本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、大久保忠員(おおくぼ ただかず)の生涯と事績について、現存する史料に基づき多角的に掘り下げ、その歴史的役割を明らかにすることを目的とします。大久保忠員は、徳川家康の天下取りを語る上で欠かすことのできない譜代の家臣の一人でありながら、その名は息子たちほどには広く知られていないかもしれません。本報告書では、ユーザー様が既にご存知の「徳川家臣、松平広忠の岡崎帰城への尽力、蟹江城攻めでの活躍、三河一向一揆での籠城戦」といった情報を基点としつつ、それを大幅に超える詳細な情報を提供し、忠員の人物像に迫ります。
大久保忠員は、永正7年(1510年)に生まれ、天正10年12月13日(西暦1583年1月6日)に73歳でその生涯を閉じました 1 。特筆すべきは、松平清康、広忠、そして徳川家康という松平・徳川家三代にわたって仕えた譜代の宿将であるという点です 2 。これは、徳川家がまだ三河の一地方勢力に過ぎなかった草創期から、その勢力を拡大し、天下統一へと歩みを進める黎明期まで、激動の時代を通じて主家を支え続けたことを意味します。松平家が最も困難な時期にあった広忠の時代から、家康による独立と勢力拡大の時代まで、忠員は常にその中心近くにあり続けました。このような長きにわたる奉公は、単に長命であったという以上に、主家からの厚い信頼と、それに応え続けた忠誠心の証左と言えるでしょう。
特に、松平広忠が岡崎城への帰還を果たした際に忠員が兄と共に尽力したことは 1 、主家の存続に直接関わる極めて重要な功績であり、これが後の家康の時代における忠員自身、そして大久保一族への評価の揺るがぬ基盤となったと考えられます。三代にわたる奉公は、家中における長老的な立場や、豊富な経験に裏打ちされた相談役としての役割も担っていた可能性を示唆し、単なる武功だけでなく、組織運営や意思決定においても一定の影響力を持っていたかもしれません。
さらに、忠員の息子たち、特に忠世、忠佐、忠教(彦左衛門)らは、徳川家康の下で目覚ましい活躍を見せ、大名や旗本として取り立てられました 2 。忠員は、彼ら「徳川家臣団の中核を成す大久保一族」の礎を築いた人物としても評価されるべきであり、本報告書ではその点にも光を当てていきます。
大久保忠員の人物像を理解するためには、まず彼が属した大久保一族の出自と、三河国におけるその成り立ちを見ていく必要があります。
大久保氏の祖先は、下野国(現在の栃木県)の名門、宇都宮氏であったと伝えられています。その後、一族の一部が三河国に移り住み、宇津(うつ)氏を称し、さらに後には大久保氏へと改姓したとされています 2 。この改姓の具体的な経緯や時期については詳細な記録が残されていませんが、戦国時代において武士団が新たな土地に根を下ろし、在地領主化していく過程の一つの典型例と見ることができます。宇都宮氏という由緒ある家柄を背景に持ちつつも、「大久保」という姓は、彼らが拠点とした三河国額田郡大久保村(現在の岡崎市大久保町周辺と推定される)の地名に由来すると考えられ、在地との結びつきを強め、新たな主君である松平氏に仕える上で、より地域に根差した存在として認識されることを意図したのかもしれません。このような在地化のプロセスは、実力主義が支配する戦国時代において、新たな主君のもとで忠勤に励み、所領を得て勢力を拡大していくという、大久保一族の発展の出発点であったと言えるでしょう。忠員の父は、宇津忠茂(うつ ただしげ)、あるいは大久保忠茂と記録されており 1 、これらの名が同一人物を指している可能性が高いと考えられます。
