最終更新日 2025-08-03

大井満安

大井満安は出羽国由利郡の武将。仁賀保氏と争い武勇を誇るも、豊臣秀吉の惣無事令に翻弄され自刃。その悲劇は西馬音内の盆踊りの起源の一つとされ、地域に語り継がれる。
大井満安

出羽の驍将・大井満安の生涯 ― 伝説と史実の徹底考証

序章:出羽の驍将、大井満安 ― 伝説と史実の狭間で

出羽国由利郡の戦国史を語る上で、大井五郎満安(おおい ごろう みつやす、別名:矢島満安)は、ひときわ強い光彩を放つ武将である。近世初期に成立した軍記物語『由利十二頭記』(一名『矢島十二頭記』)は、その記述の大部分を満安の活躍に割き、彼を「抜群の豪傑」「剛勇無雙」と称賛してやまない 1 。この物語の中で、満安は単なる一領主ではなく、由利の地にその名を轟かせた不世出の英雄として描かれている。その言動には古の武士道精神が宿り、地域の記憶に深く刻まれる存在となった 1

しかし、この英雄像に光を当てるとき、我々はまず一つの重大な課題に直面する。それは、彼の活躍した時代に関する認識の齟齬である。一般に伝えられる「1487年から1559年頃」という年代は、応仁の乱以降、各地の領主が自立し覇を競った、いわば戦国乱世の前期から中期にあたる。だが、現存する比較的信頼性の高い史料が示す満安の具体的な活動は、天正年間から文禄年間に集中しており、これは織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業が奥羽の地にも及ばんとする戦国時代の最終盤、1570年代から1590年代初頭にかけての出来事である 2

この年代設定のズレは、単なる日付の誤り以上の深刻な意味を持つ。それは、大井満安という人物の歴史的役割を根本的に変えてしまうからだ。前者の年代であれば、彼は自立した地方の覇者として、純粋な実力主義の世界で勢力を拡大した武将となる。しかし後者の年代、すなわち本報告書が依拠する時代認識に立てば、彼は中央集権化という抗い難い時代の潮流に翻弄され、旧来の秩序の中で生きる地方領主がいかにして淘汰されていったかを示す、悲劇的な人物として浮かび上がってくる。彼の行動原理、そして滅亡の要因を正しく理解するためには、この時代認識の転換が不可欠なのである。

さらに、『由利十二頭記』が満安の活躍に著しく偏った記述をしている点も看過できない。歴史とはしばしば勝者によって記されるものであるが、最終的に滅亡した「敗者」である満安が、なぜこれほどまでに英雄として語り継がれたのか。それは、彼の滅亡があまりにも劇的であったこと、そして勝利した宿敵・仁賀保氏らに対する地域社会の複雑な感情が、失われた者への郷愁と結びつき、満安を理想化された英雄として物語の中で結晶化させた結果かもしれない。この軍記物語は、客観的な史実そのものというよりは、むしろ「地域社会が記憶の中に留めておきたかった満安の姿」を色濃く反映していると解釈すべきであろう。

本報告書は、こうした伝説と史実の狭間に立つ武将・大井満安の生涯を、現存する資料を駆使して徹底的に考証するものである。その出自から、彼が生きた時代の力学、武将としての栄光、そして滅亡に至る悲劇的な道程を追い、史跡や伝承に残るその面影を探ることで、一人の地方領主の生涯を通して、戦国末期の奥羽に生きた人々の真実に迫ることを目的とする。


大井満安 関連年表

西暦(和暦)

中央の動向

出羽国・由利郡の動向

大井満安の動向

1213年(建暦3年)

和田合戦

由利惟久、所領没収。大弐局を経て大井朝光が由利郡の地頭職を継承 5

-

1467-69年(応仁年間)

応仁の乱

-

大井義久が矢島城を築城したと伝わる 6

1573年(天正元年)

