戦国時代の日本列島は、群雄が割拠し、旧来の権威が失墜する動乱の時代であった。中でも中国地方は、出雲国を本拠に山陰に勢力を張る尼子氏と、周防国を拠点に山陽から北九州にまで影響力を行使する大内氏という、二大戦国大名が覇を競う熾烈な角逐の舞台となっていた。この両雄の勢力圏が衝突する安芸・備後・石見の三国は、地政学的に「境目(さかいめ)」と呼ばれる極めて不安定な緩衝地帯を形成していた 1 。
この「境目」に所領を持つ国人領主(国衆)たちは、常に大国の巨大な圧力に晒され、自立と従属の狭間で揺れ動きながら、一族の存亡を賭けた絶え間ない選択を迫られていた 2 。彼らの行動は、単なる忠誠や裏切りといった単純な二元論では到底測ることができない。それは、刻一刻と変化する勢力均衡を冷静に見極め、婚姻、同盟、離反、帰順といったあらゆる手段を駆使して、自らの領地と一族の血脈を守り抜こうとする、極めて現実的かつ合理的な生存戦略の表れであった。
本報告書でその生涯を詳述する多賀山通続(たかのやま みちつぐ、1506-1570)は、まさにこの備後の境目国人を代表する人物である。備後山内氏の庶流として生まれながら、一族の内紛と大国の侵攻という二重の苦難を乗り越え、巧みな政治手腕と不屈の精神で激動の時代を生き抜いた。彼の生涯は、戦国時代における地方権力の興亡と、中世的な国人領主が近世的な大名家臣へと変質していく過程を克明に映し出す、貴重な歴史の証言と言えよう。
本報告書の目的は、多賀山通続という一人の武将の生涯を、現存する史料、特に彼自身が晩年に書き残した『多賀山通続の置文』 4 や、毛利氏の公式記録である『萩藩閥閲録』 5 などを駆使して、徹底的に解明することにある。一族の出自と経済的基盤、波乱に満ちた幼少期、尼子・大内という二大勢力の間で繰り広げた巧みな外交・軍事戦略、そして毛利氏台頭後の動向と一族の末路に至るまで、その生涯を多角的に分析し、戦国という時代の本質に迫ることを目指す。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
所属勢力 |
関連史料・備考 |
1506(永正3) |
1 |
多賀山通広の次男として誕生 5 。 |
- |
|
1513(永正10) |
8 |
母(月庭、泉氏の娘)が死去 6 。 |
- |
|
1514(永正11) |
9 |
叔父・花栗弥兵衛の謀反により、父・通広と兄・又四郎が殺害される。乳母に抱えられ出雲国懸合へ逃れる 4 。 |
- |
『多賀山通続の置文』 |
1515(永正12) |
10 |
家臣・井上八郎右衛門尉が花栗弥兵衛を討ち、蔀山城へ帰還。多賀山家の家督を相続する 4 。 |
- |
『多賀山通続の置文』 |
1526(大永6) |
21 |
備後守護・山名誠豊の下知により、尼子氏から離反 4 。 |
山名氏・大内氏方 |
『多賀山通続の置文』 |
1528(享禄元) |
23 |
尼子経久軍に居城・蔀山城を包囲される 4 。 |
大内氏方 |
|
1529(享禄2) |
24 |
蔀山城が落城寸前となるが、大風雨に乗じて脱出に成功 4 。 |
大内氏方 |
『多賀山通続の置文』 |
1528年末-1534頃 |
23-29 |
大内義興の死後、再び尼子方に属したとみられる 8 。 |
尼子氏方 |
|
1535(天文4) |
30 |
毛利元就に攻められ降伏する 10 。 |
尼子氏方→大内氏方 |
|
1536(天文5)頃 |
31 |
長男・隆通を山内惣領家の養子とし、家督を継がせる 11 。 |
大内氏方 |
|
1542(天文11) |
37 |
大内義隆の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)に従軍するが、戦況不利となり再び尼子方へ寝返る 12 。 |
