最終更新日 2025-06-28

多功房朝

戦国下野の堅盾:猛将・多功房朝の生涯と武功に関する総合的研究

序章:猛将・多功房朝の実像を求めて

下野国(現在の栃木県)の戦国史において、主家・宇都宮氏の南方を守る防波堤として、その武名を轟かせた一人の武将がいる。多功房朝(たこう ふさとも)である。本報告書は、彼が「猛将」と評されるに至った武功の数々を詳細に追うと共に、彼が生きた時代の政治的文脈、彼が属した多功一族の歴史、そして彼の武功の舞台となった多功城の戦略的価値を重層的に分析する。これにより、単なる武勇伝に留まらない、歴史的人物としての多功房朝の多角的な実像を明らかにすることを目的とする。

研究にあたっては、房朝個人の生涯を追うだけでなく、彼の存在が宇都宮氏の存続に如何なる影響を与えたのか、また、関東の覇権を争う北条氏の戦略において、多功城と多功一族が如何なる障壁として認識されていたのかを考察する。史料としては、『栃木県史』などの編纂史料、軍記物である『下野国誌』や『宇都宮興廃記』、そして近年の考古学的知見(発掘調査報告)を横断的に活用する 1 。これらの記述を比較検討することを通じて、より確度の高い歴史像の構築を目指すものである。

第一章:下野の雄・宇都宮氏と多功一族の勃興

第一節:戦国期下野国の政治情勢 — 大勢力の狭間で

多功房朝の生涯を理解するためには、まず彼が置かれた時代の地政学的状況を把握する必要がある。戦国時代の宇都宮氏は、西と南から相模の北条氏、北から那須氏、東から常陸の佐竹氏、そして北関東に影響力を行使しようとする越後の上杉氏という、強力な戦国大名に四囲を囲まれた極めて不安定な状況にあった 5

特に、関東に覇を唱えんとする北条氏の膨張政策は、宇都宮氏にとって最大の脅威であった。これに対抗するため、東の佐竹氏との連携は、宇都宮氏の存亡を左右する生命線となっていた 7

しかし、宇都宮氏の苦境は外圧だけに留まらなかった。家中の内紛である「天文の内訌(宇都宮錯乱)」や、後述する五月女坂の戦いでの当主討死に端を発する重臣・壬生氏の下克上など、深刻な内憂を常に抱えていたのである 9 。多功房朝の活躍は、まさに主家が内憂外患によって最も脆弱であった時期と完全に重なっている。彼の武功は、こうした存亡の危機にあってこそ、その真価を発揮したと言える。

第二節:宇都宮氏の庶流・多功氏の成立と役割

多功氏は、鎌倉時代中期の宝治2年(1248年)、宇都宮氏第5代当主・宇都宮頼綱の子である多功宗朝が、下野国河内郡多功の地に多功城を築き、宇都宮家から分家したことにその起源を持つ 12

宇都宮氏の家臣団において、多功氏は「紀清両党」と並び称される武の中核を担う一門であった 13 。その本拠である多功城は、宇都宮城の南方を守る「南の要」として、極めて重要な戦略的役割を代々担ってきたのである 17 。すなわち、多功氏は単なる家臣ではなく、宇都宮氏の支配領域における最前線の防衛を託された、一門衆の中でも特に重きをなす存在であった。

一族は、宗朝の三男・朝定が下野市下古山の地に児山城を築いて分家する(児山氏)など、下野国内に勢力を広げ、宇都宮氏の支配体制を支える強力な支柱となっていた 14

多功氏の歴史を俯瞰すると、その運命が主家である宇都宮氏の盛衰といかに密接に連動していたかがわかる。宇都宮氏の庶流として創始されたその存在意義は、当初から本家の防衛にあり、房朝が活躍した戦いは、いずれも宇都宮氏の存亡がかかった決定的な局面であった 12 。そして最終的に、宇都宮氏が豊臣政権によって改易されると、多功氏もまた所領を失い、一族は離散の道を辿ることになる 12 。この一連の流れは、多功氏の運命が完全に宇都宮宗家と一心同体であったことを示している。したがって、房朝の忠節と武功を評価する際には、この歴史的背景を常に念頭に置く必要がある。彼の行動は、個人的な武勇の発露であると同時に、一族に課せられた「南の要」としての歴史的役割を全うしようとする、強い責任感の表れであったと解釈できるのである。