織田信長、室町幕府を滅ぼす

-

この頃より、満安の活動期に入る。

1582年(天正10年)

本能寺の変

最上義光が由利郡に侵攻 4

-

1585年(天正13年)

豊臣秀吉、関白に就任

-

-

1586年(天正14年)

-

矢島氏と仁賀保氏が合戦 4

仁賀保氏当主・重勝を自ら討ち取る 2

1587年(天正15年)

豊臣秀吉、惣無事令を発令

由利衆、秋田氏の内紛(湊合戦)に実季方として介入 4

-

1588年(天正16年)

-

-

滅亡時期の一説(惣無事令違反による討伐説) 8

1590年(天正18年)

小田原征伐、天下統一

奥州仕置。由利郡の諸領主は所領を安堵されるが、矢島氏の名は見えない 8

-

1591年(天正19年)

九戸政実の乱

-

最上義光を訪問中に弟らが謀反。鎮圧するも勢力が減退 4

1592年(文禄元年)

文禄の役(朝鮮出兵)

仁賀保氏を中心とする由利衆が矢島領へ侵攻 3

荒倉館に籠城後、敗走。西馬音内城にて自刃 3


第一章:矢島大井氏の源流 ― 信濃源氏小笠原氏と由利郡への入部

大井満安が率いた矢島氏の出自を辿ると、遠く信濃国の名門武士団に行き着く。矢島氏は「大井氏」を称しており、これは清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一族で、信濃守護も務めた小笠原氏の支流にあたる 2 。奇しくも、後に由利郡の覇権を巡って満安と死闘を繰り広げることになる宿敵・仁賀保氏もまた、同じく小笠原氏の庶流を称しており、両者は遠い祖を同じくする同族であったと伝えられている 2

この信濃の名門が、遠く離れた出羽国由利郡に根を下ろすに至った経緯は、鎌倉時代初期の政争に端を発する。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によれば、建暦3年(1213年)に起こった有力御家人・和田義盛の乱(和田合戦)に際し、古くから由利郡を支配してきた在地豪族・由利氏の当主であった由利惟久が、戦後に謀反の疑いをかけられ、所領を没収されるという事件が起きた 5

この没収された由利郡の地頭職は、3代将軍・源実朝の乳母(養育係)を務めた大弐局(だいにのつぼね)という女性に与えられた 5 。彼女は源頼朝の側女であったともされる有力者であったが、自身に跡を継ぐ子がいなかった。そこで、兄である小笠原長清の七男・大井朝光を養子として迎え、由利郡の所領を継承させたのである 5 。これが、信濃国佐久郡大井荘を本拠とする大井氏が、出羽国由利郡の領主となる歴史的な起源である。

しかし、大井朝光自身は信濃を拠点とする鎌倉の御家人であり、彼やその後継者が直接由利郡に移り住んだわけではなかった。当初は一族の者を代官として派遣し、遠隔地から所領を経営していたと推測される 13 。この統治形態は、鎌倉時代の御家人としては一般的なものであった。

時代が下り、南北朝の動乱から室町時代へと続く中で、幕府の支配力は次第に弱体化していく。それに伴い、現地に派遣されていた代官や、分家として移り住んだ大井氏の庶流は、徐々に土着化し、在地領主としての独立性を強めていった。彼らは現地の地名を姓として名乗るようになり、やがて「由利十二頭」と総称される国人領主団を形成するに至ったと考えられている 10

このようにして、矢島大井氏は由利の地に根を下ろした。彼らは戦国時代に至るまで、在地の実力者として独立した領主(国人)として振る舞っていた。しかしその一方で、自らの権威の源泉として、信濃源氏小笠原氏流大井氏という由緒ある「名」を掲げ続けた。この「実」(在地領主としての実態)と「名」(名門の末裔としての権威)の二重構造こそ、大井満安をはじめとする中世から戦国期にかけての多くの武士のアイデンティティを理解する上で極めて重要な点である。残念ながら、鎌倉時代から戦国時代に至るまでの矢島氏の詳細な系譜は、戦乱の中で多くの古記録が失われたため、今日では不明な点が多い 4

