本報告書は、日本の戦国時代にその名を刻むも、多くの場合、悲劇的な「傀儡の当主」として語られる大内義長(おおうち よしなが)の生涯について、現存する史料に基づき多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。大内義長は、かつて西国に一大勢力を誇った大内氏の事実上最後の当主であり 1 、その短い治世と最期は、戦国時代の権力移行の激しさと複雑さを象徴している。
従来、大内義長の評価は、陶晴賢(すえ はるかた)に擁立された主体性のない君主という側面が強調されてきた 1 。しかし、近年の研究では、キリスト教保護に見られる文化的側面や、彼自身の意思決定の可能性について再検討の余地が指摘されている 1 。また、義長の歴史的評価には、彼を滅ぼした毛利氏側の史観が少なからず影響を与えてきた可能性も考慮に入れる必要がある 5 。例えば、かつては義長を大内氏の正式な当主と見なさない向きもあったが、現在では幕府に公認された当主として数えるのが標準的な見解となりつつある一方で、大内氏の嫡流としては天文20年(1551年)の大内義隆の死をもって滅亡したとする説も依然として存在する 1 。これは、歴史記述がしばしば勝者の視点に偏るという一般的な傾向を反映しているとも言えよう。
したがって、本報告書では、毛利氏以外の視点、例えば大友氏側の記録やキリスト教関連史料などを可能な限り参照し、義長の主体的な行動や彼を取り巻く複雑な人間関係を丹念に追うことで、従来の「傀儡」という一面的な評価を超えた、より実像に近い大内義長の姿を提示することを目指す。彼の悲劇的な生涯は、単に個人的な資質の問題に帰せられるものではなく、大内氏内部に長年蓄積された構造的な矛盾、重臣・陶晴賢の底知れぬ野心、そして中国地方の新たな覇者として台頭する毛利元就の卓越した戦略が複雑に絡み合った結果であった。義長は、まさにこれらの巨大な力の奔流が交錯する渦の中心に立たされた人物だったのである。
表:大内義長 略年表
和暦(西暦) |
年齢(数え) |
出来事 |
主な関連人物・場所 |
天文元年(1532年)頃 |
1歳 |
豊後国にて大友義鑑の次男として誕生(幼名:塩乙丸、後に八郎、大友晴英) |
大友義鑑、大友宗麟(義鎮) |
天文12年(1543年) |
12歳頃 |
大内義隆の養嗣子・晴持が戦死 |
大内義隆、大内晴持 |
天文13年(1544年) |
13歳頃 |
大内義隆の猶子となる |
大内義隆 |
天文14年(1545年) |
14歳頃 |
大内義隆に実子・義尊が誕生し、猶子関係を解消され豊後に帰国 |
大内義隆、大内義尊 |
天文20年(1551年) |
20歳頃 |
大寧寺の変。陶隆房(晴賢)が大内義隆・義尊を討つ。陶晴賢に擁立され大内氏第32代当主となる。将軍・足利義輝より偏諱を受け大内義長と改名。 |
陶晴賢、大内義隆、足利義輝、山口 |
天文21年(1552年) |
21歳頃 |
コスメ・デ・トーレス神父にキリスト教布教を許可する裁許状を発給 |
コスメ・デ・トーレス、山口、大道寺 |
天文23年(1554年) |
23歳頃 |
毛利元就の離間策により、陶晴賢に対し起請文を提出 |
陶晴賢、毛利元就 |
弘治元年(1555年) |
24歳頃 |
厳島の戦い。陶晴賢が毛利元就に敗れ自害。毛利氏による防長経略が開始される |
陶晴賢、毛利元就、厳島 |
弘治3年(1557年) |
26歳頃 |
毛利軍の侵攻を受け、山口を放棄し且山城へ逃亡。内藤隆世が義長の助命を条件に自害。長福寺(現・功山寺)にて自害。 |
毛利元就、内藤隆世、且山城、長府功山寺 |
大内義長は、天文元年(1532年)頃、豊後国(現在の大分県)を本拠とする戦国大名・大友義鑑(おおとも よしあき)の次男として生を受けた 2 。幼名は塩乙丸(しおおつまる)、後に八郎と称した 1 。実兄には、後に南蛮文化を積極的に受容し、キリシタン大名としてその名を馳せることになる大友義鎮(よししげ)、後の宗麟(そうりん)がいた 1 。
義長の母は、西国随一の大名であった大内義隆(おおうち よしたか)の姉、すなわち大内義興(よしおき)の娘とされている 1 。この血縁こそが、後に義長の運命を大きく左右することになる。大友氏の次男という立場でありながら、母方を通じて名門大内氏の血を引くという出自は、彼が否応なく戦国の政争に巻き込まれる素地を形成したと言えるだろう。ただし、宗麟と義長が同母兄弟であったか、異母兄弟であったかについては諸説が存在する 1 。大友家側の資料では、宗麟の生母を大内氏の女性ではないとする説が多く見られ、『日本史広事典』などでも両者の具体的な母子関係については明言を避けている 1 。また、義長らの母である大内氏出身の女性は、後に大友氏と離縁し、石見の国人領主である吉見氏に再嫁したとの記述も存在する 6 。