第二章:多功房朝の生涯と武功

多功房朝の80年以上にわたる生涯は、下野国が最も激動した時代と完全に重なる。彼の個人的な戦歴と、宇都宮氏、北条氏、佐竹氏、上杉氏といった周辺勢力の動向を並列して見ることで、彼の行動が常に大きな政治的・軍事的文脈の中で行われていたことが明らかになる。

表1:多功房朝 略年譜

西暦

元号

年齢

多功房朝の動向および関連事項

主要な関連勢力の動向

1503年

文亀3年

0歳

多功房朝、誕生 (『栃木県史』等の記述に基づく) 1

1549年

天文18年

47歳

五月女坂の戦い 。父・長朝と共に先鋒として奮戦するも、主君・宇都宮尚綱が討死し大敗 10

那須高資が宇都宮領に侵攻。戦後、壬生綱房が宇都宮城を乗っ取る 10

1558年

永禄元年

56歳

多功ヶ原の戦い 。父・長朝と共に長尾景虎(上杉謙信)軍を多功城下で迎撃。敵将・佐野豊綱を討ち取り撃退 2

長尾景虎が関東に出兵し、下野に侵攻。

1558年

永禄元年

56歳

10月5日、父・多功長朝が死去。 房朝が家督を相続 し、多功城主となる 16

1572年

元亀3年

70歳

1月、多功城に侵攻してきた北条軍(2千)を撃退。12月、再び侵攻してきた北条軍を佐竹義重の援軍と共に撃退 1

北条氏政が下野への圧力を強める。宇都宮・佐竹同盟が機能。

1585年

天正13年

83歳

北条軍が宇都宮領に侵攻し、多功城も攻撃を受けるが、子の綱継が指揮を執りこれを撃退 21

北条氏が宇都宮城攻略を目指し侵攻。

1589年

天正17年

87歳

北条氏邦の軍勢が再び多功城を攻めるが、子の綱継が撃退 24

北条氏と豊臣秀吉の関係が悪化。小田原征伐の前哨戦が各地で起こる。

1589年

天正17年

87歳

10月5日、 多功房朝、死去 。墓所は菩提寺の見性寺 1

第一節:生誕から家督相続まで

多功房朝は、文亀3年(1503年)に、「宇都宮家中一の侍大将」と評された猛将・多功長朝の子として誕生したとされる 1 。通称は孫左衛門、官位は石見守を称し、「房興(ふさおき)」という別名も伝わっている 1

その没年は天正17年(1589年)10月5日とされており、この生没年に従うならば、彼は87歳という戦国武将としては驚異的な長寿を全うしたことになる 1 。この長寿は、父・長朝から子・綱継へと続く多功氏の武功の連続性を理解する上で、時に世代間の功績の混同を生む一因とも考えられるが、彼の活動期間がいかに長かったかを物語っている。死後、彼が眠る墓所は一族の菩提寺である見性寺に築かれた 1

第二節:主家存亡の危機における奮戦

房朝が歴史の表舞台に登場するのは、主家・宇都宮氏が存亡の危機に瀕した二つの重要な合戦においてである。

五月女坂の戦い(天文18年・1549年)

天文18年(1549年)、那須高資が宇都宮領に侵攻すると、宇都宮氏当主・尚綱はこれを迎撃すべく出陣した。この「五月女坂の戦い」において、当時47歳の房朝は父・長朝と共に宇都宮軍の先鋒を務めた 1

