戦国時代、日本列島が群雄割拠の動乱に揺れる中、飛騨国は特異な地理的・政治的環境に置かれていた。美濃、信濃、越中、越前といった国々に四方を囲まれた山国である飛騨は、古来より交通の要衝としての側面を持っていた 1 。この地理的条件は、戦国時代において、東の武田信玄、北の上杉謙信、そして南から勢力を伸ばす織田信長という、当代屈指の三大勢力の角逐の舞台となることを運命づけた。飛騨の在地国人衆、すなわち三木氏、江馬氏、広瀬氏らは、これら外部勢力との関係構築を常に迫られ、その選択一つで家の存亡が決まるという、極めて緊迫した状況下にあった 3 。
本報告書が主題とする塩屋秋貞(しおや あきさだ、大永元年(1521年)生 - 天正11年3月2日(1583年4月23日)没)は、まさにこの激動の飛騨国に現れた武将である 6 。彼の生涯は、商人からの台頭、大勢力間の選択、主君との相克、そして時代の波に呑まれていくという、戦国時代の地方武将の軌跡をなぞるものであった。しかし、その出自と行動様式には、単なる一地方武将の枠に収まらない特異な光が当てられる。本報告は、現存する各種史料、地方史、城郭調査報告などを網羅的に分析し、塩屋秋貞という一人の武将の実像を、その生きた時代の文脈の中に深く位置づけることを目的とする。
塩屋秋貞の正確な出自は、歴史の霧に包まれている部分が多い。大永元年(1521年)に生まれたとされる彼の出身地は、飛騨国大野郡大八賀郷塩屋村(現在の岐阜県高山市塩屋町付近)と伝えられているが、これを確定する一次史料は存在しない 6 。しかし、彼の「塩屋」という姓は、その出自を解き明かす上で極めて重要な手がかりとなる。この姓は、彼の一族が元来、塩の流通を担う商人、特に馬を駆って物資を運ぶ運送業者、すなわち「馬借」であった可能性を強く示唆している 6 。
戦国時代は「下剋上」の時代として知られるが、その多くは武士階級内部での権力移動であった。しかし、秋貞の経歴は、商人という非武士階級が経済力を背景に武士化し、一城主、さらには一地域の有力者へと成り上がるという、より広範な社会階層の流動性を示す稀有な事例である。彼の存在は、戦国時代の社会変革が、単なる武力闘争だけでなく、経済活動によっても強力に駆動されていたことを物語っている。塩という生活必需品であり、同時に武具の生産にも関わる戦略物資の交易を掌握することは、武士階級を凌駕するほどの富を築くことを可能にした。秋貞は、その富を軍事力と政治力へ巧みに転換することで、伝統的な血縁や家格に依らない、新たな形の権力を飛騨の地に確立したのである。
秋貞の台頭の基盤は、その卓越した商才にあった。彼は、日本海に面した越中から塩を仕入れ、山国である飛騨国内で販売することにより、莫大な富を築いたと記録されている 6 。この事業の成功は、飛騨と越中を結ぶ主要街道、特に神通川水系のルートを実質的に掌握していたことを意味する。これは、秋貞が早くからこの地域の地政学的な重要性に着目し、経済的・物理的に支配下に置いていたことを示唆している 10 。
『大八賀村史』などの地方史によれば、交易によって財を成した秋貞は、塩屋村臼本に城館を構え、近隣から年貢を徴収するなど、単なる商人から在地領主へとその性格を変えていった 6 。これは、蓄積した経済資本を、土地支配という形で永続的な権力基盤へと転換していく過程であり、商人から武将への変身を遂げる上での決定的な一歩であった。
商人領主として力をつけた秋貞は、天文年間(1532-1555年)の終わり頃、より広範な支配拠点として小八賀郷(現在の高山市丹生川町町方)に尾崎城を築き、本拠地を移した 6 。この城は、彼の武将としてのキャリアを象徴する城郭となる。