元服に際しては、室町幕府第12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)から偏諱(へんき、名前の一字を与えられること)を賜り、「大友晴英(おおとも はるひで)」と名乗った 1 。これは、大友氏が幕府からも一定の格式を認められていたことを示す。
幼少期の逸話として、鉄砲で負傷した際にポルトガル船の船医によって治療を受けたという話が伝えられている 6 。この出来事が事実であれば、晴英は比較的早い段階で西洋の文物や人々と接触した経験を持つことになる。これが後のキリスト教に対する彼の態度に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。兄・宗麟のキリスト教への傾倒が大きな要因であることは間違いないが、若年期の個人的な体験が、異文化に対する心理的な障壁を低くしたかもしれないと推測することは、あながち不自然ではあるまい。
天文12年(1543年)、大内義隆の養嗣子であった大内晴持(はるもち、一条房家の子)が、尼子氏との月山富田城の戦いからの撤退中に不慮の事故で死去した。これにより後継者を失った義隆は、新たな養子候補を探す必要に迫られた。そこで白羽の矢が立ったのが、義隆の甥にあたる大友晴英であった。天文13年(1544年)、晴英は大内義隆の猶子(ゆうし)として迎えられることとなった 2 。猶子とは、実子がない場合に家督相続の候補者となる立場であり、この時点ではまだ将来が確定したわけではなかったが、晴英にとっては大きな転機であった。
しかし、この晴英にとっての栄光は長くは続かなかった。天文14年(1545年)、義隆に実子・義尊(よしたか)が誕生したのである 2 。これにより、晴英の猶子としての立場は微妙なものとなり、結局、猶子関係は解消され、晴英は失意のうちに豊後へと帰国することになった 2 。この一連の出来事は、晴英にとって「無念」やる方ないものであったと記録されており 5 、また、九州の諸大名にも少なからぬ衝撃を与えたという 2 。当時の武家の養子縁組が、いかに政略的な性格を帯びていたか、「極めてビジネスライクな関係だった」 4 という表現がその実態を物語っている。この猶子縁組とその一方的な解消は、晴英にとって人生最初の大きな挫折であり、戦国時代の権力構造の非情さ、そして自身の立場の不安定さを痛感させる出来事であったに違いない。この時の屈辱や無力感が、後の陶晴賢からの当主就任要請を受諾する際の複雑な心理に影響を与えた可能性は十分に考えられる。
大内義長(大友晴英)の生涯を理解する上で、彼の実家である大友氏と、彼が後に継ぐことになる大内氏との関係性を把握しておくことは不可欠である。両氏は、長年にわたり北九州の覇権、特に国際貿易港として栄えた博多の支配を巡って、激しい対立と、時には協調を繰り返すという複雑な関係にあった 8 。
博多は、現在の呉服町交差点あたりを境に、博多湾に面した息浜(おきのはま)と呼ばれる地域を大友氏が、南東の陸側の地域を大内氏がそれぞれ分割して統治するという形態をとっていた時期もあった 8 。このように、両氏は博多の経済的利益を分け合う一方で、その支配権を巡っては互いに牽制し合い、時には合戦に及ぶこともあった 8 。
しかし、両家は単に敵対するだけでなく、婚姻関係を通じた連携も見られた。義長の母が大内義隆の姉であったことは、その代表的な例である。このような血縁関係は、両家の間に一時的な友好関係や同盟関係を築くための手段として用いられることが常であった。
一方で、大友氏は義鑑、宗麟の代にかけて、肥後(熊本県)や筑後(福岡県南部)へも積極的に進出し、その勢力範囲を拡大していた 9 。これは、必然的に隣接する大内氏の勢力圏との間で緊張を高める要因ともなった。
このように、大内氏と大友氏は、経済的利益、軍事的覇権、そして婚姻を通じた外交戦略が複雑に絡み合い、常に流動的な関係にあった。義長の生涯は、この両家の微妙なバランスの上に成り立っており、彼の人生の重要な局面、例えば大内家督継承の背景や、彼の滅亡時に兄・大友宗麟が積極的な救援を行わなかったことなどにも、この両家の関係性が色濃く影を落としているのである。
表:大内義長 関係人物一覧
人物名 |
続柄・関係性 |
備考 |
大友義鑑 |
父 |
豊後国主、大友氏第20代当主 |
大友宗麟(義鎮) |
実兄 |
キリシタン大名、大友氏第21代当主 |
大内義隆 |
義理の叔父、一時的な猶父(養父) |
周防国主、大内氏第31代当主 |
大内義尊 |
(義隆の実子、義長の従兄弟にあたる) |
大内義隆の嫡男 |
陶晴賢(隆房) |
義長を擁立した重臣、実質的な権力者 |
大内氏重臣、大寧寺の変首謀者 |
毛利元就 |
敵対者、義長を滅ぼす |
安芸国主、中国地方の覇者 |
内藤隆世 |
義長の重臣、最後まで義長に仕え犠牲となる |
大内氏重臣、長門守護代 |
足利義晴 |
室町幕府第12代将軍 |
義長(晴英)に偏諱を与える |