当初、兵力で勝る宇都宮軍が優勢に戦を進めたが、那須軍が巧みに伏せていた伏兵の奇襲により戦況は一変し、宇都宮軍は混乱に陥った 10 。この混乱の中、多功親子は必死に奮戦したものの、大将である宇都宮尚綱が前線で敵の矢に射抜かれて討死するという最悪の事態が発生する 10 。総大将を失った宇都宮軍は総崩れとなり、合戦は大敗に終わった。

この敗戦は宇都宮氏に壊滅的な打撃を与えた。かねてより野心を抱いていた重臣の壬生綱房がこの機に乗じて下克上を果たし、宇都宮城を占拠。正統な後継者であったわずか5歳の伊勢寿丸(後の宇都宮広綱)は、忠臣・芳賀高定に保護されて居城を脱出し、真岡城へと落ち延びることを余儀なくされた 9 。宇都宮氏は、まさに滅亡の淵に立たされたのである。

多功ヶ原の戦い(永禄元年・1558年)

五月女坂の戦いから9年後の永禄元年(1558年)、芳賀高定らの尽力によって宇都宮広綱が宇都宮城への帰還を果たして間もなく、新たな脅威が北から迫った。越後の「軍神」長尾景虎(後の上杉謙信)が、佐野氏を先鋒として下野国に侵攻してきたのである 2

景虎軍は宇都宮領の南の玄関口である多功城に迫った。この時、城主であった多功長朝は、子の房朝ら一族・家臣を率いて城下の多功ヶ原でこれを迎撃した。宇都宮勢の奮闘は凄まじく、激戦の末、敵の先鋒大将であった佐野豊綱を討ち取るという大金星を挙げ、長尾軍を撃退することに成功した 2 。この戦いにおける長朝の活躍は目覚ましく、「宇都宮家中一の侍大将」と称賛される武功となった 2

しかし、この輝かしい勝利からわずか数ヶ月後の同年10月5日、父・長朝はこの世を去る 16 。これにより、56歳となっていた房朝が多功家の家督を正式に継承し、宇都宮氏の南方防衛の全責任をその双肩に担うこととなったのである。

第三節:対北条氏防衛戦の主軸として — 難攻不落・多功城の城主

父の死後、房朝が率いる多功城は、関東の覇権をめぐる北条氏と反北条連合(上杉・佐竹・宇都宮)の激しい攻防の最前線となる。

元亀3年(1572年)、房朝が70歳の時、多功城は北条氏による二度の苛烈な攻撃に晒される。1月、北条氏政が派遣した2000の軍勢が多功城に侵攻するが、城主・房朝はこれを単独で撃退 1 。さらに同年12月、北条軍が再び大軍で攻め寄せるが、この時は同盟者である常陸の佐竹義重が援軍を派遣。房朝は佐竹軍と巧みに連携し、見事これを退けた 1 。この一連の防衛成功は、房朝の卓越した指揮能力と、宇都宮・佐竹同盟が実効的に機能していたことを示す好例である。

天正年間に入ると、房朝は高齢(1585年時点で83歳)となったため、実質的な軍事指揮権は子の多功綱継に委譲されていた可能性が高い。天正13年(1585年)や天正17年(1589年)にも、北条氏邦らの大軍が多功城に繰り返し侵攻しているが、これらの戦いでは綱継が城主として指揮を執り、ことごとく撃退したと記録されている 21 。しかし、これらの輝かしい勝利も、房朝が長年にわたり築き上げてきた多功城の堅固な防衛体制と、一族郎党の強固な結束、そして何よりも主家を守り抜くという不屈の意志が、世代を超えて受け継がれた結果であると評価できる。

房朝の戦歴を分析すると、その武功が二つの異なる文脈で理解されるべきであることが見えてくる。前半生、すなわち五月女坂の戦いや多功ヶ原の戦いは、宇都宮氏の家督や下野国内の支配権をめぐる、いわば「内戦」の性格が強い。ここでの房朝(と父・長朝)の役割は、崩壊寸前の主家を武力で支える「忠臣」としての側面が際立っている。