第二章:戦国期由利郡の動乱と大井氏の立場

大井満安が活躍した戦国末期の由利郡は、巨大勢力に囲まれた、地政学的に極めて脆弱な立場にあった。由利郡全体の石高は、周辺の諸大名に比べれば小規模な約5万石程度であったとされる 15 。その北には十万石を超える勢力を誇る安東(秋田)氏が、東には同じく十万石に近い小野寺氏が、そして南には庄内の武藤(大宝寺)氏、さらにはその背後から勢力を拡大する最上氏といった大名がひしめき合っていた 15 。由利十二頭と称される国人領主たちは、常にこれらの大勢力の草刈り場となる危険と隣り合わせの、緊張を強いられた日々を送っていたのである。

このような外部環境に加え、由利郡内部では長年にわたる深刻な対立構造が存在した。それが、矢島大井氏と仁賀保氏という、郡内の二大勢力による覇権争いである 1 。両者は共に小笠原氏の血を引く同族でありながら、その関係は熾烈を極め、満安の代までに矢島氏は仁賀保氏の当主を四代にわたって討ち取ったと伝えられるほど、根深い敵対関係にあった 4

この絶え間ない抗争の中で生き残るため、矢島大井氏は巧みな外交戦略を展開した。主として東に隣接する小野寺氏と連携し、仁賀保氏に対抗するというのが基本戦略であった 8 。しかしその一方で、状況に応じて最上義光のもとを訪れるなど 4 、敵の敵は味方という論理に基づき、合従連衡を繰り返していた。これは、小勢力である由利衆が、大国の狭間で自立を保つために必須の駆け引きであった。

そして、この地域の領主たちが繰り広げる抗争の背景には、単なる領地争いだけではない、より本質的な経済的要因が存在した。ご依頼者が関心を寄せられた軍馬や鉄砲といった軍需物資の調達は、その最たるものである。由利郡の北に位置する秋田湊(現在の秋田市土崎)は、安東氏の支配下にあり、日本海交易における一大拠点として栄えていた 16 。この湊がもたらす莫大な富と物資の支配を巡っては、安東氏一族内部で「湊騒動」と呼ばれる激しい内紛が勃発するほど、その経済的価値は絶大であった 18

由利郡の領主たちにとって、この秋田湊を通じて得られる鉄や塩、そして当時最新の兵器であった鉄砲などの物資は、自らの軍事力を維持・強化し、敵対勢力に対して優位に立つための生命線であった。直接的な記録こそ残されていないものの、由利郡内部における大井氏と仁賀保氏の百年戦争ともいえる長きにわたる抗争は、この秋田湊へ至る物流路の支配権や、交易への参加権益を巡る経済戦争の側面を色濃く帯びていたと推論するのが極めて合理的である。大井満安が繰り広げた戦いは、自らの領地と一族の誇りを守る戦いであると同時に、地域の経済生命線を巡る死活問題でもあったのだ。

第三章:大井満安の武威 ― 天正年間の戦い

大井満安が「剛勇無双」と称される所以は、彼の武将としての具体的な戦功にある。その武名を最も象徴するのが、天正14年(1586年)に繰り広げられた宿敵・仁賀保氏との合戦である。この戦いで満安は自ら陣頭に立って奮戦し、敵の総大将である仁賀保氏当主・重勝を見事討ち取るという大功を挙げた 2 。これにより、彼は単なる領主ではなく、戦場において傑出した武勇を誇る武人であることを内外に証明したのである。