足利義輝 |
室町幕府第13代将軍 |
義長に偏諱を与え、大内氏当主として公認 |
コスメ・デ・トーレス |
イエズス会宣教師 |
義長から布教許可を得る |
吉見正頼 |
(義長の母の再婚相手の可能性、義隆の姉婿) |
石見国津和野城主、陶晴賢と敵対 |
大内義長の運命を決定づける直接的な契機となったのは、天文20年(1551年)に勃発した大寧寺(たいねいじ)の変である。この政変の背景には、大内義隆政権末期の深刻な混乱と、重臣・陶隆房(すえ たかふさ、後の晴賢)の台頭があった。
かつて「西国の覇者」と称された大内義隆であったが、天文11年(1542年)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)における大敗を境に、次第に政務への意欲を失い、京都風の文治的な生活や遊興に耽るようになったと伝えられている 10 。これにより、大内家の屋台骨を支えてきた武断派の家臣たち、とりわけ血気盛んな陶隆房との間に深刻な亀裂が生じ始めた 10 。
義隆は、文治派の相良武任(さがら たけとう)を重用し、彼に領国経営の実権を委ねるようになった。これが、陶隆房ら武断派の不満をさらに増幅させる結果となった 11 。当時、大友氏の重臣であった戸次鑑連(べっき あきつら、後の立花道雪)は、後年この頃の状況を振り返り、「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房よりも、無道を企てた相良武任を贔屓した」と評している 12 。これは、義隆の寵臣政治が、家臣団の分裂を助長したことを示唆している。
さらに、義隆政権末期には、京都の荒廃を憂いた義隆が、後奈良天皇や公家衆を山口に迎え、新たな都を築こうとする「山口遷都計画」が存在したという説も有力である 12 。この計画は、莫大な費用を要するものであり、領民や家臣にさらなる負担を強いる可能性があった。陶隆房らがこの計画に強く反対し、謀反の一因になったとも考えられている 12 。
このように、義隆政権の内部崩壊は、当主の指導力の低下、家臣団の深刻な対立、そして壮大な計画が引き起こす財政的・政治的混乱といった複数の要因が絡み合って進行した。そして、この混乱の中から、陶晴賢という野心的な実力者が、大内家の実権を簒奪する機会を窺っていたのである。義隆の政治的失策や文治への過度な傾倒が、家臣団の亀裂を修復不可能なまでに深め、それが陶晴賢のような人物に実力行使の口実と機会を与えたと言えるだろう。クーデターは、単に陶晴賢個人の野心のみによって引き起こされたのではなく、大内義隆政権が内包していた構造的な問題が噴出した結果であった。
天文20年(1551年)8月、ついに陶隆房(晴賢)は、長年蓄積してきた不満と周到な準備のもとに挙兵した。晴賢の軍勢は瞬く間に山口に迫り、府中は大混乱に陥った。主君・大内義隆は、わずかな供回りを連れて山口を脱出、長門国深川(現在の長門市)の大寧寺へと逃れた。しかし、追討軍の執拗な追撃の前に万策尽き、同年9月1日、義隆は大寧寺において自刃を遂げた 5 。享年45であった。
この政変において、義隆の嫡男であった義尊(よしたか、当時15歳)もまた、父の後を追うように殺害された 1 。これにより、大内氏の正統な嫡流は事実上ここで途絶えたとする見方も有力である 1 。陶晴賢の行動は冷徹かつ徹底しており、義隆父子のみならず、義隆の末子でわずか5歳であった歓寿丸(かんじゅまる)までも捕らえて殺害したと伝えられている 11 。これは、旧体制の支持基盤となり得る血筋を根絶やしにし、自らが擁立する新たな当主の権威を相対的に高めようとする、非情な計算に基づいた行動であった可能性が高い。単なる主君殺しに留まらないこの徹底ぶりは、晴賢が新体制の構築に向けて、いかなる抵抗勢力の芽も許さないという強い意志を持っていたことを示している。
大内義隆・義尊父子を葬り去った陶晴賢は、かねてからの計画通り、新たな大内氏当主の擁立に着手した。晴賢は当初、義隆を隠居させ、嫡男の義尊を当主として擁立することを考えていた時期もあったとされるが、最終的には計画を変更し、豊後の大友晴英(後の大内義長)に白羽の矢を立てた 14 。晴英は、かつて大内義隆の猶子となりながらも実子誕生によってその座を追われた経緯があり、義隆に対して複雑な感情を抱いていたとされる 14 。この過去の経緯が、晴英に晴賢の申し出を受け入れさせる一因となったのかもしれない。
大寧寺の変後、晴英は陶晴賢らによって周防山口に迎えられ、大内氏の新たな当主として擁立された。そして、室町幕府からも周防・長門両国の守護として正式に認められ、時の将軍・足利義輝(あしかが よしてる)から偏諱(「義」の字)を賜り、「大内義長」と改名した 1 。これにより、義長政権は形式上、幕府の権威による正統性を得ることになった。陶晴賢が、クーデターによって実権を握りながらも、幕府の公認を得ようとした行動は、戦国乱世にあっても伝統的な権威が依然として一定の影響力を持ち、地方権力の正統性を補強する上で重要視されていたことを示している。
