最終更新日 2025-06-11

大内義興

大内義興:戦国初期における西国の覇者、その実像と歴史的意義

序章:大内義興とその時代

戦国初期における大内氏の勢力と、義興の登場の背景

大内氏は、周防国(現在の山口県)を本拠地とし、中世を通じて西日本に広大な勢力を築いた守護大名である。特に室町時代後期には、朝鮮や明(中国)との海外交易を掌握し、経済的にも文化的にも著しい繁栄を遂げ、「西の京」と称される山口の街並みを現出させた 1 。その文化的背景には、百済の聖明王の王子・琳聖太子を始祖とするとされる出自も影響していたと考えられ、大内氏は大陸文化の受容にも積極的であった 2

大内義興の父である政弘の時代には、応仁・文明の乱(1467年~1477年)において西軍の主力として活躍し、中央政局にも大きな影響力を行使した 4 。政弘は武勇のみならず文芸にも通じた人物であり、大内文化の興隆に大きく寄与した 4 。義興が家督を継承する明応年間(1492年~1501年)は、まさにこのような大内氏の勢威が西国に確立されつつある時期であった。

しかし、中央に目を転じれば、明応2年(1493年)には管領・細川政元らによるクーデター(明応の政変)が発生し、室町幕府10代将軍・足利義材(後の義稙)が追放されるという未曾有の事態が生じていた 6 。この政変は、室町幕府の権威を著しく失墜させ、将軍が地方大名を頼って流浪するという、戦国時代の到来を象徴する出来事であった。大内義興は、このような中央政局の混乱と、地方勢力の自立化が急速に進む時代の転換期に、大内氏の舵取りを担うことになったのである。本報告は、かかる激動の時代を生きた大内義興の生涯と事績を多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

本報告の構成と目的

本報告では、大内義興の生涯を、その出自と家督相続から説き起こし、中央政権への介入と管領代としての活動、西国における覇権確立と外交政策、大内文化の隆盛と彼自身の文芸活動、そして晩年から最期に至るまでを、年代を追って詳細に記述する。各時代における義興の事績を、関連する人物や事件、当時の社会状況と照らし合わせながら分析し、彼の政治的・軍事的判断、外交戦略、文化への貢献、そして後世に与えた影響について深く考察する。これにより、戦国時代初期における大内義興という人物の多面的な実像を明らかにし、日本史におけるその位置づけを試みるものである。

第一章:義興の出自と家督相続

誕生と幼少期、元服

大内義興は、文明9年(1477年)、大内氏第14代当主・大内政弘の子として、京都で生を受けた 7 。当時、父・政弘は応仁・文明の乱の主要な将帥の一人として京都に在陣しており、義興の誕生地が戦乱の渦中にある京都であったことは、彼と中央政界との浅からぬ因縁を物語るものと言えよう 4 。幼名は亀童丸と称した 7

長ずるに及び、長享2年1月30日(1488年3月13日)、義興は京都において元服の儀を執り行った。この際、室町幕府9代将軍・足利義尚(義政の子、義材の従兄)から偏諱(「義」の字)を賜り、「義興」と名乗ることとなる 7 。これは、大内氏と足利将軍家との間に依然として密接な主従関係が存在したことを示すとともに、義興が次期当主として幕府からも公認されたことを意味する。父・政弘は、武勇に優れるだけでなく、和歌や連歌にも通じた当代一流の文化人であり、義興もまた、その父の薫陶を受け、幼少期より武芸はもとより、学問や教養を身につけるための教育を十分に施されたものと考えられる 4

父・政弘からの家督相続と初期の領国経営

明応3年(1494年)、父・政弘が病を理由に隠居すると、義興は18歳の若さで家督を相続し、大内氏第15代当主となった 8 。翌明応4年(1495年)には政弘が死去し 7 、義興は名実ともに大内家の総帥として、西国に広がる領国の経営と、複雑化する内外の情勢に対処していくこととなる。

家督相続当初、義興は周防・長門・石見の3ヶ国の守護職を継承し 7 、明応5年(1496年)には筑前国の守護職も獲得した 7 。しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。父の代からの懸案であった九州北部の少弐氏との抗争は依然として続いており、義興は家督相続後間もない明応6年(1497年)には、少弐政資・高経父子を破り、肥前国の一部にまで勢力を拡大するなど、軍事的な成果を上げている 7

さらに、国内においては、弟(一説には庶兄ともされる)の大内高弘(隆弘とも)が、義興に対して反旗を翻すという内訌も経験した 7 。高弘の反乱は、中央の細川氏の唆しによるものであったとされ、決行前に露見したため大事には至らなかったものの、若き義興にとっては大きな試練であった 4

