大内輝弘は、戦国時代末期にその名を歴史に刻んだ武将である。かつて周防・長門を拠点とし、西国随一の勢力を誇った名門大内氏の血統を受け継ぐ彼は、大内氏本宗家が滅亡した後の混乱期に、一族再興の夢を賭けて蜂起した人物として知られる 1 。彼の生涯は、毛利氏と大友氏という二大戦国大名の熾烈な覇権争いの狭間で翻弄され、その行動は短期間ながらも当時の政治・軍事状況に一定の影響を及ぼした。
本報告書は、大内輝弘の出自、その境遇、そして彼が生涯の最後に試みた「大内輝弘の乱」と呼ばれる蜂起の経緯と歴史的影響について、現存する史料に基づき、詳細かつ多角的に分析することを目的とする。具体的には、輝弘の父・大内高弘の動向から説き起こし、輝弘自身の豊後における亡命生活、そして彼が時代の大きな渦の中でどのようにして歴史の表舞台に登場し、そして消えていったのかを明らかにする。さらに、彼の行動が当時の勢力図にいかなる影響を与え、後世にどのような評価を残したのかについても考察を加える。
大内輝弘の生涯を理解するためには、まず彼の血縁的背景と、彼が置かれた特異な境遇について深く掘り下げる必要がある。名門大内氏の傍流として生まれた彼の運命は、父の行動によって大きく左右され、豊後の地での亡命生活という形でその前半生が特徴づけられる。
大内輝弘の父は、大内高弘(たかひろ)という人物である。高弘の存在と行動が、輝弘の生涯に決定的な影響を与えた。
大内高弘は、大内氏第14代当主であった大内政弘の次男として生まれ、第15代当主・大内義興とは異母兄弟の関係にあったとされる 1 。当初、高弘は仏門に入り、大護院尊光(だいごいんそんこう)と称して氷上山興隆寺の別当を務めていた 3 。しかし、後に還俗し、名を高弘(一部史料では隆弘とも表記される)と改めた 3 。還俗後は氷上村(現在の山口県山口市の一部)に所領を有していたことから、「氷上太郎(ひかみ たろう)」とも呼ばれたという記録も残っている 1 。
高弘の人生における大きな転機は、兄である大内義興に対して家督簒奪を企てたことである。この陰謀は事前に露見し、高弘は周防を追われる身となり、豊後国(現在の大分県)へと亡命、同地の戦国大名である大友氏を頼り、その食客となった 3 。この父の亡命という出来事が、後に輝弘が大友氏の支援を受けて歴史の表舞台に登場する伏線となる。
史料によれば、高弘による家督簒奪の企てが発覚したのは明応八年(1499年)のことである 4 。大内義興が父・政弘から家督を継承したのは明応三年(1494年)であり、その間には約5年の歳月が流れている 4 。なぜこのタイミングで高弘が行動を起こしたのか、その具体的な理由は明らかではないが、杉武明ら一部の重臣たちがこの計画を主導した可能性が指摘されている 4 。結果として計画は失敗に終わったものの、高弘自身は迅速に豊後へ逃れたことで、家督争いに敗れた者が必ずしも生命を全うできなかった当時の慣例とは異なり、その地で生き永らえることができたと考えられている 4 。
大内高弘とその子・輝弘に関しては、長らく史料解釈上の混乱が見られた。特に、江戸時代後期の歴史家である近藤清石が編纂した『大内氏実録』など一部の文献においては、高弘と輝弘が同一人物として扱われていた時期があった 2 。しかし、その後の研究、特に活動年代の比較検討や関連史料の精査が進むにつれて、両者は親子関係にあるとする説が有力となり、現在ではこれが通説として受け入れられている 2 。
この混同は、高弘が豊後に亡命してからの後半生の足跡や、輝弘の幼少期に関する記録を不明瞭にする一因となっていた 4 。親子関係が明確に区別されるようになったことで、それぞれの人物像や歴史的役割についてのより正確な理解が進んだと言える。
父・高弘の亡命に伴い、大内輝弘は豊後国でその生涯の初期を過ごすこととなる。大友氏の庇護下にあったとはいえ、その生活は決して平穏かつ豊かなものではなかったようである。
