本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた近江国甲賀の国人領主、多羅尾光俊(たらお みつとし)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。利用者によって提示された「甲賀の豪族、道賀斎と号す、甲賀五十三家に列する、本能寺の変の際、徳川家康を護衛した、のち羽柴家に仕えたが、関白秀次粛清に連座して失脚」という概要は、光俊の生涯の骨子を的確に捉えている。しかし、彼の人生の浮沈は、戦国末期から近世へと移行する時代の激動の中で、地方領主が如何にして生き残りを図ったかを示す、極めて示唆に富んだ事例である。本報告書では、光俊を単なる「家康の功臣」としてではなく、自立した思慮と戦略を持つ一人の国人領主として捉え、その実像に迫る。
多羅尾光俊は、永正11年(1514年)に生まれ、慶長14年(1609年)に没した 1 。通称は四郎兵衛、四郎右衛門、号は道賀(または道可)斎と称した 1 。彼の95年にも及ぶ生涯は、室町幕府の権威が失墜し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人が次々と台頭する、日本史上最もダイナミックな時代と完全に重なっている。彼の人生を追うことは、戦国という時代の本質と、その中で生きる地方領主の生存戦略を理解する上で、貴重な視点を提供するものである。
表:多羅尾光俊 一族・主要関係者一覧
分類 |
人物名 |
読み |
多羅尾光俊との関係・概要 |
多羅尾家 |
多羅尾光吉 |
たらお みつよし |
父 1 。 |
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多羅尾光太 |
たらお みつもと |
嫡男。伊賀越えで父と共に家康を支援。後に関ヶ原等で戦功を挙げ、多羅尾家を再興 2 。 |
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多羅尾光雅 |
たらお みつまさ |
三男。伊賀越えの際、兄や弟と共に家康を警護 2 。 |
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山口光広 |
やまぐち みつひろ |
五男。宇治田原の山口氏へ養子。伊賀越えの際に家康一行を最初に保護し、父に連絡 5 。 |
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於萬の前 |
おまんのまえ |
孫娘(次男の娘とも)。豊臣秀次の側室となり、多羅尾家栄達の鍵となるが、秀次事件で処刑される 2 。 |
主君・協力者 |
徳川家康 |
とくがわ いえやす |
本能寺の変後、光俊に保護される。その恩義から後に多羅尾家を再興させる 3 。 |
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豊臣秀吉 |
とよとみ ひでよし |
天下人。光俊は秀吉に仕え、甥の秀次との関係を築く 1 。 |
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豊臣秀次 |
とよとみ ひでつぐ |
秀吉の甥で関白。光俊は孫娘を側室に送り込むことで関係を深めるが、秀次の失脚に連座する 2 。 |
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長谷川秀一 |
はせがわ ひでかず |
家康の側近。伊賀越えの際、光俊やその子・光広と旧知の間柄であったことが、支援のきっかけとなる 6 。 |
関連人物 |
多羅尾綱知 |
たらお つなとも |
光俊と同時代の多羅尾一族。三好長慶に仕え畿内で活動。光俊の系統との関係は不明 3 。 |
多羅尾氏の出自は、鎌倉時代の公卿である近衛経平の庶子・師俊に遡ると伝承されている 4 。この伝承によれば、師俊は当初、高山氏を称していたが、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾の地に土着し、その地名から多羅尾氏を名乗るようになったという 3 。戦国時代の国人領主が自らの家格と権威を高めるため、中央の有力な公家や武家にその出自を求めることは珍しくなく、多羅尾氏のこの伝承もその一環と見なすことができる。