これらの家督相続初期における内外の困難は、義興にとって避けては通れない試練であった。若くして当主となり、父の死、肉親の反乱、そして宿敵との絶え間ない戦いという厳しい現実に直面しながらも、彼はこれらを乗り越えることで、武将としての器量と統治者としての資質を磨き上げていった。この時期の経験が、後の大胆な中央政界への進出や、複雑な外交交渉を可能にするための素地を形成したと考えることができる。彼がこれらの危機を乗り越え、やがて「戦国最初の天下人」とも評されるほどの勢力を築き上げるに至る過程は、彼の政治的・軍事的才能が初期の段階から発揮されていたことを示唆している。

第二章:中央政権への介入と管領代時代

足利義稙の庇護と上洛の決断

明応の政変によって将軍の座を追われた足利義材(後に義稙と改名)は、越中などを経て流浪の末、明応9年(1500年)頃、大内義興を頼って周防国山口に下向した 1 。義興は義稙を厚く庇護し、その滞在は9年近くにも及んだ。この間、山口には義稙を支持する勢力が集い、さながら臨時の幕府のような様相を呈したとされる 1 。大内氏にとって、将軍を庇護することは、その権威を利用して自らの勢力を伸張させる好機でもあった。

転機が訪れたのは永正4年(1507年)であった。中央政局を牛耳っていた管領・細川政元が、家臣の香西元長や薬師寺長忠らによって暗殺されるという事件(永正の錯乱)が勃発し、京都は再び混乱に陥った 4 。義興はこの政変を千載一遇の好機と捉え、足利義稙を奉じて京都へ上洛し、義稙の将軍復職と幕政の掌握を目指すことを決断した 4 。この上洛は、単に将軍への忠義心からだけではなく、長年の宿敵であった細川京兆家の勢力を削ぎ、大内氏の政治的影響力を中央にまで拡大しようとする、義興の強い意志と戦略的判断に基づくものであったと考えられる。

管領代就任と幕政における実権掌握

永正5年(1508年)6月、義興は義稙を奉じた大軍を率いて入京を果たし、義稙は将軍職に復帰した 1 。この功績により、義興は室町幕府の管領代に任じられた 4 。大内氏は伝統的な管領家(斯波氏、畠山氏、細川氏の三管領家)の出身ではなかったため、管領そのものに就任することは叶わなかったが 9 、管領代という立場から実質的に幕政の最高権力を掌握するに至ったのである 4

この時期、義興の官位も急速に昇進し、入京直後の永正5年(1508年)7月1日に管領代に就任すると、8月1日には正五位下から従四位下に、9月14日には従四位上に昇叙された 7 。さらに、守護国も拡大し、従来の周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に加え、永正13年(1516年)には京都のある山城国の守護職も兼任することとなり、その勢威は絶頂期を迎えた 4

表:大内義興 官位・守護国一覧

年月日 (旧暦)

出来事・官位・守護国

典拠

年月不明

従五位下に叙位

7

長享2年(1488年)2月13日

周防権介に任官

7

年月不明 (1511年時点では就任中)

左京大夫に任官

7

明応4年(1495年)

周防・長門・石見3ヶ国の守護となる

7

明応5年(1496年)

筑前国守護職を兼ねる

7

永正4年(1507年)

安芸国守護を兼ねる

7

永正5年(1508年)6月8日

足利義稙を奉じて入京

7

永正5年(1508年)7月1日

幕府管領代に就任

7

永正5年(1508年)8月1日

正五位下より従四位下に昇叙

7

永正5年(1508年)9月14日

従四位上に昇叙

7

永正6年(1509年)

豊前国守護を兼ねる

7

永正9年(1512年)3月26日

従三位に昇叙

7

永正11年(1514年)

左京大夫を辞退

7

永正13年(1516年)

山城国守護を兼ねる

7

この表は、大内義興の権勢が、足利義稙の上洛と将軍復職を契機として、短期間のうちに飛躍的に増大したことを明確に示している。特に、管領代就任と山城国守護兼任は、彼が名実ともに中央政権の中枢を担う存在となったことを象徴するものである。

細川高国との連携と確執

細川政元の暗殺後、細川京兆家は養子である澄元、高国、澄之の間で家督を巡る深刻な内紛(永正の錯乱)に陥っていた 6 。義興は、同じく足利義稙を擁立する立場にあった細川高国と連携し、対立する細川澄元とその支持勢力との間で激しい抗争を繰り広げた 6

当初、義興と高国は共通の敵である澄元派を打倒するために協力関係にあった。しかし、義興の京都滞在が長期化するにつれて、両者の間には徐々に利害の対立や権力闘争の兆しが見え始めた。特に、莫大な利益を生む勘合貿易(日明貿易)の主導権を巡る対立は深刻であり、これは後に寧波の乱(1523年)という国際的な紛争を引き起こす遠因の一つとなった 16 。高国政権下で、義興が遣明船派遣の永代管掌権を将軍義稙から認められたことは、細川氏にとって貿易利権を奪われることを意味し、両者の亀裂を深める要因となったと考えられる 16