忠員には複数の兄弟がおり、中でも兄の忠俊(ただとし)は、忠員と共に松平広忠の岡崎城帰参に尽力するなど 1 、一族の重要な局面でその名が見られる人物です。他にも忠平、忠次、忠久、忠行といった兄弟がいたことが記録されています 2 。戦国時代において、一族の結束は家の存続と発展に不可欠な要素でした。大久保一族もまた、兄弟が協力し合い、時には役割を分担しながら主家である松平家に貢献していったと考えられます。例えば、松平広忠の岡崎帰参という主家の重大事において、忠員と兄・忠俊が連携して行動したことは、その好例です。また、後述する三河一向一揆の際には、大久保「一族」が上和田砦に籠城したと複数の史料に記されており 1 、一族単位での軍事行動が常態であったことが窺えます。このような一族の強い結束力は、不安定な戦国の世を生き抜き、大久保家が徳川譜代の名門としての地位を築き上げる上で、極めて重要な基盤となったのです。
大久保一族が三河国で確固たる基盤を築いたのは、碧海郡上和田(現在の愛知県岡崎市上和田町)でした 5 。この地は、大久保氏発祥の地として、また、後に徳川家康の天下統一を支えることになる三河武士ゆかりの地としても知られています 6 。特に、上和田に築かれた城砦は、三河一向一揆の際に家康方の重要な拠点として機能し、大久保一族の忠節と武勇を象徴する場所となりました 1 。小説などでは、この上和田城が大久保忠俊ら一族の居城であったものの、一時敵対勢力に奪われ、その奪還を忠俊が熱望する場面なども描かれており 8 、一族にとってこの地がいかに重要であったかを物語っています。
大久保忠員の生涯において、初期の重要な功績として特筆されるべきは、徳川家康の父である松平広忠(まつだいら ひろただ)に仕えた時代に見せた忠節です。広忠の時代、松平家は尾張の織田氏と駿河の今川氏という二大強国に挟撃され、さらに一族内の内紛も絶えないなど、まさに存亡の危機にありました。
そのような困難な状況下で、天文6年(1537年)、松平広忠が本拠地である岡崎城を追われ、伊勢国へと逃れるという事態が発生します。この主家最大の危機に際し、大久保忠員は兄の忠俊と共に広忠の岡崎城帰参を実現させるために奔走しました 1 。主君が本拠地を失うということは、その勢力の瓦解、ひいては家の断絶にも繋がりかねない一大事です。このような絶望的な状況下で、危険を顧みずに主君の帰還を支援した忠員らの行動は、松平家にとってまさに起死回生の一助となったと言えるでしょう。この功績は、単なる戦場での武勇とは異なり、主家の存続そのものに関わるものであり、これによって忠員と大久保一族は松平家中で揺るぎない信頼を勝ち得たと考えられます。戦国武将の価値が、戦場での強さだけでなく、いかに主君への忠誠を貫き、困難な状況で的確な判断と行動ができるかによっても測られることを示す好例と言えます。この広忠への忠節は、後の家康の代になっても語り継がれ、大久保一族が譜代の重臣として重んじられる大きな要因の一つとなったのです。
広忠の時代における忠員の活動は、これに留まりません。天文11年(1542年)には、広忠の叔父(または兄弟ともされる)松平信孝が広忠に反旗を翻すという事件が起こります。この時、あろうことか忠員の弟である大久保忠久が信孝方に加担してしまいました。一族から離反者が出たことは、忠員にとっても苦渋の事態であったと推察されますが、彼は兄・忠俊と共に忠久を説得し、最終的に広忠のもとへ帰順させることに成功したと記録されています 2 。
この逸話は、大久保忠員らが単に武勇に優れた武将であっただけでなく、家中における調停や交渉といった、いわば「政治的」な能力も有していたことを示唆しています。戦国時代の武家において、一族内の分裂や有力家臣の離反は、常に勢力弱体化の大きな要因でした。武力による制圧だけでなく、説得や交渉によって事態を穏便に収拾できる能力は、主君にとって非常に価値のあるものでした。大久保一族がこのような役割を担い得た背景には、彼らが松平家中で一定の信頼と影響力を有していたこと、そして一族内部の結束が比較的強固であったことが考えられます。このような家中融和への貢献は、記録に残りやすい華々しい軍功とは異なりますが、主家の安定を維持するためには不可欠な活動であり、忠員の多面的な能力をうかがわせるものと言えるでしょう。
松平広忠の死後、その子である松平元康(後の徳川家康)の時代になると、大久保忠員は引き続き元康に仕え、その武勇を戦場で発揮する機会を得ます。その中でも特筆されるのが、弘治元年(1555年)に起こった蟹江城(かにえじょう)攻めです。