興味深いことに、尾崎城跡で実施された発掘調査では、秋貞が活動した16世紀の遺物だけでなく、それより古い15世紀前半を中心とする青磁や白磁といった高級陶磁器が多数出土している 11 。伝承では秋貞が尾崎城を「築いた」とされているが 8 、この考古学的知見は、彼が何もない場所にゼロから城を築いたのではなく、先行する時代から存在した重要な館跡などを接収し、戦国末期の実戦的な城郭へと改修・拡張した可能性を示している。これは、彼の台頭が単なる個人の才覚のみによるものではなく、既存の権力構造の空白や、先行勢力の衰退を巧みに利用した結果であったことを物語る。彼は、すでに戦略的価値が認められていた場所を拠点化するという、極めて合理的な選択を行ったのである。
また、尾崎城には「金の鶏」が埋められているという埋蔵金伝説が残されている 8 。明治39年(1906年)には、実際に二の丸付近から大量の古銭が発掘されており、この伝説が彼の蓄えた富の大きさを象徴するものとして、後世に語り継がれたことをうかがわせる 11 。
武将としてのキャリアを開始した塩屋秋貞は、当初、飛騨国で勢力を拡大しつつあった有力国人・三木良頼に仕えていた 6 。三木氏は飛騨統一を目指して北進政策を推し進めており 5 、秋貞はその経済力と軍事力を背景に、三木氏の有力な武将として、その軍事行動の一翼を担っていたと考えられている 3 。この時期の秋貞は、三木氏の家臣という立場を利用して、自身の勢力基盤をさらに固めていったのであろう。
平穏な勢力拡大は長くは続かなかった。永禄7年(1564年)、甲斐の武田信玄が部将の山県昌景(当時は飯富昌景)に命じて飛騨へ侵攻させたのである 3 。この侵攻は、飛騨の覇権を巡る三木氏と、武田氏と結ぶ広瀬氏・江馬氏との対立を背景としていた 5 。三木方に属していた秋貞は、この侵攻の矢面に立つこととなった。
秋貞は、地域の有力寺院であった千光寺の衆徒らと共に武田軍に抵抗したが、その猛攻の前に尾崎城は攻め落とされ、焼き払われた 3 。拠点を失った秋貞は、命からがら古川城(蛤城)へと退却した 6 。この敗北は、秋貞にとって最初の大きな蹉跌であり、彼のその後の行動に大きな影響を与えることになった。
武田軍が飛騨から撤退した後、秋貞を待ち受けていたのは、さらなる苦境であった。主君である三木良頼の子・自綱(後の姉小路頼綱)が、混乱に乗じて秋貞の旧領であった小八賀郷を自らの所領としてしまったのである 6 。主君筋によるこの仕打ちは、秋貞と三木自綱との間に決定的な亀裂を生んだ。
これにより、秋貞は本拠地を吉城郡塩屋(現在の飛騨市宮川町塩屋)へ移さざるを得なくなり、三木自綱との対立関係が始まった 6 。研究者の岡村守彦氏によれば、この対立の背景には、外交方針の相違があったとされる。すなわち、三木自綱が中央の織田信長との関係を深めていく一方で、秋貞は北の雄、上杉謙信寄りの立場を崩さなかったため、両者の対立は謙信が死去するまで続いたという 6 。
この一連の出来事は、戦国時代における主従関係の流動性を如実に示している。秋貞は三木氏の「家臣」とされながらも 10 、主君に所領を奪われ、外交方針で公然と対立した。これは、当時の主従関係が、近世以降の固定的・絶対的なものではなく、実利とパワーバランスに基づいた、極めて相対的な契約関係であったことを示す好例である。秋貞は、名目上の主君に従属しつつも、独自の経済基盤と外交ルートを保持し、一個の独立勢力として振る舞うだけの力を持っていた。三木氏との対立は、彼の自立性を結果的に高め、飛騨国内の枠組みを超えて、越後の上杉謙信と直接結びつく強い動機となったのである。
三木氏との関係が悪化する一方で、塩屋秋貞は新たな活路を北の越中に求めた。当時、越中では上杉謙信が一向一揆や在地勢力と激しい戦いを繰り広げていた。謙信は、一向一揆を抑えるための兵力として、三木氏をはじめとする飛騨の国人衆を動員しており、秋貞も当初は三木軍の一員として越中に派遣された 5 。