船岡山の戦いにおける武功と戦略

永正8年(1511年)、細川澄元と彼が擁立する前将軍・足利義澄(義稙の従兄弟)の勢力が、京都奪還を目指して攻勢を強めた。澄元軍は摂津や播磨で勝利を重ね、京都に迫った 13 。この危機に際し、義興と高国は将軍義稙を奉じて一時的に丹波国へ戦略的撤退を余儀なくされた 6

しかし、義興らはすぐに態勢を立て直し、同年8月23日から24日にかけて、京都北部の船岡山において澄元軍と決戦を行った(船岡山の戦い) 17 。この戦いには、大内軍の主力として陶興房らが参陣し、さらには後に中国地方で覇を競うことになる尼子経久や毛利興元(元就の兄)なども大内方として加わっていた 18 。大内・細川連合軍は夜襲をかけるなど巧みな戦術を用い、細川政賢を討ち取るなど澄元軍に大勝した 17 。敗れた澄元は阿波へ逃れ、足利義澄も戦いの直前に病死したため、義稙政権は安定を取り戻した 6

史料によれば、義興はこの船岡山の戦いで自ら先頭に立って敵陣に攻め込んだと伝えられており、その武勇は高く評価されている 4 。この決定的な勝利は、義興の軍事的才能と戦略眼を示すものであり、彼の幕政における発言力を一層強固なものにした。

十一年間の在京生活とその影響、山口への帰還

船岡山の戦いの勝利後、大内義興の京都における影響力は確固たるものとなり、その滞在は約11年間(永正5年~永正15年)にも及んだ 4 。この間、京都は比較的平穏な時期が続いたとされ、義興の存在が中央政局の安定に寄与した側面も認められる 11

しかし、この長期にわたる本国不在は、大内氏の領国経営に深刻な影響を及ぼし始めた。義興が京都で幕政を主導している間、西国では出雲の尼子経久が急速に勢力を拡大し、安芸や石見など大内氏の勢力圏への侵食を開始していた 4 。また、領国内の国人領主たちの間にも不穏な動きが見られるようになり、大内氏の支配基盤そのものが揺らぎ始めていた。京都での活動には莫大な経費も必要であり、これも大内氏の財政を圧迫したと考えられる 4

このような状況に加え、将軍・足利義稙の気まぐれな行動や、細川高国との関係悪化なども、義興の心境に変化をもたらした可能性がある 4 。永正15年(1518年)、義興は管領代の職を辞し、表向きは病気療養を理由として、堺を経由して本国周防の山口へと帰還した 4

義興の中央政界における華々しい活動は、大内氏の威光を全国に知らしめるものであった。しかしその一方で、権力の源泉であるべき本国の支配が疎かになるという代償を伴った。これは、戦国時代の大名が中央政局に関与する際にしばしば直面するジレンマであり、義興の事例はその複雑さと困難さを如実に示している。彼が京都を去った後の西国は、彼が不在の間に大きく変化した勢力図の中で、新たな戦乱の時代へと突入していくことになる。義興の帰国は、大内氏の歴史における一つの大きな転換点であったと言えよう。

第三章:西国における覇権確立と外交政策

宿敵・尼子経久との攻防

大内義興が約11年間に及ぶ京都滞在から本国周防に帰還した永正15年(1518年)頃、西国では新たな強敵がその勢力を急速に拡大していた。出雲国(現在の島根県東部)を本拠とする尼子経久である 4 。義興の不在中、経久は巧みな戦略と武力をもって山陰地方を席巻し、さらに山陽地方の安芸国(現在の広島県西部)や石見国(現在の島根県西部)へもその触手を伸ばし始めていた。

帰国後の義興にとって、この尼子氏の台頭をいかに抑え、大内氏の西国における覇権を維持・拡大するかは最大の軍事課題となった 7 。大永元年(1521年)以降、両者の衝突は本格化し、安芸国や石見国がその主戦場となった 8

特に安芸国における攻防は熾烈を極めた。大永3年(1523年)、尼子方の有力国人であった毛利元就(当時は甥の幸松丸の後見役)が、大内氏の安芸支配における重要拠点であった鏡山城を攻略した(鏡山城の戦い) 8 。この戦いは、元就の智略が際立った戦いとして知られ、大内氏にとっては手痛い敗北となった。

しかし、大内氏も黙って見ていたわけではない。翌大永4年(1524年)には、尼子方についていた安芸武田氏や友田氏を破り 19 、さらに大永5年(1525年)には、毛利元就が尼子氏を見限り大内氏に服属するという大きな転換点も訪れた 8 。これにより、安芸国における勢力バランスは再び大内氏優位に傾きかけた。