大内輝弘は、父・高弘が豊後へ亡命した後に同地で生まれたとされる 1 。幼少期から青年期にかけて、彼は大友氏の庇護のもとで成長した。しかし、当時の記録によれば、輝弘の生活は困窮を極め、彼の幼い頃を知る者は少なかったと伝えられている 1 。これは、大友氏にとって高弘・輝弘親子はあくまで客将であり、その立場は必ずしも安定したものではなく、厚遇されていたわけではなかったことを示唆している。父・高弘が果たせなかった家督奪還の野望と、それに伴う亡命という境遇は、輝弘の肩に重くのしかかり、不遇な日々を送る要因となったと考えられる。高弘が大内氏の家督を巡る争いに敗れ、故郷を追われたという事実は、輝弘にとって拭い去ることのできない過去であり、その後の彼の行動原理に深く関わっていた可能性は否定できない。
不遇な生活を送っていた輝弘にとって、一つの転機が訪れる。それは、室町幕府第13代将軍・足利義輝から「輝」の一字を賜り、名を「輝弘」と改めたことである。この偏諱拝受は、天文23年(1554年)2月から永禄8年(1565年)5月の間に行われたとされ、豊後の大友義鎮(後の宗麟)による幕府への推挙と資金援助があったと記録されている 1 。
史料的考察によれば、足利義輝は天文23年以前には「義藤」と名乗っていたため、輝弘が「輝」の字を賜ったのはそれ以降であることは確実視されている 1 。当時、輝弘は既に30歳を超えており、元服は済ませていたはずであるが、輝弘と名乗る以前の初名については明らかになっていない 1 。この将軍からの偏諱拝受は、単に名を改めたという以上の意味を持っていた。大友氏にとっては、輝弘を大内氏の正統な後継者として権威づけ、将来的に毛利氏との対抗上、彼を駒として利用するための戦略的布石であったと考えられる。輝弘自身にとっても、将軍から名を賜るということは、自らの出自の正当性を内外に示す上で重要な意味を持ち、大内氏再興への希望を繋ぐ一縷の光となったであろう。
しかしながら、この偏諱拝受が輝弘に実質的な軍事力や政治的基盤をもたらしたわけではなかった。戦国時代においては、名目上の権威がいかに高くとも、それを支える実力が伴わなければ意味をなさず、輝弘の事例は、当時の権威と実力との間の乖離を示す一例と言える。
大内氏本宗家が、天文20年(1551年)の陶隆房(後の晴賢)の謀反による大内義隆の自害、そして弘治3年(1557年)に毛利元就によって大内義長(大友宗麟の弟)が自刃に追い込まれたことで事実上滅亡したことが、輝弘のような傍流の人物に歴史の表舞台に登場する機会を与えた最大の要因であった 8 。本家の断絶という権力の空白と、旧大内領を巡る毛利氏と大友氏の熾烈な争いがなければ、輝弘が大内氏再興の旗頭として担ぎ出されることも、将軍からの偏諱を受けることもなかったであろう。彼の存在は、まさに時代の大きな変動の中で生まれたと言える。
大内輝弘 主要関係人物一覧
氏名 |
続柄・立場 |
主な行動・役割 |
大内輝弘 (おおうち てるひろ) |
本報告書の主人公、大内高弘の子 |
大内氏再興を掲げ「大内輝弘の乱」を起こす 1 |
大内高弘 (おおうち たかひろ) |
輝弘の父、大内政弘の次男、義興の異母弟 |
僧尊光、還俗後高弘(隆弘)、氷上太郎。家督争いに敗れ豊後に亡命 1 |
大内義興 (おおうち よしおき) |
大内氏第15代当主、高弘の兄 |
高弘の家督簒奪計画を阻止 4 |
大内政弘 (おおうち まさひろ) |
大内氏第14代当主、義興・高弘の父 |
応仁の乱で活躍した武将 1 |
足利義輝 (あしかが よしてる) |
室町幕府第13代将軍 |
輝弘に「輝」の字を授ける(偏諱) 1 |
大友宗麟 (おおとも そうりん) |
豊後の戦国大名、大友義鎮 |