史料によれば、元亀元年(1570年)8月、秋貞は三木良頼が謙信に差し出す人質(証人)として、馬場才右衛門尉という武将と共に越中の上杉方の陣へと赴いている 10 。これは、彼が三木氏の家臣団の中でも、対上杉氏との関係において重要な役割を担う人物と見なされていたことを示している。
秋貞の役割は、単なる一武将にとどまらなかった。永禄12年(1569年)に謙信が発給した書状では、謙信が秋貞を直接の窓口として、三木良頼との連絡を取ろうとしている様子が記録されている 10 。この事実は、秋貞が両勢力を繋ぐ外交チャンネルとして機能していたことを明確に示している。
この関係性は、秋貞が三木氏の単なる被官ではなく、謙信から見ても一定の独立性を持った交渉相手として認識されていたことを物語る。研究者の小林健彦氏は、謙信が秋貞に「取成(とりなし)」、すなわち仲介を依頼している書状の文面に着目し、秋貞が三木氏の家臣というよりは、むしろ同盟者に近い対等な立場にあった可能性を指摘している 20 。これは、秋貞が飛騨と越中の国境地帯に独自の勢力圏を築き、その経済力と地理的優位性から、大勢力である上杉氏にとっても無視できない存在となっていたことを意味する。彼は、主君である三木氏を介さずとも、大国と直接交渉できるだけの地位を確立していたのである。
この密接な関係を裏付けるように、秋貞は家臣の後藤内記らを謙信のもとへ派遣し、熊の皮、鉛、真綿といった飛騨の産物を貢物として献上している記録が残る 6 。これは忠誠の証であると同時に、彼の経済力を背景とした巧みな外交戦略の一環であったと解釈できる。
上杉氏との連携を深める中で、秋貞は越中における自身の拠点を確保していく。元亀2年(1571年)4月、上杉軍に従軍していた秋貞は、突如として陣を離脱し、越中の猿倉山に城を普請して立て籠もるという不可解な行動に出る 10 。この行動の理由については、飛騨国内で勢力の強かった一向宗門徒との直接戦闘を避けるためであったという見方が有力である 6 。主君の命令や上杉軍の軍規よりも、自らの領国の安定や信条を優先したこの行動は、彼の高い独立性を示すエピソードと言える。
この時に築かれた猿倉城(現在の富山県富山市大沢野)は、飛騨と越中を結ぶ街道上に位置し、彼の勢力圏が国境を越えて拡大していたことを示す重要な拠点となった 3 。その後も秋貞は、栂尾城や津毛城、さらには城生城攻めのための対の城として岩木城を築くなど、越中各地の城郭に深く関与したと伝えられている 22 。
塩屋秋貞の経歴を語る上で、しばしば引用されるのが「飛騨目代」への任命である。後世に成立した軍記物語である『北越軍談』には、天正4年(1576年)に上杉謙信が飛騨へ侵攻した際、その先鋒を務めた秋貞の功績を賞して、彼を飛騨国の目代(代官)に任じたという華々しい記述が見られる 6 。
しかし、この記述の信憑性については、現代の歴史研究では否定的な見方が強い。物語の根拠とされる三木自綱が籠城した松倉城が、当時はまだ存在していなかったことなどから、この「飛騨征伐」とそれに伴う「目代任命」は、後世の創作である可能性が極めて高いとされている 6 。
ただし、この説が完全に根拠のないものであったとも言い切れない。例えば、在地に伝わる御崎神社の由緒には、秋貞が「上杉氏の目代として勇威三郡に振るひ」と記されており、彼が上杉氏の威光を背景に飛騨で大きな影響力を持っていたという認識が、地域社会に流布していた可能性を示唆している 24 。
結論として、秋貞が謙信から飛騨一国の支配を公式に委任される「目代」という役職に就いたとは考えにくい。しかし、彼が謙信から「飛騨の武将の筆頭」として高く評価され 10 、越中において上杉方の重要な一翼を担っていたことは紛れもない事実である。この史実が、後世に彼の活躍を顕彰する過程で、「目代任命」という、より分かりやすく権威ある物語へと昇華されたと解釈するのが最も妥当であろう。これは、歴史上の人物評価において、何が実際に起こったかという「史実」だけでなく、何が起こったと信じられてきたかという「物語」や「伝承」もまた、その人物の歴史的影響力を測る上で重要な要素であることを示している。