それでも尼子氏の勢いは衰えず、大永7年(1527年)には、大内氏の重臣・陶興房が備後国細沢山において尼子経久軍を破る(細沢山の戦い)など、両者の戦いは一進一退の攻防を続けた 7 。義興の晩年は、まさにこの尼子氏との西国における覇権を巡る絶え間ない戦いに費やされたと言っても過言ではない。

九州諸大名(少弐氏、大友氏など)との関係

九州北部における大内氏の権益確保も、義興にとって重要な課題であった。家督相続初期から続く肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の少弐氏との戦いは、義興の生涯を通じて断続的に行われた 4 。少弐氏は、大内氏の九州支配にとって常に目の上の瘤であり、その勢力を削ぐことは大内氏の安定にとって不可欠であった。

一方、豊後国(現在の大分県)を本拠とする大友氏とは、より複雑な関係にあった。時には軍事的に対立することもあったが、義興の娘が大友氏第20代当主・大友義鑑に嫁いでおり 7 、姻戚関係を通じて同盟を結ぶこともあった。九州における大内氏の勢力維持には、これら有力大名との関係を巧みに操ることが求められた。

勘合貿易の推進と大内氏の経済力(寧波の乱とその対処を含む)

大内氏の強大な軍事力と政治的影響力を背後で支えていたのは、海外交易、特に明との間で行われた勘合貿易(日明貿易)によってもたらされる莫大な経済力であった。父・政弘の代から積極的に推進されてきたこの貿易を、義興もまた継承し、さらに発展させた 11

勘合貿易は、明の皇帝に対して日本の国王(実質的には室町幕府将軍や有力守護大名)が朝貢使節を派遣し、貢物に対する返礼品として明の物産を得るという形式で行われた 25 。日本からの輸出品は刀剣、銅、硫黄、扇などで、輸入品は銅銭(永楽通宝など)、生糸、絹織物、陶磁器、書画、薬品など多岐にわたった 26 。この貿易は、正式な外交ルートを通じて行われるため、関税がかからず、また返礼品の方が価値が高い場合も多かったため、派遣する側にとっては莫大な利益を生むものであった 25

応仁の乱以降、室町幕府の権威が低下すると、勘合貿易の主導権を巡って有力守護大名である大内氏と細川氏が激しく対立するようになった 16 。両氏はそれぞれ博多や堺の商人と結びつき、遣明船の派遣を競った。

この対立が頂点に達したのが、大永3年(1523年)に明の主要な貿易港であった寧波で発生した「寧波の乱」である 8 。この年、大内義興が派遣した謙道宗設を正使とする遣明船と、細川高国が派遣した鸞岡瑞佐を正使、宋素卿を副使とする遣明船が、ほぼ同時期に寧波に入港した。先に到着していた大内船よりも、後から到着した細川船が明の市舶司(税関)の役人に賄賂を渡して優先的に勘合の査証手続きを行ったことに激怒した大内側は、実力行使に出た。鸞岡瑞佐を殺害し、宋素卿の船を焼き討ちにし、さらには明の役人や民衆にも被害が及ぶという大規模な騒乱事件となったのである 25

この寧波の乱は、日明間の外交関係に深刻な打撃を与え、一時的に公式な勘合貿易は中断される事態となった。しかし、この事件の結果、細川氏は遣明船派遣の主導権争いから事実上脱落し、大内氏がその後の勘合貿易の利権をほぼ独占することになった 16 。大内氏はこの貿易独占によって、他の戦国大名を圧倒する経済力を獲得し、それが西国における覇権確立や、後述する大内文化のさらなる隆盛へと繋がっていく。

勘合貿易から得られる莫大な富は、大内義興の軍事行動や政治工作を財政的に支える大動脈であった。それは西国における覇権を確立し、さらには中央政界へ進出して幕政を動かす原動力となった。しかしながら、その巨大利権を巡る争いは、寧波の乱のような国際的な紛争を引き起こす危険性を常に孕んでいた。この事件は、大内氏の外交手腕と危機管理能力が問われる局面であったと言える。結果として貿易の主導権を握ったことは、大内氏の交渉力と影響力の強大さを示すと同時に、経済的利益を追求するためには強硬な手段も辞さないという彼らの一面を浮き彫りにした。義興の時代に確立されたこの貿易独占は、子の義隆の代における華やかな文化の開花を支える基盤となるが、その義隆の滅亡とともに勘合貿易も終焉を迎えることになるのである 28

朝鮮、琉球との国際交流

大内氏の国際的な視野は、明との勘合貿易だけに留まらなかった。朝鮮半島や琉球王国とも活発な交易関係を築いていた 1 。朝鮮との交易は、義興の時代には以前ほどの利益を上げなくなっていたとの指摘もあるが 20 、依然として重要な外交・経済ルートであり続けた。これらの国々との交流は、経済的な利益をもたらすだけでなく、多様な文化や情報が山口にもたらされることを意味し、山口が「西の京」と称される国際色豊かな文化都市として発展する上で、不可欠な要素であった 1