一方、後半生、特に上杉謙信の関東出兵以降、下野は上杉・佐竹連合と北条氏の草刈り場と化した。元亀・天正期における対北条戦は、単なる局地戦ではなく、関東全体の覇権争いの一環であった。ここでの房朝の役割は、宇都宮・佐竹同盟の南の拠点を死守する「防衛司令官」としての側面が強い。この二つの文脈を区別することで、房朝の評価はより立体的になる。彼は単なる猛将ではなく、時代の変化に対応し、主家の存続という一貫した目的のために、性質の異なる戦いを戦い抜いた、知略と粘り強さを兼ね備えた戦略的武将であったと見なすことができるのである。

第三章:本拠・多功城の構造と戦略的価値

多功房朝の武功は、その本拠である多功城の存在と分かちがたく結びついている。この城がいかにして「難攻不落」と謳われるに至ったのか、その地理的条件、構造、そして城主一族の役割から解き明かす。

表2:多功城をめぐる主要な合戦一覧

年月日

合戦名

交戦勢力(指揮官)

多功側の城主

結果・特記事項

1558年(永禄元年)5月29日

多功ヶ原の戦い

攻撃側: 長尾景虎、佐野豊綱

防御側: 宇都宮・多功連合軍

多功長朝

宇都宮軍の勝利。敵将・佐野豊綱を討ち取る 2

1572年(元亀3年)1月

多功城の戦い

攻撃側: 北条氏政軍

防御側: 多功房朝軍

多功房朝

北条軍を撃退 1

1572年(元亀3年)12月

多功城の戦い

攻撃側: 北条氏政軍

防御側: 多功・佐竹連合軍

多功房朝

佐竹義重の援軍を得て北条軍を撃退 1

1585年(天正13年)12月

多功城の戦い

攻撃側: 北条氏直軍

防御側: 多功綱継軍

多功綱継

徹底抗戦により北条軍を撃退 21

1589年(天正17年)9月

多功城の戦い

攻撃側: 北条氏邦、芳賀高継軍

防御側: 多功綱継軍

多功綱継

北条に寝返った旧宇都宮家臣を含む軍勢を撃退 24

第一節:城郭の地理的・戦略的位置

多功城は、宇都宮城の南約12キロメートルに位置し、同じく宇都宮一門が守る上三川城と共に、宇都宮城の南方防衛線を形成する最重要拠点であった 17 。地理的には、下野国の南部、すなわち小山や薬師寺方面から宇都宮へ至る交通の要路を押さえる位置にあり、軍事的な意味合いだけでなく、交通・経済上の要衝でもあった 21 。このため、関東南部から勢力を拡大する北条氏が宇都宮を攻略しようとする際には、必ず突破しなければならない最大の戦略的障害となっていた。

第二節:縄張と防御構造 — 難攻不落の秘密

多功城は、推定規模東西約400メートル、南北約300メートルの平城であった 15 。主郭を中心に深い堀と高い土塁を巡らせた堅固な構造であったと考えられている 31 。現存する古図や地籍図の分析からは、城内への進入路がクランク状に屈折する構造や、敵兵を三方から攻撃するための「桝形」と呼ばれる区画の存在も推定されており、築城当初から高い防御思想に基づき設計されていたことが窺える 32

この文献史料が伝える堅固さは、近年の考古学調査によっても裏付けられている。2018年以降に行われた城ノ内遺跡の発掘調査では、多功城の南側を守る外堀の一部と見られる大規模な堀の遺構が初めて確認された 33 。この堀は、上部の幅が約4メートルから6メートル、深さが最大で2.4メートルにも達する「箱薬研堀」と呼ばれる、底が鋭く切り立った断面を持つ非常に防御的な構造であった 4 。この物理的な証拠は、上杉謙信や北条氏政・氏邦といった当代一流の武将たちが率いる大軍の度重なる攻撃をことごとく退けたという歴史的記録の信憑性を強力に補強するものである。さらに、この堀は城郭本体だけでなく、城下に形成された多功宿の南辺を区画する機能も併せ持っていた可能性が指摘されており、城と城下町が一体となった防衛体制が構築されていたことを示唆している 4