また、満安は勇猛なだけの武将ではなかった。仁賀保氏との抗争が激化する中で、彼は従来の居城であった根城館(ねじろだて)から、より防御力に優れた新荘館(しんじょうだて)へと本拠を移したとされる 2 。新荘館は子吉川の湾曲部を天然の堀として利用した平山城であり、この拠点変更は、激化する戦況に対応するための冷静な戦略的判断であったことを示している。これは、満安が戦況を大局的に捉えることのできる、思慮深い指揮官であったことを物語る。

しかし、その武威と戦略眼をもってしても、彼の勢力基盤は盤石ではなかった。天正19年(1591年)、満安の運命に暗い影を落とす事件が起こる。彼がさらなる勢力拡大、あるいは生き残りの道を模索して、山形の雄・最上義光を訪問している不在の隙を突いて、実の弟である大井与兵衛と家臣の根井正重が謀反を起こし、居城の新荘館を占拠したのである 4

この謀反の背景には、満安の外交方針を巡る一族内の深刻な対立があった可能性が考えられる。満安が頼ろうとした最上氏は、矢島大井氏が伝統的に連携してきた小野寺氏と敵対関係にあった。それゆえ、満安の「最上詣で」は、小野寺氏との関係を重視する家臣団の一部から見れば、一族を危険に晒す裏切り行為、あるいはあまりに危険な賭けと映ったのかもしれない。生き残りをかけた満安の外交努力が、皮肉にも自らの足元を揺るがす内乱の引き金となったのである。

報せを受けた満安は急ぎ矢島に帰還し、謀反を鎮圧することには成功した。しかし、この内紛で多くの家臣や一族を自らの手で討たねばならなかった代償はあまりに大きく、大井氏の戦力は半減してしまったと伝えられている 4 。この事件は、彼の勢力に癒やしがたい傷を残し、その後の滅亡へと至る大きな伏線となったのである。

第四章:滅亡への道程 ― 荒倉館の攻防と非業の最期

大井満安の滅亡に至る時期については、二つの説が存在する。一つは『由利十二頭記』などの軍記物語に描かれる、文禄元年(1592年)説である。これは、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に際し、矢島氏が主力を派遣して領内が手薄になった隙を、仁賀保氏を中心とする由利衆に突かれて滅亡した、という物語性の高い説である 3

もう一つは、より政治的整合性の高い天正16年(1588年)頃説である。これは、豊臣秀吉が発令した「惣無事令(そうぶじれい)」、すなわち大名・国人間の私的な合戦を禁じた命令に、矢島氏が違反したと見なされ、周辺領主による「征伐」という公的な形で滅ぼされたとする説である 8 。天正18年(1590年)の奥州仕置の際に所領を安堵された由利郡の領主リストに矢島氏の名が見えないことから、この説が有力視されている。

いずれの説をとるにせよ、満安の最期が壮絶なものであったことは共通している。長年の宿敵・仁賀保氏を旗頭とする由利衆の連合軍(一説には雑兵含め5000人以上)に矢島領を三方から包囲された満安は、平地にある居城の不利を悟り、天然の要害である山城・荒倉館(あらくらだて)に拠点を移して最後の抵抗を試みた 3

圧倒的な兵力差を前に、家臣たちは脱出を進言したが、満安はこれを退け、決戦を選択した。その覚悟に、かえって一部の兵が離散したともいう 3 。同年7月27日に行われた連合軍の総攻撃に対し、満安は名馬「八升栗毛(はっしょうくりげ)」に跨り、長さ七尺(約2.1メートル)の樫の棍棒を振り回し、鬼神のごとき奮戦を見せた。しかし、次々と予備兵力を投入する敵の物量作戦の前に、大井勢は徐々に消耗していった 3