しかし、この義長の当主就任は、必ずしも順風満帆なものではなかった。義長の兄である大友義鎮(宗麟)は、弟が陶晴賢の傀儡として利用されるだけで、いずれは廃位されるに違いないと強く疑い、当初はこの縁組に反対した 2 。しかし、義長自身が大内氏の当主となることを強く望み、「この要請を断って(世間から)中傷を受けることの方がよほど悔しい。自らの命運は惜しくない」と主張したため、義鎮も最終的にはこれを認めざるを得なかったという 2 。
兄・宗麟の懸念を押し切ってまで大内氏当主の座を受け入れた義長のこの決断は、彼が単なる受動的な存在ではなかったことを示唆している。そこには、かつて猶子の座を追われた屈辱を晴らしたいという個人的な思い、あるいは名門大内家の当主となることへの野心、さらには豊後の大友家における次男という立場から脱却し、新たな活路を見出そうとする切実な願いがあったのかもしれない。いずれにせよ、この主体的な選択が、後の彼の悲劇性を一層際立たせることになった。彼は、運命の濁流にただ流されただけでなく、自らその渦中に飛び込んだ側面も持ち合わせていたのである。
大内義長は、室町幕府の公認を得て大内氏第32代当主の座に就いたものの、その権力の実態は極めて限定的なものであった。領国支配の実権は、彼を擁立した陶晴賢を中心とする旧守護代層や国人領主たちが掌握しており、義長は実質的に「お飾り」の当主、「傀儡(かいらい)」であったと評されている 1 。
義長の名で発給された安堵状や書状などの公文書は現存しており、彼が一定の統治行為を行っていたことは確認できる 15 。例えば、天文21年(1552年)には、佐田弾正忠隆居や長門国分寺、長門国法華寺などに対して所領安堵状を発給し、また、長井太郎三郎延保や湯浅五郎次郎元宗らに書状を送るなど、形式的には領主としての務めを果たしていた 15 。
しかし、これらの文書が義長自身の自由な意思に基づいて発給されたものなのか、それとも陶晴賢ら実力者の意向を忠実に反映したものに過ぎなかったのかについては、慎重な検討が必要である 15 。義長は幕府に公認された大内氏当主という形式的な権威を持っていたが、実質的な政策決定権や軍事指揮権は陶晴賢に握られていた。この形式的権威と実質的権力との著しい乖離は、義長の統治における行動や政策決定の限界を厳しく規定した。この権力の二重構造は、義長政権が発足当初から抱えていた構造的な脆弱性を示すと同時に、彼の治世下における数少ない主体的な行動とされるキリスト教保護などが、どの程度彼自身の意思を反映していたのかを判断する上で、極めて重要な論点となる。
大内義長政権下における領国経営は、その発足の経緯からして、実質的には陶晴賢の主導のもとで行われたと見られる 3 。大内氏が長年にわたり築き上げてきた、郡司を頂点とする地方支配機構(郡代制度)なども 16 、形式的には維持されつつも、その運営は晴賢とその一派の意向に大きく左右されたと推測される。かつて大内政弘の代に整備された「大内家壁書」 17 のような法制も、この時期にはその精神がどれほど守られていたか疑問が残る。トップが傀儡である以上、従来の統治システムは、大内家全体の利益や領民の安定という本来の目的よりも、晴賢派の権益確保や勢力維持のために利用された可能性が高い。これは、結果的に大内氏の国力低下を招き、後の毛利氏による侵攻を容易にする一因となったとも考えられる。
義長と、彼を擁立した最大の功労者であり実力者でもある陶晴賢との関係は、極めて複雑かつ緊張をはらんだものであった。天文23年(1554年)、安芸の毛利元就が巧妙な離間策を用いた結果、晴賢は義長に対して疑心暗鬼を抱くようになった。これに対し、義長は晴賢に「毛利氏に内通するなどの裏切り行為は一切行わない」という旨の起請文(誓約書)を提出して、その潔白を証明しようと努めたという記録が残っている 5 。この一件は、義長が晴賢に対して極めて従属的な立場にあったこと、そして両者の間に深刻な不信感が存在したことを如実に物語っている。形式上の主君である義長が、実権を握る家臣である晴賢に忠誠を誓わねばならないというこの逆転した関係は、義長政権の異常性と、その権力基盤がいかに脆弱であったかを端的に示している。毛利元就の調略は、大内氏内部の亀裂を見事に突き、その崩壊を内側から加速させたと言えるだろう。
傀儡としての側面が強い大内義長であるが、その短い治世の中で特筆すべき事績の一つとして、キリスト教布教の許可が挙げられる。天文21年(1552年)、義長は、かのフランシスコ・ザビエルの後を継いで山口で布教活動を行っていたイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に対し、山口におけるキリスト教の布教を公式に許可する裁許状(さいきょじょう)を発給した 1 。これは、前当主である大内義隆がザビエルに与えた布教許可を追認し、継続させる形となった。