輝弘を支援し、大内輝弘の乱を画策 2 |
毛利元就 (もうり もとなり) |
安芸の戦国大名 |
防長経略により大内氏を滅ぼす。輝弘の乱を鎮圧 8 |
吉川元春 (きっかわ もとはる) |
毛利元就の次男、毛利両川の一人 |
輝弘の乱鎮圧のため九州から転進 6 |
市川経好 (いちかわ つねよし) |
毛利氏家臣、高嶺城城代 |
輝弘の乱当時は九州出陣中 9 |
市川経好の妻 (いちかわ つねよしのつま) |
市川経好の妻 |
夫不在の高嶺城を輝弘軍の攻撃から守り抜く 6 |
大内武弘 (おおうち たけひろ) |
大内輝弘の子 |
父・輝弘と共に富海茶臼山で自害 1 |
永禄12年(1569年)、大内輝弘は突如として歴史の表舞台に躍り出る。彼が引き起こした「大内輝弘の乱」は、短期間で終結したものの、当時の西国における毛利氏と大友氏の覇権争いに一石を投じる出来事であった。
大内輝弘関連略年表
年月 |
主な出来事 |
関連事項 |
永正17年(1520年) |
大内輝弘、生誕(推定) 1 |
父・大内高弘は豊後亡命中 |
明応8年(1499年) |
父・大内高弘、家督簒奪計画露見し豊後へ亡命 4 |
大友氏の庇護下に入る |
天文20年(1551年) |
大寧寺の変。大内義隆自害 |
陶隆房(晴賢)の謀反 |
天文23年~永禄8年 (1554-1565) |
大内輝弘、将軍足利義輝より「輝」の字を賜る 1 |
大友義鎮(宗麟)の推挙 |
天文24年~弘治3年 (1555-1557) |
毛利元就による防長経略 8 |
大内義長自害、大内氏本宗家滅亡。毛利氏が周防・長門を支配 |
永禄年間 |
毛利氏と大友氏、北九州の覇権を巡り激しく抗争 8 |
門司城、立花城などで攻防 |
永禄12年(1569年)5月 |
毛利軍、筑前立花城を開城させるが、大友軍との攻防続く 11 |
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永禄12年(1569年)10月 |
大内輝弘の乱 勃発 |
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10月11日頃 |
輝弘軍、豊後より周防国秋穂浦・白松浦に上陸 6 |
大友宗麟の支援 |
10月12日頃 |
輝弘軍、山口に侵入。築山館(龍福寺)を本陣とする 6 |
旧大内家臣の一部が合流 |
10月13日頃 |
輝弘軍、高嶺城を包囲攻撃。城井小次郎、宮野口で吉見方と交戦 6 |
高嶺城代市川経好の妻が奮戦し守り抜く |
10月中旬 |
輝弘の山口侵攻の報、毛利元就に届く。毛利主力軍、九州から転進開始 6 |
吉川元春、福原貞俊らが率いる |
10月下旬 |
毛利本隊接近により輝弘軍瓦解。輝弘、山口から敗走 6 |
秋穂方面へ撤退 |
10月25日 |
輝弘、周防国佐波郡富海の茶臼山にて子・武弘らと共に自害 1 |
輝弘の首は長府の元就本陣で首実検後、豊後塚に埋葬か 1 |
乱後 |
毛利氏、豊前国で一部拠点を失う。大友氏、筑前国の失地回復 1 |
大内氏再興の夢、完全に潰える |
大内輝弘の乱が勃発した直接的な引き金は、当時の北九州における毛利氏と大友氏の間の緊張関係にあった。両者は、旧大内領の権益、特に博多の支配などを巡って激しく対立していた。
天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を討ち破った毛利元就は、その後、破竹の勢いで周防・長門国への侵攻を開始した。これは「防長経略」として知られ、弘治3年(1557年)には、大友氏から養子として迎えられていた大内氏最後の当主・大内義長を長門国且山城(勝山城)に追い込み、自刃させた 8 。これにより、西国屈指の名門であった大内氏は事実上滅亡し、その広大な旧領の大部分は毛利氏の支配下に組み込まれた。毛利氏はこれを機に中国地方有数の大大名へと飛躍的な成長を遂げることになる 8 。