大内氏方→尼子氏方 |
|
1549(天文18) |
44 |
大檀那として恵蘇郡の南大宮八幡宮の社殿を造営する 5 。 |
尼子氏方 |
|
1553(天文22) |
48 |
息子・山内隆通の交渉を経て、毛利元就に帰順。周防国に600貫の知行を与えられる 5 。 |
毛利氏方 |
『萩藩閥閲録』 |
1555(弘治元) |
50 |
火災で焼失した菩提寺・功徳寺を再建し、寺領を寄進する 5 。 |
毛利氏方 |
|
1559(永禄2) |
54 |
『多賀山通続の置文』を書き記す 4 。 |
毛利氏方 |
|
1569(永禄12) |
64 |
毛利軍の一員として立花城の戦い、多々良浜の戦いに従軍 5 。 |
毛利氏方 |
|
1570(元亀元) |
65 |
死去。戒名は祥山浄賀。次男の通定が家督を継ぐ 5 。 |
毛利氏方 |
|
多賀山通続の生涯を理解するためには、まず彼が率いた多賀山氏の出自と、その経済的基盤について深く掘り下げる必要がある。
多賀山氏は、その源流を関東の名門武士団である山内首藤氏に持つ 7 。山内首藤氏は、鎌倉幕府の成立に貢献し、その功績によって備後国地毘荘(現在の広島県庄原市一帯)の地頭職を得た 7 。元亨年間(1321-1324年)に、惣領であった山内通資が本拠を甲山城へ移した際、弟の通俊が旧来の本拠地であった蔀山(しとみやま)城に残り、その地の名から「多賀山」を名乗ったのが、この一族の始まりである 7 。これにより、多賀山氏は山内惣領家の有力な庶流として、備後北部に確固たる地盤を築くこととなった。
彼らの本拠、蔀山城は、備後と出雲を結ぶ街道を見下ろす標高775メートルの峻険な山上に築かれた、典型的な中世山城であった 7 。山頂の本丸を中心に、尾根筋に沿って30余りの郭(くるわ)や堀切が巧みに配置され、天然の要害と人工の防御施設が一体となった難攻不落の城塞であったことがうかがえる 7 。この城の存在自体が、多賀山氏が交通の要衝を抑える重要な戦略的拠点であったことを物語っている。
しかし、多賀山氏の真の戦略的価値は、単なる地理的な重要性にとどまらない。彼らがその支配地域に有していた経済的基盤こそが、大国をして彼らを軽視できない存在たらしめていたのである。多賀山氏の本拠地である備後国恵蘇郡、特に現在の庄原市高野町周辺は、古来より「たたら製鉄」が盛んな地域であった 15 。戦国時代に入り、刀剣、槍、甲冑、そして後には鉄砲といった武器の需要が爆発的に増大すると、その原料となる鉄の価値は飛躍的に高まった 21 。中国山地は、良質な砂鉄の一大産地であり、日本の鉄生産の中心地として繁栄した 21 。多賀山氏は、この鉄生産地帯の核心部を領有し、その生産と流通を直接的に支配していたのである 16 。
この「鉄の利権」の掌握は、多賀山氏に強大な経済力と、それ以上に大きな政治的影響力をもたらした。それは現代における戦略物資の産出国の地位に匹敵する。尼子、大内、そして後の毛利といった大勢力にとって、多賀山氏を味方につけることは、軍需物資の安定供給源を確保することを意味し、逆に敵に回すことは自軍の兵站を脅かされる深刻なリスクを負うことを意味した。後述する通続の、大国間を巧みに渡り歩く外交手腕は、彼自身の資質もさることながら、この「鉄」という強力な交渉カードがあったからこそ可能であったと結論付けられる。
永正3年(1506年)に生を受けた多賀山通続の幼少期は、安穏とは程遠い、血と裏切りに彩られた波乱の幕開けであった。この時期の出来事は、彼の人間形成に決定的な影響を与え、後の慎重かつ現実的な行動原理の礎となった。
悲劇は、通続がわずか9歳の永正11年(1514年)9月9日に起こった。父・通広の弟、すなわち通続の叔父にあたる花栗弥兵衛(はなぐり やへえ)が突如として謀反を起こし、父・通広と嫡男であった兄・又四郎を殺害、本拠の蔀山城を乗っ取ったのである 4 。この骨肉の争いの具体的な原因は史料に明記されていないが、一族内に深刻な対立が存在したことは想像に難くない 4 。