この戦いは、尾張国海部郡にあった蟹江城(現在の愛知県海部郡蟹江町)をめぐり、今川義元の勢力下にあった松平元康ら三河勢が、織田信長方の城を攻撃したものです 10 。当時の松平元康はまだ若く、今川氏の尖兵として各地を転戦しており、この蟹江城攻めもその一環でした。
この戦いにおいて、大久保忠員は目覚ましい戦功を挙げ、「蟹江七本槍(かにえしちほんやり)」の一人に数えられたと伝えられています 2 。史料によっては、忠員の息子である忠世が父・忠員や弟・忠佐らと共に活躍し、一族郎党が「蟹江七本槍」と称賛されたという記述も見られます 10 。さらに、この「蟹江七本槍」のうち、実に四人が大久保一族の者であったともされており 11 、これは大久保一族の武勇がいかに際立っていたかを如実に物語っています。
「七本槍」という呼称は、特定の合戦において特に勇猛果敢な働きを見せた武士を顕彰するものであり、戦国時代においては武士にとって最高の栄誉の一つでした。賤ヶ岳の戦いにおける豊臣秀吉配下の七本槍が有名ですが、それ以外にも各地の戦いで同様の呼称が見られます 11 。忠員(あるいは忠員を中心とする大久保一族)がこれに名を連ねたということは、彼らの武功が広く認められ、その武名が大いに高まったことを意味します。
特に、一族から複数の人物が選ばれるというのは異例のことであり、大久保家が単なる個々の武勇に優れた武士の集まりではなく、一族として強力な戦闘集団を形成し、松平(徳川)軍の中核的な戦力として機能していたことを強く印象づけます。忠員自身がどのような具体的な働きを見せたのか、詳細な記録は乏しいものの、息子たちを含む一族を率いて奮戦し、その結果として一族全体が高く評価され、忠員自身も指揮官として、また勇猛な武士としてその名を轟かせたと考えるのが自然でしょう。
この蟹江城攻めでの活躍は、松平家内部における大久保一族の軍事的重要性を再確認させるとともに、主家である今川氏や他の同盟勢力に対しても、松平家中に有力な武将とその一党が存在することを示す絶好の機会となりました。これは、後の徳川家康の独立や勢力拡大の過程において、大久保一族が軍事的に一層頼りにされる基盤を強化したと言えるでしょう。一族で四名もの「蟹江七本槍」を輩出したという事実は、大久保一族が単独で一個の強力な戦闘部隊として機能し得たことを示しており、松平家中における彼らの軍事的比重の大きさを物語っています。
永禄6年(1563年)、若き日の徳川家康を襲った最大の危機の一つが、三河国で勃発した一向一揆でした。この一揆は、家康の支配基盤がまだ盤石でなかった時期に起こった深刻な内乱であり、その鎮圧は家康にとってまさに正念場となりました 1 。
一揆勃発の原因については諸説ありますが、家康による寺社領への経済的圧迫、特に浄土真宗本願寺教団の寺院が持っていた不入権(年貢や諸役の免除特権)の侵害などが主な要因として挙げられています 12 。これにより、三河各地の本願寺系寺院の僧侶や門徒が一斉に蜂起しました。問題は、この一揆に、松平氏に不満を持つ在地領主や、あろうことか家康自身の家臣団からも多数の者が加わったことでした。本多正信(後の家康の謀臣)や渡辺守綱(徳川十六神将の一人)といった有力な家臣までもが一揆方に与し、家康は文字通り家臣団の分裂という未曾有の事態に直面したのです 12 。
この絶体絶命の危機において、大久保忠員は一族を率いて家康方として断固たる姿勢を示します。彼らは、一族の拠点である上和田(現在の岡崎市上和田町)の砦(あるいは城)に籠城し、押し寄せる一揆勢と激しい戦闘を繰り広げました 1 。上和田は、大久保一族の本拠地であると同時に、岡崎城の南方を守る戦略的要衝であり、ここを失うことは家康方にとって大きな痛手となる場所でした。