防長二国を手中に収めた毛利元就は、次なる目標として北九州へと触手を伸ばした。これは、豊前・筑前国(現在の福岡県東部・西部)を勢力下に置き、博多貿易の利権を狙っていた豊後の大友宗麟との間で、避けられない衝突を生むこととなった 8 。永禄年間を通じて、両者は門司城(現在の北九州市門司区)や立花城(現在の福岡県新宮町)などを舞台に、一進一退の激しい攻防を繰り広げた 11 。永禄12年(1569年)に入ると、毛利軍は再び筑前立花城を攻撃するなど、両者の対立は頂点に達しつつあり、九州北部は一触即発の状況にあった 6 。
このような毛利氏と大友氏の対立が先鋭化する中で、大友宗麟は膠着状態を打開するための一策を講じる。それが、大内氏の血を引く大内輝弘を担ぎ出し、毛利氏の背後を突かせるというものであった。
大友宗麟にとって、筑前方面での毛利氏との戦いは長期化し、多大な戦費と兵力を消耗していた。この状況を打破するため、宗麟は毛利氏の本拠地に近い周防・長門を攪乱し、毛利軍主力を九州から引き剥がすことを企図した 11 。そのための駒として白羽の矢が立てられたのが、豊後で逼塞していた大内輝弘であった 2 。輝弘自身も、父祖の地である周防・長門を回復し、大内氏を再興したいという強い願いを抱いており、宗麟から軍勢や兵船の支援を受けて挙兵するに至った 6 。
永禄12年(1569年)10月、大内輝弘は、大友宗麟から提供された軍船に乗り、手勢を率いて豊後国を出帆した。目指すは、かつて大内氏の栄華の中心地であった周防国山口である。輝弘軍は秋穂浦(現在の山口市秋穂)や白松浦(現在の山口市阿知須・宇部市西岐波付近)といった周防灘沿岸に上陸を果たした 6 。上陸後、輝弘軍は破竹の勢いで山口へと進撃し、記録によれば上陸の翌日には山口市中に乱入したとされる 11 。
輝弘の山口侵攻の報は、旧大内家臣たちの間に動揺と期待をもって迎えられた。毛利氏の支配に不満を抱いていた者や、依然として大内氏への旧恩を感じていた者たちが輝弘の許に馳せ参じ、その軍勢は一時的に数千人にまで膨れ上がったと伝えられている 6 。輝弘は、かつて大内氏の別邸であり、大内義隆が最期を迎える前に滞在したともされる築山館(現在の龍福寺)に本陣を構え、大内氏再興の第一歩を記したかに見えた 6 。
山口に到達した輝弘軍であったが、その支配を確固たるものにするためには、山口を見下ろす戦略的要衝である高嶺城(こうのみねじょう、別称・鴻峰城)を攻略する必要があった。
輝弘軍は山口市中に進攻すると、各所に放火し、毛利方の関連施設を攻撃するなどして、その威勢を示した 9 。具体的な戦闘の記録としては、輝弘方の部将である城井小次郎(きい こじろう)が、山口近郊の宮野口(現在の山口市宮野)付近で、毛利方に属する石見国(現在の島根県西部)の国人領主・吉見氏の一族である上領頼規(かみりょう よりのり)の父子と遭遇し、戦闘に及んだことが伝えられている。この戦いで、上領頼規の子・頼武が討ち取られたという 13 。このことは、輝弘軍が山口周辺地域において、一定の軍事行動を展開していたことを示している。
輝弘軍の主目標は、山口の防衛拠点である高嶺城であった。輝弘はこの城を包囲し、攻略を試みた 6 。しかし、この高嶺城の守りは堅固であった。当時、城代であった毛利氏家臣の市川経好(いちかわ つねよし)は、毛利元就に従って九州方面へ出陣しており、城には不在であった 9 。城主不在という状況は輝弘軍にとって有利に働くかと思われたが、経好の妻(その名は市川局とも伝えられる)が、少数の城兵や他の城番たちを巧みに指揮し、勇猛果敢に防戦にあたった 6 。彼女の奮戦により、輝弘軍は数日にわたる攻撃にもかかわらず、高嶺城を陥落させることができなかった。