第四章:大内文化の隆盛と義興の文芸

父・政弘から受け継いだ文化的土壌

大内義興の時代の文化を語る上で、父・大内政弘が築き上げた文化的遺産は無視できない。政弘は応仁・文明の乱において京都に長期滞在し、その間に多くの公家や禅僧、文化人と交流を深めた。彼自身も和歌や連歌に優れた才能を発揮し、武勇のみならず文事にも長けた「文武両道」の武将として知られていた 4

特筆すべきは、政弘が当代随一の水墨画家である雪舟等楊の有力なパトロンであったことである。政弘は雪舟の才能を高く評価し、彼が明に渡って絵画の修行を積むための遣明船を提供した 31 。雪舟は帰国後、戦乱で荒廃した京都を避け、大内氏の庇護のもと山口に雲谷庵というアトリエを構え、多くの傑作を生み出した。常栄寺の庭園(雪舟作庭と伝わる)なども、この時期の大内氏と雪舟の関係を物語る文化遺産である 2

また、大内氏の本拠地である山口は、政弘の祖父・弘世の代から京都を模倣した都市計画が進められ、碁盤目状の街路や寺社が整備されていた 2 。この「西の京」とも称される洗練された都市空間は、多くの文化人が集う場となり、大内文化が花開くための豊かな土壌を提供した 1 。義興は、このような父祖伝来の文化的環境と、積極的な文化振興の気風を受け継いで、大内文化をさらに発展させたのである。

義興自身の和歌・連歌への造詣と作品

大内義興自身もまた、父・政弘には及ばないまでも、文芸に深い関心と才能を持つ人物であった 7 。彼は和歌や連歌を嗜み、その作品は当時の高い文化水準を反映している。

永正9年(1512年)、京都滞在中に嵯峨野の西芳寺(苔寺)を訪れた際に詠んだとされる和歌「かくばかり 遠き吾妻の 不二がねを 今ぞみやこの 雪の曙(かくばかり とおきあづまの ふじがねを いまぞみやこの ゆきのあけぼの)」は、彼の風雅な一面を今に伝える貴重な記録である 7 。この歌は、遠い東国の富士山を都の雪景色の中に見出した感動を詠んだもので、彼の繊細な感性を示している。義興の和歌は、時の天皇である後柏原天皇をはじめ、多くの公家からも称賛されたと伝えられており、中央の文化人サークルにおいても一定の評価を得ていたことが窺える 7

連歌においても、義興は本格的に取り組んでいた。当代一流の連歌師であり、宗祇の直弟子であった宗碩を周防山口に招き、彼から古今伝授(古今和歌集の秘説を伝授されること)を受けたとされる 7 。これは、義興が単に文芸を好むだけでなく、その奥義を究めようとする真摯な姿勢を持っていたことを示している。

さらに義興は、父・政弘が培った文芸の気風を、大内家中に広く普及させることにも努めた。その結果、義興の家臣団の中からも、文の道に明るい武将が多く現れたと記録されている 20 。これは、大内氏の統治機構全体における文化的レベルの向上に繋がり、洗練された外交や内政運営にも影響を与えた可能性がある。また、義興は有職故実(朝廷や武家の儀式・制度・法令などに関する知識)にも熱心で、伊勢流故実の宗家である伊勢家との間で交わされた問答集が残存しており、彼の学識の深さを示している 20

「西の京」山口の繁栄と文化人との交流

大内義興の治世下においても、本拠地である山口は「西の京」としての繁栄を謳歌し続けた。勘合貿易をはじめとする海外交易によってもたらされた莫大な富は、山口の経済的基盤を強固にし、それが文化活動を活発に支える要因となった 1 。京都が応仁の乱以降も戦乱に見舞われることが多かったのに対し、比較的安定していた山口には、戦乱を避けて多くの公家や禅僧、学者、芸術家たちが下向してきた。義興はこれらの文化人を積極的に受け入れ、彼らとの交流を通じて、京都の洗練された文化が山口に移植され、さらに独自の発展を遂げることになった。

大内塗に代表される漆工芸もこの時代に一層の発展を見せ、大内氏の重要な輸出品の一つともなった 35 。深い朱色を特徴とする大内塗は、大内氏の権勢と文化的洗練を象徴する工芸品として、今日までその伝統が受け継がれている。

大内義興にとって、文化の振興は単なる個人的な趣味や教養の追求に留まるものではなかった。それは、大内氏の権威を高め、領国支配を円滑にし、さらには明や朝鮮といった海外諸国との外交交渉を有利に進めるための重要な政治的・社会的手段でもあった。例えば、義興の和歌が天皇や公家から称賛されたことは、中央の権威筋との文化的な繋がりを強化し、大内氏の格式を高める効果があった。また、家臣にも文芸を奨励したことは、家臣団の結束を固め、彼らの教養を高めることで、より高度な統治能力の涵養に繋がったと考えられる。勘合貿易で明に送られる進物の中には、狩野元信に制作を依頼した屏風や扇などの美術工芸品も含まれており 16 、文化的な高さを示すことは外交儀礼上も極めて重要であった。「西の京」としての山口の繁栄は、京都文化の受容と模倣を通じて、大内氏が中央の権威と文化を地方で体現する存在であることを内外に示し、その支配の正当性を補強する役割も果たしたのである。戦国時代の大名にとって、武力や経済力だけでなく、文化力もまた統治における重要な要素であったことを、大内義興の事例は雄弁に物語っている。