籠城戦の様相は凄まじく、史料によれば、大久保忠員の兄・忠俊の屋敷に櫓や木戸を急設して砦とし、一族の忠勝(宗家)や忠員の息子・忠世もこの戦いで負傷するほどの激戦であったと伝えられています 14 。ある記録では、戦いの頂点には、針崎や土呂(いずれも岡崎市内の地名)の一揆勢が総がかりで上和田城を攻め立て、まさに落城寸前という危機的状況に陥ったものの、家康自身が救援に駆けつけて辛うじて撃退したとされています 13 。
この上和田砦の防衛戦は、家康にとって物理的な拠点確保以上の、精神的な意味でも極めて重要なものでした。一揆勢が三河の広範囲を席巻し、信頼していたはずの家臣たちからも離反者が続出するという混乱の中で、上和田砦のような拠点を断固として守り抜くことは、家康方の士気を維持し、抵抗を継続する上で不可欠でした。大久保一族が自らの本拠地である上和田を死守したことは、彼らにとって家の存立をかけた戦いであったと同時に、家康への揺るぎない忠誠心を示す何よりの証でした。史料には「上和田城の大久保一族は、大久保忠俊、忠勝、忠員、忠佐等の名のある勇将が多く針崎、土呂の一揆勢と戦った」とあり 13 、忠員が兄や息子たちと共にこの困難な籠城戦において主導的な役割を果たしたことが窺えます。一族の長老格として、また経験豊富な武将として、彼は一族を鼓舞し、絶望的な状況下でも統率を維持したのでしょう。落城寸前に家康自らが救援に駆けつけたという事実は、それだけ上和田砦が激しく攻められ、かつ家康自身がその戦略的重要性を深く認識していたことを示しています。忠員率いる大久保一族の粘り強い抵抗がなければ、家康の救援も間に合わなかった可能性すらあります。
大久保一族のこの奮戦は、一揆側の勢いを削ぎ、家康が最終的に一揆を鎮圧する上で極めて大きな貢献をしました。ある史料では、この上和田の戦いでの大久保一族の奮闘こそが、三河一向一揆全体の戦局における転換点(ターニングポイント)であった可能性も示唆されています 3 。
この未曾有の危機を乗り越える過程で、家康は家臣たちの忠誠心を文字通り試すことになりました。そして、大久保忠員をはじめとする大久保一族が示した揺るぎない忠節と武勇は、家康の彼らに対する評価を決定的なものとし、その後の徳川家中における大久保家の地位を飛躍的に向上させる大きな要因となったのです。多くの家臣が一揆側に与するという異常事態の中で、一貫して家康方として戦い抜き、その拠点である上和田砦を守り抜いた大久保一族の功績は計り知れません。家康が、この危機を共に乗り越えた大久保一族を一層重用するようになったのは当然の成り行きであり、忠員の息子たちが後に徳川家の重臣として華々しく活躍する道筋は、この三河一向一揆における一族の不屈の働きによって大きく開かれたと言えるでしょう。これは、危機的状況下で示された忠誠が、いかに長期的な信頼と家門の発展に結びつくかを示す典型的な事例です。
三河一向一揆という最大の危機を乗り越えた徳川家康は、三河国内の支配を盤石なものとし、次いで遠江国(現在の静岡県西部)への進出を開始します。この時期、大久保忠員の具体的な活動に関する直接的な記録は、残念ながら提供された資料からは多くを見出すことができません。
しかしながら、彼の息子である大久保忠世が、家康直属の精鋭部隊とも言える「旗本先手役(はたもとせんてやく)」の一人に選抜され、遠江侵攻の先鋒として活躍していること 3 からも、父である忠員が完全に一線を退いていたとは考えにくいでしょう。忠員の生年は永正7年(1510年)であり 1 、例えば元亀元年(1570年)の姉川の戦いの時点では60歳、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時点では65歳となります。当時の武将の平均寿命や活動年齢を考慮すると、確かに高齢であり、かつてのように自ら槍を振るって最前線で戦うことは体力的に難しくなっていた可能性は高いと言えます。
実際、姉川の戦い 15 、三方ヶ原の戦い 10 、長篠の戦い 3 といった、この時期の徳川家康の主要な合戦においては、主に息子である忠世や忠佐の武功が記録されており、忠員自身の直接的な参加や具体的な役割についての明確な記述は乏しいのが現状です。これは、大久保家内において、戦闘の主役が忠員からその息子たちの世代へと移行しつつあったことを示唆しています。