この裁許状の発給により、山口市内にあった大道寺の跡地が教会として与えられ、活発な布教活動が展開された。そして同年12月には、この教会で日本で初めてとされる降誕祭(クリスマス)のミサが盛大に執り行われ、賛美歌が歌われたと記録されている 1 。当時の山口におけるキリスト教信者は、2,000人に達したとも伝えられている 1 。
このキリスト教布教許可が、義長自身の積極的な意思によるものであったのか、それとも陶晴賢ら重臣たちの政策判断に従った結果であったのかについては、史料からは明確な判断が難しい 1 。しかし、いくつかの状況証拠は、義長個人の関与を示唆している。まず、義長の実兄である大友宗麟は、後に日本を代表するキリシタン大名となる人物であり、兄弟間でキリスト教に関する情報交換や影響があった可能性は否定できない。また、義長自身がまだ大友晴英と名乗っていた頃、九州を巡回していたザビエルと面会した可能性も指摘されている 1 。もしこれが事実であれば、若き日のザビエルとの出会いが、彼のキリスト教に対する関心を育んだのかもしれない。
このキリスト教保護政策が義長自身の強い意志によるものであったとすれば、彼の人物像を再評価する上で重要な要素となる。一方で、大内氏が伝統的に朝鮮や明との交易を通じて海外文化に触れる機会が多く、国際的な視野を持っていたことを考慮すれば、キリスト教保護が外交政策や文化政策の一環として、実権を握る陶晴賢らによって推進された可能性も考えられる。その場合、義長はその方針を承認し、当主として正式な許可を与える役割を果たしたことになる。いずれにせよ、この政策は山口における西洋文化受容の画期的な出来事であり、大内義長の名と結びつけて記憶されている点は重要である 1 。山口市内のサビエル記念公園やサビエル記念聖堂がある亀山には、この裁許状を刻んだレリーフが設置されており 1 、義長が残した数少ない、しかし確かな足跡として今日に伝えられている。
大内氏は、室町時代から戦国時代にかけて、日明貿易(勘合貿易)において中心的な役割を担い、その独占を通じて莫大な富を蓄積し、西国随一の文化都市・山口の繁栄を築き上げた 18 。この経済的基盤は、大内氏の政治的・軍事的影響力の源泉でもあった。
しかし、天文20年(1551年)の大寧寺の変による当主・大内義隆の横死と、それに続く大内氏内部の混乱と衰退は、この勘合貿易体制にも深刻な影響を及ぼした。そして、大内義長の代、弘治3年(1557年)の大内氏の事実上の滅亡をもって、足利義満の時代から約150年間にわたり続けられてきた正式な日明間の国交貿易である勘合貿易は、完全に終息することとなった 18 。
大内義長の短い治世下で、具体的に勘合貿易がどのように運営され、あるいは停滞したのかについての詳細な記録は乏しい。しかし、国内の政情不安、特に大内氏内部の権力闘争とそれに続く毛利氏の侵攻という未曾有の混乱が、国家間の正式な交易である勘合貿易の遂行を著しく困難にしたことは想像に難くない。貿易の担い手である大内氏そのものが崩壊の危機に瀕していた以上、大規模な船団を組織し、明国との交渉を行う余力はもはや失われていたと考えられる。
大内氏の滅亡と勘合貿易の終焉は、単に一つの戦国大名家が歴史の舞台から姿を消したというだけでなく、東アジアの国際貿易秩序にも大きな変化をもたらした。公式な貿易ルートが途絶えたことにより、後期倭寇と呼ばれる私貿易集団や海賊の活動が再び活発化したとも指摘されており 18 、日本の対外関係や海上交通のあり方にも影響を与えた。大内義長の時代は、まさにこの大きな歴史的転換点にあたっていたのである。
大寧寺の変によって大内氏の実権を掌握した陶晴賢は、文治的であった義隆政権の方針を転換し、軍事力の強化を推し進めた。しかし、その強硬な姿勢は、大内家支配下にあった安芸や石見の国人領主、あるいは旧来の重臣層からの反発を招くことにもなった 21 。
この時期、安芸国(現在の広島県西部)において急速に勢力を拡大していたのが毛利元就である。元就は、かつて大内義隆と姻戚関係(元就の長男・隆元の正室が義隆の養女)を結ぶなど、大内氏とは従属的ながらも密接な関係にあった。しかし、陶晴賢による義隆打倒は、元就にとって大内氏の軛(くびき)から逃れ、自立を果たす好機とも映った。当初は晴賢に協調的な姿勢を見せていた元就であったが、次第に晴賢の専横に対する警戒感を強め、両者の間には緊張関係が生まれていった 22 。
この対立を決定的なものとする上で、いくつかの重要な出来事が伏線となった。一つは、石見国津和野の国人領主であり、大内義隆の姉婿でもあった吉見正頼の動向である。正頼は、義隆を殺害した陶晴賢を仇敵とみなし、天文23年(1554年)、晴賢に対して公然と反旗を翻した(三本松城の戦い) 12 。この吉見氏の挙兵は、晴賢の軍事力を石見方面に割かせることになり、結果的に毛利元就が大内氏(実質的には陶晴賢)から離反し、独自の勢力圏を確立しようとする「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」の直接的なきっかけの一つとなった 12 。