第五章:晩年と最期

帰国後の領国統治と山積する課題

永正15年(1518年)、約11年間に及んだ京都での活動を終え、大内義興は本国周防の山口へと帰還した 4 。しかし、彼を待ち受けていたのは、長期の不在によって生じた領国内の様々な問題と、周辺勢力の台頭による新たな緊張関係であった。

帰国後の義興にとって最大の課題は、急速に勢力を拡大してきた出雲の尼子氏への対応であった。義興の在京中、尼子経久は山陰地方を着実にその支配下に収め、さらに安芸国や石見国へと進出する勢いを見せていた。義興は帰国後、連年のようにこの尼子氏との間で軍事衝突を繰り返すこととなる 7

安芸国や石見国における国人領主たちの動向も、大内氏の領国経営にとって頭の痛い問題であった。これらの国人衆は、大内氏と尼子氏という二大勢力の間で揺れ動き、時には離反することもあったため、彼らをいかに大内氏の支配体制の中に効果的に組み込み、その忠誠を確保するかが重要な課題であった 4

経済面においても、朝鮮との交易は以前ほどの利益を上げなくなりつつあり、また、日明貿易も寧波の乱(1523年)の影響で一時的に不安定になるなど、盤石とは言えない状況にあった 20 。義興は、これらの山積する内外の課題に対処するため、晩年まで精力的に活動を続けることになる。

安芸門山城攻めと陣中での死、その影響

享禄元年(1528年)、大内義興は、尼子氏の勢力下にあった安芸国佐西郡の門山城(己斐城ともされるが、諸説あり)に対する攻撃を開始した 7 。これは、安芸国における尼子氏の勢力を削ぎ、大内氏の支配を再確立するための重要な軍事行動であった。

しかし、同年7月、義興はこの門山城攻めの陣中において病に倒れてしまう 7 。病状は重く、山口に帰還した後も回復することなく、同年12月20日、波乱に満ちたその生涯を閉じた 7 。享年52であった 7 。義興の墓所は、山口市にある瑠璃光寺の境内に位置する大内氏遺跡凌雲寺跡と伝えられている 2

義興の死後、家督は嫡男である大内義隆が22歳の若さで継承した 7 。義興は、中央政界での華々しい活動から一転し、晩年は西国の宿敵である尼子氏との泥沼の戦いに明け暮れ、その戦いの最中に病を得て世を去った。彼の死は、尼子氏との決着を見ないままとなり、大内氏の西国における覇権が未だ盤石ではなかったことを示している。この不安定な状況と、若年の義隆への家督継承は、その後の大内氏の歴史に大きな影を落とすことになる。義興が築き上げた広大な勢力と複雑な統治構造、そして未解決の対外関係は、若き義隆にとってあまりにも重い遺産であったかもしれず、義興の死によって生じた権力の空白や、潜在的な内部対立が、後の大内氏の混乱と最終的な滅亡へと繋がる遠因となった可能性は否定できない。

第六章:大内義興の人物像と歴史的評価

武将としての力量と戦略眼

大内義興は、15歳で六角高頼討伐戦(長享・延徳の乱)に初陣を飾り 9 、以後、生涯を通じて数多くの戦いを指揮した。特に、京都における船岡山の戦い(1511年)では、自ら先陣を切って敵軍に突入したと伝えられ、その勇猛さは際立っている 4 。また、足利義稙を奉じての上洛は、単なる軍事行動に留まらず、細川政元暗殺後の混乱した中央政局を巧みに利用し、将軍復職と管領代就任を成し遂げた点で、高度な政治的判断力と戦略眼を持っていたことを示している 4

しかしながら、約11年間に及んだ京都滞在は、結果として本国の守りを手薄にし、尼子氏などのライバル勢力の台頭を許す一因となった 4 。この点は、彼の戦略における限界、あるいは長期的な展望の欠如と評価される側面もあろう。西国における覇権確立と中央政権への影響力行使という二つの目標のバランスを取ることの難しさが、彼の生涯を通じて見て取れる。

文化人としての素養と実績

武将としての側面が強調されがちな義興であるが、同時に文化人としての高い素養も持ち合わせていた。和歌や連歌に優れた才能を発揮し、その作品は後柏原天皇や多くの公家からも称賛されたと記録されている 7 。これは、彼が単に武辺一辺倒の人物ではなく、当代一流の文化人と伍するだけの教養と感性を備えていたことを示している。