天正6年(1578年)3月、塩屋秋貞にとって最大の庇護者であった越後の龍、上杉謙信が急死する 10 。この突然の出来事は、北陸地方のパワーバランスを根底から覆し、秋貞の運命をも大きく左右することになった。
謙信という重石がなくなった越中には、天下布武を掲げる織田信長の勢力が怒涛のごとく流れ込んだ。信長は、家臣の神保長住らを飛騨経由で越中に送り込み、織田方の支配を急速に確立していく 25 。これにより、越中を巡る対立の構図は、それまでの「上杉 対 一向一揆・在地勢力」から、「上杉 対 織田」という、より巨大な勢力同士の衝突へと転換した 3 。
強力な後ろ盾を失い、織田軍の圧倒的な軍事力の前に、秋貞に残された選択肢は多くはなかった。諸史料は、彼が謙信の死後、程なくして織田方に転向したことを示唆している 6 。彼の主君であった三木自綱もまた、時勢を読んで上洛し、信長に謁見して織田方への帰属を明確にしていた 17 。秋貞の転向は、この飛騨国全体の大きな流れに沿った、自らの勢力を保ち、乱世を生き抜くための現実的な判断であった。
この転向は、戦国時代の地方領主が直面した厳しい生存戦略を体現している。彼らにとって、特定の勢力への忠誠は絶対的なものではなく、常に変化するパワーバランスの中で、一族と領地の存続を最優先に考えた結果の選択であった。最大の庇護者を失った秋貞が、次なる天下の覇者と目される信長に帰順したのは、戦国武将としての合理的な判断に基づく、ある意味で必然的な帰結であったと言える。
同じく織田信長に臣従したことで、塩屋秋貞と三木自綱の関係が改善されることはなかった。むしろ、両者の間の緊張関係は、新たな形で継続した。『飛騨編年要史』によれば、天正7年(1579年)6月、信長の命によって三木自綱が秋貞を攻撃したという記録が存在する 6 。
しかし、この攻撃の背景について、研究者の岡村守彦氏は、信長の公式な命令によるものではなく、自綱が秋貞に対して長年抱いていた私怨に基づき、信長の名を借りて実行した私的な攻撃であったと見なしている 6 。この見解が正しければ、両者が同じ織田政権の枠組みに組み込まれながらも、飛騨国内における覇権を巡る根深い対立が依然として続いていたことを示している。秋貞は、新たな主君を得た後も、足元の旧主との緊張関係を抱え続けるという、複雑な立場に置かれていたのである。
天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺で織田信長が横死するという、日本史を揺るがす大事件が発生する 6 。中央の絶対的な権力者の突然の死は、全国各地に再び混乱と権力の空白をもたらした。
この激変を受け、塩屋秋貞は新たな行動を迫られる。彼は、信長から越中一国の支配を任されていた織田家臣・佐々成政に臣従した 6 。これは、織田政権という大きな枠組みが崩壊した中で、自らの領地に最も近く、かつ強力な軍事力を保持する実力者の支配下に入るという、極めて現実的な選択であった。
本能寺の変は、上杉氏にとっても勢力回復の好機であった。かつて織田方に寝返っていた越中の国人・斎藤信利は、これを機に再び上杉景勝方に転じ、居城である城生城に籠って佐々成政に反旗を翻した 23 。これにより、越中は佐々成政と上杉景勝の勢力が直接激突する最前線となった。