第三節:領地経営と菩提寺・見性寺

多功氏は、祖である宗朝による築城(1248年)から、豊臣政権による宇都宮氏改易に伴う廃城(1597年)まで、約350年という長きにわたり多功の地を支配し続けた 12 。これは、彼らが単なる軍事拠点としての城主ではなく、在地に根差した領主(国人)として、安定した領地経営を行っていたことを示している 35

その領地経営の一環として、一族の精神的な支柱となったのが菩提寺である見性寺であった 18 。見性寺の縁起には複数の説が存在する。房朝の祖父にあたる多功建昌が天文21年(1552年)に「星宮山多功院建昌寺」として建立したという記録がある一方で 37 、より詳細な縁起によれば、元は平家ゆかりの人物が結んだ「浄土宗建昌寺」という庵を、初代城主の多功宗朝が庇護し、宝徳3年(1451年)に曹洞宗の僧侶を招いて「見性寺」と改称し、自らの菩提寺として発展させたとされる 38 。多功氏は寺領を寄進してその経営を支えたが、慶長2年(1597年)に主家が改易されると、これらの寺領も没収され、見性寺は一時衰退の道を辿った 36

多功城が「難攻不落」と称された理由は、単一の要因に帰結するものではない。それは、城郭自体の物理的な堅固さという「ハードウェア」と、城主である多功一族の世代を超えた防衛への意志と卓越した軍事的能力という「ソフトウェア」とが、見事に融合した結果であった。発掘調査で確認された大規模な堀や、古図から推定される桝形などの防御施設は、城の物理的な強さを示している 4 。しかし、いかなる堅城も、守る将が凡庸であればその価値は半減する。多功氏には、長朝、房朝、綱継という、少なくとも三代にわたって武勇に優れた当主が続いた 1 。彼らは主家への揺るぎない忠誠心と、自らの本拠地を守り抜くという強い意志を共有していた。さらに、元亀3年の対北条戦で見られるように、佐竹氏との同盟関係を戦術レベルで活かす外交・軍事連携能力も有していた 1 。したがって、多功城の不落神話は、堅固な「城郭」を、有能で意志の強い「城主一族」が最大限に活用し、さらに「同盟」という外部リソースと巧みに連携させた結果、実現された総合的な防衛力の賜物であったと結論付けられる。

第四章:主家の改易と多功氏のその後

戦国の世を生き抜いた多功氏であったが、その運命は主家・宇都宮氏のそれと分かちがたく結びついていた。時代の大きなうねりは、ついに下野の名門にも終焉の時をもたらす。

第一節:宇都宮氏の終焉と多功城の廃城

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が北条氏の滅亡をもって終結すると、宇都宮国綱は秀吉にいち早く臣従した功績を認められ、所領を安堵された。この迅速な対応の裏には、多功房朝の子・綱継らの働きがあったと伝えられている 23 。しかし、そのわずか7年後の慶長2年(1597年)、宇都宮氏は「知行隠し」の罪(石高の過少申告)を問われ、豊臣政権によって突如として改易されてしまう 18

主家と運命を共にした多功氏もまた、350年にわたって守り抜いてきた所領をすべて失った。そして、上杉、北条の猛攻を幾度となく跳ね返してきた名城・多功城も、ここに廃城となり、その歴史に幕を閉じたのである 12

第二節:子孫の行方 — 伊予への道

所領を失い、浪々の身となった多功氏であったが、その武名は決して忘れ去られてはいなかった。一族の一部は、四国の伊予今治藩(現在の愛媛県今治市)の藩主・松平氏に仕官したと伝えられている 12 。これは、多功氏の武勇と忠節が他国にも広く知られており、武士としての再仕官が可能なだけの高い評価を得ていたことを示唆している。