しかし、これは忠員が徳川家に対して何ら貢献をしていなかったことを意味するわけではありません。長年にわたる松平・徳川家への奉仕によって培われた経験と知見、そして家中における重鎮としての立場から、彼は異なる形で家康を支え続けていたと推測されます。具体的には、本拠地である岡崎城の留守居役として後方支援を統括したり、あるいは若手武将たちの指導や育成に当たったり、さらには家康の相談役として重要な意思決定に関与していた可能性も考えられます。
譜代の宿将としての忠員の存在そのものが、特に困難な状況にあった家康にとって、精神的な支えとなっていた側面も無視できません。直接的な戦功の記録が少ないことは、必ずしも活動が途絶えたことを意味するのではなく、その役割が時代の変化や自身の年齢に応じて変化した結果であると理解すべきでしょう。忠員は、息子たちが徳川軍の中核として華々しく活躍するための確固たる基盤を築き、彼らを精神的にも支える存在であり続けたのです。
大久保忠員の生涯を語る上で、彼が築いた「家」としての側面、すなわちその家族構成と子孫たちの活躍は非常に重要な要素です。忠員自身は大大名となることはありませんでしたが、彼の子孫たちは徳川家中で大いに栄え、大久保家は譜代の名門としての地位を確立しました。
【表1】大久保忠員の家族構成(主要人物)
関係 |
氏名 |
備考 |
父 |
宇津忠茂(うつ ただしげ)(大久保忠茂) |
|
兄 |
大久保忠俊(おおくぼ ただとし) |
忠員と共に広忠の岡崎帰参に尽力 |
本人 |
大久保忠員(おおくぼ ただかず) |
通称:甚四郎、平右衛門 1 |
妻 |
(氏名不詳) |
|
長男 |
大久保忠世(おおくぼ ただよ) |
七郎右衛門、後の小田原藩主 2 |
次男 |
大久保忠佐(おおくぼ ただすけ) |
弥八郎、治右衛門、後の沼津藩主 2 |
八男 |
大久保忠教(おおくぼ ただたか/ただのり) |
彦左衛門、『三河物語』著者、旗本 2 |
その他子 |
忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、忠元、九平次 |
2 |
娘 |
(氏名不詳) |
大河内正綱(おおこうち まさつな)妻 2 |
忠員の妻に関する具体的な情報は、残念ながら現存する史料からは見出すことができません。しかし、彼には非常に多くの子がいたことが確認されています。上記【表1】に示したように、息子としては忠世(ただよ)、忠佐(ただすけ)、忠包(ただかね)、忠寄(ただより)、忠核(ただざね)、忠為(ただため)、忠長(ただなが)、忠教(ただたか、一般には「彦左衛門(ひこざえもん)」の名で知られる)、忠元(ただもと)、九平次(きゅうへいじ)といった名が記録されています 2 。また、娘もおり、その一人は大河内正綱に嫁いだとされています 2 。
これら多くの子どもたちの中でも、特に長男の忠世、次男の忠佐、そして八男の忠教(彦左衛門)は、徳川家康の天下取りを支えた主要な家臣として、歴史にその名を刻んでいます。忠世と忠佐は、その武勇と功績により、徳川十六神将にも数えられ 3 、それぞれ小田原藩(忠世の子孫)、沼津藩(忠佐)の藩祖となりました。忠教(彦左衛門)は、武将としての活躍に加え、自身の経験や見聞を基に『三河物語』を著し 5 、三河武士の気風や徳川家創業期の様子を後世に伝える貴重な史料を残しました。
忠員がこれほど多くの子に恵まれたことは、戦国時代の武将が家名を存続させ、一族の勢力を拡大していくための一般的な戦略の一環と見ることができます。戦乱の世においては、当主や跡継ぎが戦死するリスクが常に付きまといます。そのため、複数の男子を持つことは、家督相続者を確保し、家を断絶させないための重要な手段でした。