もう一つは、瀬戸内海の制海権を握る村上水軍の離反である。陶晴賢は、大寧寺の変後、厳島(現在の広島県廿日市市宮島町)の支配権を掌握し、同島を通過する船舶から通行料(駄別料)を徴収し始めた。しかし、この権益は従来、村上水軍に認められていたものであったため、晴賢のこの措置は村上水軍の強い反発を招いた 12 。結果として、村上水軍は毛利元就に味方することになり、後の厳島の戦いにおいて毛利方の勝利に大きく貢献することになる。
このように、陶晴賢の強引な領国支配や利権侵害は、旧大内方勢力の離反を次々と招いた。そして、毛利元就はこれらの動きを巧みに捉え、反陶晴賢連合とも言うべき状況を形成しつつ、自身の勢力拡大と、来るべき決戦への準備を着々と進めていったのである。この大きな権力闘争の渦の中で、大内義長は有効な手を打つことができず、事態の推移をただ見守るしかない無力な存在であった。
弘治元年(天文24年、1555年)10月、毛利元就と陶晴賢は、ついに安芸国厳島において激突した(厳島の戦い)。兵力では陶軍が圧倒的に優勢であったが、元就は巧みな謀略と地の利を活かした戦術によって陶軍を奇襲し、壊滅的な打撃を与えた。総大将の陶晴賢は、敗走の末に自害に追い込まれた 23 。
毛利元就が厳島を決戦の地に選んだのには、いくつかの理由があった。第一に、狭隘な島内では大軍である陶軍の利点を殺ぎ、寡兵である毛利軍が局地的な優位を築きやすいと考えたこと。第二に、事前に味方につけていた村上水軍の協力を得ることで、陶軍の補給路を断ち、退路を塞ぐことが可能であったことである 23 。元就は、わざと厳島に宮尾城を築城して晴賢を挑発し、周到な情報操作によって晴賢を厳島へと誘い込んだのである 23 。
この厳島の戦いにおける陶晴賢の敗死は、大内義長政権にとって致命的な打撃となった。なぜなら、義長は名目上の当主に過ぎず、実質的な軍事指導者であり権力の中枢を担っていたのは陶晴賢であったからだ 1 。その晴賢が、彼に率いられた大内軍の主力部隊もろとも壊滅したことは、大内氏から軍事的な支柱が完全に失われたことを意味した 1 。この敗戦は、大内氏の滅亡を決定づける分水嶺となり、毛利元就による本格的な防長侵攻(防長経略)への道を開くことになったのである。
なお、陶晴賢については、主君を弑逆した「逆臣」という評価が一般的であるが、このイメージは、戦いに勝利し生き残った毛利氏側の視点から、後の時代に形成された歴史観によって作られた側面も否定できない 24 。彼もまた、戦国という時代の激流の中で、自らの信念と野望に従って行動した一人の武将であったと言えるだろう。
厳島の戦いで陶晴賢を討ち取り、大内氏の軍事的主力を壊滅させた毛利元就は、間髪を入れずに大内氏の本拠地である周防・長門両国への本格的な侵攻作戦、すなわち「防長経略(ぼうちょうけいりゃく)」を開始した 25 。
弘治元年(1555年)10月、元就は厳島から安芸・周防国境の小方(現在の広島県大竹市)に陣を移し、周到に侵攻計画を練った。これに対し、大内義長と重臣の内藤隆世(ないとう たかよ)は、約3,000の兵を山口に配置し、椙杜隆康(すぎもり たかやす)の蓮華山城、杉宗珊(すぎ むねよし)・隆泰(たかやす)親子の鞍掛山城、江良賢宣(えら かたのぶ)らの須々万沼城(すすまぬまじょう)などを防衛拠点として毛利軍の侵攻に備えた 27 。
毛利軍はまず周防国東部の玖珂郡から侵攻を開始した。元就は軍事力だけでなく調略を駆使し、大内方諸将の切り崩しを図った。椙杜隆康は早々に降伏し、鞍掛山城の杉隆泰も一度は降伏の意を示したが、元就との間で疑念が生じ、結局は戦闘状態に入った。毛利軍は鞍掛山城を攻撃し、激戦の末に杉親子を討ち取り落城させた 27 。その後も、毛利軍は玖珂郡、大島郡を平定していった。
弘治2年(1556年)に入ると、毛利軍は周防国西部の都濃郡にある須々万沼城の攻略を目指した。同城は三方を沼沢に囲まれた天然の要害であり、城主の山崎興盛(やまざき おきもり)と援軍の江良賢宣らは頑強に抵抗し、毛利軍を苦しめた。しかし、弘治3年(1557年)2月、元就自らが大軍を率いて総攻撃をかけると、ついに須々万沼城は落城し、城兵の多くが討ち取られた。この戦いで毛利軍は初めて火縄銃を実戦で使用したとも言われる 27 。
この毛利軍の破竹の進撃と並行して、大内家臣団の内部崩壊も急速に進んでいた。陶晴賢の嫡男・陶長房(ながふさ)が籠る富田若山城は、大寧寺の変で晴賢に討たれた杉重矩(しげのり)の子・杉重輔(しげすけ)によって襲撃され、長房は自害に追い込まれた。ところが、この杉重輔の行動に憤慨した内藤隆世が重輔討伐に動き、両者は山口の後河原で激突。この内訌戦で山口市街は焦土と化し、敗れた杉重輔は防府で討たれた 27 。