彼らは単に高貴な血筋を名乗るだけでなく、近衛家の荘園「信楽荘」の荘官、すなわち現地の荘園管理人として活動する中で、徐々に在地での実効支配力を強め、国人領主としての地位を確立していった 11 。室町時代の応仁の乱(1467年-1477年)の頃には、近衛家の家計を支える重要な荘園として、当主である近衛正家自らが信楽に赴いて経営に関与しており、その際の日記『後法興院記』には、多羅尾氏が荘官として重要な役割を果たしていたことが記録されている 11 。
この近衛家との繋がりは、多羅尾氏の家紋にも象徴的に表れている。多羅尾家が用いた「大割牡丹」あるいは「抱き牡丹」といった家紋は、本家である近衛家の家紋「牡丹」を強く意識したものであり、自らの出自と権威を視覚的に示す役割を果たしていた 11 。このように、多羅尾氏は「公家の末裔」という権威と、在地を実効支配する「国人領主」という実力を併せ持つ、特異な存在として甲賀の地に根を下ろしていったのである。
多羅尾氏が本拠とした甲賀郡は、特定の強力な守護大名による一元的な支配を受けず、「惣」と呼ばれる地侍たちの連合体によって自治が行われていた特異な地域であった。多羅尾氏は、この連合体を構成する「甲賀五十三家」と総称される有力な一族の一つに数えられている 14 。甲賀五十三家は、柏木三家や北山九家といった小規模な地域連合の集合体であり、多羅尾氏はその中でも主要な家の一つとして認識されていた 15 。
当初、甲賀の国人たちは南近江の守護大名である六角氏に従属しており、多羅尾氏もその麾下で活動していた 3 。しかし、永禄11年(1568年)に六角氏が織田信長によって滅ぼされると、甲賀衆は新たな権力者との関係構築を迫られる。この権力の空白期において、多羅尾光俊は信長に仕える道を選択し、時代の変化に対応した 2 。
興味深いことに、光俊が信長や家康との関係を模索していた同時期、多羅尾一族の中には異なる道を歩む者もいた。多羅尾綱知という人物は、畿内を支配していた三好長慶や松永久秀に仕え、「若江三人衆」の一人として中央政界で活躍していた 3 。綱知は三好義継の妹を娶るなど、三好家と極めて深い関係を築いていた 10 。光俊の系統と綱知の系統との直接的な関係は史料上「不明」とされているが 3 、これは多羅尾一族が単一の勢力に依存するのではなく、それぞれが異なる大名に仕えることで、一族全体としてのリスクを分散させるという、高度な生存戦略をとっていた可能性を示唆している。一方が没落しても、他方が生き残ることで家名を存続させようという、戦国国人のしたたかな知恵が垣間見える。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都の本能寺で明智光秀に討たれるという衝撃的な事件が発生した。その時、信長の同盟者であった徳川家康は、わずかな供回りを連れて和泉国堺に滞在していた 8 。京とその周辺地域は、クーデターを成功させた明智光秀の軍勢によって完全に制圧されており、武装も不十分な家康一行は、まさに絶体絶命の危機に陥っていた 19 。
本国である三河国岡崎への帰還を目指すにあたり、家康一行が選択したのは、山城国から甲賀、そして伊賀を抜けて伊勢湾へ至るという、最短距離ではあるが最も危険な逃亡ルートであった 19 。この地域、特に伊賀国は、その数年前に信長による苛烈な侵攻(天正伊賀の乱)を受けたばかりであり、織田氏とその同盟者である家康に対する怨恨が渦巻いていた。いつ落ち武者狩りに襲われてもおかしくない、極めて危険な道のりであった 8 。
家康一行が多羅尾光俊の保護下に入るに至る経緯については、主要な史料間で記述に若干の差異が見られる。この差異を比較検討することは、当時の状況をより立体的に理解する上で重要である。
江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』によれば、家康に同行していた側近の長谷川秀一が光俊と旧知の間柄であり、秀一からの連絡を受けて光俊が一行を迎え入れたと簡潔に記されている 6 。一方、江戸時代に編纂された大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜』には、より詳細な経緯が記されている。それによると、家康一行はまず山城国宇治田原の城主であった山口光広の元を訪れた。この光広は光俊の五男であり、山口家へ養子に入っていた人物で、彼もまた長谷川秀一と知己であった。光広は父である光俊に飛脚で急報し、その連絡を受けた光俊が嫡男の光太と共に自ら出迎え、一行を信楽の自領へと丁重に招き入れた、とされている 6 。