絶体絶命の危機の中、幼い通続は乳母に抱えられて辛くも城を脱出する。彼らが目指したのは、国境を越えた出雲国飯石郡懸合(かけや、現在の島根県雲南市)であった 4 。この逃亡先の選択は、単なる偶然ではなかった。通続の叔母が懸合の領主である「多賀殿」に嫁いでおり、その縁を頼ったのである 4 。この事実は、多賀山氏が平時から備後国内に留まらない、出雲国にまで及ぶ広域な婚姻ネットワークを構築していたことを示している。国境を越えた姻戚関係は、大勢力間の公式な主従関係とは別に、いざという時のための安全保障網として機能していた。境目国人たちが生き残るために、いかに重層的な外交関係を築いていたかを示す好例と言えよう 27 。
通続が懸合で雌伏の時を過ごすこと約4ヶ月、事態は劇的な展開を見せる。翌永正12年(1515年)1月20日、多賀山氏の忠臣・井上八郎右衛門尉が、檜木谷(ひのきだに)において城を簒奪した花栗弥兵衛と刺し違え、これを討ち果たしたのである 5 。主君の仇を討った井上八郎右衛門尉の壮絶な自己犠牲により、多賀山家の正統は守られた。
これにより、10歳になった通続は晴れて蔀山城へ帰還し、多賀山家の家督を相続することとなった 4 。この一連の出来事は、通続自身が44年後の永禄2年(1559年)に書き残した『多賀山通続の置文』によって、我々はその詳細を知ることができる 4 。この貴重な一次史料の中で、通続は井上八郎右衛門尉の忠義を「多賀山家にとって大功ある者である」と最大級の賛辞で称え、その功績を子々孫々まで語り継ぐよう厳命している 4 。幼くして肉親の死と裏切り、そして家臣の忠義を目の当たりにしたこの強烈な原体験は、彼のその後の人生における人間不信と、同時に信義を重んじる複雑な性格を形成したに違いない。
家督を継いだ若き通続の眼前には、尼子氏と大内氏という二大勢力が睨み合う、予断を許さない政治状況が広がっていた。彼の治世は、この大国の狭間でいかにして一族の独立と領地を保つかという、絶え間ない緊張の連続であった。
通続が家督を継いだ16世紀初頭、備後国は名目上、守護である山名氏の治下にあった。しかし、応仁の乱以降、守護の権威は著しく低下しており、実質的な影響力は出雲から勢力を伸ばしてきた尼子氏が掌握していた 29 。多賀山氏もまた、この尼子氏に従属することで勢力を保っていたと考えられる。
しかし、大永6年(1526年)、21歳となった通続に転機が訪れる。備後守護であった山名誠豊から、尼子氏より離反し、大内氏方に付くよう「下知(げち)」、すなわち命令が下されたのである 4 。この離反劇は、戦国初期における権力構造の過渡期的な様相を如実に示している。山名氏には、伝統的な主従関係に基づいて国人に命令を下すだけの旧来の権威は残っていたものの、その安全を保障するだけの軍事力はもはや失われていた 34 。通続は、旧秩序の権威と新興勢力の実利との間で、極めて危険な選択を迫られたのである。
この決断は、案の定、尼子氏の当主・尼子経久の激しい怒りを買った。通続は2年間にわたって尼子軍の断続的な攻撃に耐え抜いたが、享禄元年(1528年)9月、ついに尼子経久自らが率いる大軍によって居城・蔀山城を完全に包囲されてしまう 4 。