陶晴賢という強力な指導者を失った大内家臣団は、もはや統制を欠き、毛利元就の巧みな軍事侵攻と調略の前に、次々と離反・降伏するか、あるいは内部抗争によって自滅していった。この大内氏内部の瓦解が、毛利元就による防長経略を急速に進展させる大きな要因となったのである。
毛利元就による防長経略が猛威を振るい、大内氏の諸城が次々と陥落、あるいは内訌によって自壊していく中、大内義長に残された道は限られていた。陶晴賢亡き後、義長を支える中心人物となっていたのは、長門守護代の内藤隆世であった。
毛利軍が山口に迫ると、義長と内藤隆世らは、厳島の戦いの後に急遽築城が開始されたものの未完成であった高嶺城(こうのみねじょう)に一時籠城した 1 。しかし、山口市街は先の内藤隆世と杉重輔との内訌戦によって既に焦土と化しており 27 、また、毛利方に与した吉見正頼の軍勢も山口近郊に迫っていた。もはや本拠地山口の防衛は不可能と判断した義長らは、高嶺城を放棄し、さらなる西を目指して逃避行を開始した。
大内氏累代の本拠地であり、「西の京」とも称された山口を放棄したことは、義長政権の求心力が完全に失墜し、もはや組織的な抵抗が不可能であることを内外に示すものであった。義長一行は、内藤氏の拠点である長門国豊浦郡(現在の下関市)の且山城(勝山城)へと落ち延びていった 1 。
大内義長と内藤隆世らが最後に立て籠もった且山城は、天然の地形を利用した堅固な山城であり、追撃してきた福原貞俊(ふくばら さだとし)率いる毛利軍の攻撃は容易ではなかった 5 。攻城戦はしばらく膠着状態に陥った。
ここで毛利元就は、軍事力による強攻策だけでなく、得意の謀略を用いた。元就は福原貞俊を通じ、「陶晴賢に荷担した謀反人である内藤隆世を許すわけにはいかないが、陶氏の傀儡であった大内義長には遺恨はない。隆世が自刃して城を明け渡せば、義長の命は助け、実家である大友氏のもとへ送り返そう」という条件で降伏を勧告した 1 。
この勧告に対し、内藤隆世は主君・義長の助命を信じ、自らの犠牲によって義長を救おうと決意した。義長は反対したとも伝えられるが、隆世の意志は固く、弘治3年(1557年)4月2日、毛利方の検死役人の前で潔く自刃して果てた。これにより且山城は開城された 1 。内藤隆世のこの行動は、滅びゆく主家と主君に最後まで忠誠を尽くした武士の鑑として語られる一方で、結果的に毛利元就の非情な策略にはまり、義長の助命には繋がらなかったという点で、戦国時代の厳しい現実を象徴する出来事でもあった。
内藤隆世の犠牲によって且山城が開城された後、大内義長は城を出て、長府の長福寺(ちょうふくじ、現在の功山寺)に入った。しかし、毛利元就に義長を助命する意思はなかった。翌4月3日、福原貞俊率いる毛利軍は長福寺を包囲し、義長に自害を迫った 1 。謀られたことを悟った義長であったが、もはや抵抗する術もなく、従容として死を受け入れた。時に26歳(一説には27歳)の短い生涯であった 31 。
この義長の死をもって、約4世紀にわたり西国に君臨した名門大内氏は、事実上滅亡した 1 。義長が最期に詠んだとされる辞世の句は、
「誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
(人に誘われて死に追いやられるとしても、何を恨むことがあろうか。時が来れば、花というものは嵐が吹かなくても自然と散っていくものなのだから)
と伝えられている 4 。この句には、他者に翻弄され続けた自身の運命を、自然の摂理に重ね合わせ、誰を恨むこともなく静かに受け入れようとする諦観の境地が込められているように感じられる。それは、彼の生涯が他者の意図によって左右され続けたことの痛切な帰結であると同時に、ある種の悟りであったのかもしれない。自己の不運や他者の裏切りを嘆いたり、自己を正当化したりする言葉が見られない点は、彼の人物像の一端を示していると言えよう。
大内義長の墓所は、最期の地となった長福寺(現在の山口県下関市長府川端にある功山寺)に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)として現存している 1 。
大内義長が毛利元就によって滅亡の淵に追い込まれていく過程で、注目されるのが実兄である豊後の大友宗麟(義鎮)の動向である。兄弟の絆があれば、宗麟が弟の窮状を見過ごすはずはないと考えるのが自然であろう。しかし、現実は戦国時代の非情な論理によって貫かれていた。
毛利元就は、大内義長討伐を本格化させるにあたり、事前に大友宗麟との間で周到な外交交渉を行っていた 31 。その内容は、毛利氏が大内氏の旧領である周防・長門両国を支配することを大友氏が黙認する見返りとして、毛利氏は大友氏による北九州(豊前・筑前など)への進出や権益確保に干渉しない、というものであったと考えられている 31 。
