大宝寺政氏は、室町幕府の権威を利用し、羽黒山別当職を掌握することで庄内地方の支配を確立した。中央との連携や在地ライバルとの競争を巧みに制し、大宝寺氏を戦国大名へと飛躍させる礎を築いた。
室町時代後期、将軍の権威は地に堕ち、日本各地で在地領主が自らの実力によって領国を切り拓く、群雄割拠の時代が到来しつつあった。文明9年(1477年)に終結した応仁・文明の乱は、京都を焦土に変えただけでなく、室町幕府の統治機構を根底から揺るがし、その影響は遠く奥羽地方にまで及んでいた 1 。中央の権力空白は、地方における新たな権力闘争の号砲となり、出羽国においても、羽州探題を称する最上氏や奥州探題大崎氏といった旧来の権門がその地位を維持しようと苦心する一方で、新興の国人領主たちが台頭の機会を窺っていた 3 。本稿で詳述する大宝寺政氏(だいほうじ まさうじ)は、まさにこの激動の時代に、出羽国庄内地方を舞台に登場し、巧みな政治手腕と類稀なる戦略眼をもって、一地方豪族に過ぎなかった大宝寺氏を戦国大名へと飛躍させる礎を築いた人物である。
応仁・文明の乱は、細川勝元と山名宗全という二大守護大名の対立を軸に、将軍家の後継者問題や畠山氏、斯波氏の家督争いが複雑に絡み合って勃発した、未曾有の内乱であった 2 。この戦乱は、幕府の地方に対する物理的な支配力を著しく低下させた。しかし、幕府や将軍が与える官位や偏諱(将軍の名前の一字を授かること)、あるいは幕府の公的な承認といった「権威」は、依然として地方社会において大きな価値を保ち続けていた。地方の領主たちにとって、この「権威」を獲得することは、在地における自らの支配の正当性を内外に示し、ライバルとの競争を有利に進めるための極めて有効な手段だったのである。
政氏が活動した15世紀後半の出羽国庄内地方は、北に出羽湊(後の土崎湊)を拠点とする安東氏、東に内陸の覇者を目指す最上氏、南に越後の上杉氏という大勢力に囲まれた地政学的に重要な緩衝地帯であった。このような環境下で、在地領主が生き残り、勢力を拡大するためには、単なる武力だけでなく、高度な外交戦略と、自らの支配を正当化する強固な論理が不可欠であった。
大宝寺氏の系譜を遡ると、鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする名門、武藤氏に行き着く 5 。九州にあって鎌倉幕府の重鎮であった少弐氏とは同族であり、その出自は東国武士の中でも高い格式を誇っていた 5 。
鎌倉時代、武藤氏の一族は出羽国大泉荘(現在の山形県鶴岡市周辺)の地頭として入部した 5 。当初は武藤姓、あるいは地名にちなんで大泉姓を名乗っていたが、やがて荘園の中心地であった大宝寺(たいほうじ)に城館を構えたことから、大宝寺氏を称するようになったとされる 5 。承元3年(1209年)には、初代の武藤氏平が羽黒山の寺領を侵害したとして、羽黒山の衆徒から訴えられるなど、早くから在地勢力との間で緊張関係を抱えつつも、着実にその支配を根付かせていった記録が残っている 5 。
南北朝時代を経て室町時代に入ると、大宝寺氏は北条氏や上杉氏といった上位権力の在地代官として庄内地方を治めていたと見られるが 5 、中央の混乱が深まるにつれて、徐々に自立した領主としての性格を強めていく。政氏の父・大宝寺健氏(たけうじ) 8 、さらにその父・淳氏(あつうじ)の代には、寛正3年(1462年)に出羽守に任官されるなど 7 、幕府との関係を強化し、在地での地位を固めていった。
大宝寺氏の権力基盤は、単なる地頭職としての土地支配に留まらなかった。彼らは武藤氏という名門の出自意識を拠り所としながら、中央政権の衰退という時代の大きな潮流の中で、幕府が持つ権威を巧みに利用し、在地での実効支配と結びつけることで、自らの権力を再構築しようとした。それは、中世的な権威秩序が崩壊し、近世的な権力形態が生まれる過渡期にあって、地方領主が如何にして自己の正当性を確立しようとしたかの典型的な事例であった。政氏の生涯は、まさにその卓越した実践の記録に他ならない。
