに成功したのです。
堀直政を語る上で最も有名な称号が、「天下の三陪臣」です。これは、彼が陪臣という身分でありながら、いかに傑出した人物であったかを端的に示す評価ですが、その由来と意味合いを多角的に分析することで、彼の人物像をより深く理解することができます。
「天下の三陪臣」という評価の直接的な出典は、江戸時代中期に岡谷繁実によって編纂された武将の逸話集『名将言行録』です 3 。同書には、豊臣秀吉が次のように語ったと記されています。
「陪臣にて、直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)、堀監物(直政)杯は天下の仕置をするとも、仕兼間敷(しかねまじき)ものなり」 1
これは、「彼らは大名の家臣(陪臣)という身分ではあるが、もし天下の政治を任せたとしても、見事にやり遂げるであろう」という意味で、秀吉が三人の器量を最大限に称賛した言葉とされています。
しかし、この評価を史実として扱うには注意が必要です。『名将言行録』は、様々な史料や巷間に流布していた話を基にしていますが、学術的な検証が十分とは言えず、史実と乖離した記述や後世の創作も多く含まれているため、歴史学界では信頼性の高い一次史料ではなく「俗書」として扱われるのが一般的です 40 。したがって、この言葉を秀吉が実際に言ったという「事実」として断定することは困難です。むしろ、江戸時代の人々が堀直政を、直江兼続や小早川隆景と並び立つほどの傑物であったと認識し、そのような「伝承」が生まれるほど高く評価していた、と解釈するのがより適切です。逸話は「虚」かもしれませんが、その根底にある直政の非凡な能力に対する評価は「実」であり、彼の生涯の軌跡そのものが、この称号に値するものであったことを証明しています。
では、なぜ数多いる家臣の中から、堀直政が選ばれたのでしょうか。他の二人と比較することで、彼の特質がより鮮明になります。
江戸時代の武家社会において、陪臣は将軍に直接拝謁(お目見え)する資格を持たない、一段低い身分とされていました 42 。しかし、直政の生涯は、そのような制度的な身分の壁を事実上超越していました。彼は主君亡き後、天下人である秀吉と直接、家の存亡を賭けて交渉し 5 、関ヶ原の後は徳川家康から直々に命令を受けて佐渡を平定するなど 1 、陪臣の枠を遥かに超えた活動を見せています。
彼の能力は、単に主君である堀秀治を補佐するというレベルに留まっていませんでした。彼は堀家全体の外交戦略を立案し、軍事を指揮し、内政を改革する、いわば「最高経営責任者(CEO)」に近い役割を果たしていたのです。秀吉や家康が彼を高く評価したのは、この「主家を動かす力」、すなわち大名家そのものを差配するほどの器量を見抜いていたからに他なりません。「天下の三陪臣」という称号は、彼のそのような規格外の実力を的確に表現した、後世からの賛辞であったと言えるでしょう。
堀直政は、関ヶ原の戦いで堀家を勝利者側に導き、徳川政権下での安泰を確かなものにしました。しかし、彼の晩年は安穏なものではありませんでした。心血を注いで支えてきた若き主君の死、そして自らの死後、堀家を襲ったのは、彼が生涯をかけて築き上げたものを根底から覆す、あまりにも皮肉な結末でした。
慶長11年(1606年)、直政が後見人として支えてきた主君・堀秀治が、わずか31歳(資料により28歳とも 14 )で若くしてこの世を去りました。直政は、かつて秀政を失った悲劇を再び味わうことになります。
秀治の跡を継いだのは、嫡男の堀忠俊でした。しかし、忠俊はまだ11歳という少年であり、藩政を担うことは到底できません 15 。直政は60歳という高齢ながら、再び幼い主君の後見役として、巨大な堀家の舵取りを一身に背負うことになりました 14 。彼は、もはや盤石とは言えない堀家の将来を憂い、最後の力を振り絞ってその安泰を図ります。その最大の策が、新たな天下人である徳川家との関係強化でした。直政は徳川家康に直接働きかけ、家康の養女(実父は譜代大名の本多忠政)を忠俊の正室として迎えさせることに成功します 6 。これにより、堀家は徳川家と姻戚関係を結び、その存続に一条の光が見えたかに思われました。
しかし、その後の堀家を見届けることなく、慶長13年(1608年)2月26日、堀直政は62年の波乱に満ちた生涯を閉じました 10 。彼の死は、堀家にとって絶対的な支柱を失うことを意味しました。
彼の亡骸は、当初、豊臣秀吉の正室・高台院ゆかりの京都・高台寺に葬られたとされますが、後に高野山に改葬されたと伝わっています 1 。その法名は「千手院殿前城門郎傑山道英大居士」といい、彼の生涯の功績を物語っています 1 。
直政という絶対的な重石がなくなったことで、堀家の内部に溜まっていた歪みが一気に噴出します。直政の死からわずか2年後の慶長15年(1610年)、藩政の実権を巡って、直政の息子たちが骨肉の争いを始めました。これが、堀家を滅亡へと導いた「越後福嶋騒動」です 15 。