高嶺城が持ちこたえたことは、大内輝弘の計画にとって大きな誤算であった。もし高嶺城が早期に陥落していれば、輝弘は山口を拠点としてより長期間抵抗を続けることが可能となり、毛利軍の九州からの撤退規模やその後の戦局に、さらに大きな影響を及ぼした可能性も考えられる。市川経好の妻による城の死守は、単に一城を守り抜いたという以上の戦略的意味を持っていたと言えるだろう。輝弘は山口での足場を固めきれないまま、毛利本隊の反撃という最大の危機に直面することになる。
輝弘の山口侵攻という急報は、九州で大友軍と対峙していた毛利元就の許にもたらされた。元就の対応は迅速であった。
大内輝弘による周防山口への侵攻という知らせを受けた毛利元就は、これを座視するわけにはいかなかった。直ちに、九州方面に展開していた毛利軍の主力部隊を山口へと転進させることを決定した 9 。この反撃軍の指揮を執ったのは、元就の次男である吉川元春や、宿老の福原貞俊らであり、その兵力は一万余に及んだとされる 6 。また、輝弘の動きに呼応して、石見の吉見氏の軍勢も山口近郊の宮野に進出し、輝弘軍への圧力を強めた 9 。
毛利軍本隊が九州から山口へ向かっているという情報は、輝弘軍の将兵たちに大きな衝撃を与えた。当初は輝弘に呼応して集まった旧大内家臣たちも、強大な毛利本隊との直接対決が避けられないと知るや、次第に戦意を喪失し、離散し始めた 6 。高嶺城を落とせず、山口での支配も不安定なまま、輝弘軍は急速に瓦解していった。山口を維持することが困難であると判断した輝弘は、残った手勢を率いて山口を放棄し、海路での豊後への脱出を図るべく、上陸地点であった秋穂方面へと撤退を開始した 1 。
山口を追われた輝弘であったが、その逃避行は困難を極めた。毛利軍の追撃は執拗であり、輝弘に残された道は限られていた。
輝弘は、豊後へ逃れるために海路での脱出を試みたが、毛利方の追撃は厳しく、用意していた船も奪われていた、あるいは手配できなかったと伝えられている 1 。やむなく海沿いの道を進み、三田尻(現在の山口県防府市三田尻)方面へと逃れたが、そこでも毛利軍の追撃は緩むことがなかった。追い詰められた輝弘は、周防国佐波郡富海(とのみ、現在の防府市富海)の浮野峠や茶臼山(ちゃうすやま)付近で、最後の抵抗を試みたとされる 1 。
しかし、衆寡敵せず、もはやこれまでと悟った大内輝弘は、永禄12年(1569年)10月25日、富海の茶臼山において、息子の武弘(たけひろ)ら少数の従者と共に自害して果てた 1 。享年は50歳であったと記録されている 1 。大内氏再興の夢は、山口侵攻からわずか半月足らずで潰え去ったのである。
輝弘と武弘の首級は、毛利氏家臣の福間元明(ふくま もとあき)によって検分され、長府(現在の下関市長府)に本陣を置いていた毛利元就の許へ送られた。元就による首実検の後、その首は同地に埋葬されたと伝えられ、その場所は後に「豊後塚(ぶんごづか)」と呼ばれるようになったという 1 。
大友宗麟の戦略的判断によって派遣された輝弘の行動は、短期的には毛利軍を九州から撤退させるという宗麟の目的達成に貢献した 1 。しかし、それは輝弘自身とその一族にとっては、破滅的な結果をもたらすものであった。この事実は、戦国時代の大勢力間の争いにおいて、小勢力が時に非情な駒として利用され、翻弄される現実を如実に物語っている。輝弘の乱は、毛利氏にとって防長支配の脆弱性を一時的に露呈させるとともに、旧大内家臣の中に依然として大内氏への思慕や再興を望む感情が存在することを示した。この反乱の後、毛利氏は防長支配をより一層強固なものとしていく必要性を再認識したであろうと考えられる。
大内輝弘の乱は、短期間で鎮圧されたものの、その影響は毛利氏、大友氏双方の戦略、そして何よりも大内氏そのものの運命に決定的な変化をもたらした。また、輝弘個人の行動と、彼に呼応した旧臣たちの動きは、当時の社会状況や人々の意識を映し出す鏡とも言える。