表1:大宝寺政氏の生涯と主要な出来事
西暦 |
和暦 |
政氏の動向 |
関連する人物・勢力 |
歴史的意義と考察 |
典拠 |
不詳 |
- |
大宝寺健氏の子として誕生。将軍足利義政より偏諱を受け「政氏」と名乗る。 |
父:大宝寺健氏、将軍:足利義政 |
中央権威との繋がりを生まれながらに持つ。在地での正統性の基盤となる。 |
8 |
1472年 |
文明4年 |
父の死後、家督を相続。直ちに幕府政所執事・伊勢貞宗に贈答品を送る。 |
伊勢貞宗、土佐林氏 |
家督相続の不安定な時期に、中央とのパイプを最優先で確保する高度な政治判断。 |
8 |
1477年頃 |
文明9年頃 |
ライバルであった土佐林氏を支配下に置き、羽黒山別当職を譲り受ける。 |
土佐林氏、羽黒山修験 |
大宝寺氏の権力構造を決定づけた画期。世俗権力と宗教権威の融合を果たす。 |
7 |
不詳 |
不詳 |
砂越氏雄が信濃守に任官されたことに対抗し、従五位下・右京太夫を拝命。 |
砂越氏雄、室町幕府 |
在地でのライバルとの「威信競争」。中央の権威を借りた代理戦争の様相を呈す。 |
8 |
不詳 |
不詳 |
死去。家督は子の澄氏が継ぐ。 |
子:大宝寺澄氏、砂越氏 |
砂越氏との対立構造を次代に残す。澄氏の代の永正の合戦の遠因となる。 |
8 |
大宝寺氏第11代当主・健氏の子として生まれた政氏は、室町後期の混乱した時代状況を正確に認識し、自らの権力基盤を確立するために、まず中央政権との関係構築に乗り出した。彼の行動は、在地での武力闘争に先んじて、自らの支配の正当性を担保する「大義名分」を確保することの重要性を深く理解していたことを示している。
政氏が歴史の表舞台に登場する上で、最初の、そして最も重要な一歩は、室町幕府第8代将軍・足利義政(在職1449-1473年)から「政」の一字を賜り、「政氏」と名乗ったことであった 8 。足利義政は、応仁の乱を招き、政治的には無力であったと評されることが多いが、文化人としては東山文化を開花させた人物であり、将軍としての権威そのものが失われていたわけではなかった 11 。
地方の武士にとって、将軍から偏諱を授かることは、単なる名誉に留まらない。それは、自らが将軍と直接的な主従関係にあることを公的に証明するものであり、周辺の他の領主に対して格の違いを見せつける絶好の機会であった。政氏はこの機を逃さず、自らの支配が将軍のお墨付きを得た「公的なもの」であることを内外に宣言したのである。これは、家督を継承し、自らの代の治世を開始するにあたって、これ以上ない権威付けとなった。
文明4年(1472年)、父・健氏の死没に伴い家督を相続した政氏は、驚くほど迅速かつ的確な政治行動を開始する 8 。彼がまず接触を図ったのは、将軍その人ではなく、幕府の財政と政務を司る政所(まんどころ)の長官、政所執事であった伊勢貞宗であった。伊勢氏は幕府の官僚として絶大な実権を握っており、彼との関係を築くことは、将軍から得た権威を実質的な利益へと転換させる上で不可欠であった。
政氏は伊勢貞宗に対し、鳥目千疋(とりめせんびき、銭10貫文に相当)、馬二疋、そして「鴾毛(ときげ)印両目結荏」といった豪華な贈答品を送っている 8 。これは、単なる貢物ではない。当時の貨幣価値や贈答品の希少性を考えれば、これは莫大な投資であり、大宝寺氏の経済力と、中央政界の要路を開くための強い意志を示すものであった。
この投資は、見事な成果をもたらす。伊勢貞宗は返礼として、国宗作の大刀一振、金作の刀一腰、青磁の茶碗、桂漿箱(けいしょうばこ)、紅花、茶、筑紫弓といった、武家の名誉を象徴する品々や、当時貴重であった唐物などを政氏に贈った 8 。この贈答品の交換は、両者の間に双務的で強固な関係が成立したことを物語っている。