光俊の支援は、単なる道案内にとどまらなかった。彼は家康一行を自身の居城である小川城(あるいはその麓の館)に宿泊させ、手厚くもてなした 20 。特に有名な逸話として、飢えに苦しんでいた一行に赤飯を振る舞ったことが挙げられる。『徳川実紀』には、家康主従があまりの空腹に箸が出るのを待つことさえできず、手づかみで赤飯を食したと記されており、当時の切迫した状況を物語っている 6 。さらに、光俊は息子の光雅や光広らに甲賀の武士たちを率いさせ、伊賀を抜けて伊勢国の港町である白子に至るまで、一行を厳重に警護させた 2 。この組織的かつ献身的な支援は、光俊の単なる人情によるものではなく、自らの勢力の将来を賭けた、極めて戦略的な判断であった。当時畿内を制圧していた明智光秀に敵対するリスクを冒してでも、将来天下の趨勢を左右する可能性のある家康に恩を売ることは、大きな「投資」に他ならなかったのである。
この家康の決死の逃避行は、一般に「神君伊賀越え」として知られている。しかし、その行程を詳細に見ると、通過した地域の大部分は伊賀国ではなく、多羅尾光俊をはじめとする甲賀衆が支配する甲賀郡であった。この事実から、この事件の本質は「伊賀越え」というよりも、むしろ「甲賀越え」と呼ぶべきであるという重要な指摘がなされている 16 。服部半蔵の呼びかけにより伊賀衆も一部協力したが、天正伊賀の乱の直後という状況下で、織田の同盟者である家康への反感が根強かったことを考えれば、多羅尾氏を中心とする甲賀衆の組織的な支援がなければ、家康の生還は極めて困難であっただろう 16 。
この一件は、家康の生涯における三河一向一揆、三方ヶ原の戦いと並ぶ「三大危機」の一つとされ、これを乗り越えたことが、後の天下取りへの道を切り拓く重要な転機となった 26 。そして、この危機を救った多羅尾光俊の功績は、家康の記憶に深く刻み込まれた。この時の「忘じがたい恩義」こそが、後に豊臣政権下で没落した多羅尾家を、徳川の世で再興させる直接的な要因となるのである 3 。光俊のハイリスクな戦略的投資は、時を経て絶大なリターンをもたらすことになった。
表:神君伊賀越えに関する主要史料の記述比較
史料名 |
家康一行の行程(多羅尾氏関連部分) |
光俊との接触経緯 |
支援内容の要約 |
特記事項 |
『徳川実紀』 |
近江国信楽に至り、多羅尾光俊の家に迎え入れられる 6 。 |
家康の供をしていた長谷川秀一が光俊と旧知の間柄であったため、秀一が連絡を取った 6 。 |
居館に迎え入れ、饗応。特に赤飯を提供したところ、家康主従が手づかみで食べた逸話が記される 6 。 |
幕府公式史書としての記述。逸話編に詳細が記されている。 |
『寛政重修諸家譜』 |
山城国宇治田原の山口城(城主:山口光広)に立ち寄り、その後信楽の多羅尾光俊の居宅に入る 6 。 |
山口光広(光俊の五男)が長谷川秀一と知己。光広からの飛脚連絡で、光俊と光太が山田村まで出迎えた 6 。 |
一族郎党と甲賀の侍を率いて警護。御膳を差し上げ、手厚く守護した。息子たちに伊勢白子まで警固させた 2 。 |
多羅尾家の家伝に基づく、より詳細な経緯が特徴。 |
『石川忠総留書』 |
宇治田原から近江国甲賀小川の多羅尾光俊の館に宿泊 22 。 |
(詳細な記述なし) |
館に宿泊したことが記される。 |
家康の随行者からの聞き書きに基づく一次史料に近い記録。 |
神君伊賀越えでの功績により、多羅尾光俊は徳川家康から所領を与えられ、その地位を固めた 2 。その後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に仕えることになる 1 。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、当初家康方として浅野長政の軍勢を撃退したが、その後の和睦交渉の過程で浅野氏との間に縁が生まれ、それが秀吉に臣従する一つの契機となったとする説もある 3 。
光俊の真骨頂は、ここから発揮される。彼は、秀吉の甥であり、後継者として関白の地位にあった豊臣秀次との関係構築に注力した。秀次が近江八幡に本拠を置くと、光俊は彼を自領の信楽で歓待し、自身の孫娘(一説には次男の娘)である「於萬の前」を秀次の側室として送り込んだのである 1 。これは、政権の中枢と直接的な血縁関係を結ぶことで、自家の地位を飛躍的に向上させようとする、戦国武将の典型的な政略であった。