特に連歌においては、宗祇の弟子である高名な連歌師・宗碩を山口に招いて古今伝授を受けるなど、本格的にその道を究めようとする姿勢が見られる 7 。また、父・政弘が築いた文化的な気風を継承し、それを家臣団にも広め、大内家中の文芸水準の向上に貢献した 20 。有職故実にも通暁し、伊勢家との問答集が残されていることからも、彼の知的好奇心の旺盛さと学識の深さが窺える 20

史料に見る逸話と人間性

史料に残るいくつかの逸話は、大内義興の人間性や彼が置かれた状況の複雑さを垣間見せる。弟(あるいは庶兄)である大内高弘との内訌は、血縁者との間に生じた確執であり、若き日の義興が直面した統治の難しさの一端を示している 4

足利義稙を長年にわたり庇護し、その将軍復職に尽力した行動は、一見すると将軍への忠義心の発露と解釈できる。しかし、同時にそれは大内氏の勢力を中央にまで拡大するための絶好の機会と捉えた、極めて現実主義的な政治判断であったとも言える 4

京都での管領代時代、東大寺などの権門寺社からの要求に応じ、国衙領を返還したという記録も残っている 4 。これは、中央政権における彼の立場と、地方領主としての自領の利益との間で板挟みになるという、当時の有力大名が抱えたジレンマを象徴する出来事である。

義興自身の辞世の句は確認されていないが、永正9年(1512年)に京都嵯峨野の西芳寺で詠んだとされる和歌「かくばかり 遠き吾妻の 不二がねを 今ぞみやこの 雪の曙」は 7 、彼の風雅な心情や美意識を伝える貴重な文学的資料と言えよう。

現代における歴史的評価と研究動向

大内義興は、一部で「戦国時代における最初の天下人」と評価されることがある 9 。これは、一度失脚した室町幕府将軍・足利義稙を傀儡として擁立し、自らは管領代として中央政権を実質的に動かした点を指しての評価である。しかし、この「天下人」という呼称が、後の織田信長や豊臣秀吉のような全国統一を目指した人物と同列に語れるかについては、慎重な検討が必要である。

義興の権力基盤はあくまで西国にあり、彼の行動は旧体制である室町幕府の枠組みの中で最大限の影響力を行使しようとしたものであった。全国統一という明確なビジョンを持っていたわけではなく、また、その権力も京都からの帰国とともに中央政局から離れることになった。したがって、「最初の天下人」という評価は、彼の中央での一時的な成功を強調しすぎるきらいがあり、その実態とは異なる可能性がある。彼の独自性は、むしろ西国に強固な地盤を築きつつ、中央政局と国際関係(特に日明貿易)を巧みに結びつけて、広域にわたる影響力を行使した点に見出すべきであろう。

近年では、大内義興に関する専門的な研究書や学術論文も発表されており 37 、彼の政治的・軍事的活動のみならず、文化への貢献や東アジアにおける国際交流の担い手としての側面など、多角的な研究が進められている。単に中央志向の武将として捉えるのではなく、西国における広域な地域権力を確立し、その経済力と文化力を背景に独自の地位を築いた戦国初期の重要な人物として、その歴史的意義が再検討されている 27 。彼の活動は、戦国時代の多様な権力形態の一つを代表しており、室町幕府体制の解体と新たな秩序形成の過渡期における地方権力の動向を理解する上で、極めて重要な事例と言える。

表:大内義興 関係人物一覧

氏名

続柄・関係

主要な事績・関わり

典拠

大内政弘

大内氏第14代当主。応仁の乱で活躍。文武両道。

4

内藤弘矩の娘

正室

長門守護代・内藤弘矩の娘。義隆の母。

7

大内義隆

嫡男

大内氏第16代当主。義興の跡を継ぐ。

7

大内高弘(隆弘)

弟(または庶兄)

義興に対し反乱を企てるも失敗。

4

足利義稙(義材)

庇護した前将軍

明応の政変で失脚後、義興を頼る。義興により将軍に復職。

1

細川高国

連携・対立した管領

義稙を共に擁立。当初協力するも、後に利害対立。

6

細川澄元

敵対した武将

高国の政敵。船岡山の戦いで義興・高国軍に敗れる。

6

尼子経久

宿敵

出雲の戦国大名。義興の西国支配における最大のライバル。

7

少弐政資

敵対した九州の武将

肥前の大名。義興と九州北部で抗争。

7

陶興房

重臣

大内氏の有力家臣。各地の戦いで活躍。細沢山の戦いで尼子軍を破る。

4

内藤興盛

重臣

長門守護代。義興の上洛に従軍。義隆の代にも仕える。

44

この表は、大内義興の生涯における主要な登場人物との関係性をまとめたものである。これらの人物との協力、対立、主従関係が、義興の行動や決断、そして彼が生きた時代の複雑な情勢を形作っていたことが理解できる。