天正11年(1583年)3月2日、佐々成政の配下となっていた塩屋秋貞は、この城生城の斎藤信利を攻撃する軍勢に加わった 6 。この戦いは、単なる秋貞と斎藤氏の局地的な戦闘ではなかった。その背景には、信長死後の混乱に乗じて失地回復を図る上杉景勝と、織田家の旧領を死守しようとする佐々成政の、越中の覇権を賭けた代理戦争という側面があった。秋貞は佐々方の、斎藤は上杉方の尖兵として、互いに激突したのである。彼の最後の戦いは、大勢力同士の衝突の最前線に立たされたが故の悲劇であった。
戦いの序盤、秋貞の軍勢は優勢に戦を進めた。しかし、上杉景勝が派遣した援軍が城生城に到着すると、形勢は一気に逆転し、秋貞の軍は敗北を喫した 6 。
秋貞は、残った手勢を率いて本拠地である飛騨へ向けて敗走を試みた。しかし、飛騨と越中の国境付近、西猪之谷(現在の富山県富山市猪谷)まで逃れたところで、追撃してきた上杉方の武将・村田修理亮の部隊に捕捉された。ここで秋貞は鉄砲による狙撃を受け、致命傷を負ったとされる 6 。
瀕死の秋貞は、家臣によって戸板に乗せられ運ばれたが、逃亡先の戸谷村(現在の岐阜県飛騨市宮川町戸谷)でついに息を引き取った。享年63 3 。彼の戒名は「光明院殿州金満越大居士」と伝わる 6 。
この敗死により、一代で飛越国境に勢力を築いた塩屋氏は事実上没落したとみられる 29 。史料には、秋貞の子として監物、三平といった名が残されているが 6 、その後の詳しい動向は不明であり、歴史の表舞台から姿を消した。
塩屋秋貞の人物像を考察する上で、その卓越した経済感覚は欠かすことができない。特筆すべきは、彼の主君筋であった三木自綱が、秋貞から借金をしていたことを示す証文が現存している点である 6 。これは、家臣が主君に資金を融通するという、通常の主従関係からは考えにくい事態であり、秋貞がいかに豊かな財力を持ち、それを交渉の道具としていたかを物語っている。
戦国武将の評価は、しばしば武勇や戦略眼に偏りがちであるが、秋貞の事例は、経済力、特に「理財」の能力が、軍事・外交を支える上でいかに重要であったかを明確に示している。主君に金を貸し、熊の皮や鉛といった地域の産物を外交カードとして上杉謙信に献上する彼の姿は 6 、伝統的な武士像とは一線を画す。彼は、武力と経済力という二つの車輪を巧みに操り、乱世を渡り歩いた、先進的なマネジメント能力を持つ武将であったと評価できる。彼の強さの源泉は、その強固な経済基盤にあり、富が兵を雇い、城を築き、外交を有利に進めるための原動力となっていたのである。
塩屋秋貞の生涯の軌跡は、彼が拠点とした飛騨から越中にまたがる城郭群に色濃く反映されている。これらの城の配置と機能は、彼の戦略的意図を解明する上で重要な手がかりとなる。
初期の本拠地である 尾崎城 は、彼が商人から武将へと転身を遂げた象徴的な城である 8 。武田軍の侵攻により落城した後は、一時的に
古川城(蛤城)に退いた 6 。その後、三木自綱との対立が深まると、宮川沿いの要害の地である
塩屋城を新たな本拠地とした 30 。この地は、越中へのルートを確保する上で極めて重要な戦略拠点であった。一説には、この地に陸奥国の塩竈金清神社を勧請したとも伝えられている 30 。そして、上杉氏との連携を深める中で、越中進出の最前線基地として
猿倉城 を築城した 10 。この城は、彼が国境を越えて勢力を拡大し、上杉氏との外交を展開する上での中心的な役割を果たした。
これらの城郭の変遷と地理的配置は、秋貞が飛越間の交易路と軍事ルートを一体のものとして捉え、それを支配下に置くことで自らの勢力を維持・拡大しようとした、明確な戦略思想を持っていたことを示している。
城郭名 |
所在地(当時/現在) |
主な在城/関与時期 |
役割・位置づけ |
関連する主要な出来事・伝承 |
関連史料 |
尾崎城 |
飛騨国大野郡小八賀郷 / 岐阜県高山市丹生川町 |
天文年間~永禄7年(1564) |
初期の本拠地、勢力拡大の拠点 |
築城、金の鶏伝説、山県昌景による攻撃で落城 |
3 |