籠城戦は翌享禄2年(1529年)7月まで続く壮絶なものとなった。通続が残した『置文』によれば、城外の仮設小屋で戦っていた兵たちの兵糧が尽き、味方の陣に帰る者、敵陣に降って討たれる者が続出する悲惨な状況であったという 4 。江木源二郎、白根若狭、田邊四郎左衛門尉ら、わずかに残った忠臣たちと共に3日間持ちこたえたものの、ついに落城は免れないと判断し、通続は城からの脱出を決意する。まさにその時、にわかに大風雨が巻き起こった。通続はこの天佑を逃さず、混乱に乗じて敵の包囲網を突破することに奇跡的に成功する 4 。しかし、追撃は激しく、江木善左衛門尉をはじめとする多くの忠臣が、通続を逃がすために殿(しんがり)となって討死した。この壮絶な体験を、通続は「天道のお助け」と記し、犠牲となった家臣たちの名を一人一人挙げ、その功に報いるよう子孫に遺言している 4 。
武力だけでは大国に対抗できないことを痛感した通続は、より巧妙かつ長期的な視野に立った生存戦略を展開する。それが、婚姻と養子縁組を駆使した政治工作であった。この戦略は、彼の深謀遠慮を示すものであり、多賀山氏の運命を大きく左右することになる。
まず通続は、備後国人衆の中でも筆頭の家格を誇る山内惣領家の当主・山内直通の娘を、自らの正室として迎えた 5 。これにより、庶流である多賀山氏は惣領家との血縁関係を強化し、一族内での発言力を飛躍的に高めた。
しかし、通続の真の狙いはさらにその先にあった。当時、山内惣領家は尼子氏の強い圧迫を受けており、当主の直通には家督を継がせるべき男子がいなかったのである 11 。通続はこの惣領家の危機を千載一遇の好機と捉えた。天文5年(1536年)頃、彼は自らの嫡男である山内隆通(やまのうち たかみち)を、直通の孫娘(直通の嫡男・豊通の娘)に娶わせ、山内惣領家の養嗣子として送り込むことに成功したのである 11 。
表2:多賀山・山内家 関係系図(天文年間)
Mermaidによる家系図
この一連の婚姻・養子政策は、単なる同盟強化というレベルを遥かに超えている。それは、庶流である多賀山氏が、惣領家の家督問題に巧みに介入し、自らの血統をその中枢に据えるという、事実上の「乗っ取り」であった。武力を用いることなく、血縁と伝統的な家格制度を利用して成し遂げた、極めて高度な政治戦略と言える。これにより、多賀山通続は備後国人衆の連合体の盟主たる山内氏の実質的な後見人となり、一族全体の安全保障体制を盤石なものとした。この時に築かれた政治的地位は、後の毛利氏への帰順交渉において、極めて有利に作用することになる。
強固な一族連合を形成した通続であったが、彼の前には依然として尼子・大内という二大勢力が存在し、その力関係は常に変動していた。彼の行動は、この勢力均衡の変化に敏感に反応するものであった。
蔀山城を追われた後、大内氏の当主・大内義興が享禄元年(1528年)末に死去すると、通続は再び尼子方に帰順したと見られる 8 。しかし、天文4年(1535年)には大内方の毛利元就に攻められて降伏しており 10 、この時期の所属が流動的であったことがわかる。
その後の彼の立場を象徴するのが、天文11年(1542年)に起こった大内義隆による出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)での動向である。当初、通続は大内軍の一員としてこの遠征に従軍した。しかし、尼子氏の堅い守りの前に大内軍の敗色が濃厚となると、三沢氏、三刀屋氏、そして実子である山内隆通ら、他の多くの芸備国人衆と共に、戦陣の最中で再び尼子方へと寝返ったのである 12 。
現代の価値観から見れば、通続の度重なる所属変更は「裏切り」や「不忠」と映るかもしれない。しかし、これは戦国時代の境目国人の行動原理を理解する上で極めて重要な点である。彼らにとっての最優先事項は、主君への抽象的な忠誠心ではなく、自らの領地と一族の存続であった 2 。彼らにとっての「主君」とは、自らの存立を現実に保障してくれる最も有力な勢力であり、その力が揺らげば、より確実な庇護を求めて新たな主君を探すのは、むしろ合理的かつ必然的な選択であった。通続の行動は、まさにこの乱世の現実を体現していたのである。