輝弘の乱は、直接的には毛利氏の領国支配を揺るがし、大友氏にとっては好機をもたらす結果となった。
大内輝弘の山口侵攻は、毛利氏にとってまさに背後を突かれた形となり、九州方面での大友氏との戦線から一時的に主力軍を割かざるを得ない状況を生み出した。これにより、毛利軍は筑前国など北九州におけるいくつかの拠点を失うことになり、九州戦略全体に少なからぬ影響が出た 1 。しかし、毛利氏は輝弘の乱を迅速かつ徹底的に鎮圧することで、周防・長門両国における支配体制の脆弱性を克服し、結果的にはその支配権を再確認し、より強固なものとする契機とした 12 。この事件は、毛利氏にとって領国経営の難しさと、旧勢力の残党に対する警戒を改めて認識させるものであった。
一方、大友氏にとって大内輝弘の乱は、戦略的に大きな成功をもたらしたと言える。大友宗麟は、輝弘を動かすことで毛利軍主力を九州北部から引き離すことに成功し、その隙に毛利氏に奪われていた筑前国の領地や諸城を奪回することができた 1 。輝弘自身は敗死したものの、大友氏はこの一連の動きによって最も大きな利益を得た勢力であり、ある意味ではこの乱の「勝者」と評価することも可能である。この後、毛利氏の九州への大規模な軍事介入は減少し、大友氏は九州の覇権を巡って、肥前の龍造寺氏や薩摩の島津氏といった他の九州勢力との対立を深めていくこととなる 12 。
このように、一つの「大内輝弘の乱」という出来事が、関わった勢力によって全く異なる意味を持ったことは、歴史の皮肉とも言える。輝弘にとっては一族再興を賭けた最後の抵抗であり悲劇であったが、大友氏にとっては計算された戦略の一部であり、毛利氏にとっては支配体制強化の試金石となったのである。
大内輝弘の行動がもたらした最も直接的かつ決定的な結果は、大内氏再興の夢が完全に潰えたことであった。
大内輝弘とその息子・武弘が富海茶臼山で自刃したことにより、大内義隆の血を引く男系男子による勢力再興の可能性は、事実上完全に断たれた 1 。これは、かつて足利将軍家をも凌ぐほどの権勢を誇り、勘合貿易を掌握して西国に一大文化圏を築き上げた名門大内氏の歴史が、名実ともに終焉を迎えたことを意味する 8 。輝弘の蜂起は、滅びゆく旧勢力が最後に放った、いわば徒花のようなものであり、実力主義が支配する戦国時代の過酷な現実を象徴する出来事であった。
輝弘の敗死は、大内氏という「ブランド」が、戦国時代末期においてはもはや実質的な力を持ち得なかったことの最終的な証明となった。大内氏はかつて西国随一の名門であり、その血筋は輝弘にとって最大の拠り所であったはずである 10 。しかし、輝弘自身は豊後で困窮した生活を送り、実力は乏しかった 1 。旧大内家臣の一部は彼の蜂起に呼応したものの、毛利本隊の出現という現実を前にして、その結束は脆くも崩れ去った 6 。これは、「大内」の旗印だけでは、強大な毛利氏の実力に対抗できなかったことを示しており、名門の血筋というだけでは、戦国乱世の厳しい現実の中では無力であったことを物語っている。
大内輝弘という人物について、残された史料は決して多くない。しかし、その断片的な情報から、彼の人物像や行動の評価について一定の考察を行うことは可能である。
輝弘が豊後において困窮した生活を送っていたという記録 1 や、大友宗麟の戦略に組み込まれる形で挙兵に至った経緯 2 から判断すると、彼自身が強大な政治力や卓越した軍事的才能を持っていたとは考えにくい。高嶺城を攻略できなかった点や、毛利本隊の反撃に対して急速に軍勢が瓦解した点からも、その軍事指揮官としての能力には限界があったと見られる 6 。