結論:大内義興が戦国史に残した足跡

戦国時代初期における義興の役割の再評価

大内義興は、室町幕府の権威が地に墜ち、群雄割拠の戦国時代へと日本社会が大きく移行していく過渡期において、西国の一地方権力という立場を超え、中央政局に深く介入し、一時的ではあれ幕政を主導した点で、日本史上特筆すべき存在である。彼の行動は、従来の守護大名がその枠組みを乗り越え、より自立的で広域な支配を目指す戦国大名へと変質していく時代の様相を色濃く反映している。足利義稙を奉じての上洛と管領代就任は、地方勢力が中央政権の動向に大きな影響を与えうることを示した象徴的な出来事であった。

しかし、彼の権力は伝統的な幕府体制の枠組みを完全に逸脱するものではなく、また、その影響力も京都からの帰国とともに限定的なものとなった。この点は、後の織田信長や豊臣秀吉といった天下統一を目指す戦国大名とは一線を画すものであり、義興を「戦国最初の天下人」と称することの妥当性については、慎重な議論が求められる。むしろ、彼の歴史的意義は、西国に強固な経済的・軍事的基盤を築き上げ、それを背景に中央政局に関与しつつ、日明貿易や朝鮮・琉球との国際交流を積極的に展開した、戦国初期における独自の広域地域権力としての側面にこそ見出されるべきであろう。

後世への影響と大内氏の行く末への布石

大内義興が確立した勘合貿易の独占と、それによってもたらされた莫大な経済的繁栄は、次代の当主である子・義隆の時代における、絢爛たる大内文化の開花を準備したと言える。山口が「西の京」としての名声を不動のものとし、雪舟をはじめとする多くの文化人が集い、多様な文芸活動が花開いた背景には、義興の時代の経済的・文化的蓄積があった。

一方で、彼の約11年間に及ぶ長期の中央政界への関与と本国不在は、結果として尼子氏をはじめとするライバル勢力の伸張を許し、大内氏の支配体制に潜在的な脆弱性を残したことも否定できない。義興の死後、これらの課題は顕在化し、若き義隆が直面する困難な状況へと繋がっていく。義興の時代は、大内氏の栄華が頂点に達した時期であると同時に、その後の急速な衰退と滅亡の萌芽を内包していた時期でもあったと評価できる。

彼が築き上げた「西の京」山口の文化と、国際交易を通じて得た富や知見は、大内氏滅亡後も形を変えつつ、毛利氏による統治や、さらにはその後の日本の歴史や文化にも何らかの影響を与えたと考えられる。大内義興は、戦国時代の幕開けを告げる激動の時代に、西国に確固たる足跡を残した武将であり、その多面的な活動は、日本中世から近世への移行期を理解する上で、引き続き重要な研究対象であり続けるであろう。

(付録)

大内義興 略年表

年 (西暦/和暦)

月日 (旧暦)

出来事

典拠

1477年 (文明9年)

京都にて誕生。幼名、亀童丸。

7

1488年 (長享2年)

1月30日

京都にて元服。足利義尚より「義」の字を賜り義興と名乗る。周防権介に任官。

7

1492年 (明応元年)

父・政弘の命で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦(初陣)。

7

1494年 (明応3年)

父・政弘の隠居により家督相続。大内氏第15代当主となる。

8

1495年 (明応4年)

父・政弘死去。周防・長門・石見3ヶ国の守護となる。

7

1496年 (明応5年)

筑前国守護職を兼ねる。

7

1497年 (明応6年)

少弐政資・高経父子を破る。

7

1499年 (明応8年)

弟・高弘が反乱を企てるも失敗。

4

1500年 (明応9年)頃

前将軍・足利義材(義稙)が山口に下向、庇護する。

1

1507年 (永正4年)

12月

足利義稙を奉じて上洛を開始。安芸国守護を兼ねる。

4

1508年 (永正5年)

6月8日

入京。

7

7月1日

幕府管領代に就任。

7

9月14日

従四位上に昇叙。

7

1509年 (永正6年)

豊前国守護を兼ねる。

7

1511年 (永正8年)

8月23-24日

船岡山の戦いで細川澄元軍を破る。

6

1512年 (永正9年)

3月26日

従三位に昇叙。

7

嵯峨野西芳寺にて和歌を詠む。

7

1516年 (永正13年)

山城国守護を兼ねる。

7

1518年 (永正15年)

管領代を辞し、山口へ帰国。

4

1523年 (大永3年)

寧波の乱が発生。

8

1527年 (大永7年)

細沢山の戦いで陶興房が尼子経久を破る。

7

1528年 (享禄元年)

7月

安芸門山城攻めの陣中で発病。

7

12月20日

山口にて死去。享年52。

7

引用文献

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