さらに注目すべきは、伊勢貞宗が同日付で、大宝寺氏の被官、すなわち家臣であった土佐林宮内少輔にも書状を送っている点である 8 。これは、幕府の中枢が、大宝寺政氏を単なる一個人の領主としてではなく、土佐林氏を含む庄内地方の国人領主たちを束ねる地域の代表者として公認したことを意味する。政氏は、家督相続という最も不安定な時期に、在地での基盤固めよりも、まず中央とのパイプを確立することを優先した。この一連の外交戦略によって、彼は在地でのライバルに対して圧倒的な政治的優位性を確保し、来るべき権力闘争に備えることに成功したのである。それは、地方の覇権争いを、より高次の政治ゲームへと昇華させる、卓越した戦略であった。
中央政権との連携によって自らの地位を盤石なものとした大宝寺政氏は、次なる一手として、庄内地方における最大の権威の源泉、羽黒山の掌握へと乗り出す。これは、彼の治世における最も独創的かつ決定的な戦略であり、大宝寺氏の権力構造を根本から変革する画期的な事業であった。
中世の庄内地方において、大宝寺氏と並び立つほどの勢力を誇っていたのが、藤島城を拠点とする土佐林氏であった 9 。土佐林氏は、古くから出羽三山の中心である羽黒山の別当(べっとう、寺務を統括する最高責任者)職を世襲してきた家柄であり、その宗教的権威を通じて広範な影響力を持っていた 9 。
政氏の時代、両者の関係は緊張を極め、ついに武力衝突へと至る。文明9年(1477年)、大宝寺氏との抗争によって土佐林氏は事実上滅亡、あるいはその支配下に組み込まれたと伝えられている 9 。この抗争の具体的な経緯は史料に乏しいものの、その結果は明白であった。政氏は、敗れた土佐林氏から羽黒山の別当職を譲り受け、大宝寺氏の当主が別当を兼務するという、前代未聞の体制を確立したのである 7 。
この「別当職兼務」は、単なる領土の拡大やライバルの打倒とは全く次元の異なる意味を持っていた。それは、世俗権力と宗教権威という、二つの異なる秩序原理を一身に統合することを意味した。この体制は政氏の独創であり、彼の死後も、義興の代まで実に六代にわたって継承され、大宝寺氏の権力の根幹を成し続けた 8 。
羽黒山は、月山、湯殿山とともに出羽三山を構成し、古来より山岳信仰の中心地であった。羽黒山は現在を司る観音菩薩、月山は過去を司る阿弥陀如来、湯殿山は未来を司る大日如来の霊場とされ、その信仰は「擬死再生」の思想と結びつき、東北地方一円はもとより、関東に至るまで広範な民衆の信仰を集めていた 12 。
羽黒修験(しゅげん)と呼ばれる山伏たちは、この信仰ネットワークを担う存在であり、彼らは各地で加持祈祷を行い、信徒(檀那)を組織し、莫大な寄進や寺領からの収入を羽黒山にもたらした。羽黒山は、単なる宗教施設ではなく、巨大な経済力と、全国に広がる情報網・人的ネットワークを持つ複合体であったのである 15 。
政氏は、この巨大な宗教組織のトップに立つことで、計り知れない利益を手にした。第一に、彼は「羽黒権現の守護者」という神聖な地位を得た。これにより、大宝寺氏による支配は、単なる武力による統治から、神仏の加護を受けた正当な統治へと昇華された。領民や周辺国人に対する求心力は、飛躍的に高まった。第二に、羽黒山の持つ莫大な経済力を自らのものとすることができた。これは、彼の軍事力や外交力を支える強力な財源となった。第三に、全国の山伏ネットワークを通じて、各地の情報をいち早く入手することが可能となった。現存する古文書の中には、大宝寺氏が寺社に対して所領を安堵したり、寄進を行ったりした記録が複数見られ 17 、彼が宗教権威を巧みに利用して領国経営を行っていた様子が窺える。政氏は、ライバルを滅ぼすだけでなく、その権威の源泉ごと奪い取り、自らの権力と融合させるという、比類なき戦略を成功させたのである。