しかしながら、彼が大内氏の血を引く者としての強い誇りを持ち、一族の再興を心から願っていたことは、その命を賭した行動から十分に窺い知ることができる 11 。一部の史料では父・高弘と長らく混同されていたことからも 2 、その生涯には不明な点が多く、詳細な人物像を再構築するには限界があることも事実である。
大内輝弘の乱は結果として失敗に終わり、彼自身も悲劇的な最期を遂げた。しかし、彼の行動は決して無意味だったわけではない。前述の通り、彼の蜂起は毛利氏の九州戦略に一時的ながらも影響を与え、大友氏に戦略的な利益をもたらした 12 。また、大内氏の「最後の当主」として(実権はなかったものの)、その名を歴史に刻んだことは間違いない。彼を評価するならば、実力に乏しいながらも名門再興の夢を追い続けた「悲劇の貴公子」としての側面が強いと言えるだろう 1 。
輝弘の乱の失敗は、他の地域で旧領回復を夢見るかもしれない旧勢力の残党にとって、大勢力に抗して旧領を回復することの困難さを改めて示す教訓となった可能性も否定できない。これにより、毛利氏のような新興勢力の支配が、より盤石なものとなる一助となったかもしれない。
大内輝弘の乱が鎮圧された後、彼に与した者、あるいは内通を疑われた旧大内家臣たちは、毛利氏による厳しい処断を受けることとなった。
輝弘の乱に際して、毛利氏は輝弘に味方した大内浪人(旧臣)たちに対して厳格な取り調べを行った。そのために山口近郊の大歳の矢原(現在の山口市矢原)に糾問所が設けられたと伝えられ、その場所は現在「調べの森」としてその名を残している 11 。乱の鎮圧直後には、旧大内家臣であった吉田興種(よしだ おきたね)・武種(たけたね)父子が、輝弘への内通を疑われて吉川氏の家臣によって討たれるという事件も起きている 12 。これは、毛利氏が反乱の芽を徹底的に摘み取ろうとした姿勢の表れと言える。
一方で、毛利氏による防長支配が確立していく中で、一部の旧大内家臣は毛利氏に仕える道を選んだ。しかし、その処遇は必ずしも良いものではなく、冷遇されたり、所領を減らされたりするケースも少なくなかったようである 18 。毛利氏としては、旧大内家臣を完全に排除するのではなく、一部を取り込みつつも、その力を削ぎ、自らの支配体制を強化していくという巧みな戦略を用いたと考えられる。
大内輝弘の生涯と彼が引き起こした「大内輝弘の乱」は、戦国時代末期の西国における複雑な政治状況と、個人の運命が時代の大きな奔流にいかに翻弄されるかを象徴する出来事であった。
輝弘の生涯は、名門大内氏の血を引くという出自に縛られ、父・高弘の果たせなかった夢と亡命という負の遺産を背負いながら、大友宗麟という大勢力の戦略の駒として利用され、最後は悲劇的な結末を迎えたものであったと総括できる。彼の行動は、大内氏再興という個人的な願いと、大友氏の対毛利戦略という二つの要素が複雑に絡み合って発生したものであり、その結果として大内氏の歴史に完全な終止符が打たれた。
戦国時代における輝弘の行動が残した歴史的教訓や意義は多岐にわたる。まず、個人の意志や名門の血筋だけでは、強大な時代の流れや実力主義の前に抗うことの難しさを如実に示している。しかし同時に、たとえ短期間であっても、また結果として失敗に終わったとしても、一人の人間の行動が既存の勢力図に揺さぶりをかけ、大国の戦略に影響を与えうる可能性も示唆している。
さらに、輝弘の存在と彼の蜂起は、大内氏滅亡後の周防・長門地域における人々の動揺や、旧主に対する複雑な感情、そして新たな支配者である毛利氏への反発といった、当時の社会の一断面を垣間見せてくれる。彼の名は、戦国時代の終焉期における、滅びゆく旧勢力の儚い抵抗の象徴として、また、毛利氏と大友氏という二大英雄が繰り広げた壮大な攻防の一齣として、歴史に記憶されるべきであろう。大内輝弘の物語は、戦国という時代の非情さと、その中で必死に生きようとした人々の姿を我々に伝えている。