対立の中心にいたのは、直政の嫡男で家老職を継いだ堀直清(通称は監物、名は直次とも)と、異母弟で坂戸城主であった堀直寄でした 45 。嫡男である直清は、父の権威を背景に藩政を独断で進めようとします。一方、次男の直寄は父・直政と共に数々の修羅場をくぐり抜け、幕府中枢にも人脈を持つ実力者でした。彼は兄の専横を許さず、両者の対立は抜き差しならないものとなっていきました 46 。
ついに直清は、若き藩主・忠俊を抱き込み、直寄を藩から追放しようと画策します。しかし、直寄はこれを不服とし、駿府にいた大御所・徳川家康に、兄・直清の非道を直接訴え出たのです 15 。
家康はこの訴えを取り上げ、両者を江戸城に呼び出して裁定を行いました。この時、藩主である忠俊が直清をかばうような弁明を行ったことが、家康の逆鱗に触れたとされます 16 。家康は、「幼弱にして讒言を弄する家臣に惑わされ、物事の正邪を判断できないような者に、大国を治める器はない」と断じ、主君である堀忠俊に対し、越後45万石の領地をすべて没収するという、極めて厳しい改易処分を下したのです 15 。
この裁定により、騒動の一方の当事者であった直清も改易処分となり、最上義光預かりの身となりました。そして、訴えを起こした直寄も、勝訴したとはいえ、1万石を減封された上で信濃飯山4万石へ転封という処分を受けました 16 。
この「越後福嶋騒動」の結果、堀直政が生涯をかけて支え続けた主君・堀秀政の嫡流(宗家)は、大名家としては事実上、歴史の舞台から姿を消すことになりました 1 。
しかし、物語はここで終わりません。騒動を生き延びた直政の息子たちは、その後、それぞれが幕府に仕えて功績を重ね、大名として家名を再興させていきます。最終的に、次男・直寄の系統が越後村松藩(3万石)、四男・直重の系統が信濃須坂藩、五男・直之の系統が越後椎谷藩の藩主となり、いずれも明治維新まで大名家として存続しました 4 。
結果として、近世大名としては、主君であった秀政の家系よりも、その家臣であった直政の家系の方が遥かに有力となり、長く続くことになったのです 5 。これは、歴史の大きな皮肉と言わざるを得ません。
この事実は、直政の生涯をかけた忠誠と努力が、意図せずして、彼自身の家系を主家以上に繁栄させ、一方で主家の滅亡を招く遠因を作ってしまったという、「忠誠のパラドックス」を浮き彫りにします。彼の成功が、結果的に主家の悲劇に繋がったのです。この背景には、直政が息子たちを有能に育てすぎたこと、そして豊臣恩顧の45万石大名であった堀家を解体したいという、徳川家康の深謀があったと見ることもできるでしょう。家康は、このお家騒動を、堀宗家を合法的に取り潰し、その広大な旧領を自らの六男・松平忠輝に与えるための、絶好の口実として利用したのです 15 。
明治時代に入り、武家社会が終焉を迎えると、村松・須坂・椎谷の旧藩主家、すなわち直政の子孫たちは、堀姓から本来の姓である「奥田」へと復姓しています 19 。これは、彼らのアイデンティティの根源が、あくまで堀家の家臣としてではなく、奥田一族の長としての自負にあったことを示す、象徴的な出来事であったと言えるでしょう。
堀直政の生涯を徹底的に分析した結果、彼は単なる「忠臣」や「名補佐役」といった紋切り型の言葉では到底捉えきれない、極めて複合的で、かつ逆説的な人物であったことが明らかになりました。
彼の生涯は、以下の三つの側面から立体的に理解することができます。第一に、戦場においては比類なき武勇を誇る「武人」であり、賤ヶ岳の戦いで敵将の馬印を奪うなど、常に堀家の武威を最前線で示しました。第二に、主家の危機に際しては、自らの命を賭して天下人と渡り合う胆力を持つ「政治家」であり、その交渉力で幾度となく堀家を救いました。そして第三に、時代の流れを冷静に見極め、家を新たな時代で生き残らせるための戦略を描ける「現実主義者」であり、関ヶ原での決断はその最たる例でした。
しかし、彼の最大の功績は、同時に最大の皮肉を生み出しました。彼の生涯は、まさしく主君・堀秀政とその家系に捧げられたものでした。しかし、その揺るぎない忠誠心と、それによって発揮された卓越した能力が、結果として彼自身の家系(奥田堀家)を主家以上に繁栄させ、一方で彼が守ろうとした主家(堀宗家)の滅亡を招く遠因となったのです。彼が有能な息子たちを育て、幕府中枢とのパイプを築いたこと自体が、徳川幕府にとっては、豊臣恩顧の大藩である堀家を解体するための格好の介入材料となりました。彼の成功が主家の悲劇に繋がるという「忠誠のパラドックス」は、彼の生涯を象徴する最も重要なテーマです。
堀直政の生涯は、歴史の表舞台に立つ「主役」だけでなく、その成功と失敗の鍵を握る「補佐役」の重要性を、我々に改めて教えてくれます。特に、主君の能力を凌駕しかねないほどの器量を持った家臣が、組織の安定と発展、そして時には崩壊にまで、いかに決定的な影響を与えるかを示す、絶好の研究事例と言えるでしょう。堀直政という一人の陪臣の生涯を深く掘り下げることは、戦国から近世へと移行する時代の権力構造のダイナミズムを理解する上で、欠かすことのできない視点を提供してくれるのです。