江戸時代に入ると、この伊予に渡った子孫と故郷・下野との心温まる交流を伝える逸話が残されている。享保12年(1727年)、伊予今治藩士となっていた多功孫左衛門(房朝の孫・綱継の子である綱秀の子孫か)が、主君である松平氏の日光社参に随行した際、道中の壬生宿(多功の隣宿)を訪れ、かつての家臣たちと再会を果たしたという記録がある 20

第三節:多功家累代の墓 — 故郷に残る記憶

多功城跡の南に位置する菩提寺・見性寺には、現在も「多功家累代の墓」として、鎌倉時代から室町時代にかけて造立されたとみられる五輪塔群が静かに佇んでいる 17 。凝灰岩で造られているため風化が進み、刻まれた銘文を読むことは困難だが、その質素なたたずまいは、華美を好まず実質を重んじた多功一族の気風を今に伝えていると評される 18

この墓所は、故郷を遠く離れた伊予の子孫たちにとっても、決して忘れることのできない精神的な拠り所であり続けた。彼らは、主君の日光社参などで下野の近くを通る機会があるたびに、見性寺に使者を送り、祖先の霊を弔うことを忘れなかったという 18 。この墓は、多功氏のかつての支配の証であると同時に、離散した子孫が自らのルーツを確認し、一族の誇りを胸に刻み続けるための、大切な場所だったのである。

多功氏の物語は、1597年の改易によって物理的には一度終焉を迎える。しかし、彼らの歴史はそこで断絶したわけではなかった。伊予今治藩という新たな仕官先を見つけ、武士としての家名を存続させたことは、「武」の記憶が価値として認められた結果である。改易から130年後も、旧領や旧家臣との間に主従の記憶が生き続けていたことを示す享保年間の逸話は、物理的な支配関係が失われた後も、精神的な紐帯がいかに強く維持されていたかを物語る 43 。そして、異郷の地から故郷の菩提寺へと思いを馳せ、祖先を弔い続けた行為は、自らの出自の記憶を再確認し続けるための儀式であったと考えられる 18 。多功氏の物語は、戦国時代の武功で終わるのではなく、江戸時代を通じて「記憶」を拠り所にアイデンティティを維持し続けた一族の姿を描き出す。これは、戦国武将の研究において、その後の子孫の動向を追うことの重要性を示す好例と言えるだろう。

終章:歴史的評価と後世への継承

多功房朝は、父・長朝、子・綱継と共に、主家・宇都宮氏が最も困難な時代を乗り越える上で、まさに不可欠な武将であった。彼の生涯は、主家の内紛に喘いだ前半生と、関東の覇権をめぐる大国間の争いの最前線に立った後半生に大別されるが、そのいずれにおいても、宇都宮氏の「南の盾」としての役割を忠実に、そして見事に果たし抜いた。特に、関東の覇権を狙う北条氏の南下を、その生涯をかけて多功城で食い止め続けた功績は、宇都宮氏の存続、ひいては北関東の勢力図に少なからぬ影響を与えたと高く評価できる。

『下野国誌』や『宇都宮興廃記』といった後代に編纂された軍記物において、彼の武勇は英雄的に描かれる傾向がある 2 。しかし、断片的な一次史料や同時代の政治・軍事状況を分析することで、単なる猪突猛進の猛将ではなく、同盟国との連携を重視し、城の防御力を最大限に活かす知略も兼ね備えた、総合的な指揮官であったという、より現実的な姿が浮かび上がってくる。

多功房朝と彼が率いた多功一族の歴史は、現在、栃木県河内郡上三川町の郷土史として、多功城跡や菩提寺・見性寺に残る累代の墓といった史跡と共に、今に大切に伝えられている 14 。彼らの物語は、大国の狭間で自らの領地と主家を守り抜こうとした地方武士団の気概と誇りを象徴する、貴重な歴史遺産なのである。

引用文献

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