古川城(蛤城) |
飛騨国吉城郡 / 岐阜県飛騨市古川町 |
永禄7年(1564)~ |
一時的な退避拠点 |
尾崎城落城後に退却 |
3 |
塩屋城 |
飛騨国吉城郡 / 岐阜県飛騨市宮川町塩屋 |
永禄7年以降~ |
三木氏との対立後の本拠地、飛騨側の拠点 |
塩竈金清神社勧請説、詰城としての城山 |
30 |
猿倉城 |
越中国 / 富山県富山市大沢野 |
元亀2年(1571)~ |
越中進出の最前線基地、対上杉氏外交の拠点 |
上杉軍から離脱し築城、上杉方としての活動拠点 |
6 |
岩木城 |
越中国 / 富山県富山市(旧大山町) |
元亀3年(1572)頃 |
城生城攻めのための対の城(砦) |
斎藤信利との対峙 |
23 |
塩屋秋貞は、武将としての側面だけでなく、地域の文化や生活にも影響を残した人物として記憶されている。飛騨の代表的な伝統野菜である「飛騨紅かぶ」の原種とされる「八賀かぶ」は、秋貞がその領地にもたらしたものと伝えられている 6 。この伝承は、彼が単なる武人ではなく、地域の農業振興にも関心を持つ領主としての一面を持っていたことを示唆している。
また、彼の死を巡る物語は、その墓所のあり方にも現れている。公式な墓は、彼が戦死した越中の猪谷(富山県富山市)に存在している 6 。しかし、それとは別に、彼が最期を迎えた飛騨の戸谷(岐阜県飛騨市宮川町)にも、家臣がその遺髪を持ち帰って葬ったとされる墓(石碑)があり、菩提寺とされる光明寺には位牌も現存している 3 。
この二つの墓の存在は、単なる事実以上の意味を持つ。猪谷の墓が「死の場所」を記録するものであるとすれば、戸谷の墓は「魂の帰る場所」を象徴している。非業の死を遂げた主君を、何としてでも故郷である飛騨の地で弔いたいという、家臣たちの強い忠誠心と深い思慕の念が、この二つ目の墓を創り出したと解釈できる。複数の墓所の存在は、彼の悲劇的な最期と、彼が在地の人々からいかに慕われていたかを後世に伝える、感動的な物語を形成しているのである。
塩屋秋貞の生涯を詳細に追っていくと、彼は単なる一地方武将という枠組みには収まらない、多面的で興味深い人物像を浮かび上がらせる。彼の歴史的意義は、大きく二つの点に集約される。
第一に、商人から武将へという稀有な経歴である。彼の生涯は、戦国時代の社会的な流動性と、経済力が政治力・軍事力に直接転換し得たことを示す、極めて貴重な実例である。伝統的な武士の家柄ではなく、塩の交易という経済活動を基盤にのし上がった彼の存在は、戦国という時代が、旧来の価値観や身分制度を突き崩し、新たな能力を持つ人間が台頭する機会を提供したことを証明している。
第二に、大国の狭間で翻弄されながらも、独自の存在感を示した生涯そのものである。飛騨という地政学的に困難な場所にあって、秋貞は武田、上杉、織田という巨大勢力の間を巧みに渡り歩いた。彼は、ある時は三木氏の家臣として、ある時は上杉氏の同盟者として、またある時は織田・佐々方の武将として、その立場を柔軟に変化させながら生き残りを図った。その過程で、主君と対立し、独自の外交を展開するなど、強い自立性を見せた。彼の生涯は、中央の大きな歴史の陰に隠れがちな、地方の中小領主が繰り広げたリアルな生存競争と、彼らが時代の力学に与えた微細ながらも確かな影響を浮き彫りにする。
最終的に彼は、信長死後の混乱という、自らの力では抗いようのない大きな渦に呑み込まれて命を落とした。しかし、その死に至るまでの63年間の生涯は、経済力、外交術、そして武力を駆使して乱世を駆け抜けた一人の男の、したたかで、そして人間味あふれる物語として、戦国史の中に確かな一頁を刻んでいる。塩屋秋貞という人物を深く理解することは、戦国時代を、勝者と敗者という単純な二元論ではなく、より立体的かつ多角的に理解するための、重要な一つの視座を提供してくれるのである。