衆寡敵せず、その日の夜、満安はついに荒倉館から落ち延びる。この混乱の中で、愛娘の鶴姫とも離れ離れになるという悲劇に見舞われた 3

満身創痍の満安が、散り散りになった供を連れてようやく辿り着いたのは、妻の実家である羽後町・西馬音内(にしもない)城主、小野寺茂道のもとであった 3 。茂道は満安を丁重に迎え、再起を誓い合ったという。しかし、その安息は長くは続かなかった。仁賀保氏らは、小野寺一族の当主であり茂道の兄である小野寺義道に対し、執拗な讒言(ざんげん)を行った。この讒言は、単なる中傷ではなかったであろう。「満安は豊臣政権の定めた秩序(惣無事令)を乱す逆賊であり、彼を庇護することは、小野寺家が豊臣政権に弓を引くことと見なされる」という、極めて政治的な脅迫であった可能性が高い。

この圧力の前に、自らの家の存続を優先した小野寺義道は、ついに非情の決断を下す。義道の命により、満安は西馬音内城の一室で自刃に追い込まれた 3 。地域の宿敵と中央の新秩序という二つの巨大な力の共犯関係の前に、出羽の驍将は為すすべもなく、その悲劇的な生涯を閉じたのである。

第五章:史跡と伝承に生きる満安の面影

大井満安の栄華と終焉の物語は、彼が駆け抜けた由利の地に、今なお数多くの史跡としてその痕跡を留めている。彼の菩提寺や城郭跡を訪ねることは、その生涯を立体的に理解する上で欠かせない。


大井満安 関連城郭一覧

城郭名(別名)

所在地

形式

満安との関わり

現在の状況

矢島城(八森城)

由利本荘市矢島町城内

平山城

大井氏代々の居城。応仁年間に築城と伝わる 6

市指定史跡。矢島小学校敷地。水堀、土塁の一部が現存 24

新荘館

由利本荘市矢島町坂ノ下

平山城

仁賀保氏との抗争激化に伴い、満安が居城を移したとされる要害 9

畑地、山林。腰郭、土塁の遺構が残る 26

荒倉館

由利本荘市矢島町坂ノ下

山城

満安が最後に籠城し、鬼神の如く奮戦した詰城 3

山林。国道からその峻厳な山容を望むことができる 3


城郭群と菩提寺

大井氏の拠点であった 矢島城 (別名:八森城)は、応仁年間(1467-69年)にその祖先によって築かれたとされ、一族の栄枯盛衰を見つめてきた城である 6 。現在は矢島小学校の敷地となっているが、往時を偲ばせる水堀や土塁の一部が残り、市指定史跡として大切に保存されている 24

満安が抗争の激化に伴い移ったとされる 新荘館 は、子吉川を天然の堀とした堅固な城であった 9 。そして、彼の最後の戦いの舞台となった

荒倉館 は、峻厳な山に築かれた詰城であり、その地形は今もなお、籠城戦の絶望的な状況を物語っている 3

満安の魂が眠る場所も、二箇所に伝えられている。一つは、彼の菩提寺である由利本荘市矢島の曹洞宗寺院、**嶺松山 高建寺(こうけんじ)**である。この寺は満安によって開基されたと伝えられ、その境内には彼の墓所が静かに佇んでいる 1 。そしてもう一つは、彼が非業の最期を遂げた地、羽後町西馬音内にも、墓と伝わる碑が存在する 22 。矢島と西馬音内、二つの墓所の存在は、彼の生涯の軌跡そのものを象徴しているかのようである。

文化としての継承:西馬音内の盆踊り

大井満安の記憶は、石碑や城跡といった物言わぬ史跡だけに留まらない。彼の悲劇は、人々の心と身体を通して、生きた文化として現代に継承されている。その最も顕著な例が、国の重要無形民俗文化財に指定されている「 西馬音内の盆踊り 」である。

この優雅で幻想的な盆踊りの起源については諸説あるが、その一つに、文禄年間に西馬音内城で自刃した大井満安を悼み、その遺臣や侍女たちが亡き主君を偲んで踊ったのが始まりである、という伝承が根強く残っている 31 。この説は、関ヶ原の戦いで滅んだ西馬音内城主・小野寺一族の霊を慰めるための「亡者踊り」が起源であるとする、もう一つの有力な説と共に語り継がれている 33