天文年間も後半に入ると、中国地方の勢力図は再び大きく塗り替えられる。大内氏の内部崩壊と、それに乗じた安芸国人・毛利元就の急速な台頭である。この新たな時代の潮流を前に、通続は生涯で最も重要な政治的決断を下すことになる。
天文20年(1551年)、大内氏の重臣・陶晴賢が主君・大内義隆に謀反を起こし、自刃に追い込むという衝撃的な事件(大寧寺の変)が発生した。これにより西国に君臨した大内氏の権威は失墜し、中国地方に巨大な力の空白が生まれた。この機を逃さず、安芸の毛利元就は着実に勢力を拡大し、新たな覇者としての頭角を現し始めた。
この情勢の変化を、通続と息子・隆通は冷静に見極めていた。天文22年(1553年)、山内惣領家を継いでいた隆通のもとに、毛利氏の重臣である口羽通良と、隆通の義父(妻の父)にあたる宍戸隆家が訪れ、毛利氏への帰順を説得した 5 。隆通はこれに応じ、同年12月3日、毛利元就に対して9ヶ条からなる帰順の条件を提示した。
この条件の中に、通続の深謀遠慮が見事に結実した項目が含まれていた。その第2条には、「隆通の実父である多賀山通続が毛利氏に帰順した際、決して疎略に扱わないこと」という一文が明記されていたのである 5 。かつて惣領家の危機を救う形で送り込んだ息子が、今やその惣領家の当主として、実父の待遇を保証させるという交渉を行っている。これは、通続が長年にわたり築き上げてきた政治的布石の集大成であった。元就はこの第2条を含む7ヶ条の条件を承認し、山内・多賀山両氏は正式に毛利氏の傘下に入ることとなった。
隆通の帰順が認められた直後の同年12月13日、通続も毛利氏に帰順した。その際、元就は通続に対し、周防国玖珂郡山代(やましろ)の天所別所、河山村、羽野村など、合計600貫にも及ぶ知行地を与えている 5 。これは単なる服属者への待遇ではなく、彼のこれまでの実績と、山内惣領家の実父という特別な立場が十分に評価された結果であり、通続の交渉が見事に成功したことを示している。
毛利氏への帰順後、通続は安定した地位を得て、領主としての活動を続けた。彼の後半生は、戦乱から一転し、地域の安寧と文化の保護に力を注ぐ穏やかなものであった。
彼の篤い信仰心は、この時期の活動にも色濃く表れている。帰順以前の天文18年(1549年)には、大檀那として恵蘇郡の南大宮八幡宮の社殿を造営している 5 。さらに、毛利氏傘下に入った後の弘治元年(1555年)、火災で焼失した多賀山氏の菩提寺である功徳寺を再建するため、寺領を寄進し、宗派も臨済宗から曹洞宗へと改めている 5 。これらの活動は、彼が単なる武人ではなく、地域の精神的支柱としての役割も担っていたことを示している。
もちろん、毛利氏の家臣として軍役も務めている。永禄12年(1569年)には、北九州の覇権をめぐる大友氏との戦いである立花城の戦いや多々良浜の戦いに、64歳の高齢ながら従軍した記録が残っている 5 。
晩年は「露休(ろきゅう)」と号し、穏やかな日々を送ったとされる 5 。その人柄を偲ばせる逸話として、彼が腹痛を患った際、息子の山内隆通が幕臣の結城意旭から薬を取り寄せて送ったという記録がある。これに対し、通続は隆通に宛てて感謝と安堵の気持ちを伝える書状を送っており、その手紙は現存している 5 。激動の時代を共に生き抜いた父子の深い情愛がうかがえる、心温まるエピソードである。
元亀元年(1570年)、多賀山通続は65年の波乱に満ちた生涯を閉じた。法名は祥山浄賀 5 。多賀山氏の家督は、次男の通定(みちさだ)が継承した 5 。
多賀山通続の死後、彼が守り抜いた多賀山氏の領地と家名は、時代の大きなうねりの中に飲み込まれていく。それは、戦国時代が終わりを告げ、新たな支配体制である近世大名領国制が確立されていく過程で、多くの国人領主が辿った宿命であった。