さらに、多くの子を持つことは、それぞれに異なる役割を担わせ、一族全体の力を多角的に発展させることを可能にします。ある者は武勇をもって主君に仕え、ある者は知略をもって補佐し、また娘たちは有力な他家との婚姻を通じて同盟関係を強化する役割も担いました。忠員の息子たちが、それぞれ武将として、あるいは文筆家として徳川家中で目覚ましい活躍を見せたことは、まさに大久保家の影響力を多方面に広げる結果となりました。例えば、長男の忠世は勇猛なだけでなく、交渉能力にも長けていたとされ 10 、次男の忠佐もまた「膏薬侍」と織田信長に評されるほどの勇将でした 19 。そして八男の忠教は、その剛直な性格と『三河物語』によって「天下のご意見番」として後世に名を残しました。このように、息子たちがそれぞれ異なる分野で才能を開花させたことは、大久保家が徳川家に対して多面的な貢献をなし、高い評価を得ることに繋がったのです。
忠員がこれらの個性豊かな息子たちをどのように育て上げたのか、その具体的な教育方針や家風を伝える史料は乏しく、推測の域を出ません。しかし、結果として多くの有能な人材を輩出し、彼らが徳川家の中核を担うまでに成長したという事実は、父である忠員の指導力や人間的魅力、そして大久保家の家風が優れていたことを間接的に示していると言えるでしょう。忠員は、まさに大久保家繁栄の礎を築いた人物であったのです。
大久保忠員の晩年に関する具体的な活動記録は、これまでの章で触れたように、史料上では乏しいのが実情です。天正年間(1573年~1592年)に入ると、徳川家康の主要な合戦においては、息子である忠世や忠佐といった次世代の武将たちが軍の中核として活躍しており、忠員自身は第一線からは退いていた可能性が高いと考えられます。これは、彼の年齢(天正年間初頭で60代前半)を考慮すれば自然な流れと言えるでしょう。
しかし、これは忠員が完全に隠居し、影響力を失ったことを意味するものではありません。松平清康の代から三代にわたって仕え、数々の困難を主家と共に乗り越えてきたその長年の功績と豊富な経験は、徳川家中において依然として大きな重みを持っていたはずです。家康や、家中の要職に就いていた息子たちに対して、相談役や後見役のような立場で、その知見や教訓を伝え、間接的に徳川家を支え続けていたと推測されます。譜代の宿将としての彼の存在そのものが、家康や若い世代の家臣たちにとって、一種の精神的な支柱となっていた可能性も否定できません。
そして、天正10年12月13日(西暦1583年1月6日)、大久保忠員はその波乱に満ちた生涯を閉じました。享年は73歳でした 1 。戦国時代から安土桃山時代という激動の時代を生き抜き、当時としては長寿を全うしたと言えます。
忠員の墓所は、愛知県岡崎市竜泉寺町にある長福寺(ちょうふくじ)にあります。この寺は古くから大久保一族の菩提寺とされており 22 、忠員の墓は、彼の父である宇津忠茂(大久保忠茂)や、八男で『三河物語』の著者として名高い大久保忠教(彦左衛門)の墓と共に、現在も同寺の墓域に並んで存在し、岡崎市の指定史跡となっています 2 。父、本人、そして著名な息子が同じ菩提寺に葬られているという事実は、大久保家が先祖代々の繋がりを非常に重視し、一族としてのアイデンティティと歴史を後世に伝えようとした意志の表れと見ることができます。武家にとって菩提寺は、単なる墓所ではなく、一族の魂の拠り所であり、先祖供養を通じて家の永続を願う象徴的な場所でした。忠員の墓が父祖や子孫と共に手厚く守られていることは、彼が生前に築いた功績と信頼が、彼の子孫たちによって確かに受け継がれ、一族の歴史として顕彰された結果であると言えるでしょう。
大久保忠員の歴史的評価を考えるとき、彼自身が歴史の表舞台で華々しい脚光を浴びる機会は、息子たちほど多くはなかったかもしれません。しかし、徳川家康の祖父・松平清康の代から三代にわたり松平・徳川家に仕え、特に主家が最も困難な状況にあった松平広忠の時代を忠節をもって支え、家康の初期における最大の危機であった三河一向一揆においては、一族を率いて上和田砦を守り抜き、家康の窮地を救った功績は計り知れません。また、蟹江城攻めにおける「蟹江七本槍」の一人としての武勇も記録されており、優れた武将としての側面も持ち合わせていました。