大宝寺政氏の功績として、しばしば語られるのが、国宝・羽黒山五重塔の再建である。複数の文献や現地の案内には、現存する塔が14世紀後半、あるいは大宝寺政氏によって再建されたとの記述が見られる 12 。この五重塔は、平安時代の平将門による創建と伝えられ、東北地方最古の塔として知られる優美な建造物である 18 。
しかし、この伝承には慎重な検討が必要である。多くの資料が再建年を応安5年(1372年)など14世紀後半としているのに対し、政氏が活躍したのは15世紀後半であり、両者の間には約1世紀もの時間の隔たりが存在する 12 。この年代の矛盾から、政氏が直接的に現存の塔の再建に関与した可能性は低いと考えられる。
では、なぜこのような伝承が生まれたのか。それは、歴史的事実以上に、「歴史的認識」として重要な意味を持つ。政氏による羽黒山掌握と、その後の大宝寺氏の隆盛が、後世の人々にとってあまりに強烈な印象を与えたため、羽黒山の象徴的建造物である五重塔の再建という偉業が、その黄金時代の創始者である政氏の功績として語り継がれるようになったのではないか。この伝承は、政氏の治世がいかに羽黒山の歴史において画期的なものであったかを物語る、象徴的な産物と捉えることができる。事実とは異なっていたとしても、この伝承が生まれたこと自体が、政氏の戦略がいかに成功し、大宝寺氏と羽黒山の強固な結びつきが後世に至るまで自明のものとして認識されていたかを雄弁に物語っているのである。
中央政権との連携、そして羽黒山の宗教権威の掌握という二本の柱によって、庄内における支配体制を固めた大宝寺政氏は、次なる段階として、在地におけるライバル勢力との直接的な対決と、周辺国人領主の掌握へと本格的に乗り出していく。彼の戦略は、懐柔と威圧を巧みに使い分ける、硬軟両様の巧緻なものであった。
政氏の時代、庄内地方における最大のライバルは、田川郡を本拠とする大宝寺氏に対し、北の飽海(あくみ)郡を支配する郡代・砂越(さごし)氏であった。両者の関係は政氏の代に急速に悪化し、庄内の覇権をめぐる熾烈な競争が繰り広げられた 8 。
この対立が、単なる武力衝突に留まらなかった点に、この時代の権力闘争の特色が表れている。砂越氏の当主・砂越氏雄(うじお)が幕府に働きかけて信濃守(しなののかみ)の官職に任官されると、政氏はこれに鋭く対抗した 8 。彼は、自らが築き上げた中央政権とのパイプを最大限に活用し、砂越氏を凌駕する官位の獲得に動いたのである。
その結果、政氏は従五位下(じゅごいのげ)の位階と、右京太夫(うきょうのだいぶ)の官職を拝命することに成功する 8 。従五位下は、諸大名の仲間入りを果たすことを意味する位階であり、右京太夫は京の行政を司る京職の一つで、地方官である守(かみ)よりも格上と見なされることもあった。これは、在地における武力闘争と並行して繰り広げられた、中央の権威を借りた「威信」の競争であった。政氏は、この競争において砂越氏に明確な差をつけ、どちらがこの地域における「公的な秩序」の代表者であるかを、幕府という最高の権威に認めさせることに成功した。この外交的勝利は、他の国人領主たちに対する大宝寺氏の求心力を一層高める上で、決定的に重要な意味を持った。
政氏は、砂越氏のような大敵に対しては威信をかけて対抗する一方で、他の国人領主に対しては、羽黒山の権威を背景に懐柔と支配を進めていった。現存する古文書の中には、彼が家臣や周辺の国人領主に対して所領を安堵したり、恩賞を与えたりしたことを示すものが含まれており 17 、彼が領国経営を着実に進めていたことが窺える。
特に、かつてのライバルであった土佐林氏を滅ぼすのではなく、被官(家臣)として自らの支配体制に組み込んだことは、彼の巧みな戦略を示している 6 。これにより、彼は土佐林氏が持っていた旧来の権益や人的ネットワークを円滑に継承することができた。政氏は、武力による直接支配だけでなく、こうした間接的な支配網を巧みに張り巡らせることで、庄内一円にその影響力を浸透させていったのである。