通続の死後、毛利氏は織田信長との激しい抗争を経て、豊臣秀吉に臣従し、中国地方8ヶ国112万石を安堵される西国随一の大名としての地位を確立した 42 。しかし、その内実は、独立性の高い国人領主たちの連合体という中世的な性格を色濃く残していた。全国統一を成し遂げた豊臣政権は、大名に対し、検地(太閤検地)や知行割の再編を厳しく命じ、中央集権的な支配体制の構築を推し進めた 45 。
この豊臣政権の意向を受け、毛利輝元もまた、領国内の支配体制を中世的な国人領主連合から、大名が一元的に支配する近世的なものへと転換させる必要に迫られた 43 。その具体的な政策が、国人領主を古くからの本領から切り離し、大名の直接支配を強化する「知行替(ちぎょうがえ)」や、様々な理由をつけて所領を没収する「改易(かいえき)」であった 48 。
天正19年(1591年)、通続の跡を継いだ多賀山通信(みちのぶ)は、突如として主君・毛利輝元から改易を申し渡され、蔀山城は廃城となった 7 。これにより、鎌倉時代から約275年にわたって続いた多賀山氏による在地支配は、その歴史に幕を閉じた。
改易の表向きの理由としては、「高松城後詰等の責任を問われ」という軍役における不手際が挙げられている 8 。また、軍記物である『蔀山軍記』には、通信が「色欲無道にして其身は飽くまで驕奢し、家中は日々困窮衰微し主をうとんずるもの多し」といった、当主としての素行不良があったと記されている 8 。
これらの理由が事実であった可能性は否定できない。しかし、多賀山氏改易の本質的な理由は、より大きな政治的文脈の中に求められるべきである。それは、毛利輝元が進める「国人衆の家臣化政策」、すなわち近世大名への脱皮に向けた支配体制再編の一環であった。天正19年という年は、まさに秀吉が毛利氏の領国を朱印状で公的に確定し、輝元が領内の支配体制を本格的に再編し始めた時期と一致する 42 。かつて独立領主であった多賀山氏のような国人衆は、在地に強い影響力を持ち、大名による一元支配を阻む潜在的な障害と見なされた 48 。通信の失政は、輝元にとって、こうした在地勢力を解体し、領国支配を中央集権化するための絶好の口実となったのである。通続がその生涯を賭けて守り抜いた多賀山氏の独立性は、皮肉にも、中央集権化という時代の大きな潮流の前には抗うことができなかった。これは、多賀山氏に限らず、戦国乱世を生き抜いた多くの国人領主が辿った共通の運命であった。
多賀山通続は、戦国時代という極度の緊張状態の中で、一族の存亡という重責を背負い、大国の狭間を巧みに渡り歩いた、境目国人を代表する優れた政治家であった。彼の生涯は、武力のみが全てではない乱世において、情報収集能力、交渉力、そして何よりも自らが置かれた状況を冷徹に分析し、最善の選択肢を取り続ける現実主義的な判断力がいかに重要であったかを我々に教えてくれる。
彼は、叔父の裏切りによって全てを失うという悲劇から出発しながらも、家臣の忠義と自らの才覚によって家を再興した。尼子・大内という二大勢力の間で翻弄されながらも、巧みな婚姻政策によって庶流の身から惣領家を事実上掌握し、一族を国人連合の盟主へと押し上げた。そして、毛利氏という新たな時代の覇者が登場すると、いち早くその実力を見抜き、一門の安泰を確保するという最善の形で帰順を成し遂げた。
多賀山氏そのものは、彼の死後、時代の波にのまれて改易という結末を迎えた。しかし、彼が築いた遺産は、決して無に帰したわけではない。彼が惣領家へと送り込んだ息子・隆通の血脈は、毛利家の重臣・山内氏として近世を生き抜き、その家名を現代にまで伝えている。多賀山氏の城は消え、領地は失われたが、通続の血と、その類稀なる生存戦略の記憶は、形を変えて歴史の中に生き続けているのである。彼の生涯は、滅びゆく中世の国人領主の悲哀と、新たな時代を切り拓く近世大名の非情さ、そしてその両者の狭間で繰り広げられた、一人の人間の壮絶な闘いの物語として、後世に多くの示唆を与えてくれる。