彼自身が大名として独立した領地を持つことはありませんでしたが、その生涯を通じた忠勤と武功、そして何よりも忠世、忠佐、忠教といった優れた多くの子宝に恵まれたことが、結果として息子たちの代における大久保家の飛躍的な発展に繋がり、徳川譜代の名門としての地位を確固たるものにする強固な礎を築いたと評価できます 3 。忠員は、自らが前面に出るよりも、主家を陰で支え、次世代の育成に力を注いだ「縁の下の力持ち」としての役割を全うした武将と言えるでしょう。彼の生涯は、派手ではなくとも、着実に主家を支え、次世代への確実な布石を打った武将の典型として、徳川家創業史の中に記憶されるべきです。
大久保忠員の生涯を概観すると、彼は松平・徳川家の草創期から発展初期にかけて、三代の主君に揺るぎない忠誠を尽くし、幾多の困難を乗り越えて主家を支え続けた、まさに「譜代の宿将」と呼ぶにふさわしい武将であったことが明らかになります。
特に、松平氏が存亡の危機に瀕していた松平広忠の時代における岡崎帰還への貢献、若き日の徳川家康に従って武名を上げた蟹江城での武功、そして家康の支配基盤を揺るがしかねなかった三河一向一揆における上和田砦での決死の奮戦は、忠員の忠誠心と武勇を象徴する出来事であり、これらを通じて家康の絶対的な信頼を勝ち得る上で決定的な役割を果たしました。
忠員自身が歴史の表舞台で主役として脚光を浴びる機会は、その息子たち、特に忠世、忠佐、忠教(彦左衛門)ほど多くはなかったかもしれません。しかし、彼の確かな働きと、これら優れた後継者たちを育て上げたことは、大久保家が徳川譜代の名門として後世に名を残し、江戸幕府の重鎮を輩出するに至るための強固な礎を築いたと言えます。大久保忠員の生涯は、戦国時代から安土桃山時代にかけての激動期において、一人の武将がいかにして主家を支え、その忠誠と努力によって家名を高め、次代の繁栄に繋げていったかを示す好例として、深く記憶されるべきでしょう。彼の存在なくして、後の大久保一族の隆盛も、そして徳川家康の天下取りも、また異なる様相を呈していたかもしれません。
【表2】大久保忠員の生涯と関連事項の年表
年号(西暦) |
出来事 |
忠員の年齢 (満年齢) |
備考 |
永正7年(1510年) |
大久保忠員、誕生 1 |
0歳 |
父は宇津忠茂(大久保忠茂) |
天文6年(1537年) |
松平広忠の岡崎城帰参に兄・忠俊と共に尽力 2 |
27歳 |
|
天文11年(1542年) |
松平信孝の反抗に際し、弟・忠久を説得し広忠方に帰順させる 2 |
32歳 |
|
天文18年(1549年) |
松平広忠、死去。松平竹千代(後の徳川家康)、今川氏の人質となる |
39歳 |
|
弘治元年(1555年) |
蟹江城攻めで戦功をあげる。「蟹江七本槍」の一人に数えられる 2 |
45歳 |
松平元康(家康)に従う |
永禄3年(1560年) |
桶狭間の戦い。松平元康、今川氏から独立。八男・忠教(彦左衛門)誕生 5 |
50歳 |
|
永禄6年(1563年) |
三河一向一揆勃発。忠員、一族と共に上和田砦に籠城し一揆勢と戦う 1 |
53歳 |
家康最大の危機の一つ |
永禄7年(1564年) |
三河一向一揆、鎮圧される |
54歳 |
大久保一族の奮戦が寄与 |
元亀元年(1570年) |
姉川の戦い |
60歳 |
息子・忠世らが活躍 |
元亀3年(1572年) |
三方ヶ原の戦い |
62歳 |
徳川軍大敗。息子・忠佐らが殿軍で奮戦 |
天正3年(1575年) |
長篠の戦い |
65歳 |
息子・忠世、忠佐らが活躍。織田信長から賞賛される |
天正10年(1582年) |
本能寺の変。甲州征伐。 |
72歳 |
|
天正10年12月13日<br>(1583年1月6日) |
大久保忠員、死去 1 |
73歳没 |
墓所は岡崎市の長福寺 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦い |
― |
息子・忠隣(忠世の子)、忠佐、忠教らが活躍 |
寛永16年(1639年) |
息子・大久保忠教(彦左衛門)、死去。『三河物語』を遺す 5 |
― |
|