政氏が一代で築き上げた強固な権力基盤は、そのまま子の世代へと受け継がれた。彼の死後、家督は子の澄氏(すみうじ)が継承した 8 。澄氏は、父が築いた遺産の上に、大宝寺氏のさらなる発展を目指した。
しかし、政氏の治世は、栄光だけでなく、負の遺産も残していた。それは、砂越氏との間に生まれた、抜き差しならない対立関係である。政氏が仕掛けた官位競争は、両者の対立を決定的なものとし、もはや外交交渉では解決できない段階へと導いていた。この対立の種は、澄氏の代になってついに発芽する。永正9年(1512年)、砂越氏雄は大軍を率いて大宝寺領の田川郡に侵攻し、双方で1000人以上の死者を出す大規模な合戦へと発展した 6 。この戦いは、政氏の時代に始まった両氏の角逐の、必然的な帰結であったと言える。政氏の外交的勝利は、同時に次世代への軍事的宿題を残すものでもあったのである。
大宝寺政氏は、その生没年すら詳らかではない、歴史の影に埋もれた人物の一人である。しかし、断片的な史料から彼の行動を丹念に追うとき、そこに浮かび上がるのは、戦国時代の黎明期を駆け抜けた、非凡な政治家の姿である。彼は、室町幕府の権威が残存する時代の特性を最大限に利用しつつ、次代の戦国時代を先取りするような新たな権力モデルを構築した、稀有な戦略家であった。
政氏の治世がなければ、大宝寺氏が庄内地方に覇を唱える戦国大名へと飛躍することはなかったであろう。彼こそが、その決定的な礎を築いた人物である 4 。彼が確立した、世俗権力と羽黒山の宗教権威を融合させるという独自の権力モデルは、大宝寺氏の強さの源泉となり、子の澄氏、そして後の義増(よします)、義氏(よしうじ)といった後継者たちに受け継がれていった 8 。特に、大宝寺義氏が「悪屋形」と渾名されながらも、なお庄内の支配者として君臨し得たのは、政氏が築いたこの強固な権力基盤があったからに他ならない 15 。
政氏の行動様式は、二つの側面から評価することができる。一つは、応仁の乱以降の多くの地方領主に見られる、典型的な生存戦略である。中央の権威を利用して自らの正当性を補強し、在地での実力闘争を有利に進めるという手法は、この時代の定石であった。
しかし、もう一方で、彼には他の誰にも真似のできない、際立った独自性があった。それが、羽黒山別当職の掌握である。武力でライバルを排除した後、その権威の源泉であった宗教組織のトップに自らが君臨するという発想は、並の武将には思いもよらないものであった。これにより、彼は庄内地方において、単なる「支配者」ではなく、一種の「聖なる統治者」としての地位を確立した。この戦略こそ、大宝寺政氏を単なる一地方領主から、歴史に名を残すべき卓越した政治家へと押し上げた要因である。
大宝寺政氏は、室町幕府という旧来のシステムが崩壊しつつある過渡期にあって、そのシステムを誰よりも深く理解し、最大限に利用した人物であった。彼は中央の権威を在地での実利に転換する術に長け、同時に、宗教という武力とは異なる権威を自らの権力に組み込むという、新たな時代を予見させるような革新的な手法を編み出した。
彼の生涯は、戦国時代の「国盗り」が、単なる土地の奪い合いではなく、地域の秩序を再編する「正統性」をめぐる高度な闘争であったことを我々に教えてくれる。
しかし、大宝寺氏に関する研究は、いまだ発展途上にある。本間美術館などが所蔵する「奥羽古文書」 22 や、各地に散在する寺社文書 17 のさらなる読解が待たれる。また、杉山一弥氏による「室町幕府と出羽大宝寺氏」 5 といった先駆的な研究をさらに推し進め、大宝寺氏と室町幕府、あるいは周辺勢力との関係性をより具体的に解明していくことが、今後の重要な研究課題となるであろう。大宝寺政氏という一人の人物を通して、我々は日本の歴史が大きく転換した時代のダイナミズムを、より深く理解することができるはずである。