起源の真偽を確定することは困難であるが、重要なのは、地域の最も大切な文化遺産の一つが、大井満安の悲劇的な死と結びつけて語られているという事実である。これは、文字による記録とは異なる、民衆の口承や身体的実践を通じて歴史が継承されてきたことを示している。西馬音内の盆踊りは、単なる娯楽や儀礼ではなく、地域の歴史の記憶装置、すなわち「生きたメディア」として機能してきた。この踊りの中で、大井満安は歴史書の登場人物から、地域の人々の心に刻まれる「文化的記憶」へと昇華され、彼の最も永続的な遺産となっているのである。

終章:再評価される大井満安像 ― 地域史の中の悲劇的英雄

本報告書を通じて浮かび上がってきた大井満安の姿は、二つの異なる側面を持つ。一つは、『由利十二頭記』が描き出した、七尺の棍棒を振るい、敵陣を蹂躙する「剛勇無双の英雄」としての姿。そしてもう一つは、断片的な史料を繋ぎ合わせることで再構築される、中央集権化という巨大な時代のうねりに呑み込まれていった「悲劇の地方領主」としての実像である。

彼の生涯は、戦国乱世を自らの武力と才覚、そして複雑な外交戦略によって生き抜いてきた独立領主(国人)が、豊臣政権という新たな統一権力によってその存在様式そのものを否定され、淘汰されていく過程の典型例として位置づけることができる。旧来の秩序の中では彼の強みであったであろう武勇や、宿敵との局地的な抗争に明け暮れる日々は、天下統一後の新たな秩序の中では、もはや時代遅れの遺物でしかなかった。

大井満安は、中央から見た日本の歴史においては、統一の過程で消えていった無数の地方領主の一人、すなわち「敗者」として記録されるに過ぎないかもしれない。しかし、その劇的な生涯と非業の最期は、故郷である出羽国由利の地に、消えることのない深い記憶を刻み込んだ。彼の名は城跡や寺社に残り、その悲劇は伝説として語り継がれ、そして今なお人々によって踊り継がれる盆踊りの中に、その魂は生き続けている。

大井満安の物語は、我々に、中央の大きな歴史の影に埋もれがちな、地方の豊かで複雑な歴史の重要性を教えてくれる。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国という時代の終焉を、辺境の地で生きた一人の武将の視点から見つめ直す、貴重な機会を与えてくれるのである。

引用文献

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  3. 荒倉館 | 秋田のがんばる集落応援サイト あきた元気ムラ https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/archive/contents-493/
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  7. 矢島城の見所と写真・全国の城好き達による評価(秋田県由利本荘市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1300/
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  9. 矢島新荘館 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/yajimasinjyo.htm
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  11. 武家家伝_大井氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ohi_k.html
  12. 出羽国|日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1736
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  29. 大井五郎満安の墓 | 矢島観光案内 ゆりほんナビ https://ysm.yurihon-navi.jp/qr-1302/
  30. 矢島のお寺めぐり---(by 矢島っ子) - 元 秋田県議会議員 (平成3年~平成27年) 佐藤 健一郎の活動報告 http://akitakengi-kensato.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/----372b.html
  31. 西馬音内の盆踊(にしもないのぼんおどり) – 秋田民俗芸能アーカイブス https://www.akita-minzoku-geino.jp/archives/ja/626/
  32. ふるさと祭り東京13(秋田/羽後)西馬音内盆踊りb 野性的な囃子 編み笠/ひこさ頭巾で https://4travel.jp/travelogue/11454299
  33. 西馬音内盆踊りの文化・歴史 - 羽後町 https://www.town.ugo.lg.jp/sightseeing/detail.html?id=340
  34. 秋の西馬音内城跡をめぐる!羽後町堀回地域の住民交流会 | 秋田のがんばる集落応援サイト あきた元気ムラ https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/blog/p20230317111806/