この戦略は、一時的に絶大な成功を収める。秀次との強い結びつきにより、多羅尾氏の所領は飛躍的に増大し、本拠地の信楽や近江諸領に加え、伊賀、山城、大和にまでまたがる合計八万石もの所領を有したと、複数の資料に記されている 1 。この石高は、甲賀の一国人に過ぎなかった多羅尾氏の出自を考えれば、小大名に匹敵する破格の待遇であり、多羅尾家の全盛期であった。しかし、この栄華は、秀次個人の権勢という極めて脆弱な基盤の上に成り立っていた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉に実子・秀頼が誕生したことで、養子であり関白であった秀次の立場は急速に悪化する。秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ、高野山へ追放し、ついには切腹を命じた 9 。この「秀次事件」は、豊臣政権を揺るがす一大粛清へと発展した。
秀次の死後、その妻子や側室、近臣たちは容赦なく処刑された。秀次の寵愛を受けていた於萬の前も例外ではなく、三条河原で斬首された 3 。そして、彼女を秀次に送り込むことで栄華を掴んだ多羅尾光俊も、当然のことながら連座の咎を問われることとなった 2 。その結果、多羅尾氏は八万石とされた所領を全て没収(改易)され、一瞬にして無禄の身へと転落した 1 。光俊自身は、本拠地である信楽での蟄居を命じられ、栄華の頂点から奈落の底へと突き落とされたのである 1 。
この栄達と没落の劇的な展開は、国人領主が中央の巨大な権力構造に組み込まれていく過程で直面したジレンマを象徴している。特定の権力者との個人的なコネクションに依存する戦略は、短期間で大きな利益を生む可能性がある一方で、そのパトロンが失脚すれば自らも破滅に直結するという、極めて高いリスクを内包していた。家康支援という賭けに勝った光俊は、秀次への接近という次の賭けで、中央政権の非情な論理の前に敗れ去ったのである。なお、「八万石」という石高については、光俊個人の直接の知行地ではなく、秀次の広大な領地の一部を管理する代官としての「管轄高」であった可能性が指摘されている。もしそうであれば、彼の地位は「八万石の大名」ではなく、「八万石を管轄する秀次の有力家臣」と理解するのがより正確であり、その栄華と没落の物語をより慎重に評価する必要があるだろう。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉がこの世を去り、天下の情勢が再び流動化し始めると、多羅尾氏にも転機が訪れる。政権の実権を掌握しつつあった徳川家康は、かつて自らの命を救った恩人である多羅尾光俊が、信楽の地で困窮していることを知ると、彼とその一族を呼び寄せた 3 。
家康のこの行動の根底には、天正10年(1582年)の「神君伊賀越え」における、忘れることのできない恩義があった。一説には、秀次事件で光俊が失脚した際にも、家康が密かに彼らを庇護していたとも言われる 7 。秀吉の死後、家康は公然とこの恩義に報いることを決断し、光俊と嫡男の光太を徳川家の直臣である旗本として正式に取り立てたのである 3 。これは、家康個人の情義によるものだけではなく、自らの権力基盤を固めるにあたり、「功ある者には必ず報いる」という姿勢を明確に示すことで、諸大名や家臣団の求心力を高めるという、高度な政治的意図も含まれていた。
旗本として徳川家に仕えることになった光太は、その期待に応え、慶長5年(1600年)の上杉景勝討伐や関ヶ原の戦い、そして後の大坂の陣といった、徳川家の天下統一事業における重要な戦役にことごとく参陣し、武功を立てた 3 。豊臣政権下での非情な粛清とは対照的に、徳川政権は過去の功績を正当に評価し、それに基づいて新たな秩序を構築しようとしていた。多羅尾家の再興は、まさにその象徴的な事例であった。
一連の戦功により、多羅尾家は旧領である信楽を中心に七千石の知行を与えられ、旗本として安定した家格を回復した 3 。しかし、家康が多羅尾家に与えたのはそれだけではなかった。彼らは、信楽代官領をはじめとする近江・畿内一帯の天領(幕府直轄地)を支配する代官職を、幕末に至るまで世襲するという、極めて特権的な地位をも得たのである 4 。
代官職は、幕府の財政基盤である天領の統治を担う重要な役職であり、通常は有能な人材が任期制で任命される。その職を特定の家が世襲することは全国でも極めて稀な例であり、伊豆の韮山代官であった江川氏など、数えるほどしか存在しない 11 。多羅尾代官の管轄高は時代によって変動し、一時は十万石を超えたこともあったと記録されている 11 。彼らは信楽に「多羅尾代官陣屋」を構え、年貢の徴収から行政、司法、警察権に至るまで、地域一帯に絶大な権力を行使する存在として君臨した 4 。
波乱の生涯を送った多羅尾光俊自身は、一族が徳川の世で確固たる地位を築くのを見届けた後、慶長14年(1609年)、95歳でその長い生涯の幕を閉じた 1 。彼の人生は、戦国の動乱を生き抜き、二度の栄枯盛衰を経験しながらも、最終的に家名を未来へと繋いだ、一国人領主の壮大な物語であった。