結果として、大友宗麟は実弟である義長の救援に積極的に動くことはなく、事実上、毛利氏による防長支配を容認した。これは、宗麟が兄弟の情よりも、大友家の国益(北九州における勢力拡大と、強大化する毛利氏との勢力均衡)を優先した冷徹な外交判断であったと言える。戦国時代においては、血縁関係が必ずしも絶対的なものではなく、家の存続や領土拡大のためには、肉親をも犠牲にすることがあり得た。大内義長の悲劇は、このような戦国大名の非情な国益優先外交の前に、個人の運命がいかにもろく、翻弄されるものであったかを示す一例と言えるだろう。
大内義長の生涯を振り返るとき、最も一般的な評価は「傀儡の当主」というものであろう 1 。豊後大友氏に生まれながら、大内氏の家督争いに巻き込まれ、陶晴賢によって名目上の当主として擁立され、実権を握ることもできず、最後は毛利元就によって滅ぼされるという彼の生涯は、戦国時代の武家の非情さと、その中で翻弄される個人の無力さを色濃く映し出している。ある記述は、義長の生涯を「運命を受け入れ続け、最後に26年で終える自分の生涯をも受け入れた青年の短い一生だった」 4 と表現しており、その悲劇性を際立たせている。
大友家から大内家へ、そして陶晴賢から毛利元就へ。彼の人生は、常に他者の意図と権力闘争の波間に漂い、自らの力で運命を切り開く機会はほとんど与えられなかったように見える。その短い生涯は、戦国という時代の大きなうねりの中で、個人の意思がいかに無力であるかを痛感させる。
大内義長の評価を考える上で、彼を滅ぼした毛利氏側の史観が後世に与えた影響を無視することはできない 5 。歴史はしばしば勝者によって語られるものであり、毛利氏が大内氏滅亡を正当化し、自らの覇業を輝かせるために、義長を主体性のない、あるいは統治能力に欠ける当主として描く傾向があった可能性は否定できない。
しかし、近年の研究や史料の再検討を通じて、義長に対する再評価の視点も生まれている。例えば、彼が当主就任を要請された際、兄・大友宗麟の反対を押し切って自らその道を選んだとされる逸話 2 は、単なる受動的な人物ではなかった可能性を示唆する。また、後述するキリスト教保護の裁許状発給 1 も、彼の治世における数少ない、しかし注目すべき事績である。これらの点を踏まえれば、「悲劇の傀儡」という一面的な評価だけでは捉えきれない、義長の多面的な人物像が浮かび上がってくるかもしれない。
大内義長の治世は短く、またその権力も限定的であったが、文化史的な側面で見過ごせない功績がある。それは、天文21年(1552年)にイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレスに対して発給したキリスト教布教許可の裁許状である 1 。これにより、山口における初期キリスト教文化は大きく花開くこととなり、日本で最初のクリスマスが祝われたとも伝えられている。
この布教許可が義長自身の強い意志によるものであったか、あるいは実権を握る陶晴賢らの政策判断によるものであったかは定かではない。しかし、大内氏が代々、大陸との交易を通じて国際的な文化に触れ、それを積極的に受容してきた土壌があったことを考えれば、義長もまたその伝統を受け継ぎ、新たな文化であるキリスト教に対して寛容な姿勢を示したとしても不思議ではない。この一点は、彼の治世における数少ない積極的な政策として評価されるべきであろう。
大内義長の短い生涯は、いくつかの史跡を通じて現代にその記憶を伝えている。最も直接的なものは、彼が最期を遂げた長門国長府の長福寺、現在の山口県下関市にある功山寺に存在する、義長のものと伝えられる墓(宝篋印塔)である 1 。この地は、高杉晋作が功山寺挙兵を行った場所としても知られ、歴史の転換点に幾度も立ち会ってきた場所でもある。
また、山口市内には、義長が発給したキリスト教布教裁許状のレリーフが、サビエル記念公園やサビエル記念聖堂がある亀山公園に設置されている 1 。これは、義長の治世下で行われた文化政策が、後世においても重要な出来事として認識されている証左と言えるだろう。
大内義長の生涯は、彼自身の選択と、彼を取り巻く巨大な政治的・軍事的潮流との相互作用の結果であった。単なる「悲劇の傀儡」という言葉で片付けるのではなく、彼の行動の背景にある可能性、例えばキリスト教保護に見られる文化政策への意識や、あるいは大内家当主としての密かな矜持などを探ることで、より深みのある人物像が浮かび上がってくる。戦国時代には多くの大名家が滅亡したが、義長の場合、名門大内氏の最後の当主であること、他家からの養子(猶子)で傀儡であったこと、キリスト教との関わり、そして実兄・大友宗麟との複雑な関係といった要素が絡み合い、類型的な滅亡大名の物語に特異な彩りを与えている。彼の生涯は、戦国という時代の非情さと、その中で生きようとした一人の人間の苦悩と葛藤を、静かに、しかし強く我々に語りかけてくるのである。