多羅尾光俊の活動の舞台となった城郭や陣屋は、現在もその痕跡を留めている。
小川城 は、光俊の居城として知られる山城である 24 。ただし、その築城は鎌倉時代末期に鶴見氏によって行われたとの伝承があり、後に多羅尾氏が鶴見氏をこの地から追い、支配下に置いたとされる 32 。天正年間(1573年-1592年)に、光俊によって大規模な改修が施されたと推定されている 24 。神君伊賀越えの際に家康が宿泊したのは、この小川城、あるいはその麓にあった支城や館であったと考えられている 20 。しかし、秀次事件に連座して多羅尾氏が改易されると、この城も廃城となった 24 。現在、城跡は滋賀県の史跡に指定されており、曲輪や土塁、石垣といった遺構が良好な状態で保存されている 20 。
一方、 多羅尾代官陣屋跡 は、江戸時代を通じて多羅尾氏がその権勢を振るった場所である 20 。ここは、多羅尾氏が七千石の旗本として暮らす居館であると同時に、近畿一円の天領を治める代官所としての機能を兼ね備えた、政治・行政の中心地であった 11 。広大な敷地には、現在も切石を用いて精緻に積まれた石垣や、趣のある庭園跡、井戸跡などが残り、往時の繁栄を偲ばせている 11 。建物自体は現存しないものの、古い写真などからその壮大な姿をうかがい知ることができる 11 。
多羅尾氏の菩提寺である浄顕寺は、光俊の死後、元和元年(1615年)に嫡男の光太が亡き夫人の菩提を弔うために建立した寺院である 11 。この寺には、多羅尾氏と徳川家康との深い繋がりを物語る貴重な文化財や伝承が残されている。
その筆頭が、国指定の重要文化財である 木造聖観音立像 である。この仏像は、元々は伊賀国の名刹・平楽寺の本尊であったが、織田信長による天正伊賀の乱の際、兵火を逃れるために光俊が多羅尾の地に移したと伝えられる秘仏である 11 。
また、寺には 十王地蔵 と呼ばれる石仏群が伝わっているが、興味深いことに一体だけが欠けている。これには、神君伊賀越えの際に、家康が追手の目を欺くため、自らの身代わりとしてこの地蔵を駕籠に乗せて難を逃れたという伝承が付随している 3 。この逸話は、家康と多羅尾氏の特別な関係を象徴するものとして、地元で大切に語り継がれている。
江戸時代を通じて信楽の地を治めた多羅尾氏は、明治維新までその家名を存続させた 4 。その一方で、一族の一部は異なる地で新たな歴史を刻んでいた。
特に注目されるのが、加賀藩前田家との繋がりである。徳川秀忠の娘・珠姫が加賀藩三代藩主・前田利常に嫁ぐ際、多羅尾氏の一族がその護衛役として付き従い、そのまま加賀国金沢に定着したという伝承が残っている 35 。この伝承を裏付けるように、現在も金沢市東山の蓮昌寺には多羅尾家の墓が現存しており 35 、光俊の築いた人脈と功績が、遠く離れた地にも子孫の活路を開いたことを示している。
多羅尾光俊の95年にわたる生涯は、近江甲賀の一地方領主が、戦国末期の激動を乗り越え、中央の巨大な権力と渡り合いながら自家の存続を図った、壮大なドラマであった。彼の行動は、しばしば「家康への忠義」や「秀次への野心」といった単純な動機で語られがちである。しかし、その根底には、家の存続という国人領主にとって最も重要かつ普遍的な命題を達成するための、冷徹なまでの戦略的思考が存在していた。
彼の生存戦略は、常にハイリスク・ハイリターンであった。神君伊賀越えにおける徳川家康への支援は、当時畿内を制圧していた明智光秀を敵に回す、一族の命運を賭した最大の賭けであった。この賭けに勝利した彼は、その功績を「元手」として豊臣政権下で巧みに立ち回り、関白秀次との関係を構築することで栄華を極めた。しかし、秀次への接近という次の賭けでは、秀吉と秀次の対立という中央政権の非情な論理の前に、全てを失うという破局を迎える。それでもなお、最初に成功した家康への「戦略的投資」が、いわば究極の「保険」として機能し、徳川の世で一族を見事に再興させたその手腕は、数多いる戦国末期の国人領主の中でも特筆すべきものである。
多羅尾光俊の生涯は、中世的な自立性を有していた国人層が、織田・豊臣政権による天下統一の過程でその自立性を失い、近世的な幕藩体制の中に「旗本」や「代官」といった形で再編・統合されていく、大きな歴史的プロセスを一個人の人生を通して見事に体現している。彼は、時代の転換点に立ち、その荒波に翻弄されながらも、機を見て大胆な決断を下し、最終的に家名を未来へと繋いだ、したたかな「生存者」の肖像として、歴史にその名を刻んでいるのである。